大忠太の倅
 白米とみそ汁と漬物という質素を極めた朝食を胃袋に収めながら、三人はようやく今後のことについて話し合うだけの体力を取り戻した。口に出さなかったが正直高杉も、夜中にみやびが言ったように平蔵の打ち首はもう止められないかもしれないと思い始めていた。だが処刑される瞬間まで諦めるわけにはいかない。みやびを焚き付けた自分が諦めるわけにはいかないのだ。
「井上先生が殺めてないのは分かった。なら逆に、上平家老を殺したいと思っていた人間は誰だと思う?」
 高杉が箸の先を桂に向ける。彼はきゅうりの漬物をボリボリと咀嚼して呑み込んでから口を開く。
「そんなもの掃いて捨てるほどいるだろう。攘夷浪士、藩の政敵、お家騒動で淘汰された上平分家という線も考えられる」
「その中で、常備薬を毒薬にすり替えて殺すという考えが浮かびそうなヤツは?」
「さあな、家老の近辺を張っていたら誰でも思いつきそうだが」
「そうでもないかもしれない」
 箸を持つ手を止めながら、ぽつりとみやびが呟いた。
「上平様は用心深い人だったから、薬を日常的に服用しているということも限られた人間以外にはバラしてなかったって。父上もいつも日が落ちてから、顔を隠して往診に行ってたみたい」
 そう告げてみやびはみそ汁を飲み干す。高杉は梅干を箸で割りながら自身も考えを述べた。
「そもそも、攘夷浪士の線はありえねェ」
「その根拠は?」
 今度は口に含んだ白米を呑みこみ終える前に、桂がそう問いかけてきた。
「幕府恭順派のドンと名高い家老上平だぞ。そんなデカい首挙げたら、天誅だ何だと騒ぎたくなるのがヤツらだ。つまり下手人は、自分が殺したと知られたくない者。護る地位か、得たい地位が上平側にある人間だ」
 すなわち、政敵か身内の犯行。
「あとね、私も思っていたことがあるのだけど」
 鋭い眼光を虚空へ向ける高杉へ、おずおずと手を上げるみやび。彼が視線を向けると、纏まりきらない考えを懸命に纏めようと言葉を選ぶように口を開く。
「私は義兄上のことをよく知っているわけではないけれど、少なくとも父上の仕事のことをペラペラと身元の分からない人に話すお喋りじゃなかったと思うの。まして、最近自分が仕事を手伝い始めたとか、往診に付いて行って薬に触れる機会があるとか、よく知らない人に話すと思う?」
 みやびの問い掛けに二人が俯く。二人は仲こそ良くは無かったが、弥七の同門でもあった。確かに二人が覚えている彼もそこまで馬鹿な男ではない。
「仮に井上先生が家老の主治医であり、弥七がその手伝いをしていると誰かが知って脅してきたとしても、自分に薬を触る権限はないとかいくらでも言い訳できるだろうしな」
「……怪しい者で無かったとしたら」
 ふと、思い立ったことをそのまま口にするような様子で、桂が呟く。
「は?」
「弥七にとっては怪しくもなんともない者に、何かの拍子でその話をしてしまって……それから下手人が今回の暗殺計画を企てたのだとしたら」
 自分の発した言葉に、二人が固まったのを察したのだろう。桂は慌てて両手を振り「可能性の話だ!」と告げる。
 そう、もしそうだとすれば犯人はかなり限定されてくる。高杉は綺麗になった茶碗の上に箸をそろえた。
「なぁ、あいつ……下剤だって言われて毒薬握らされたんだよな?」
「ああ、そう言ってたな」
「桂。お前例えば知り合い程度の人間に『風邪薬だ』って言われて貰った粉、無条件で信じて風邪気味の俺やみやびに渡そうと思うか?」
「は? 渡すわけないだろう、そんな得体の知れない……」
 桂は最後まで言葉を紡ぐことなく、目を皿のように見開いて口を閉ざしてしまった。つまり高杉はこう言いたかった。
 弥七に毒を握らせた人間と弥七の間には、得体の知れない粉をただの下剤だと信じ込ませる程度の信頼関係が存在していた。
「義兄上って、誰と仲が良かったのかな」
 みやびがポツリと漏らす。彼女と義兄の仲はお世辞にも良いものではなかったと高杉は記憶している。彼女が知らないのも無理はなかった。
 ただ、同門の高杉の脳裏にはある一つの集団が、明確な答えとして浮かび上がっていた。桂も同じ結論に至っているだろう。井上弥七はいつも米つきバッタのように、その集団の中心人物に媚びへつらっていた。何をするにも一緒だった。
