武家
 天人の手によって無理やり開国が成されてから数年が経過したが、いまだこの日本という国には士農工商という身分階級が存在する。武士はいわゆる特権階級ではあったが、貧乏な武士というものは幕府が開かれる以前から確かに一定数はいたし、その逆もあった。
 金を持て余している農民や町民たちが金より欲するもの、それは地位だ。町民が功績を認められて武士と同じ恩恵を受けられる特例ももちろんある。医者などはその典型だ。町医者から藩医に取り立てられれば帯刀も許された。しかしそれはいわゆる何千何万人に一人の大出世であり、普通の庶民が夢見るには些か規模がでかい夢だ。
 金持ちの庶民たちの中では、自分の娘を武家に嫁がせ武家の縁者になることを夢見る者が多かった。
 ただ、商家で大事に育てた娘たちが武家に嫁げるわけではない。彼女たちは年頃になるとこぞって武家に行儀見習いとして奉公に出された。そこでは当然給金も発生するが、奉公の目的はそれではない。武家で立派に雇い主夫妻の身の回りの世話や外出の同伴、来客の対応などを数年かけて学んで、武家で行儀を身に付けたというブランドを掲げて晴れて生まれながらの武家の娘たちと同じように侍の妻になれるのである。
 よって行儀見習いは奉公とは名ばかりの、要は花嫁修業だった。現に彼女たちは、芸事や家事など女としてのたしなみを仕事と同時進行で身に付け、雇い主が認めれば習い事に行くことも許されていた。
「和歌と茶華道は奥方様に、裁縫は同じ行儀見習いのお姉様方に教えていただくことになったから、三味線と唄はそのまま手習い教室へ通ってもいいって。……舞踊は、辞めることになったけれど」
 高杉の横に並んで歩きながら、みやびは自分が三味線を抱えて外出していた理由を答えた。高杉が思っていた以上に堀田家には高待遇で迎え入れられたようだが、彼の不安は彼女の待遇以外にもあった。
「堀田兄弟は? 何かされてねェか」
 高杉の脳裏に、あの鼻持ちならないゲスの兄貴と甘ったれでチクり魔の弟が過る。彼らは講武館で机を並べてはいるものの、何かと高杉に絡んできては小競り合いが絶えない険悪な仲だった。
「まだ顔を見たことも無いよ。……怖い人たちなの?」
「怖くはないが小賢しくてウザい。極力関わるなよ。もし何かされたら俺に言え」
「ふふっ……ありがとう」
 高杉の頼もしい言葉に、みやびは嬉しそうな笑い声を漏らす。久しぶりに見たような気もする彼女のその表情に、高杉も少し気が休まった。
 彼らは城下町の中心地から、武家屋敷の通りに向かって歩いていた。弥七と佐栄はその一角にある遠縁の親戚の家に今は身を寄せている。高杉はみやびの近況を一通り聞き終えると、今度は自分が今回の件について順を追って話し始める。
 みやびは時々相槌を打ちながら、高杉の言葉を遮らずに耳を傾けていた。やがて弥七の懇願を聞き入れ最後に佐栄に会わせてやることになったこと、それに桂が付き合っていることを高杉が話し終えると、みやびはやっと言葉を発した。
「……義兄上は、罪に問われるんだね」
 どこか浮かない表情のみやびに、高杉はお人好しめと内心愚痴を零す。この親子はこういうところが似すぎている。
「アイツが嘘をついていなければ、下剤だと嘘を吐かれた上で脅されてやっただけのことだ。命まではとられやしねーよ」
「誰に脅されたんだろう……」
「それは知らん。調べるのは役人の仕事だ」
 どこか突き放すように告げる高杉に、みやびは何かを言いかけたがそのまま口を閉じてしまった。その光景を見ることなく、高杉は言葉を続ける。
「まぁ……弥七が正しい証言しても、おそらく井上先生が全くの無罪放免になるわけではないだろうがな」
 藩医ともなれば身分と引き換えに当然それ相応の責任が発生する。毒薬とのすり替えに気付かなかったのは確実に井上医師の落ち度とみなされるだろう。良くて藩医解任、懲役刑も十分あり得る。
「そこは、お前も覚悟しておけよ」
「……十分だよ」
