信じていた
 高杉の意識が無くなっていたのは、実際にはほんの数十秒のことだった。それ以降は意識が混濁した状態が続き、手足を動かすこともできずにただぼんやりと、周りで起こっている出来事をテレビ画面の外から眺める様な感覚で認識していた。
 自分を気絶させた屈強な侍たちは、続いて桂も戦闘不能に追い込んで、容易くみやびを捕縛した。その男たちの後ろから出てきた男、家老の堀田が自分たちの息子を叱り飛ばしていた。みやびがその男に何かを叫んでいるが、高杉は耳鳴りがひどく聞き取れない。やがて自分たちは男たちに抱えられ、その屋敷の地下へと続く階段へ連れて行かれた。そして地中深くにある、いくつかの蝋燭しか光源が無い牢屋へ放り込まれる。
「せめて、せめて救急箱を貸してください! 二人とも頭を殴られてるんですよ!?」
 みやびが男たちに叫んでいた。その中の一人がどこかからそれを持ってきて、みやびの小さな腕へ投げるように寄越す。どうやら自分たちを生かす気はあるらしい、と高杉は他人事のようにそう思った。
 みやびは薄暗い中で救急箱から細長い何かを取り出す。カチリ、と音を立ててそこから細長い光が生み出された。どうやらペンライトらしい。
「晋助くん、桂くん。意識があって声が出せるなら出してみて、お願い……」
 彼女は片手でペンライトを持ちながら、救急箱の中身を確認しつつそう声をかける。高杉は試しに声を出してみた。間の抜けた母音が口から飛び出る。
「……晋助くん、自分の名前言ってみて」
 そう言って、みやびは応答のない桂の方へ駆け寄った。そして手に持っていたライトを口に銜えると、彼の頭や胸、口元、首のあたりや手のひらをペタペタ触ったり抓ったりしていた。一通り終えると救急箱を手繰り寄せて、中からガーゼと消毒液のようなものを取り出す。湿らせたガーゼをこめかみあたりの患部に当てると、桂は少し唸り声を上げた。それから彼女は手際よく別の乾いたガーゼを医療用テープで固定した。そしてその上から包帯を丁寧に巻いていく。
 そんな光景を茫然と眺めながら、やがて高杉は自分の名前が口から出てこないことに気付く。
「あ、れ……」
「頑張って晋助くん、私の名前は?」
 みやびは銜えたペンライトを口から出して、努めて明るい声を出そうとしているような様子でそう言った。
「みやび……」
「そうだよ、みやびだよ。晋助くんのお誕生日は?」
 えっと、と思いだしているうちに、高杉はみやびが独り言をぶつぶつと呟いていることに気付く。
「呼吸、心拍、脈拍、意識レベルの確認、気道の確保、それから、えっと、えっと、出血は少量、頭を強打してて、何だっけ、何だったっけ……」
 意識が無い桂を前にして、みやびは小さく震え今にも泣き出しそうだった。
「頭打って、意識無くて、脳震盪? 本当に? もっと怖い病態だったら……」
 その姿を目の当たりにし、高杉はやっと頭にかかった靄がとれてきたような気がした。揺れる着物の裾を彼が軽く引くと、みやびは弾かれたように振り向く。
「……八月十日」
「えっ?」
「俺の、誕生日」
 力を抜いた笑みを浮かべる高杉を見て、何か張り詰めたものが切れたらしい。はらはらと零れ落ちてきた涙に、高杉は上体を起こそうとする。
「駄目! 寝てて!」
 だが途端にそう声を荒げられ、渋々また仰向けに寝転がった。
「ホント、泣き虫だなお前……」
「ごめん、ごめんね晋助くん……私の所為で、桂くんが……」
 口元を抑えて嗚咽を漏らすまいとする彼女の、ぐぐもった謝罪に高杉は眉を顰める。
「なんでお前の所為なんだ」
「一人で、どうにかしようと思って……」
 高杉はどうにか彼女を落ち着かせようと、なるだけ力強く彼女の手を握った。
「どんどん、話が大きくなっていって……もし二人が今朝言ってたみたいに、政とか、家老同士の対立とか、そんなことが本当にあるなら、もう、巻き込めないと思って……」
「それで一人で特攻かましたのか。抱えんなっつったよな?」
「どうしよう私、義兄上たちどころか、桂くんまで……」
「おいおい勝手に殺してやるなよ、寝てるだけかもしれねェだろ?」
