貴殿
 黒髪の 結ぼれたる 思いには
 解けて寝た夜の 枕とて 独り寝る夜の仇枕

「お前、それ意味分かって唄ってるのか?」
 げんなりした様子の高杉が柱に凭れ掛かりながらそう問いかけてくる。手と口を止めたみやびはキョトンとした顔で瞬きを繰り返した。
「えっと……一人で寝る夜は寂しいなーっていうお妾さんの唄?」
「よく恥ずかしげもなく唄えるな」
 地唄『黒髪』は高杉のお気に召さなかったらしい。だがみやびは芝居音楽や物語を題材にした唄が好きだったので、これはお気に入りのひとつだった。
「だって別にこれ、作ったの私じゃないし……」
「……そんな情念駄々漏れの唄を手習いで憶えて、そのくせ貞淑な良妻を目指すってんだから武家の妻ってよく分からん」
 そんなものはみやびにもよく分からなかったが、下手に絡むと話が長引きそうだったので止めた。素知らぬ顔で練習に戻る。品のいい、それでいてどこか遊び心のある小気味の良い音が青空へと広がっていく。
 季節は流れ、皐月も下旬に差し掛かっていた。日本晴れと過ごしやすい気温の日々が続くものだから、このところ高杉は毎日会う場所を外に指定していた。何をするでもなく、みやびの三味線や唄に高杉が耳を傾けたり、高杉の素振りの稽古をみやびが眺めていたりするだけだったが、それでもみやびは楽しかったし嬉しかった。
 みやびが手習いを終えてこの神社に向かうと、たいてい高杉はすでに居て居眠りをしている。ちゃんと講武館に行っているのか疑問に思わなくは無かったが、きっと聞いてもはぐらかされるだろうなともみやびは思っていた。
「ねぇ、晋助くんは講武館でお友達とかいないの?」
 いつだったか、そのような事を聞いた時も。
「あそこに集まってくるボンどもや金魚の糞たちと、仲良くする気はねェよ」
 こうバッサリと切り捨てられただけだった。
 みやびも、手習いの教室で知り合う上級武士の姫君たちとはあまり仲良くない。下級武士の家の子とはごくたまに遊ぶこともあったが、やはりみやびは武士の子供ではないので、どこか一線を引かれているような気がしていた。
 父親同士の仲が良いと言うこともあるだろうが、身分など歯牙にもかけず関わってくれるのは、みやびにとって高杉だけだった。

 今日は茶華道の手習いの帰りだった。師匠に所用があるだとかで、一時間早く始まり早く終わったので、みやびは今日こそは一番乗りだと町の外れの神社へ急ぐ。和紙にくるんだ、今日使った花の余りを抱えて石段を駆けのぼる。今日の生け花の主役だった杜若を、はやく高杉にも見せてやりたいとみやびは息を切らした。
 石段を登り切ったとき、みやびが見たのはふたつの小さな影だった。一人は見慣れた高杉晋助。
 もう一人は、知らない少年だった。
 おそらく少年だ、とみやびは曖昧に判断した。群青色の質素な着物に灰色の袴を穿いているので、その服装で男だろうと。しかし顔立ちはと言えば、みやびが知っている他のどの令嬢よりも整っている。それでいて媚びている雰囲気は全くなく、凛とした涼やかな眼が特徴的だった。高い位置で結われた長い黒髪も、風に靡いて綺麗だとみやびは見惚れた。
 そしてふと、その隣で少年と何か言い争っている高杉に目が行く。
 みやびはあまりたくさんの男性と会ったことがあるわけではない。だから今まで高杉の外見に頓着したことはまるでなかった。しかし彼の隣にもう一人美しい少年が立つことで初めて、まじまじと高杉の顔立ちを意識する。
 濡れたような黒髪は、日が差すと僅かに紫がかる。子供らしい丸みを帯びた輪郭や小さな唇とは対照的に、通った鼻筋や鋭い眼光、眉間の皺、つり上がった眉がどこか不均衡だった。大人びているようで幼い、その逆も言える。今も十分整った顔立ちだが、もしかしたら彼はもう少し先。月日が経って子供らしさが抜け落ちたときに、とても男前になるかもしれないとみやびは思った。
 そこまで思考が至って、みやびは右手の甲を頬に当てた。顔が熱い。高杉の見目が良かろうと悪かろうと、許嫁であることや友達でいたいという願いには何の関係もない。それなのにそんなところを意識して一人で照れてしまっている自身が、みやびはどうしようもなく恥ずかしかった。
「何やってんだお前」
「ひゃっ!?」
