最後まで一緒に
 悲惨な心中現場を幼い三人以外の人間が発見した頃には、血の表面が乾き日も傾き始めた頃だった。彼らがその場でどのくらいの間、物言わず項垂れていたかは分からない。明るい場所で初めて目にする鮮血、女子供の血に沈む死体に高杉と桂は何度か胃の中にあるものを戻しもした。
 意外なことにみやびが泣きも吐きもしなかったことに彼らが気付いたのは、奉行所の役人たちが駆けつけ事情聴取も何もかもが終わり、堀田家の女中と高杉家の奉公人が二人を迎えに来るのを奉行所の玄関前で待っている時だった。
「……動物の解剖とかをよく父上に見せてもらったことがあったし、父上が町医者だった頃に診療所にはよく顔を出してたから……余程酷いのじゃなきゃ血とか、肉片とかは平気かな」
 奉行所で家の者の到着を待つ高杉が問いかけると、みやびは母の形見である三味線を抱きしめるようにして、浮かない表情で俯きながらそう答える。
「けど……四年前のこと思い出しちゃって、ちょっと気分は悪いかも……」
「四年前?」
 その単語に反応したのは桂だった。夕日が沈んでしばらく経つ紺色の空の下で、家族のいない桂はすぐに帰宅する気にはなれず、別れを切り出せずに二人と共にまだ奉行所内にいた。
「攘夷戦争の敗残兵を診療所で保護して、父上は一週間ほとんど不眠不休で彼らの治療に当たっていたの。だから彼らが藩へ帰ってきて三日目に、着替えを持って女中さんと一緒に診療所へ行ったんだけど」
 そこまで言って、みやびは壁を伝ってしゃがみ込む。そして地面をジッと見据えながら、言葉を選ぶようにゆっくり続ける。
「今の義兄上くらいの歳の子が、血塗れで何人も診療所の裏に転がってた。筵も掛けられてなかった。診療所の中も、包帯から血を滲ませてぐったりしてる十代の子が溢れかえっていて、父上が怖いくらい無表情で治療に当たっていたの。淡々と、まるで何かの単純作業をこなすみたいに」
 攘夷戦争は侍たちの一斉蜂起から端を発した国を二分する戦と言われているが、その実態は現将軍徳川定々が強行した世紀の大弾圧だった。挙兵した反乱軍のおよそ七割が討ち死にし、二割が捕虜となり処刑されたとも言われている。長州兵の数少ない生き残りの多くが当時十代だった若者で、大人たちが盾になり逃げ延びることができた彼らもまた、故郷で死に絶える者が多かった。
 高杉とて憶えている。戦争勃発前、毎晩寝ずに戦争回避の意見書を認めていた父の姿を。長州兵たちの敗北を見越していた一部の重鎮たちと、幕府に藩が取り潰されないよう方々に根回しをするため奔走する父の姿を。
 当時の幼かった高杉は、そんな父を見て仕事が大変そうだという感想しか抱かなかった。だが今は違う。あの頃、父はちゃんと侍らしかった。高杉が不気味さを覚える歪な武士道ではない。大切なものを護る為に命を懸ける、強い侍だったと思う。
「でも父上、私を見た瞬間顔が凍りついたの。それで、怒鳴られた。こんなところに来るんじゃないって。……父上に怒鳴られたのは、後にも先にもその時だけ」
 三味線の長袋に顔を埋めるみやびを見下ろして、高杉も今まで忘れていたもう一つの父の珍しい姿をふと思い出す。
 母の仏壇の前に座りこみ、いつも真っ直ぐ伸びているはずの背筋を曲げて項垂れていた姿。攘夷戦争終結直後のとある夜だった。白檀の匂い立ち込める仏間で、若く美しい妻の遺影を前にして父はこれ以上なく落ち込んでいた。後にも先にも、彼の弱った姿を見たのはその時だけだった。妻の葬式の時でも涙一つ流さなかった男だというのに。
「……父上は、救えなかった命を全部背負い込むほど神経質でもなかったけど、それでも若い患者が亡くなると落ち込んでた。四年前から一層ひどくなったと思う。……父上が今回のことを知ったら、きっとすごく悲しむ」
 それが辛かった。みやびはそこまで言って言葉を区切る。
 開かれた奉行所の門越しに見える、人々の往来を三人で眺めていた。それぞれの家へ帰る時間が迫っていたが、三人の気はひどく重かった。みやびはそもそも帰る場所が自分の家ではなく、桂は家に誰もいない。そして高杉は家もあり家族もいるが、今の状態で大忠太と顔を合わせたくはなかった。
「……その、もし良ければ、なのだが」
 口火を切ったのは桂だった。
