物好き
 数週間後、みやびの捻挫はすっかり良くなり、手の甲の傷も大事なくかさぶたになっていた。だがみやびが何の支障も無く手習いを再開させた頃、どうも高杉がみやびに怪我を負わせた一件が近所を回り回って高杉の父である大忠太の耳に届いてしまったらしい。その場に居合わせた平蔵が大事なかったと言って聞かせたところで、大忠太の怒りは収まらなかった。あの馬鹿息子には言って聞かせても分からんのだと肩をいからせ帰宅していった大忠太に、高杉が折檻などされるのはどうしても寝覚めが悪い。そう考えた平蔵は急いでみやびを連れて高杉家へと向かった。
 どうやら先手を打てたらしい。高杉はまだ帰宅していなかった。平蔵が小難しい医療用語を並べていかにみやびの傷が大したことないかを聞かせ、みやびも小さなかさぶたをこれでもかと大忠太に見せた。渋々納得したらしい大忠太は、それでも眉間に深い皺を寄せて彼女に頭を下げる。
「この度は、愚息が本当に申し訳ないことをした。嫁入り前の娘さんに傷を付けるなど……」
「大げさだと言っているだろう大忠太。お前は昔から物事を真剣に捉えすぎだ。少しは肩の力を抜かないと晋助くんも息が詰まるだろう」
 大忠太とは二十年来の友人である平蔵が、苦笑交じりにそう答える。だが大忠太はますます顔を険しくするだけだった。
「馬鹿なことを言うな。肩の力を抜いて武家の長男など務まるか。晋助はむしろ甘やかして育てすぎたくらいだ。武士の自覚が足りなさすぎる!」
「……大忠太。私は町人の出だから武士云々にはあまり口出しできないが、晋助くんは今時珍しい真面目で優しい子だぞ。自分と同じくらいの背格好の人間一人担いで三十分以上歩くなんて、大の大人でもそうそうできまい」
「それくらいのこともできなかったら、俺はあいつを性根から叩き直さなければなるまいよ。自分が転ばせたならなおさらのこと」
「子供同士の取るに足らない喧嘩だろう」
「女に喧嘩吹っ掛けて怪我までさせたんだぞ! 何を悠長なことを……」
 軽い口論を始めてしまった父親たちにみやびがたじたじになっていると、ふと廊下が軋む音が聞こえてきた。父親たちには聞こえなかったらしい。
 みやびがお手洗いに立つ振りをして廊下に身を滑り込ませると、そこには案の定ばつの悪そうな顔をした高杉が片膝を立てて座り込んでいた。
「……んだよ、どっか行け」
 そっぽを向く高杉を何も言わず見下ろしていると、そのうち高杉は無言で立ち上がりどこかへ移動し始める。
 みやびは、黙ってその後を付いていく。長い廊下に軽い足音が二つ響く。
 しばらくして中庭に面したくれ縁に差し掛かった。空にはぶ厚い雲が立ち込め、屋外だと言うのに薄暗い空気が二人を取り巻く。見失わないようにみやびが早足から駆け足になったところで、勢いよく高杉が振り向いた。
「どっか行けって言ってんだよ! また怪我させられたいのかっ?」
 ふたりの距離はみやびの歩幅でおよそ二歩半。それ以上は近づけさせまいという、そんな突き放すような言葉だった。みやびは自分の懐を両手でギュッと握りしめる。
 今この瞬間、高杉が望んでいることはみやびがここから居なくなることだ。けれど、それはみやびの望むことではなかった。
『俺は、みやびがそんなやつじゃないって思ってる』
 みやびも、高杉がただの意地悪な乱暴者ではないと信じている。

「し、晋助くん……」
 か細い、弱々しい第一歩だった。まだ、怖くて顔は見れなかった。懐に畳んで入れていた大切なそれを、震える両手で差し出す。ぎゅっと目は瞑ったまま、みやびは口を開いた。
「この間は……ありがとう」
 高杉は何も言ってこない。みやびは彼の表情を見られないまま続ける。
「本当は、あの時だめにしてしまった物の代わりの羽織を縫おうと思ったのだけど……私には、まだ難しくて……裁縫のお師匠様に聞いたら、これなら作れるんじゃないかって……」