 宥めるつもりでそう茶化すと、みやびはますます声を上げて泣き始めた。
「頭思いっきり木刀で殴られて、意識が戻らなくてっ……これ、ものすっごく怖い状態なんだよ!? ……そうだよ、もし、もしも脳内で出血でもしていたら……」
 そう呟くと、みやびは高杉の手を放して急いで立ち上がった。足を縺れさせながら鉄格子の方へ行くと、そのまま両手でそれを掴んで懸命に外を覗き込もうとする。
「誰か、誰かいませんか!? 重傷の子供がいるんです、すぐに病院へ連れて行ってください!!」
 みやびの背を見つめていた高杉が、ゆっくりと反対側へ顔を向ける。意識の戻る様子が無い桂の顔色は、心なしか悪くなってきているような気がする。みやびの叫びを聞いているうちに、高杉の中でもやがて焦燥感のようなものが芽生えていく。胸騒ぎが胸焼けに変化するのに時間は掛からず、吐きたいわけではないが気分が悪いと思い始めてきた頃。
 ずっと騒ぎ続けていたからか、誰かが上から下階へ降りてくる足音が聞こえてきた。
 高杉は上体を起こして身構える。足音は一人だけ。もし誰かが桂を出しに来たなら、相手の体格にもよるが鍵を開けた隙に倒せない数ではない。だがそうしたら桂はどうなる。地下から出たら、桂を担いで出口まで走るのはおそらく容易ではないだろう。ただでさえ、自分も万全ではないのだ。
 そして彼が次の行動を迷っている間に、足音の主は目の前に現れた。
 大きな笠を目深に被り、黒い襟巻で口元を隠した中肉中背の男だった。
「お願い、病院へ……それが駄目ならせめて、医者を……」
 項垂れて懇願するみやび。その時だった。
 男の手が、鉄格子を掴むみやびの手に触れた。
「元医者で良ければ、私が見よう」

 みやびと高杉のすべての動きが固まる。凪いだ海を思わせるような低く優しい声は、二人にとってあまりにも聞き覚えがありすぎた。
 ほぼ同時に、彼らはぎこちない動きで顔を上げる。男がそれに合わせて笠を取り、襟巻を剥ぐ。
「もう死んでも医者などと名乗れぬ身だが、それでもまだ、救える命があると言うなら喜んで」
 剃髪に、みやびとよく似た形の目元。微笑を浮かべた人物を、二人が見間違うはずもない。
 井上平蔵、その人だった。


「な、んで……」
 みやびの口からは短い疑問の言葉が零れる。平蔵は鉄格子の間から手を入れ込むと、そのまま彼女の頭の上に手を置いた。
「よく頑張ったね。晋助くんも。……気持ち悪くなってはいないかい?」
「え、あ……ああ……いや、そんなことより」
「もう大丈夫」
 聞きたいことは山ほどあった。けれどその笑顔を目の当たりにし、高杉は柄にもなく心の底から安心してしまった。得体の知れない事件に自ら関わりにいったとしても、こうして捕えられて連れが怪我をしたという事態に、彼も不安で仕方なかったのだ。
 開けた口を閉じ、その場に座り込む高杉を見てから、平蔵はみやびに再び向かい合った。
「みやび、頭部を強打して意識が無い者にはまず、呼吸脈拍心拍意識レベルの確認、それから気道の確保と外傷の手当て。それが出来たら鼻や耳から血や透明な液体が出ていないか、耳たぶの後ろや目の周りに痣ができていないかを調べること」
 平蔵の纏う空気が変わったことを、高杉は肌で感じた。振り返ったみやびの目つきは必死そのもので、ペンライトを片手に素早く桂の元へと戻る。顔を照らしながら彼女は言われたとおりに素早く確認を行った。
「汗はかいてないかい? 手足の体温は」
「発汗なし、手足の体温も私より若干低いくらいです」
「瞳孔はどうなっている?」
 みやびは素早く桂の右目の瞼をそっと指先で開ける。
「ここは暗いから、片眼ずつゆっくり顔の外側からライトを当ててごらん。瞳孔に光を入れたら長くは当ててはいけないよ」
 言われたとおりに光を少しずつ当てていく。そして言われたとおりその光が中心部分へ移動させると、素早くライトを切った。それを右目左目と行い、彼女は真剣な表情で確認している。
「眼球が不自然に飛び出していたり、落ち窪んでいたり、暗い時と明るい時で瞳孔の大きさが変わらなかったり、左右で瞳孔の大きさが違っていたりしないかい? 気付いたことは何でも言いなさい」
