下級武士の倅と町民の子
 平蔵はしがない薬問屋の長男坊だが、五歳になる頃には生家で取り扱う薬剤の効能を一通り理解できるくらいの神童だった。十歳の時には商人の身分であるにも関わらず講武館への特別入門が認められ、十二歳で代々藩医を拝命する名家井上家に養子として迎え入れられた。そして十三歳の頃には長州藩医学館の名立たる藩医の小姓として、当時の最先端の医学に触れてきた。
 親友、高杉大忠太と出会ったのは講武館時代である。水と油のように思える二人だが、不思議と馬が合い意気投合するのにさほど時間は掛からなかった。二人は進む道こそ違ったが、見ている方向はいつも同じだった。同じ思想を語り合い、時にどちらかが間違えてしまいそうになれば、必ずもう片方が引っ叩いてその肩を支えた。
 下級武士の倅と町民の子、身分の低い二人が辛酸を舐め、泥を啜りながらも、今の地位に上り詰めることが出来たのは。唯一と決めた妻の死を、乗り越えることができたのは。互いがいたからだった。
「戦が起こる」
 ある夜、井上邸で飲んでいた時に大忠太が零した一言だった。
「藩の重鎮どもは頭がイカれている。世論に当てられとうとう関ヶ原の恨みまで持ち出してきた。若者の暴走を止めるのが老いぼれにできる唯一の仕事だというのに、一緒になって馬鹿騒ぎと来たものだ」
「止められないのか」
「毎朝意見書を出しているが、おそらく家老衆に止められて藩主にまで届いていない。やつら、ボタン一つで街一個潰す兵器相手に、刀と槍で本気で戦を仕掛けるつもりだ」
 口調は軽かったが、項垂れた大忠太の目の下には隈が出来ていた。平蔵が初めて見る彼の姿だった。
「話を聞いてくれる相手は誰もいないのか?」
「……堀田の馬鹿息子くらいだな。世襲で家老になったボンクラと思ってたが、案外慎重派らしい。上層部で出兵に渋っているのはヤツくらいだ」
「へぇ、あのボンが。……大丈夫かお前、確かあの男とは反りが合わなかっただろう?」
「馬鹿野郎。お陰様でもう三十路の半ば、ガキも一匹。いつのまにか弟子と奉公人合せて二十五人の大所帯だ。丸くもなるさ。……背負ってるもん全部無くなる日まで、頭でも何でも下げてやるよ」
「ははっ。嫌だね、歳をとるって」
「全くだ」
 男たちの小さな笑い声が響く。やがてそれも収まると、平蔵は少しだけ息を吸った。
「軍医としてついていくのは……難しいのだろうなぁ」
「もう少しで藩医になれるやつが何を世迷言を。……この地が戦場にならない様、最善を尽くす。だからお前は傷付き帰ってきた者を、出来るだけたくさん救ってやってくれ」
「……ああ……大忠太」
「なんだ」
「……この藩を、頼む」

