つまらない女
 まだ羽織や襟巻が無ければ肌寒い如月の空の下、三つ編みを一本結わえた少女が息を切らして駆けていた。少女、井上みやびは朱色の長袋に入れた三味線を小脇に抱えている。三味線の師匠がその様子を見たら「はしたない」と声を荒げるだろうが、みやびは先日十歳になったばかりだ。遊びたい盛りの少女が三味線、小唄、舞踊、和歌、茶道、華道、裁縫と週に七つも手習いを掛け持ちさせられ、ただでさえそれらを日々こなすのに必死である。今の彼女にそれ以上の行儀作法を常時求めることはまだ難しかった。
 裾が多少捲れるのも気にせず、みやびは自身の住む武家屋敷の通りを走る。いつもなら彼女はその道をなるべく時間をかけて、いっそ真っ直ぐには帰らず帰宅を遅らせる。だが今日、彼女には急ぐ理由があった。
 やがて、彼女は小さな引き戸の門の前に立つ。そこで初めて自分の姿を冷静に観察し、捲れた裾を整え懐から手鏡を出して髪を整え、息を整えた。なるべく静かに門扉を開けて、敷地内に入る。彼女の自宅は他の武家屋敷に比べそれほど大きくは無い。門から子供の足で十歩進んだところに玄関の引き戸がある。
 開くと、見慣れた男性用の草履が一足。それだけでみやびは自分の顔が綻んでいくのが分かった。見慣れない大人の男性の草履と子供用の草履が一足ずつ揃えてあったが、彼女はそんなことはどうでも良かった。
 逸る気持ちを押さえて早歩きで客間へと移動する。廊下の壁に三味線を立てかけて座り、少し裏返った声でこう告げた。
「父上、みやびでございます」
「入りなさい」
 優しい父の声だった。
 みやびの父親、井上平蔵は元はしがない薬問屋のせがれだった。しかし彼の義父であり師でもある先代井上家当主に才能を見こまれ養子となり、経験を積んで今では藩医として藩主に仕える武士相当の存在だ。みやびも平蔵の活躍はもちろん嬉しかったが、それ以上に寂しさも抱えていた。
 だがそんな多忙な父が、今日は昼間から家にいる! 彼女が帰宅を急いだ理由はそれだった。
「失礼いたします」
 そう。襖を開けた先にいた、見覚えのある中年の男と見知らぬ自分と同い年くらいの少年など、彼女にとっては取るに足らないどうでもいい存在だった。しかし、完全に無視することもできない。剃髪に優しい瞳の父の胸に飛び込みたいところをみやびはぐっと我慢した。
「邪魔してるよ、みやびちゃん」
「お久しぶりです、高杉のおじ様」
 まずみやびに声をかけてきたのは中年男性の方だった。みやびも一礼して返事をする。
 高杉のおじ様と呼ばれたその男の名は高杉大忠太、剣の腕一つで下級武士ながら藩校の剣術師範にまで上り詰めた男だ。眉間に刻まれた深い皺と鋭い眼光が厳しい印象を与えがちだが、そこまで怖い人物でないことをみやびは知っていた。彼の友人である父の口から聞かされる彼は、不器用で誠実な男だった。
「晋助」
 そしてみやびと言葉を交わした際少しだけ緩んでいた口元を正し、大忠太は自身の隣に控えていた小さな影に目をやった。つられてみやびもそちらをジッと見つめる。
 深緑色の大きな瞳がこちらを真っ直ぐ見返していた。
「……ハジメマシテ」
 嫌々口を開いているのだという感情を隠しもしないで、声変わりもしていない少年の声は簡潔に告げた。大忠太の眉間の皺がますます深まるのが分かる。みやびは悪びれる様子も無くただ不機嫌そうにこちらを睨みつけてくるその少年を、不思議な気持ちで見つめていた。
「みやび、こちらは高杉晋助くん。昔会ったことがあるはずだけど、二人ともまだ小さかったからね……。ともかく、これから仲良くなさい」
「はい、父上」
 ふてぶてしい少年の様子など少しも気にならない様子で、朗らかに平蔵はそう告げた。みやびはただ従順に、疑問に思うことなど少しもない様子で平蔵へ返事をする。仲良く出来るだろうかという心配事だけが彼女の胸の内を占めていた。ふと彼女が少年を見遣ると、既に彼はみやびにも会話にも興味を失くした様子で庭を見つめていた。
 逆らうなどという選択肢は端から存在しない。それを誰も望まないから。だが、目の前の自由奔放すぎる小さなお侍が将来の伴侶だという実感は、みやびにはまだ湧かなかった。

 天人が江戸に降りてきて早四年。最初こそ天人どもを排す姿勢だった幕府も、天人の持ち込んだ大量殺戮兵器なるものを目の当たりにしてあっという間に不平等な条約を結んでしまった。近頃ではそんな弱腰の幕府にこの国を任せてはおけないと、各地で決起しようという侍たちの機運が高まっている。
 しかし着実に、武士が守り続けてきた二百余年の風習は、天人蔓延る江戸を中心に廃れてきていた。天人が持ち込んだメディアという媒体。そこで垂れ流されるのは芸能人や政治家の不祥事や不幸、利害関係を第一とする資本主義の考え、そして自由恋愛の素晴らしさ。井上家にはテレビはおろか雑誌等の書物も置いてなかったが、みやびも少女漫画なるものを流し読みしたことくらいはある。もちろん憧れもしたし、感動もした。
 だがそこは中央から遠く離れた萩の城下町。親同士が取り交わした婚姻の約束など物珍しい話でもなんでもなかった。
 他人事のように高杉晋助を観察するみやびは、自由恋愛など所詮絵空事とちゃんと理解していた。現実と空想の区別はついていた。つけなければと、先日許嫁の件を父親に切り出された時から自分に言い聞かせている。みやびはそういう少女だった。