「堀田だ」
「え?」
 みやびが聞き返す。
「上平様と同じ家老、堀田様のご子息だ。俺たちと同門で、講武館で何人もの子分を引き連れてふんぞり返っている。弥七もその一人だった」
「……つまり」
 みやびが喉の奥から絞り出したような、引きつった声を上げる。
「お前の奉公先の息子だ」
 カランカランと、固く軽いものが落ちた音が響く。みやびが箸を落とした音だった。
「今のこの藩の家老は全部で五人。その中でも政の中心は上平と堀田と言って過言じゃなかった。表向きは仲良くやってたはずだが、もしそれが表面上のものだったら」
「待て、決めつけは良くない。そもそも堀田兄にだって人を殺す覚悟などあるものか。まして相手は藩の重鎮だぞ」
「どうだかな。上平家は息子も殺されてるんだろう? アイツが家督を継いだら、その息子が政敵になってた可能性もある。それに弥七の口ぶりを思い出してみると、堀田兄の無茶振りに付き合ったら大変なことになったって経緯の方が自然だ。大方いつものイジりの延長で毒握らせたんだろう。度胸試しとか何とか言って。そりゃあ弥七もさぞビックリしただろうな」
「落ち着け、よく考えろ。堀田兄とてまだ歳は十四のはずだ。そんな子供に易々と人を殺すような毒薬が手に入れられると思うか?」
「なら」
 高杉が桂を睨む。
「家老の堀田自身が息子を使って、弥七にそう仕向けさせたとしたら」
「口を慎め! 俺たちが想像していい範疇を超えているぞ!!」
 元から堀田家に対しては良い印象が無い高杉と、憶測で物を言うべきではないと考える桂の意見がぶつかり合う。みやびはその間、落した箸を拾うことも無くただただ俯いていた。
 埒が明かない。みやびの様子に気付き、話を進めようとしたのは桂の方だった。
「分かった。それなら堀田兄の子分に一人ずつ聞いていこう。あの男の性分だと悪巧みをするという時に全くの二人きりだったとは考えにくい」
「デカい悪巧みだからこそ二人きりだった可能性もあるけどな」
「……まだ処刑まで二十四時間以上ある。焦る時間では無い」
 別の犯人の線も消えていない。四六時中一緒にいたあの集団の誰かなら、最近弥七が接触していた人間が居たかも分かるかもしれない。そう結論を出して、桂は食器を片づけだした。
 みやびも桂を手伝おうと自分の分の食器を纏めたが、それを持ちあげようとして手を止める。そしておもむろに口を開いた。
「私、一度堀田家に戻ってもいいかな?」
 その言葉に高杉は彼女を凝視する。だが俯いた彼女の表情はよく見えなかった。
「構わないが……どうかしたのか?」
「うん……実は昨日、堀田家の人には内緒で抜け出して来てたの」
「!? だ、大丈夫なのかそれは!?」
 みやびのその発言に、桂は面食らって思わず中腰になる。彼女はたぶん大丈夫と告げて桂家に掛かる時計に目をやった。
「私が住むように言われてるのは誰も使ってない離れだし、いつも夜の間は誰も来ないからバレないと思って。でもそろそろ戻って奥方様の朝の支度の手伝いしないと」
 そう言って立ち上がろうとしたみやびの手を、高杉が掴んだ。ようやく目が合った彼女は少し驚いた後、柔らかく笑う。何故か高杉は胸騒ぎを覚えていた。
「大丈夫だよ。本当に一度戻るだけだから」
「最後まで一緒にいるんじゃなかったのか」
 高杉の言葉に、みやびは目を逸らして彼の手を掴まれている方とは逆の手でそっと外した。高杉も特に抵抗はせずに、彼女を解放する。
「じゃあ、今夜もお泊り会だね」
 用事が済んだら合流する。そう言って笑った彼女は、そのまま玄関口へと向かった。高杉はそんな彼女の背を見つめることしかできない。
「井上。では正午に神社で待ち合わせだ」
「うん。じゃあまた」
 桂の言葉に、彼女は振り返らず了解の意を示した。彼女の開けた戸から、夏の朝日が降り注ぐ。時刻は六時、既に日は昇りきっていた。
 みやびを見送った後、高杉がみやびを掴んだ手をじっと見つめていると、頭に軽い衝撃が走る。見上げると桂が手刀を翳して立っていた。
「朝からごちそうさまだな」
「何の話だ」
「昼夜問わず人前でイチャつくのを止めろと言っている」
「なっ……!」