 鳥居の影で百面相をしていたみやびに、声をかけてきたのは高杉その人だった。思わず肩を震わせ抱えていた杜若を落しそうになる。
「し、晋助くん……」
「ちょっと邪魔入ったから、今日は川原行こうぜ……って、顔真っ赤だぞお前」
 顔を覗き込んでくる高杉に、ますます焦りが加速していくみやび。意識してしまった瞬間からもう、そのことを考えずにいることはできなかった。晋助くんめっちゃかっこいい、どうしようなんでだろう、恥ずかしい。
 みやびが訳の分からない感情に翻弄されていると、凛とした子供らしからぬ声が聞こえてきた。
「待て高杉、話はまだ終わって……」
 小走りで駆けてくる少年はそこまで言い掛けて言葉を切った。少年の大きな瞳に、杜若を携えた山吹色の着物の三つ編み少女が映る。少年はさらに眼を大きくさせて、しばらく言葉を失っていた。高杉は無言で顔をしかめている。近くで見るとさらに女子のようだな、などという呑気な事をみやびは考えていた。
 やがて、沈黙に耐えきれなくなったのか少年が口を開く。
「……高杉、この女子は?」
「テメェには関係ねェだろ。……行くぞみやび」
「えっ、あ……」
 少年に冷たく返答した高杉は、そのまま少々強引にみやびの右手を引く。みやびは足が縺れそうになりながらも、引かれるがまま歩き出した。
 みやびが杜若を左手で押さえながら振り向くと、石段の上でこちらを睨みつけている少年と目が合った。その鋭い双眸に気圧され、思わず眼を逸らす。彼は高杉ではなく、自分を睨みつけていた。みやびは咄嗟にそう思った。
「あ、あの……晋助くん、いまの子……」
 己の右手を握ったまま放さない高杉に話しかけると、彼は歩みを止めないまま口を開いた。
「気にするな。最近付き纏われてんだ」
「付き……? なんで?」
「なんでだろうな」
 どうも彼に詳しい話をする気は無いようだ、とみやびはそれ以上突っ込むのを止めた。ただ、訳も分からずあの美しい少年に睨まれたという後味の悪さだけが残っていた。
 石段を降り、川原の方角へと進んでいたとき。ふと、高杉が歩みを止めた。どうしたのだろうとみやびが彼に視線をやると、彼は自分の左手が繋いでいるみやびの右手を凝視していた。そしてどうかしたのかとみやびが口を開く前に、ビックリしたような形相で放り出すかのように彼女の手を放した。
「きゃっ……」
 その勢いで数歩下がったみやびは、意味が分からず右手と高杉の顔を見比べる。すると彼は即座に背を向けてしまう。意味が分からない、とみやびは少し不快になった。ごく稀に、高杉はこうやってみやびの気持ちを考えない意味不明な行動をとる。
 けれど、その不快感を口に出すことは皆無と言っていい。みやびは高杉のことを基本的には好ましく思っていたし、相変わらず友人でいたいと思っていた。だから、高杉が言われて嬉しくないであろうことは言わない。
 ただ、そう考えて口を閉ざすときには、いつも不安になる。人が不快になることを高杉は稀にみやびに対して行う。実は嫌われているのだろうか、と悩むことも少なくなかった。
「あ、あの……晋助くん、川原行かないの?」
 好かれてなくても、せめて前みたいに嫌われないようにしなきゃ。そんなことを考えて、みやびは笑顔で話しかける。高杉はすこししどろもどろになりながら、みやびに短く返事をして川原へと歩き出した。
 彼の半歩後ろを歩きながら、高杉の横顔を盗み見る。少し色づいた頬が柔らかそうだなと思った。せめて自分が高杉のことを好きだと思う半分くらいは、高杉にも同じ気持ちを持ってもらえたらいいのにと考えて、みやびは自分の我儘さに内心苦笑した。

 今日も今日とて神社へ向かう道すがら。小走りのみやびの視界に、先日目の当たりにしたばかりの美しい黒髪が僅かに映った。繁華街らしい賑わいを見せる萩城下町の大通りでのことだ。
 みやびが慌てて振り向くと、竹刀袋を背負い買い物籠を手から提げたあの少年が、いつもの神社と反対方向へ進んでいくのが見えた。その先には町人たちが住む長屋の通り、さらに奥には田園地帯がある。みやびは暫く、左右に振れる少年の結んだ黒髪をじっと見ていた。