「今夜はうちで泊まって、今後のことを話さないか? 井上先生のことを」
 高杉とみやびが顔を上げて桂を見る。言った本人はそっぽを向いていた。みやびの顔がやがてこちらを向いたことに高杉が気付くと、彼女と目を合わせてからどちらともなく口を開く。

 それから高杉とみやびは一旦各々の家へ帰り、着替えや身支度をして再度家を出た。
 自身は知人の家に泊まると言って無理やり奉公人たちを黙らせ出てきたが、みやびは一体どうするつもりなのだろう。桂の家へ向かう途中、そんな疑念で高杉の頭はいっぱいになる。行儀見習いの身分で外泊など、どれだけ彼女の立場が悪くなるか。
「晋助くん!」
 それでも、待ち合わせ場所の商店街の入り口で待っていたみやびに、帰れとは言えなかった。何より自身が心細かった。
 桂の自宅は六畳二間の小さな長屋だった。玄関から入ってすぐに台所と小さなちゃぶ台が置かれた板間、厠の扉がある。襖で区切られた奥の部屋は畳敷きで、仏壇には位牌が三つ置かれていた。
 二人を招き入れた桂は、そのまま台所へと進んでいく。どうやら料理の途中だったらしい。適当に寛いでおいてくれとは言われたが、高杉はみやびと目を合わせてなんとなくその背中を追う。
 彼の料理の手際に、高杉は思わず目を見開き、みやびは感嘆の声を上げた。桂は高く結った黒髪をパタパタと揺らしながら狭い台所を忙しなく動く。そして八百屋に安く譲ってもらったという形の悪い人参やごぼうであっという間にきんぴらごぼうを作り、その片手間で隣家に分けてもらったという小松菜と木綿豆腐を醤油でさっと炒める。途中で何か手伝うと申し出たみやびが彼の隣でみそ汁と格闘し始め、慎重に味見をしながらダシと味噌の分量を調節する彼女に桂が苦笑して色々教えていた。武士が厨房に立つものではないと幼いころから教わってきた高杉は、ちゃぶ台に頬杖を付きながら二人の背中をジッと見つめていた。
 これからどうしようか。笑顔が戻り始めているみやびを眺めながら、彼はそんなことを考える。
 証人は物言えぬ状態になってしまった。ガキ三人がどう喚こうが大人たちが相手にしてくれるわけがない。現に佐栄と弥七の自害について事情聴取された時にも、子供の勘違いということで軽く流されてしまった。井上平蔵の無罪を証明するには、もう弥七に毒薬を握らせた張本人たちを探し出す他無い。
 弥七は頑なに脅してきた相手の名を言おうとしなかった。言ったら殺すと言われたのか。
「美味しい! このきんぴらごぼうすっごく美味しいよ桂くん」
「気に入ってもらえたなら良かった」
 丸いちゃぶ台を三人で囲む。二人が運んできた料理に口を付けると、高杉の口内に大雑把で素朴な味が染み渡る。最近では料理番の作る料理しか口にしてない高杉にとって、その味はどこか妙な懐かしさを感じた。
 みやびの褒め言葉を満更ではない顔で受け止める桂を見ながら、高杉は黙って咀嚼する。上平家老一家の黒幕について意見を聞いてみたかったが、木綿豆腐や小松菜と一緒に飲み込んだ。次にやるべきことを考えなければならないのは重々わかっていたが、どうにも頭が上手く動いてくれなかった。
 どうも自分は、あの母子の死で相当体力を持っていかれたらしい。彼がそう気付いたのは、食事を食べ終え眠気に襲われた時だった。
「晋助くん、眠いの?」
 桂と共に洗い物を終えたみやびが、手ぬぐいで手を拭きながらそう問いかける。襖に凭れ掛かった高杉は霞む視界で彼女の姿を捉えながら、こくりと一度頷いた。
「そんなところで寝るなよ。今布団敷いてやるから」
「けど……話し、あい……」
「明日の朝でもいいだろう。そんなうつらうつらで何が話せるというのだ」
 高杉はそれでも懸命に意識を繋ぎ止めようとしていたが、もう桂の声もかなり遠くに聞こえていた。
「井上はどうする? 今更だが、本当に泊まっていっても良いのか?」
「……うん。桂くんさえ良ければ、私も泊めてもらえないかな?」
「……俺は、構わないが」
 辛うじて聞き取れた会話に、高杉は顔を上げる。目を凝らすと、困ったようなみやびの顔が見えた。
「布団、敷くの手伝うよ」
「あ」
 あからさまに話を逸らしたみやびに、桂が気まずそうな声を上げる。
「布団、一組しかない」