「だいじょう、ぶ……です」
 少し自信が無さそうにそう返すと、彼女は不安げな表情を父親へ向ける。頭を打った患者を無暗に動かすこともできないため、これらの作業はみやびがやる他無かった。
 平蔵はそんな娘に思わず苦笑を漏らす。
「もう一度、意識レベルを確認してみなさい。何度も呼びかけることが大切だ」
 みやびは再度桂を覗き込むと、軽く肩を叩いて彼の名を耳元で呼び始めた。高杉もゆっくり彼のそばへ移動して声をかける。
「桂くん、桂くん!」
「おい桂、テメェいつまで寝てんだ起きろ!」
 そして二、三度の呼びかけの後、固く閉ざされていた瞼が少し痙攣してゆっくりと開いていく。
「桂くん!」
 止まっていたはずの涙が再び流れだし、それは桂の頬を濡らした。高杉が深い安堵のため息を漏らし、ふと視線を上げる。
 そこから去ろうとしている男を視界に入れた彼は、声帯よりも先に足を動かし飛び出した。鉄格子の間に腕を突っ込むと、男の袖を鷲掴み放すまいと手繰り寄せる。
「ちょっと待て、まさか全部だんまりでいなくなろうなんて思ってねェよな? アンタ、みやびがどれだけ心配したと思ってるんだ」
 頬を鉄格子に押し付け乱暴にそう問いかける高杉だったが、平蔵は目深に笠を被り直して振り返ることはなかった。
「もう少ししたら大忠太がここへ来るはずだ。彼の言うとおりにすれば、誰も君たちを悪いようにはしない」
「えっ……」
 思いもよらない名前が出てきたことによって、高杉の手は自然と緩んだ。平蔵は特に力強く抵抗はしなかったが、それでもその隙を見逃すことはなかった。掴んだ袖が彼の手からすり抜けていく。
 知っていたのか、親父は。彼の脳裏に沸いた一つの可能性に、動揺が隠しきれない。その間にも平蔵は遠ざかっていく。
 だが次の瞬間、伸びてきた別の腕が再度平蔵を引き留めた。
「父上、義母上と義兄上が亡くなりました」
 静かな声だった。父親が僅かに俯くのが、笠を被っていたからこそ後ろからでも分かった。
「……ああ、知っている」
 男が拳を強く握りしめたのを、高杉は無言で見つめていた。
「さっき、もう死んでも医者とは名乗れないと言いましたね」
「……そうだね」
 娘が強く唇を噛みしめるのを、黙って見ているほか無かった。
「……それは、護りたかった後妻と義理の息子を護れなかったからですか。それとも」
 みやびは一呼吸置くと、はっきりと大きな声でこう告げた。
「父上が、人を殺めたからですか」

 自身の呼吸音がやけに大きく聞こえていた。桂は目を開けたまま、言葉を出さないのか出せないのか分からない状態で横たわったまま。みやびは敬愛する父の後姿から、けして目を逸らそうとはしなかった。
「堀田様のご子息の部屋で、あるものを発見した時にふと思いました。……そのあるものは、おそらく彼らの『いたずら』で使用したもの。さすがに薬品そのものはとっていなかったようですけど、これは勉強机の引き出しの奥に忘れられたようにぐちゃぐちゃに押し込められていました」
 みやびは、着物の懐へおもむろに手を入れる。そして中から取り出した物を、平蔵の方へと翳した。
 それは、無色半透明で正方形を模った、皺だらけの紙束だった。
 平蔵が振り返ってそれを確かめると、少し驚いた表情をした後にその顔から表情を消す。
「薬包紙です。……父上の仕事場には確か、薬の包装を行う大きな機械がありましたよね? 袋状に畳んだ薬包紙を設置して、そこに機械が決まった分量の薬を入れ込んでいって……最後に、畳んだ端に熱を掛けて小さく封をする」
 みやびはその薬包紙を足元へ落す。はらはらと舞って地面へ散っていくそれを、高杉は虚ろな目でただ傍観していた。
「あんな天人のからくりはそうそう手に入るものではありません。弥七義兄上が用意した偽物には封がなされていなかったはずです。……仕事を手伝い始めたばかりの兄上がその存在に気付かなかったとしても、父上がそれを見逃すはずはない」
 父上は義兄上の目論みに気付いていた。違いますか?