 本来、嫁入り前の娘が無暗に男性と言葉を交わすのは不作法と言われている。高杉とは許嫁であるため両家に黙認されている節があるが、それ以外の男性となれば話は別だ。まして男性を尾行したなどと噂になれば、実家どころか嫁ぎ先の高杉家にも泥を塗ることになる。例え相手が自身とそう歳の変わらぬ少年だからといっても、知られれば大勢の大人に眉を顰められるに決まっているのだ。
 だがみやびは周りを確認すると、なるべく怪しまれないよう細心の注意を払って少年を追いかけはじめた。彼女の行いには彼女自身が一番驚いていた。あまりにも危険な行動だったが、それでもみやびは危険性より自分の意志を優先させたのだ。
 みやびは少年に聞きたいことがあった。
 一定の距離を保ちつつ追いかけていると、不意に少年が曲がって小さな路地へと入った。慌てて追いかけると、眼前には暗く湿った、みやびが通ったことも無い道が細く続いていた。彼女は一瞬戸惑ったが、やがて決心し力強く一歩を踏み出す。
 大通りから一本入った路地裏は、複雑に入り組み汚泥と獣の糞尿の匂いがする嫌な場所だった。みやびは裾で鼻を押さえながらもなんとか少年を追いかける。少年は慣れた様子で路地裏を右へ左へ何度も曲がった。見失わず付いていくのがやっとだったみやびだが、何度目かの曲がり角を右へ曲がった時だった。
 眼前には袋小路が広がっていた。
「えっ……」
「何の用だ」
「!?」
 行き止まりに戸惑っていたみやびに突如声が掛かる。全身が跳ねて心臓が口から飛び出さんばかりの心地を味わった彼女は、そのままぎこちなく恐る恐る振り向いた。
 真後ろに、自分よりも幾分か背の高い件の美少年が立っていた。
「ごっ、ごごごごごめなしゃ……」
 どもった上に噛んだ謝罪の言葉に、少年は眉を顰める。みやびは冷や汗が止まらなかった。相手はおそらくどこぞの武家の息子、つまりはお侍だ。自分は藩医とはいえ元は町医者の娘。無礼切りとまではいかなくとも、その背負った竹刀で叩かれるかもしれない。そんな恐怖が込み明けてくる。
「貴殿、名は?」
 実は少年は別段竹刀を取り出す素振りを見せることも無かったのだが、みやびはすでに頭を両手で抱えてうずくまっている。少年はとりあえず名を訊いてみたものの、震えあがった娘を前に困惑から眉間の皺を深くせざるを得なかった。
 やがて、少年は観念したようにため息をついてしゃがんだ。
「おい、人を尾行しておいてだんまりは無いだろう。俺に何か用があったんじゃないのか?」
 うずくまるみやびの顔を覗く少年。放たれた言葉自体は別段優しくなくとも、その声音はどこか柔らかかった。ようやく、みやびはまともに少年を見ることができた。
 近距離で見るとやはり綺麗な子だな、と場違いな事を考えていた。
「ご、ごめんなさい……」
「それはさっき聞いた。別にそれほど怒ってない」
 とりあえずしっかり謝らなければ、とみやびが口を開くと間髪入れずに返答される。高杉とはまた違う意味で、大人びた子だなという印象を持った。
「私、井上みやびと申します。……た、高杉晋助くんの……」
 そこまで言って、彼女は言葉を区切ってしまった。その先をなんと言えばいいのか分からなかったのだ。自他ともに認める二人の関係性はもちろん『許嫁』であったが、今日みやびは別に許嫁として少年を尾行したわけではない。
 少し迷って、なんと言うかを決める。その間、沈黙してジッとみやびの言葉を待ってくれていた少年の優しさに、彼女の緊張は段々とほぐれてきていた。
「晋助くんの、友達になりたい者です……」
 みやびがそう言い終えると、黄みがかった褐色の大きな瞳が二度瞬きをした。戸惑っている様子に見えた。
「あの……貴方は、晋助くんのお友達ですか?」
 上目使いで小さく訊いた彼女に、少年はやはり数度瞬きをしてから迷いなくこう答えた。
「いや、全く違う」
「えっ!?」
 むしろなんでそう思ったのかと言わんばかりに強く返され、今度はみやびが驚く番だった。
「で、でもこの前話してたし……竹刀も持っていらっしゃるから、てっきり講武館のご学友なのかと……」
「いかにも、俺は高杉と同門だが……俺もヤツも、互いを友だなどと毛ほども思っていない」
 みやびの発言を不快に思ったのか、それとも高杉との関係性を思い出したからなのか、少年の表情が次第に曇っていく。どう話を続けていけばいいのか分からなくなってしまったみやびは、だんまりで少年の様子を見守るしかなかった。