 男たちは約束をした。

「先生! 麻酔、もう足りません!」
「輸血パック切れました!! 生食も50リットルを切ってます、先生!」
「お願いします先生、息子を、息子を助けてください……まだ十五なんです、親の言うことなんて聞かずに勝手に戦に出ちまってそれで」
「いた、い……いたいよ、助けて……」
「何でですか!! 息子はどうして治療もしてもらえないんですか!? まだこんなに温かいのにっ!!」
「不衛生な場所で弾丸を取り除いたんでしょう、感染症で、それで……」
「安全な場所にいるヤツは好きなことが言えるよな!? あそこに無菌状態の器具があったと思うか!?」
「もう安置所はいっぱいだ。遺族が引き取りに来ない遺体は外に出してくれ」
「父上!」
 泣きはしなかった。その代わり、感情は死に絶えていった。男は親友との約束を果たせなかった。ほんの少ししか救えなかったのだ。
 自分より二十も若い少年たちの血に塗れた手で、最愛の娘を抱きしめることなど平蔵にはできなかった。
「こんなところに来るんじゃない!! 帰れみやび!!」
 娘を傷付ける鋭利な暴言も、それを聞いた彼女の怯えた表情も、平蔵は一生忘れられないだろう。
 攘夷戦争終結後も、平蔵はしばし悪夢を見た。やがて不眠がちになり、藩医になったことをきっかけに町の診療所にも寄りつかなくなった。それでもたまに診る若い重症患者を目の当たりにすると、あの記憶が蘇り息が苦しくなった。自分の両手が真っ赤に染まっている幻覚を見たのだ。
 彼の異常に最初に気付いたのは、言うまでも無く彼の親友だった。
「お前が悪かったんじゃない」
「知っているさ。私は何もできなかっただけだ」
「……なぁ、平蔵」
 大忠太は平蔵の杯に並々熱燗を継ぎながら、静かに語りかける。
「ガキがな、最近面白いくらい日に日に強くなっていきやがるんだ。将来は強い侍になりたいんだと」
「……どこかの誰かさんみたいだな」
「……俺はそんなのより、しっかり勉強でもして、堅実な事務方にでもなってほしいんだがな」
「ははっ、心にも無いこと言うなよ。嬉しいくせに」
 平蔵が茶化すように笑って、杯に注がれたものを一気に飲み干した。
「……みやびも、医学が楽しいみたいだ。最近は動物の解剖まで見たがる」
「……うちのと同い年だろう? こっちは机に向かわせるのも一苦労だというのに、さすがお医者の子は違う」
「そうだな。嬉しい反面……嫁の貰い手が無くなるんじゃないかと冷や冷やしている」
「ははっ、良いじゃないか。女のお医者なんて人気者になりそうだ」
「他人事だと思って。お前には娘を持つ父親の気持ちが分からないだろうな」
「お前にも、腕白坊主を息子に持つ父親の気持ちは分かるまい」
 空になった杯を見つめた平蔵は、二つ隣の部屋で安らかな寝息を立てる娘を思って、息が苦しくなる。血まみれの診療所が、昨日のことのように蘇ってくる。
「平蔵」
「……娘に、あんな思いはさせたくない」
 そう言ってうずくまってしまった平蔵の隣で、大忠太はしばらく黙ったまま手酌で飲んでいた。
 そして持っていた徳利が空になった頃、少し深めに息を吐いて、吸う。
「友の頼みごとは、例え何十年かかったって叶える」
『……この藩を、頼む』
 平蔵がゆっくり顔を上げる。切れ長の目、その中央で輝く深緑の瞳が持つ強さは、出会った頃と変わらない。
「それに俺だって、晋助があんな目に遭う未来など認めるわけにはいかない」
「大忠太」
「そうならないように、地べた這いずりまわってでもこの藩を変える。若者が、国ではなく今日の晩飯を憂うような、そんな平和ボケした場所がこの国に一つくらいあっても良いだろう?」
 そう言って不敵に笑うその男は、三十路も半ばに差し掛かったって、悪童と呼ばれたあの頃のままなのだと平蔵は思った。
「弱腰と馬鹿にされたっていい。誰がなんと言おうと、若いヤツが笑っていられる場所が最善だ。なら俺はそこを作る。……平蔵、だからお前はそこで、娘と一緒にジジイの腰痛でも診てろ」
 平蔵の杯に、一滴二滴と塩辛い酒が零れ落ちていく。
 そして男たちは、二度目の約束をした。