 みやびの手が父親から離れていく。力なく滑り落ちたその手は、所在なく小さく揺れた。
「こっそり取り除いたんですよね、下剤。……そして、毒薬を入れた薬包紙を一家へ処方した」
「みやび、もういい」
 耐えられなくなったのは高杉だった。その小さな肩を掴んで振り向かせると、真っ赤になった目が何かを訴えて高杉を見た。
 彼は自分の内臓が冷え込んでいくような感覚を覚える。もう夏なのに、寒いと思った。
「……だから、言っただろう。私がやったと」
 平蔵が鉄格子の近くまで戻ってくる。やがて彼が高杉とみやびの前に立つと、その顔は見たことの無い無表情であることに嫌でも気付いた。
 平蔵が連行された日の、みやびの顔にそっくりだと高杉は思った。
「理由を、教えてください」
「もういいだろう。人殺しの父親のことなど忘れなさい」
「っ、いい加減にしてください父上!!」
 物思いに沈んでいた、どちらかといえば現実逃避に近い夢想に耽っていた高杉だったが、そのみやびの金切り声で現実に引き戻される。
 意外に喜怒哀楽がしっかりしているみやびの怒る姿は何度か見てきた。だが、我を忘れて怒り狂っているのを見るのは初めてだった。
「薬包紙を見つけたとき、私がどんな気持ちだったか、父上に分かりますか!? 私だって、さっきまで貴方の罪を受け入れて、人殺しの娘として、井上平蔵の娘としてこれからどう生きるべきか頭の中ぐちゃぐちゃだったんです!! なのにどうして、父上は何も言わずに行けるんですかっ! どうして私の中の、私が信じていた父上を父上自身がぐちゃぐちゃに踏み潰して、そのままでいられるんですかっ!?」
 鉄格子の間から両手を出して、みやびが父の懐を掴み揺さぶる。無表情だった平蔵の顔が、人間らしく歪んでいく。
 信じていた父を踏みつぶされる。みやびが口走ったその言葉が、高杉の鼓膜に妙に残った。得体の知れない不快感に、答えを与えられたような気分だった。
 重大な真実をひた隠しにしていた大忠太の冷たい言動、凶行に走った佐栄が叫んだ『侍』の姿。そして、己を救ってくれた平蔵が奪った命。
 ああそうか。
 信じていたのか。
 目頭に込み上げてくる熱いものを、痛みで懸命に堪えようとした。彼は爪が食い込むほどに拳を握りしめる。
 信じていた。
 その正体をよく知りもしないで、分かろうともしないで。高杉晋助はただ、信じていたのだ。
「……教えてください」
 金切り声は止み、涙声が小さく響いた。
「本当の父上を、教えてください。……知った上で、一緒に罪を背負わせてください」
 懐を掴んでいた手が離れていく。みやびは一歩下がって、涙で濡れた顔で懸命に笑っていた。
「私は、井上みやび。貴方と、貴方が愛した女の娘です。……信じてください」

 井上平蔵は、その頬に一筋の涙を零し。そしておもむろに口を開いた。


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