 高杉は昨日の夜の抱擁を思い出す。顔が赤くなっていくのを感じながら、誤魔化すために急いで声を荒げた。
「テメッ、起きてやがったな!?」
「同じ布団でおっぱじめたら貴様を蹴り出してやるところだった」
「おっぱじめるって何をだ!」
「不純異性交遊に決まっておろう」
「死ねムッツリがり勉!!」
 朝の長屋通りに元気な少年たちの声が響き渡る。扉に凭れ掛かってその声を聞いている少女の存在に、彼らが気付くことは無かった。

 みやびが長屋を出てしばらくした頃に、二人も行動を開始した。たまたま講武館の講義が休みの日であったため、それぞれの家や溜まり場を当たって少人数ずつ聞き込みを行うことができたのは幸運だった。
 しかし、誰に聞いても。
「毒薬? 下剤? 何のことだ」
 何を聞いても。
「やっ、止めろ!! 弥七と付き合いのあったやつなんて知らねぇよ!」
 返ってくる答えは同じだった。
 最初のうちはきつい口調の尋問に近いものが、人数を重ねるうちに高杉の手が出る頻度が増えていった。だがどれだけ叩いても埃は出ない。彼らを一人ずつ確保して質問していくのに、最初に痺れを切らしたのはやはり高杉だった。
「埒が明かねェ。やっぱり堀田邸に直接乗り込むぞ」
「待てと言っている! とりあえず井上と合流してからだ。昼飯を食いながら考えよう」
 十人近い子分たちを一人一人シメているうちに、気付けば昼前になっていた。彼らは待ち合わせ場所の神社に向かった。
 だが、待てど暮らせどみやびは来ない。約束の時刻から三十分が経過し、さすがの二人も動揺が隠せなくなってきた。高杉は、朝の嫌な予感が当たったと唇を噛みしめる。
「堀田邸に行くぞ」
 そう言って立ち上がった高杉の目に、人影が映った。石段を誰かが登ってきたのだ。
 みやびかと思い目を凝らしたが、その影は一人ではなかった。
「あの泥棒猫なら、今ウチで兄上が相手してるよ」
 顔にいくつかの青痣を作っている少年たちは、先ほど高杉が拳をぶち込んだ相手だ。そしてその中心で竹刀を担いでいたのは、彼らと同い年の堀田家次男。
 兄にそっくりの目つきの悪い三白眼を細め、堀田弟は笑いながらこう言った。
「喜べ下級武士風情が。家老の邸宅に招待してやるよ」
 神社から歩いて三十分ほど、萩城からほど近い大通りに面した一角に、家老堀田家の邸宅があった。顔を腫らした子分と堀田弟に囲まれてその邸宅内に連行された二人は、そのまま母屋の一部屋に通される。天人が持ち込んだテレビやそれに繋がれたゲーム機器、エアコンと呼ばれる室温調節機や音楽を聴ける再生機など、貧しい桂どころか高杉でさえ見たことも無い高価な電子機器が揃ったその部屋で、唯一彼らの見覚えのあるものがあった。
「みやびっ!!」
「井上!」
 二人が同時に叫ぶ。部屋の最奥で、みやびは手を縛られ口に猿ぐつわを噛まされて転がされていた。その背後には意地汚い笑みを浮かべた堀田兄が、二十センチ大の細い棒をみやびの頬へ押し付けている。
「テメェ、堀田!!」
「まァ落ち着け高杉。とりあえず座れよ。俺はお前たちと話がしたくてここへ呼んだんだ」
「テメェの指図なんぞ誰が受けるか、みやびを放せ!」
 そう吠える高杉に目を細めると、堀田兄は何の戸惑いも無く棒を振りかざした。
「んんっ……!!」
 細い棒がしなる。乾いた音を立てて、みやびの白い頬に赤い痕を残した。高杉と桂の表情が歪む。
「す、わ、れ」
 奥歯を噛みしめた高杉は、そう憎たらしく命じる堀田兄を今にも食い殺しそうな目で睨みつけ、渋々と言った様子で胡坐をかいた。桂はいつでも立てる様にと片膝を立てて座る。
「ここへ呼んだ理由は他でもない。お前ら、どうもこの堀田家の近辺を探っているらしいな」
「それがどうした。探られるようなことをしているのはテメェらだろ」
「高杉!」
 下手な事を言うな、状況を見ろ。そう言わんばかりの叱咤の声が飛んできて、彼は口を噤む。だが堀田兄はさして気にしていないようだった。
「実は先ほど、俺の部屋に泥棒が入った。まァ、この女のことなんだが」
 そう言って楽しそうにみやびの頬に棒を押し付ける堀田兄。その言葉に高杉と桂はみやびを凝視した。何を思ってそんな無謀な行動に彼女が出てしまったのか、そんな戸惑いからだった。彼女は悔しそうに顔を歪め、そして眼を閉じる。
