高杉晋助の許嫁
 高杉との出会いから数日後。舞踊の師匠宅から重たい足取りで帰宅すると、みやびの会いたくない人物に出くわしてしまった。
「聞いたぜ、お前あの高杉晋助の許嫁になるんだってな」
 癇に障る生意気な笑みを浮かべて近づいてくる総髪の少年は、四つ離れたみやびの兄弥七だ。兄と言っても血の繋がりは無い。彼はみやびの継母、佐栄の連れ子だった。佐栄は亡き先代井上家当主の姪に当たる存在なので、平蔵とは一応従兄妹同士の婚姻関係にはなるのだが、平蔵は養子なので血縁的には赤の他人だ。そして弥七は元町人の平蔵を露骨に馬鹿にしている。みやびは弥七のそういうところもあまり好きではない。
 弥七は実質この井上家の長男ではあるが、医者の家系の家督を継ぐのは長男とは限らない。平蔵がそうであったように、たくさん居る弟子の中でより優秀な者がいれば、その者を養子に迎えるという話も決して珍しくは無いのだ。弥七が長男の座に胡坐をかけない複雑な立ち位置であることは、幼いみやびにも分かった。だから事あるごとに絡んでくる彼の心無い言葉を、みやびは必死に耐えていた。
「あいつが講武館でなんて呼ばれてるか知ってるか?」
 小馬鹿にした口調でそう問いかけてくる義兄に、半ば諦めの面持ちで首を横に振るみやび。彼は得意げに続ける。
「悪童だ。意味が分かるか? 悪童ってのは」
「悪さばかりする、手におえない子供のことですね」
 淡々と返事をするみやびに義兄は一瞬面白くない顔をするが、すぐににやけ顔に戻り話を続ける。
「まァ、俺から言わせれば悪童というよりもただの馬鹿だがな。あの男の家は今でこそ現当主の功績で中士に名を連ねてはいるが、元は寺社組と言って馬上も許されぬ下級家臣なんだよ。それなのにあのガキは、自分よりも身分の高い相手への礼儀もなくやりたい放題。この前は家老のご子息を試合でボコボコにしていたな。俺の見立てではまぁ間違いなく、あの男の代で高杉家は没落するだろうよ」
 良く動く口だな、とみやびは話半分に義兄の口の動きを見ていた。義兄は皮肉が相手に効いていないことにも気付かず、満足げな笑みをより深めていく。
「ああ済まない。こんなこと、お前のような女に言っても分からないだろうな。まぁ、お前はとんでもない家のとんでもない男に嫁ぐことになる。それだけ伝えたかったのさ。お前が今精を出している手習いも全て無駄な事だ。今のうちに女中から洗濯や掃除を習っておいた方が良いぜ? 町人の子は一生女中がお似合いさ」
 聞きながら、みやびはまた体が重たくなっていくような気がした。良く喋る義兄のその言葉が真実だとは思いたくないが、もしも父上や義母上も同じ意見だったとしたら。みやびはまた自分のやることが増えると頭を抱える。
 かといって、やりたいことが他にあるわけでもなかったのだが。
「そうだなぁ、まずは家の前の掃き掃除でもしてこいよ。掃除もできない女なんて、もう遊女になるくらいしか稼ぐ方法が無くなるぜ」
 そう言って、玄関横の小さな物置から竹箒を取り出しこちらに投げてくる義兄。面倒くさいと思いながらも、事を荒立てないためにも適当に振りだけでもしようと手を伸ばした。

 しかし、みやびの手に届く寸前で竹箒は叩かれ、乾いた音を立て地面に叩き落された。
「た、高杉……!?」
 義兄が声を裏返す。みやびが目を見開いて右を振り向くと、そこには人を小馬鹿にした笑みを浮かべた高杉晋助が立っていた。
「相変わらず良く回る舌だな、太鼓持ち。眠すぎて半分以上聞いてなかったが、一つだけ言っておいてやる」
 高杉はそう言って箒を蹴りあげて掴むと、その柄の部分を義兄の鼻先へ突きつけた。それは一瞬の出来事で、武芸の素人であるみやびにも彼が並みの使い手ではないことが理解できた。
「重臣のせがれどもの太鼓持ちも結構だがな、その残念な頭では跡継ぎどころか医者にすらなれないぜ。こんなところで油売ってる暇があったら、医学書のひとつでも読んでたらどうだ」
 そう言って高杉は凄む。義兄の額に冷や汗が浮かぶのを、みやびはどこか遠い世界の出来事のように見ていた。
「ちっ、この悪童が……」
 そう言って踵を返し家の中に入っていく義兄。いからせた肩が見えなくなった頃、高杉が大きなため息をついて箒を降ろした。
「あの、なんでここに……」
「たまたま家の前を通りかかっただけだ」