 みやびが差し出していたのは、藍色の小さな布だった。端に小さな花の刺繍が施されている。それはどうやら梅をかたどっているようだった。
「洋手ぬぐい……ハンカチ、って言うんだって。受け取って……もらえると、嬉しいな」
 それだけ言うと、あとは根競べだった。みやびはただ黙ってハンカチを差し出し続けていた。
 沈黙は長かった。ふと、瞼の裏が仄明るくなったような気がして、うっすらと眼を開ける。足元の廊下が日に照らされだしたのを確認した瞬間、手の中にあった布がスッと抜けるのが分かった。
 顔を上げる。口元をへの字にした高杉晋助が、右手でみやびの縫ったハンカチを持っていた。固唾を飲んで見守るみやび。
「……ありがと」
 やがて、高杉は小さな声でそう呟き、それを己の懐の中へ入れた。
 みやびの顔にほんの少しの笑顔が零れた。心底安心したような表情だった。
「ちょっと待ってろ」
 すると高杉はそう言って踵を返そうとする。呼び止めようとするみやびに「すぐ戻ってくるから、庭でも見てろ」と声をかけて去って行った。仕方がないから、みやびはくれ縁に腰掛けて日の差す中庭を眺める。
 高杉邸の中庭にも、立派な梅の木が植わっていた。もう梅の時期も終わり、温かな春が来る。風が吹くたびにはらはらと零れ落ちていく梅の花を眺めながら、みやびは亡き母と高杉のことを思っていた。
 三味線が上手く弾けたとき、唄が上手く歌えたとき、新しい知識が増えたとき。母は喜んでくれたし、褒めてくれた。でもそれは母が望んだことではなかった。みやびが望んだことが上手く出来ただけだった。
 高杉はもしかしたら母みたいに、みやび自身が望んだことを上手くできたら、少しは笑ってくれるかもしれない。みやびはそんなことを考えていた。
「俺の母親も、梅が好きだったんだと」
 いつの間にか隣に腰掛けていた高杉が声をかけてくる。足を外側に放り出して、彼は話を続けた。
「俺が二つの頃に肺を患って逝っちまったから、ほとんど顔は憶えてないんだけどな」
「……寂しくない?」
 高杉の目線より少し低い位置から、その顔を覗き込むみやび。高杉は少しだけ口角を上げた。
「そりゃあ、そんな時期もあったけど……案外慣れるもんだよ」
 そんなものだろうか、とみやびは思った。母親がいないこの喪失感が、いつか自分の当たり前になるのか。
 それは少し嫌だと思ったその時、高杉が自分に何か差し出してるのに気付いた。
 梅柄の赤い袋に包まれたそれを黙って突き出す彼に、戸惑いながら恐る恐る受け取るみやび。取り出してみろと言われ、袋の中身を出した。
 鼈甲のばちだった。
「……母親の形見だったって、小耳に挟んだ。俺からなんざ貰いたくないかもしれねェが……その、壊しちまって悪かった」
 目を逸らしながらぶつぶつと告げる高杉に、心の底がじわりと温かくなるのをみやびは感じた。
「ありがとう……っ」
 信じて、一歩踏み出してみて良かったと、心の底からそう思った。
「あ、あのね、晋助くん! 三味線、無事だったよ! ちゃんと音も出る。だから……私、このばちでこれからも手習い頑張るから……三味線だけじゃない。いろんなこと、ちゃんと頑張りたいと思うから」
 ひんやりとした鼈甲のばちが、みやびの体温に当てられて温かくなっていく。満面の笑みが零れだす。
「ふつつかものですが、末永く、よろしくね!」
 高杉の深緑の目に、みやびの笑顔が移り込む。眼を見開きしばらく瞬き一つしなかった高杉は、突然弾かれたように顔を背けてしまった。
「……俺、婚姻なんて今はまるで考えられないし」
「私もだよ。でも、晋助くんとはお友達になりたい!」
「はぁ? 友達? ……俺と?」
「うん!」
 元気よく頷くみやびと再び目を合わせると、観念したように高杉は微笑を浮かべた。
「物好きめ」


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