 高杉の言葉に、みやびは暗い目をして短く答えた。高杉は仄暗い瞳から目を逸らして、真っ直ぐ前を見つめる。順風満帆だった優しい親子の人生にケチを付けた、どこぞの馬鹿に対してまた怒りが込み上げていた。
 やがて彼らは目的の場所へ辿り着く。高杉邸と同じくらいの大きさのその屋敷の門は開け放たれていて、あたりに人気は無かった。
「お前、この家のヤツ知ってるか?」
「……ううん。義母上たちの遠縁だってことは知ってたけど、会ったことはないよ」
「ふーん」
 高杉は気のない返事をすると、そのまま遠慮も無く門をくぐっていく。その様子に戸惑っていたみやびも、彼とはぐれないようにやがて渋々着いてきた。高杉があたりを見渡すと、離れと思われる小さな家屋の外壁に見覚えのある瓦版屋の扮装をした少年が凭れ掛かっているのを見つけた。
「桂くん!」
 みやびも彼の姿を捉えたのか、途端高杉を追い越していった。なんで少し嬉しそうなんだよ、などと恨みがましい目で高杉は彼女の背中を追う。
「……井上!」
 桂もみやびを視界に入れると、目を真ん丸にして驚きの声を上げた。彼女は少し微笑んでから、この前はごめんねと困ったように謝る。
「いいんだ……無事で良かった」
 心底安堵したようにそう告げる桂の臀部に、高杉は容赦なく蹴りを入れる。
「おい、テメェはここで何やってんだ」
「何って……弥七を待っているに決まってるだろう」
 すかさず蹴り返そうとする桂の一撃を避け、高杉は眉を顰める。
「ちゃんとこの中に居んのか」
「心配するな。中から話し声も聞こえる」
 桂はそう言って外壁を軽く叩いた。高杉が黙って外壁に耳を当てると、会話こそ聞こえないが人が何かを話している気配は感じる。みやびも三味線を置いて、同じように壁に耳を押し当てていた。
 とりあえず少し待ってみて、それでも出てこない様なら中に入ろう。そう思って高杉も腕を組み外壁へ凭れようとした。だがその時、みやびの顔色が優れないことに気付く。
「どうした?」
 まだあの意地悪な義兄に罪悪感を覚えているのかと思い呆れ顔で尋ねると、みやびは無言で頭を振る。少し俯き、目は何かを思い出すように宙を見ていた。
「義兄上、自分がやったことを義母上に言うって言ったんだよね?」
「ああ、それがどうかしたか?」
 疑問を口にする高杉と、不思議そうな表情を浮かべる桂。みやびは口元に手を軽く添えて考え事をしていた。

 その時だった。
「あ゛あ゛ああああああああああああっ!!!」
 その場を劈く、何か悲鳴のようなものが聞こえた。雄叫びにも似たそれは女の物で、即座に反応したのは意外なことにみやびだった。
 彼女は自分たちが居る外壁とは反対側の、縁側の方へと駆けだした。
「おい、みやびっ!!」
「井上!?」
 慌てて追いかける高杉と桂。彼女は普段の大人しい振る舞いを感じさせない身のこなしで縁側に草履のまま上り、そして勢いよく正面の襖を開いた。
 パンッ! という障子が柱に当たり跳ね返る音が響く。彼女の、そして遅れてやってきた彼らの目に飛び込んだ色は、鮮やかな赤だった。
「義母上っ!!」
 断末魔のような叫び声をあげるみやび。高杉や桂でさえ踏み込むのを一瞬躊躇するその赤の飛び散った室内へ、彼女は何の戸惑いも無く飛び込んだ。
 彼女が手を伸ばした先には、ぐったりと倒れ込んでいる弥七がいる。その首からおびただしい量の血を流している彼の背後に、足を崩して座りこんだ佐栄が血まみれの懐剣を握っていた。
「来ないで!!」
 懐剣をみやびに向ける佐栄だったが、みやびは視界にも入らない様子で倒れ込んだ弥七に駆け寄る。
「ぁ……う……え…………っ」
 ほとんど吐息に近い声が辛うじて聞こえる。だが高杉は、患部を見たみやびの横顔が絶望に染まるのを見てしまった。何かをしようと差し出された小さな手は、そのまま力なく義兄の肩に触れるのみだった。
 涙で濡れた弥七の目が、凶器を振りかざす母親へと向けられる。何が起きたのか理解していない、したくない。そういう目だと高杉は思った。
「どうして、こんなこと……っ」