 みやびを見ることなく淡々とそう告げる高杉は、そのまま玄関横の物置に近づいて無造作に箒を仕舞った。
 みやびが何を言おうか迷っていると、彼はふと笑みを漏らして再度近づいてくる。その笑みはけして優しさの滲むものではない。
「お前、俺や自分の親だけじゃなくて、兄貴にもあんな調子なんだな」
 嘲るような声音に、みやびは俯いた。梅の木の下で彼に言われたことを思いだしていた。
「なるほど。父親、兄、家の男に従順で我慢強く、反抗の種すら無い……いや、種を植える土壌すらそもそもないのか。古き良き大和撫子って感じだな。反吐が出る」
 事態は何も好転していないとみやびは思った。嫌味をぶつけてくる相手が義兄から許嫁殿に代わっただけだ。父の「仲良くなさい」という言葉が呪文のように耳元で反響する。
 義母と義兄が家へ来た時にも、平蔵はみやびに「仲良くなさい」と告げた。それから二年。兄に好かれる、というよりも兄に必要以上嫌われないためには、嫌味を受け入れ口答えしないことが一番だとみやびは結論を出してしまっていた。
 ただ、できれば高杉とはそういう方法を取りたくはなかった。
「……ごめんなさい」
 だが幼いみやびにはやはり、自分にあからさまに敵意を向けてくる相手と仲良くする方法が分からなかった。
 ぽつりと謝罪の言葉を呟いたみやびに、高杉は眉間の皺を深くする。
「今のは、何に対しての謝罪だ」
「……分からない。でも、何か気に障るようなことを私が言ってしまったみたいだから」
 みやびの返答が余程気に入らなかったらしい。盛大な舌打ちをかまして高杉は大股で出ていってしまった。

 相対する人物の望むことを言ったり行ったりする。それが、たくさんの手習いをしているはずのみやびの唯一自覚している特技だ。例えば弥七が憂さ晴らしの相手を求めていることを知っていたから、口答えせずに黙っている。平蔵が物分りの良い聡い娘を望んでいるから、彼の言いつけは全て守っていた。
 佐栄が嫁いできた日、和歌集の代わりに医学書を読んでいたみやびを見て彼女は、薄気味悪さと嫉妬を隠そうともしない目をして引きつった笑いを浮かべていた。それを見抜けてしまったから、以降みやびは平蔵の仕事の領域には踏み込まず、弥七よりも劣った妹を演じ続けている。
 手習いの師匠や近所の友人たちも、それぞれが望む『井上みやび』を言葉の端や表情に漏らす。それを察して相手の希望に沿うことこそ、みやびの唯一の個性だった。
 だが、そのみやびの唯一を揺らがす人物が現れた。高杉晋助という少年が何を望んでいるのか、みやびには分からない。何をしてもますます嫌われていくような気すらした。
 そのことを考えて、みやびは急に泣き出したくなるほど怖くなった。高杉晋助に嫌われることが怖かったのではない。父の言いつけを守れない、そんな娘になるのが何より怖かった。

 ちんとんしゃん、と心此処に在らずといった三味線の音色が寂しく響く。町の外れにある小さな神社は二代前に神主の跡継ぎが途絶え、以来町の者が持ち回りで管理している。年末年始や祭りの日くらいにしか大人はいないそこで、みやびは亡き母の形見の三味線を弾いていた。
 あの後、案の定弥七から告げ口を受けた佐栄から、高杉家の悪口を散々吹き込まれながらみやびは夕食を食べることになった。佐栄は典型的な武家の奥方らしい女性で、当主である平蔵には一切口答えはしない。古典の落窪物語に出てくる強烈な継母のように、当主を垂らしこんでまでみやびを虐げようとはしなかった。あくまで表向きは貞淑そのもの、散財や男遊びなども一切せずに家庭を守っている。
 ただ、やはり後妻という立場はそれなりに憤りや遣る瀬無さが溜まる立場なのだろう、とみやびは肌で感じることが多い。何をやってもある程度は器用にこなすみやびと、決して秀才ではない自分の息子。二人を比べ勝手に焦り、なんとかみやびの粗を探し出そうとするのは日常茶飯事。それでも弥七より優れている部分を少しでも出すと、女のくせに出しゃばるなと言われる。佐栄がみやびを褒めることは、この二年で一度たりとも無かった。
 生前、みやびの実母はよくみやびを褒めていた。それは初めて三味線で一曲奏でられた時や、母の三味線で上手く踊れた時。平蔵の医学書を読んで覚えた知識を披露した時にさえ、実母は満面の笑みでみやびを褒めた。それが嬉しくて、みやびもいろいろな事を頑張ろうと思えたのだ。