 やがて、彼女の視線に気づいたのか少年が咳払いをしてようやく立ち上がった。
「申し遅れた。俺の名前は桂小太郎。元馬廻り組の桂家当主にして、講武館の門下生だ」
 そう言って彼、桂小太郎は右手をみやびへ差し出した。彼女は少し迷って、その硬いまめができた大きな手を握り立ち上がった。
 馬廻り組とは、有事の際に大将の馬の周りに控え伝達や護衛を行う親衛隊身分のことだ。確か高杉家も、大忠太の功績が認められ当代からそれだったはずだとみやびは思い当たる。だが桂は元と言っていた。そのことにみやびは引っ掛かりを覚える。
「井上殿は高杉の許嫁だと聞いていたのだが」
 みやびが余所事を考えていたとき、ふいに桂少年が発言する。彼女は急に現実へ引き戻された。
「な、んでそれを……」
「……気を悪くしないでほしいのだが」
 桂はそう言って一度言葉を区切った。みやびは頭半分大きい彼を見上げて次の言葉を待つ。そして彼はみやびから視線を逸らして言葉を続けた。
「最近、講武館で噂になっているんだ。悪童高杉晋助は許嫁殿に大層ご執心で、一緒にふらふら遊び歩いていると」
 その言葉を聞き、意味を理解した瞬間。みやびは自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。桂はばつが悪そうに暗い顔で俯いている。
 高杉がいつ講武館に行っているのかはみやびも気になっていた。お互い友達が少ないことは知っていたし、そのことは気にも留めなかった。ただみやびが手習いの教室で起きた出来事などを高杉によく話す一方、高杉から講武館の話を聞いたことはほとんどない。
 そう。みやびが桂を尾行した理由は、この話が聞きたかったからだ。先日桂に睨まれた時から嫌な予感はしていたが、当たってしまったことにみやびは頭を抱えたくなった。
「つまり、桂様が先日晋助くんとお話していたのは……」
「ああ。そろそろ講義に出ないと親父殿にも迷惑が掛かるぞと忠告に行った」
 全く聞く耳を持たなかったがな、あの馬鹿。と桂が吐き捨てるように言う。みやびの脳裏に、自分が怪我をしたと知ったときの大忠太の様子が過った。
 大忠太がお手本のような武士であることは幼いみやびにもよく分かった。他人に厳しく、自分にはもっと厳しい。長州藩にも通うことを推奨されている名門私塾講武館の講義をサボり続けているなどと知ったら、あの父親がどんな行動に出るか。みやびは考えるだけでも寒気がした。
 高杉と過ごした楽しい時間を思い出す。きっと、原因の一端が私にある。そう彼女は思った。
「晋助くんが……」
 言い掛けて、言葉が詰まる。きっとそれをしてしまえば、自分は高杉に鬱陶しがられるのだ。出会った当初の、あの冷たい眼を向けられるのかもしれない。それを考えたら、今まで通り見て見ぬふりで高杉と楽しいことだけしていた方が余程、彼に好かれるはずだ。
 桂が怪訝そうな顔でみやびを見つめている。彼女はこの数か月でたくさん見てきた、高杉の優しい笑顔を思い出していた。
 自分が高杉に嫌われることよりも、高杉がたくさんの人間に誤解されることの方が嫌だ。彼女はそう思った。
「晋助くんがちゃんと、講武館へ行ってくれるように……私、話してみます」
 たくさんの勇気を振り絞って出した声は、震えていた。彼女が俯いたまま固まっていると、突然朗らかな笑い声が聞こえてくる。他ならぬ桂のものだった。
 笑うと可愛いな、と顔を上げて桂の顔を見たみやびはそんな感想を抱く。何故笑われているかは彼女には分からなかったが、嫌な気分はしなかった。
「すまない、貴殿を笑っていたわけではないんだ。自分の思い違いが何だか可笑しくなってしまってな」
 桂はそう言って笑うのを止めるが、口元は相変わらず緩んだままだ。
「改めて、桂小太郎だ。桂でいい。様付けなんて止してくれ。……ありがとう、井上さん」
 みやびは桂の笑いの理由がいまいちよく分からなかったが、とりあえずは彼のことを「桂くん」と呼んでみることにした。


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