「なんだ、そんなこと。桂くんの布団なんだから、桂くんが使えばいいよ」
「馬鹿を言え、女を差し置いて自分だけ布団の上で寝られるか。お前が使え」
「……布団、大人用のやつ? だったら」
 みやびの提案を最初桂は相当渋った。だが高杉の眠気が限界だったこともあり、最終的には桂が折れる形で三人は川の字になって眠ることになった。
 大人用の布団を横にして子供三人が寝転がる。当然足先が出ていたので、そこには先ほどまで彼らが座っていた座布団を敷いた。掛け布団からも足が出たが、季節はもうすぐ文月だ。蒸し暑い梅雨の夜にはそれくらいが丁度良かった。
 明かりのない狭い一室で、三人の子供の寝息が聞こえる。高杉はもう瞼を開ける力すら残ってなかったが、それでも不思議と聴覚だけはまだ寝ていなかった。枕と布団が違う所為で熟睡できていないのかもしれない。しばらくすると雨が屋根を打つ音が聞こえてくる。隣のみやびが寝返りを打つ音、そのまた隣の桂が唸る声を聴きながら、高杉は短い夢をいくつか見た。
 物心がつくかつかないかといった頃の、臥せっていた母に寄り添う夢。初めて竹刀を握り、父に剣術を教えてもらった時の夢。難病に掛かり死を覚悟した自分を、励ましながら献身的に治療をしてくれた井上医師の夢。
「ねぇ、晋助くん」
 雨音に掻き消されそうな小さな呼びかけに、不思議と意識がはっきりしてすんなり瞼が開いた。すぐ目の前に、眠たそうな眼があった。
「私ね、実はまだちょっと、怖いの」
 彼女の意識がはっきりしているのかは分からなかったが、高杉は返事はせずにただ黙って聞いていた。
「これで良かったのか、迷ってる自分がいて」
 雨音とみやびの囁きに混じり、桂が寝返りを打つ音が聞こえる。
「でも、義兄上と義母上の最期を見て、もう引き返せないんだって分かっちゃって……」
 潤んだ漆黒の瞳に、月明かりを映した雫が浮かぶ。
「もう、遅いのかもしれない。戦っても……戦い抜いても、もう何も変えられないかもしれない……変えられたとしても、もっと悪いことになってしまうかもしれないって」
 そう呟く彼女の声は、震えていた。
「そんなことを考えると……怖い」
「……そう、だよな」
 高杉は自分が思っていたよりも間延びした、眠たそうな声を出してしまう。けれどそれを気にする素振りは無く、みやびは目をゆっくりと見開いていった。その表情から眠気が消えていく。
「……怖いに、決まってる。お前が今飛び込んでるのは、お前の本当の望みを勝ち取るための戦いだ。……俺が、そこにお前を担ぎ上げちまった」
 みやびとは対照的に、高杉はゆっくりと瞳を閉じていく。
「俺の知ってるヤツにさ……逃げ癖が付いちまった情けないヤツが居るんだ。誰にも理解されるはずがない、って目に映るもの全部を殴り飛ばして逃げてたら、本当は何と戦いたかったのか分からなくなっちまった馬鹿なヤツでな」
 みやびは、寝物語を聴かせるような優しい声を目を細めて聞いていた。
「……みやびに、そいつみたいになってほしくないんだ」
 そう言って、彼は目を開いてみやびを見つめた。彼女も、高杉を見つめ返していた。
「つまりこの戦いは、俺のわがままでもあるんだ。……だから、抱え込むなよ。お前が勝ったって負けたって、最後まで一緒に戦ってやるから」
 そう言って高杉は、涙を零す少女を腕の中に閉じ込めた。
 高杉とて怖かった。
 全てを諦めて周りに言われるがまま生きようとしていた彼女を、高杉が焚き付けた。少女が懸命に忘れようとしていた心を取り戻させてしまった。
 必ず助けると約束もできないくせに、その行為は自身の傲慢だったのではなかろうか。彼は声を押し殺して泣くみやびを力いっぱい抱きしめながら、そんなことを思った。
 忘れさせてやった方が、諦めさせてやった方が、彼女はもう苦しまなかったのではないだろうか。そんなことを考えると、朝を迎えるのが怖かった。
「お願い……最後まで、ずっと一緒にいて……」
 そう懇願するみやびの髪に口元を埋める。それはある梅雨の日の草木も眠る丑三つ時。とある医者の処刑まであと三十時間を切っていた。


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