 ふと思う。今、自分は何のために頑張っているのかと。
「おい、ここは俺のサボり場だ。失せな」
 ばちを持ちながら物思いに耽っていたみやびは、その攻撃的な一言で我に返る。目の前には今見たくない顔のひとつが不機嫌さを隠さない様子で存在していた。
「もう一時間もすれば日が沈むぞ。ガキは家に帰りな」
 静かにそう告げる高杉晋助に、みやびはまた俯く。理由は分からないが、おそらくこの男はみやびのことがそれはもう徹底的に嫌いなのだ、とみやびは思っていた。だったら、声などかけないでほしい。
「……ごめんなさい」
 一言謝って、三味線を抱えて体を小さくするみやび。そのままどこまでも体を小さくして、いっそこの世から消えてしまいたいと願った。
 少年が盛大な舌打ちを漏らし、その獰猛な牙を剥いたのは次の瞬間だった。
「だからっ……」
 小さく丸まったみやびの右手を掴み、無理やり立たせる。
「その辛気臭ェツラが俺は大嫌いなんだよ! 失せろ!!」
 そう声を荒げ、小さな背中を押しだす小さな手。込められた力は中途半端に加減こそされてはいたが、みやびには耐えることはできなかった。みやびの長い三つ編みが舞う。
 そしてそのまま、彼女は石畳の上に正面から倒れ込んでしまった。ブチンという三味線の弦が切れる音とパキッと何か硬いものが割れる音が響いた。
 高杉がしまった、という顔をするが時すでに遅し。みやびが手足に血を滲ませ起き上がり、自分が腕に抱えている物を確認する。二の糸巻の先端に傷が付き、弦が切れ、ばちに割れ目が入った母の形見を視界に入れ、認識した瞬間。彼女の瞳からは抑えることなど到底できない、大粒の涙がこぼれはじめた。
「ふっ……ううっ……」
 声を押し殺すことが出来たのもほんの数秒。やがて嗚咽は大きな泣き声となった。高杉は目を白黒させて棒立ちになるばかり。みやびはそんな彼には目もくれず、ただ三味線を抱きしめていた。
 もう何もかもが嫌になっていた。三年前に母が死んでから、自分は可笑しくなってしまったのだ。上手くいかないことばかり。母上に会いたい。母上に優しくされたい。褒められたい。慰めてもらいたい。
 でも母上はもうこの世のどこにもいない。だから、誰でもいいから、心の底から「良い子だね」と言ってもらいたかっただけなのに。
「……お前、手がっ」
 先に我に返ったのは高杉の方だった。転んだ拍子に石で切ったらしい。みやびの左手の甲からは鮮血が止めどなく流れ落ちていた。慌てて駆け寄り左手を取ろうとする彼の手をみやびは弾く。
「私のこと、大嫌いなら触らないでください!!」
 ギョッとする高杉を泣きながら睨みつけるみやび。高杉は何か言おうと口を開くが、声を出す前に止めて何やら懐を探り出した。やがて不快そうに顔を歪めると、分厚い羽織を脱ぎ、仕立ての良い若葉色のそれを力任せに破き始める。
 そこで初めて、みやびは涙が止まった。
「な、に……?」
「お前、破傷風にでもなったらどうするんだ。とにかく止血して、お前の父親のところ行くぞ」
 みやびの正面にしゃがみ、ただの布切れになった袖部分で患部を丁寧に巻いていく高杉。そして巻き終えると、少し強めに結んだ。
「痛くないか?」
 真剣な眼差しでそう聞いてくる意地悪なはずの少年に、みやびは少し間を開けてこくりと頷く。すると高杉はみやびの怪我をしていない右手の方を掴み、中腰になる。
「立てるか?」
 少し迷って、みやびは返事をせずに立とうとした。しかし瞬間、右足首に激痛が走り再び蹲ってしまう。高杉は再びみやびの前に跪くと、右足を覗き込んだ。
「見せてみろ」
 そのままみやびの着物の裾を捲りあげそうな勢いで足袋の上から足に触れてくる高杉に、みやびは頬に熱が集まるのが分かった。
「やっ……!」
「何もしねェよ。足首見せろって言ってんだ」
 勝手に足袋を脱がせに掛かる高杉に開いた口が塞がらないみやびだったが、それでもやっと心に冷静さが戻ってきたのか、彼がどうやら自分の身体を心配してくれているようだということは理解できてきた。
 高杉がみやびの右足首を覗き込むと、そこは案の定腫れている。どうやら高杉が突き飛ばした時に捻ったらしい。
 彼は足袋を元に戻すと、小さなため息をついてみやびの足の下と背中に手を回した。
「えっ……えっ!?」
「ジッとしてろよ。さもないと落すぞ」