「高杉様は、やはりお父様のように剣術がお得意でいらっしゃるの?」
 平蔵と大忠太の昔話や世情を憂う話は、彼女たちには些か退屈だった。庭を見てみたいと言ってその場から抜け出したのは高杉の方だった。ただ、みやびが案内役として付けられたのは不本意だったかもしれない、と不機嫌そうな少年の横顔を見てみやびはそう思った。
「あの名門の講武館に通っていらっしゃると聞いたのだけど。ねぇ、やっぱりあの私塾は、お侍様方が毎日しのぎを削る厳しいところなの?」
 何をするでもなく庭のため池を見ている高杉からの返事は無い。みやびは段々自分も高杉みたいな仏頂面をしたくなってきた。
「あ、そうだ! 中庭に梅の木があって、とても見ごろなの。見る?」
 父上に仲良くするよう言われているのに、これではいけない。その一心で痙攣しそうになる口角を懸命に上げて誘う。すると高杉はそこで初めて反応を示す。
「……見る」
 相変わらず仏頂面だったが、少しだけみやびに視線を投げかけ高杉はそう言った。みやびはホッとしたような、難攻不落の城を突破する糸口を見つけたような、そんな奇妙な安心感と達成感を抱いた。
 井上家は屋敷の建坪自体はそれほど広くない。間取りも居間と台所、寝室が二つに客間と仏間が一つずつ、それにそれほど大きくは無い物置が一つと言ったところだ。使用人は通いの者が二人いるだけで、華美な暮らしをしているとは言い難い。
 だがみやびには、手習い教室に通う金持ちの姫様たちにも自慢できる唯一のものがあった。それは庭だ。
 みやびの実母がこだわって、嫁いでからちょくちょく庭師を呼んでいじらせたという。中でも中庭に植わる梅の木は、夫婦の寝室からとても綺麗に見えた。
「綺麗でしょ? 私の自慢なの。梅は母上が好きな花だったし、私も大好き!」
 薄紅の愛らしい花を無数に付けたその木の下で朗らかに笑い、後ろにいた高杉の方へ振り返るみやび。高杉は花を見てかみやびを見てか、少しだけ目を見開いて動きを止めた。少しだけ口を開き、何かをぽつりと呟く。だがそれは声というよりも息に近く、みやびの耳には届かなかった。
「……高杉様?」
 小首を傾げるみやびに、我に返ったように高杉は肩を震わせる。そして弾かれたように後ろを向くと胸を押さえてうずくまってしまった。不審に思ったみやびは彼に近づくが、その肩に触れる前にまた弾かれたように立ち上がった高杉が距離を取る。妙な汗をかいていた。
「高杉さま……?」
「そ、その高杉様っての、止めろよ……気持ちわりィ」
「きっ……!?」
 寺子屋には通わず和歌の師匠に読み書きの面倒を見てもらっているみやびにとって、同年代の少年と言葉を交わすのは高杉が初めてであった。だがまさかそんな乱暴な事を言われるとは思わず、みやびは閉口してしまう。
「だいたいお前、俺と同い年なんだろう? 呼び捨てでいい」
「でも、将来旦那様になるわけだし……」
「だっ……」
 しゅんとしたみやびに対して、今度は高杉が閉口する番だった。心なしか頬が赤い。
「ちっ……だいたい、お前良いのかよ。親同士が勝手に決めた相手となんかで」
 俺がお前だったら絶対ゴメンだ。そう言って、バツが悪そうに頭を掻いてそっぽを向く高杉。先ほどの舌打ちと言い、少年とはみなこのように粗暴な振る舞いをするのか。みやびはイラつきと恐れを同時に抱え気分が悪くなる。子が親の言うことを守り生きていくことなど当たり前のことだと言うのに、何故目の前の少年がこうも反抗心を剥き出しにしているのかみやびにはよく理解できなかった。
「勝手にって……いくら鎖国が解禁されて天人たちの文化が入り込んできたと言っても、今までの風習がたちまち無くなるわけではないわ。婚姻はあくまでお家を守るための契約。私たちの先祖が代々行ってきた、当たり前のことでしょう?」
 ほとんどは、三味線や和歌の師匠の受け売りだった。みやび自体がそれを当たり前と心の底から思える境地にはまだ達していない。ただ、もう歳も十になるくせに礼儀作法も世の理も知らない、目の前の少年に注意をしてみたかっただけだった。
 だが、みやびの教科書通りの返答に、高杉はしばらく無表情で彼女の顔を見つめたかと思うと、冷たい嘲笑を浮かべこう吐き捨てただけだった。
「お前、つまらない女だな」
 石で殴られたような衝撃が、みやびを襲った。深く傷ついた様子のみやびを満足げに眺め、高杉は擦れ違い様にこう告げる。
「誰に吹きこまれた『当たり前』か知らねェけどな、ちゃんと自分の言葉で喋れよ。ガキが」
 声変わりもしていない澄んだ声が、鼓膜を経てみやびの心に深く突き刺さった。少年の軽い足音はさっさと中庭の沓脱石へと向かう。
 みやびは振り返ることも無く、ただ黙って唇を噛みしめ、母の愛した梅の木を見上げた。悔しくて、恥ずかしくて、何より彼が愛する父の決めた自分の伴侶であることが悲しくて仕方が無かった。しかし彼女に反抗する術はない。きっと平蔵に高杉のことを問われても、笑顔で素敵なお方ですとしか言えないのだろう。
 みやびには、それ以外の振る舞い方が分からない。


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