 みやびが押し殺した声で尋ねる。佐栄は口元を奇妙に歪め、不気味で悲しげな笑みを浮かべた。
「どうして……? 貴方なら分かるはずよ、みやびさん」
 高杉はただみやびの背を見つめる。弥七と同じで、彼自身も状況に頭が追いついてなかった。どうして佐栄が突然このような凶行に走ったのか、何故溺愛していた息子を刺したのか。まるで理解が出来なかった。
 佐栄は近所でも評判の良く出来た後妻だったはずだ。貞淑で勤勉、夫を立てることに長け、私が私がと前妻を押しのける様な主張は夫の前では一切しない。みやびから見た彼女はまた違った側面を持っていたが、世間的にはそういう女だったと高杉は認識していた。
 みやびから見た彼女とて、ただ息子可愛さで夫の連れ子に行き過ぎた牽制をしているだけの、どこにでもいる後妻だったはずだ。
 こんな凶行に走るような狂人ではなかったはずだ。
「父はとうの昔に死に、永遠を誓い合った夫にも先立たれ、子供のため、体裁のためと割り切って再婚した相手は犯罪者に……。もう私には、この子を立派な武士にする使命しかなかったのよ……」
 そう言いながら、彼女はふらりと立ち上がる。弥七はこの言葉を聞いているのだろうか、それともとうに絶命してしまったのか。確かめる気力が今の高杉には無かった。
「頼りの息子が犯罪に手を染めてしまったから、殺したんですかっ?」
「武士には自決というけじめがございます!!」
 貴方も、ご存じでしょう?
 女の左目から雫が一滴零れ落ちる。首を傾げて微笑む佐栄に、高杉は恐怖を覚えた。
 この女は、狂ってなんかいない。そう認識して体中に悪寒が走る。
 また、武士だ。
「この子は由緒正しき武家の血を引く、れっきとした侍!! 潔く腹を切れ、母もすぐ後を追いますと言ったら泣いて拒絶されたからこうしたまでのことっ!!」
 高杉の胸中で、昨日父と対峙した時に感じた得体の知れない不快感が、しっかりとした形を成していく。武士とは、過ちを犯したらさっさと自分で命を絶って、はいけじめを付けましたと居直ることを潔いと言うのか。まだ十四、五の少年の命を奪い、それを侍だからと正当化させて、この女の誇りは護られると言うのか。
 彼はあの厳格な父親と、おぼろげにしか覚えていない母を思い出す。彼らには分かるのだろうか、この女の気持ちが。この女の行動が。

「義母上、貴方は間違っています」
 唐突に、静かに、高杉の膨れ上がっていく恐怖心は断ち切られた。護ると誓った少女の声によって。
 みやびの手が、血に濡れた弥七の顔を覆う。そして彼女はそっと、既に息絶えた彼のまぶたを閉じてやった。
「自決を、武士の覚悟を否定するつもりはありません。それが必要なことだってきっとある」
 でも、と言葉を続けるみやび。声こそ小さかったが、彼女の口調はいつになく真っ直ぐで強かった。
「これは自決なんかじゃない。ただの無理心中です」
 みやびのその一言に、佐栄の表情が凍りつく。
「武家だか何だか知りませんけど、その前に私たちは医師、井上平蔵の家族です!! 命を誰よりも尊く思っている人の妻が、こんなことをするなんて間違ってますっ!!!」

「私ね、みやびさんのそういうところが本当に大嫌いよ」
 みやびの叫びは佐栄には届かなかったようだった。彼女は握った懐剣の切っ先を己の喉へ向ける。
「貴方も早く、お父上の後を追って来なさいな」
 誰も、その場から一歩も動けなかった。何のためらいも無く喉を一突きした目の前の女は、大量の赤をまき散らして息子の隣へ倒れ込む。
 全身に返り血を浴びたみやびは、力なく項垂れていた。高杉は障子へ寄りかかり、自身の横へと視線をゆっくり向ける。敷居の上に座りこんだ桂が、口を半開きにして焦点の合っていない目で呆然と前を見ていた。
 目を閉じて、高杉は泣き出したい気持ちを懸命に抑えた。悲しいわけでも、痛いわけでもない。そうではなくてただただ、遣る瀬無かった。


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