 よっ、と小さな掛け声を上げて、みやびを横抱きにしたまま立ち上がる高杉。三味線を抱えたままのみやびは何が起きているのかすぐには理解できなかった。やがて、鳥居をくぐり石段を降りはじめるくらいでやっと、自分がとんでもなくはしたないことになっていると気付く。
「お、下ろしてくださいっ!」
「ばっ、暴れんな! 三十段仲良く転がり落ちたいのかテメェ!」
 手足をばたつかせるが、高杉の言葉にふと下を見下ろすと見たことの無い角度の石段に肝が冷える。無意識のうちに高杉の胸に身を寄せたみやびに、高杉は抱きしめる力を少し強くした。
 石段を降り終わる頃、みやびはふと高杉を見上げる。男とは言え、彼もまだ子供と言える小さな体格だ。平気そうな顔をしているが、自分はさぞ重いだろう。いよいよ彼が何を考えているか分からなくなってきたみやびだが、その時はただただ疲れ切っていた。今更手足の痛みが込み上げてきて、井上邸の元へ着くまでの間、彼女はまた高杉の腕の中で静かに泣いた。
 高杉が井上邸へ彼女を運び込んだ時、すでに平蔵は帰宅していた。佐栄はみやびの様子を見て小さな悲鳴を上げ、平蔵は極めて冷静に手際よく処置を施した。破傷風にならないよう薬も投与し、安心したみやびが自室でうつらうつらと浅い眠りに引き込まれようとしている様に、平蔵もホッとしたのだろう。頭を撫でていた手を離して部屋から退室していく父をぼやけた視界に映していたら、廊下から人の話し声が聞こえてきた。平蔵と高杉の声だった。
「井上先生。アイツは……」
「おや、まだ居たのかい晋助くん」
 同じ感想をみやびも抱く。処置を受けている間、ずっとそこにいたのだろうか。
「今日はありがとう。もう日も暮れたろう。早くお家へ帰りなさい」
 穏やかな父親の声を聴きながら、また湧き上がってきた眠気に身を任せようとしていた。しかし。
「俺が、アイツを突き飛ばして怪我をさせた。……すみませんでした」
 高杉が続けた言葉に、意識は引き戻される。
「……そうなのかい?」
 少し驚いた様子の平蔵の声。高杉の声は少し小さくなった。
「みやびが……」
 まず驚いたのは、高杉がみやびの名を呼んだことだった。
「みやびが、俺のよく行く神社で、暗い顔をしていて……アイツの辛気臭い顔を見てると、俺も気分が落ち込むから、それが嫌で追い出そうとした。すみま、せんでした」
 最後の謝罪は、消え入りそうな声だった。平蔵は感情の読めない静かな声で「そうか」と告げると、少しの間黙り込んでしまった。高杉も何も喋らなかった。
 ああ、高杉晋助は私の、暗い顔が嫌だったんだとみやびは漠然と考えていた。だったら、次に会った時は無理やりにでも笑おう。でも、初めて会った時、無理やり笑っていてもそんなに機嫌が良さそうには見えなかった。ならどうすればいいんだろう。そもそも、次はあるのか。
 そんなことを取り留めも無く考えていた。静寂に割って入ったのは平蔵の声だった。
「晋助くんは、みやびが嫌いかい?」
 嫌いだよ、と心の中でみやびが答える。高杉はみやびが嫌いだ。
 でも、嫌いなやつの怪我の手当てをして、三十分もかけて担いで帰ってくれる彼のことを、みやびはもう嫌いにはなれなかった。
「……俺は、嘘くさい笑顔を浮かべて取り繕ったり、自分の意見も言わずにくよくよしてるヤツが嫌いなだけだ」
 自分が嫌いではない人に好かれない。その事実に、またみやびの目尻には涙が浮かんだ。
 だが、そんなみやびの涙を止めるように。
「でも、俺はみやびがそんなやつじゃないって思ってる」
 力強い言葉だった。
「それは、どうして?」
「……理由なんてない。勘みたいなものだけど、でも……あの時……ったから」
「えっ?」
 みやびがよく聞き取れなかった言葉は、平蔵もそうだったらしい。彼が聞き返すと高杉は慌てたように「何でもない」と早口で告げる。
「井上先生。俺をみやびの許嫁から外したいなら、そうすればいい。アイツも嫌だろうし……。今度は真っ当な、出来ればアイツに対して優しくできる婿殿を探してやってくれよ」
 そして、軽い足音が廊下に響き、だんだんと遠のいていった。玄関の引き戸の開閉音を遠くに聞きながら、みやびは天井を見つめる。父上が、どうか新しい許嫁を探しませんようにと願った。


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