「俺の留守の間に部屋中を引っ掻き回しているものだから、とっ捕まえてふん縛ってみたら、この女、俺が殺人鬼だと言わんばかりのことを叫び始めるじゃあないか。丁度その時、こいつらがお前らにやられたって駆け込んできたから、詳しく話を聞いてみたら案の定。女と言ってることが被ってやがる」
 堀田兄はさらに笑みを深くして、芝居がかった口調で話を続ける。
「可哀想になァ。下級武士の小倅に、没落武家の貧乏人、そしてお家が取り潰された罪人の娘。お前ら程度の人間がこの二日間駆け回って集めた情報なんて、所詮は全部骨折り損の草臥れ儲けってやつよ!」
「何だと?」
 高杉がざらついた声で聞き返す。そして堀田兄は、心底楽しそうにこう告げた。
「俺は知っているぜ。この事件の全貌ってヤツをな」
 そう言って腹を抱えて笑う彼を、高杉は殴り倒したい衝動を懸命に抑えながら睨みつけた。
「そりゃあ知っているだろうな。なんたってお前が犯人なんだろう?」
「おめでたい頭だな。もしもそうなら、いくら俺とてこんなところで笑ってなんか居られんよ」
「ならテメェの親父か。政敵潰すために関係ない一般人巻き込むたァ、武士としての器が知れるね」
「はっ! ……貴様のようなろくでなしに、父上が見据える藩の未来が理解できるはずもないな」
 そう言い放つ堀田兄の顔を見て、一瞬高杉は目を疑う。彼は父のことを口にしたその瞬間だけ、どこか遠い目をして何かを憂うような表情を見せたのだ。
 高杉がその姿に毒気を抜かれ二の句が継げずにいると、堀田兄は突然立ち上がってみやびを跨いだ。そしてそのまま高杉達の方へと歩いてくる。
「金輪際、この堀田家のことや上平一家暗殺について嗅ぎまわるな。目障りだ」
「その態度が、事件とテメェらが無関係ではないと証明してんだよ馬鹿が」
 冷たい目で見下ろしてくる堀田兄。高杉が上目遣いで睨みそう口答えすると、先ほどまでの愁いの表情などはまるで感じさせぬ意地の悪い笑みで、彼は決定的な言葉を告げる。
「下手人は井上平蔵だ。お前らがどれだけ喚こうと、その事実は決して変わらん。あの男はれっきとした人殺しだ!!」
 彼が高らかにそう宣言するや否や、その体は斜め右に吹っ飛んだ。
 高杉と桂は我が目を疑う。手を縛られた状態で堀田兄に捨て身の体当たりを繰り出したのは、自分たちより小柄で喧嘩とも無縁な少女だった。
「な、なにをするこのアマ!!」
 高杉達を囲むように座っていた子分たちが、慌てて竹刀を掴んで立ち上がる。堀田兄を巻き込んで派手に転倒したみやびを庇うべく、高杉と桂は考えるよりも先に彼らへ蹴りを叩き込んだ。
 桂が子分の一人から竹刀を奪い取り、襲いかかってくる者を食い止める。その間に高杉は倒れ込んだみやびを抱き起して手を縛っている縄をほどいてやった。途中起き上がってきた堀田兄の鳩尾に肘打ちを叩き込むのも忘れない。
「大丈夫か、みやび」
「ご、ごめ……私……」
 ほとんど無意識のうちに衝動的に行動していたらしい。みやび自身が自分の体当たりに一番動揺していた。そんな彼女を安心させるためにも、高杉は不敵に笑う。
「いいや、よくやった。お前がやらなきゃ俺がやってたさ」
「イチャつくのは後にしろ高杉! 手伝え!!」
 転がっている誰かの竹刀を桂が高杉へと蹴り上げる。彼はそれを右手でしっかり受け止めると、音を立てて空気を薙ぐ。
「下がってろ」
 そう言って、彼は乱戦の中に意気揚々と飛び込んでいく。
 間違いない、子分はともかく堀田兄は確実に何かを知っている。探し求めていた相手を見つけた喜びと、派手な喧嘩を前に彼はこれ以上なく高揚していた。もう少しで何かが変わる。この戦いに勝てば、護るための糸口が見つかる。
 悪童はその口元に弧を描き、竹刀を振るった。

 次の瞬間、その後頭部に激しい衝撃が襲うまで。
「えっ……」
 脳が揺れる。視界が霞む。
「やってくれたな、大忠太の倅」
 膝から崩れ落ち、世界が暗転する前に見たものは。木刀を持った見知らぬ侍たちと、何かを叫んでいる井上みやびだった。


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