 月日は流れた。男たちの子供は成長し、親から少し離れたところで自分の考えを持つようになった。男たちはたまに集まっては、飽きずに子供たちの話をした。こんなことを言われた、こんな話をした。大忠太の話にはよく愚痴が混ざる様になり、平蔵の話には深いため息が入るようになった。世相と己の思想の話をしていた若いころに比べたら、随分と俗っぽくなったと思う。けれど結局のところ、相変わらず見ている方向は同じだった。
 子供たちが笑って暮らせる場所を。ただその一心だった。
「最近よく考えるよ。私が死んだらみやびは本当にどうなってしまうのかって」
 そう言ってその日も平蔵は深いため息を吐く。
「あんな気弱で物分りの良い子じゃなかった。……私の所為だな」
「でも見合いした中では一番性格良さそうだったんだろう? 後妻殿は」
「ああ、実際自尊心の高い後家の中ではだいぶ癖のない方だよ。……でもまぁ、女同士いろいろあるのか。それとも実子可愛さか……」
「後妻殿に直接注意するんじゃダメなのか」
「……あのな大忠太、私は昼間ほとんど家にはいないんだぞ? 下手打って辛い思いするのはみやびなんだ」
「……うちのクソガキも昼間ほとんど家に居ないぞ。みやびちゃんも外で遊べばいいだろうが」
 大忠太の提案に平蔵は恨みがましそうに彼を睨みつける。
「悪かったな。うちの娘は何故か友達少ないの。あんな良い子なのに……」
「あ? そんなのうちの晋助なんか、たぶん全くいないぞ」
「……え?」
「たぶんだけどな。生傷作って帰ってくることはたまにあるから、喧嘩相手はいる」
 平蔵はその言葉に瞬きをいくつかした後、腹を抱えて大笑いし始めた。今度は大忠太が睨みつける番だった。
「何がおかしい」
「いやごめん……そんなところまで似なくても良いのにな」
「うるさい」
「じゃあもう、私たちみたいに子供同士を友達にしてしまうのはどうだ?」
「……馬鹿言え、男と女だぞ」
「それならいっそ将来の約束をさせるとか」
「はぁ!?」
「許嫁っていう大義名分があれば友達にもなりやすいだろうし」
 目を白黒させる大忠太に、平蔵はいたずらっぽく笑いかける。根はクソ真面目なこの男をからかうのが平蔵は昔から好きだった。
「お前、あれだぞ。嫌なところばかり俺に似てるぞ。母親似なのはツラくらいで」
「そうだろうね。あの綺麗な顔にあばたが残らなくて本当に良かったよ」
「その節は……」
「ふふっ、そうだ。そう言えば、高杉さん家の小さなお侍にこう言われてるんだった」
 平蔵は、その数日前治療した少年の言葉を思い出す。小さな体に子供っぽい顔、それを精いっぱい大きく大人っぽく見せようとする彼は、誰かによく似た不敵な笑みを浮かべこう言っていた。
『この借りはいつか必ず返すぜ、井上先生』
 本当に、不器用なところばかりが親友にそっくりだった。
「あの子は、強くなるだろうなぁ」
「どうだかな。喧嘩ばかりで最近は稽古にも顔を出さん。……来年から講武館に入門させるが、どうなるか」
「なるさ。……強くて不器用で、約束だけは守る優しい男に」
 この数カ月後、男たちの子供同士が許嫁として将来を約束した。
 平蔵はどこかで予感していたのだ。そう遠くない未来、危惧した事態が起こると。


 こんなに早く起こるとは、思わなかったが。
「上平様!!」
「おお、平蔵か……よく来たな」
「上平様、これは一体どういうことですか!? 子供を巻き込んで、何が攘夷ですか、何が天誅ですか!? 私の親友の息子が死にかけたんですよ!?」
 顔を隠していた布を剥いでそう詰め寄る平蔵。彼が飛び込んだ部屋で、家老の上平は格子が嵌った窓から月を眺めていた。
「……平蔵。お前も知っての通り、これまで私は家老として幕府恭順派の仮面を被り、陰では倒幕派として攘夷浪士たちのブレーキ役を担ってきた」
「……存じております。上平様のご尽力が無ければ、攘夷戦争後この藩は内戦に突入していたでしょう。貴方様が生き残りたちを匿い、抑え続けていたお陰です。……だからこそ、今回の件は納得がいかない! 貴方なら止められたはずだ!」
「……買い被り過ぎだ」
 諦観に塗れた、初老の男の言葉がその部屋に寂しく響いた。平蔵は片膝をつきながら眼を見開く。
「お前と大忠太が語った平和への道筋。温かな夢だったよ。私とて息子がいる。遺すものはやはり血に濡れた武器や思想なんかよりも、この国一治安の良い町の一等地と豪邸がいいに決まっている。……けどな平蔵」
 男が振り向く。寂しげな自嘲を浮かべていた。
「生き残りたちはまだ、冷たい夢の中で戦っている。私だけ途中で放り出すわけにはいかん」
「……その夢の中から、救ってやることはできないのですか」
「そのためには、同じ絶望を味わわなければならない。敗戦の絶望は、そこに身を置いていた者にしか語れんのだ」
「だから……一緒に沈むと言うのですか。貴方の目的は」
 平蔵が叫ぶ。男は目を細める。
「生き残りたちの死に場所を作ってやることだ」


「上平が擁する攘夷派たちはもう止められん。やつらは捨て身だ。一斉蜂起などされたら萩の町が火の海になりかねん」
 家老堀田の、抑揚のない冷たい声が室内に響く。
 彼へ深々と頭を下げる平蔵の前には、白い粉が入った茶色い小瓶が置いてあった。それが何なのかは、平蔵には当然分かっていた。
「……一般市民を巻き込まないためだ、分かってくれるな」
「他に、他に方法は無いのですか!?」
 月明かりと行燈のみが光源のその部屋で、声を荒げたのは同席していた大忠太だった。
「堀田様、頼む……頼むから、他の方法を一緒に探してください……頼む……」
 そう言って畳に額を押し付ける大忠太。普段は意地の悪い笑みばかりを浮かべている堀田も、その時ばかりは妙に大人しい顔で淡々と事実を述べることしかしなかった。
「定々のタヌキ爺は、今でも攘夷戦争の主犯格だったこの藩を執拗に見張っている。上平に腹でも切らせようものなら、その理由を徹底的に洗うだろう。そして攘夷派との繋がりを見つけられたら今度こそこの藩は終わりだ。藩の中心に攘夷派が居たとなれば、それを理由に藩政に干渉してくるのは目に見えている」
 まだ顔を上げない大忠太に、堀田はしばらく黙った後にため息を落とす。
「仮にお前が上平を斬って、そのあたりの攘夷浪士に罪を擦り付けても同じだ。この藩は表向きでは、幕府恭順派として藩全体が一枚岩だということになっている。そういう名目で、首の皮一枚繋がっている。藩の重鎮が暗殺されるほど攘夷派が勢いづいていると知られれば、その鎮静化を名目に派兵してくるぞあの男は」
「ならせめて……俺が下手人に」
「大忠太」
 頭を下げ続ける彼の肩に、手がそっと乗る。
「もう一度、条件の確認をさせてください」
「……いいだろう」
 平蔵が真っ直ぐ堀田を見据える。
「一つ。後ろ盾を失った攘夷派を秘密裏に一網打尽にする際、彼らにけして無体はせず、人間としての尊厳を護ること」
「ああ」
「一つ。私は表向き獄中で打ち首という処罰を受けるが、実際は処刑日に藩を抜ける。井上平蔵の名は捨てて、全くの別人として二度とここへは近づかないこと」
「ああ」
「一つ。このことは他言無用、決して誰にも明かさないこと」
「ああ」
「一つ。井上本家は取り潰しとなるが、分家の石高は削らないこと」
「ああ」
「一つ。妻の佐栄にはそれ相応の再婚相手を用意すること」
「ああ」
「一つ。娘のみやびを五年間の行儀見習いの後、堀田家の養女にすること。そしてさらにその後は、高杉家へ嫁がせること」
「……平蔵」
 最後の条件で、堀田は彼の名を呼ぶ。
「本当に良いんだな? 娘をここへ置いていっても」
「……ええ。娘を、くれぐれもよろしく頼みますよ」
 平蔵が低い声でそう告げ、堀田を見据えていた。その隣にいた大忠太が拳を握り、鋭い眼光を堀田へ向けている。
 堀田はその二人の鬼気迫る面持ちに少し顔を引きつらせた。
「わ、わかった……お前がそう言うなら、ちゃんと面倒は見る」
 堀田のその言葉に、平蔵は深々と頭を下げた。
「では私も……謹んで、鬼にも蛇にもなりましょう」
 そして、その小瓶を懐へ入れて立ち上がる。
「平蔵……っ」
「大忠太」
 平蔵はこれから医学館へ戻り、その猛毒を機械で薬包紙に包んで、あの心優しい一家に何食わぬ顔で差し出さなければならなかった。おそらく、彼と顔を合わせるのはこれが最後だった。
「……この藩と、あの子たちの未来を……頼む」
 平蔵は笑う。少しも悲観などしていなかった。井上平蔵がこの世から消えても、井上平蔵の英雄も、切り札も、最愛も、夢見た将来も、全てがまだそこに残っていた。怖くなど無かった。

 こうして、男たちは三度目の約束をした。


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