悪童
 弥七は先々代井上家当主の曾孫に当たる存在だ。代々藩医として長州藩に仕えてきた井上家は、平蔵の代と同じように弟子の中から当主を選抜することが多かった。だが歴代当主たちの実子も当然のように医者になる者が多く、かくいう弥七の祖父もそうだった。
 そして彼の母佐栄は最初、大組頭と呼ばれる長州藩の重臣の家に嫁いだ。そこで生まれたのが弥七だ。母方と父方の血筋は申し分ないはずだ。文武両道を期待され、彼は幼いころから英才教育を施されてきた。それは幼くして実父に先立たれ、叔父との跡継ぎ争いに負け、母の実家に追い返されても変わらなかった。
「どいつもこいつも……」
 けれどあの日、四つも年下の少女に彼は負けたのだ。とっくの昔に絶滅したとされる疫病から最近発見された難病まで、それらの病状や病型、治療法やその方法が編み出される過程など。初めて会った日に少女は実の父親とまるで、童話の話をするかのように楽しげに会話していたのだ。
 少年には意味が分からなかったのに。
「俺をナメやがってエエエエエエ!!!」
 年下の少年二人に追いかけられ、路地裏の袋小路に追い込まれた弥七は振り返り彼らへ殴り掛かった。しかし頭一つ大きな弥七を、高杉は軽々と足払いしてうつ伏せに倒す。そしてすかさず利き手を捻りあげ、その背に腰を下ろした。憐れなことに、弥七は頭もそれほど良くなければ、喧嘩も下手だった。
「いいいい痛い痛い痛い!!」
「さっさと吐けクソが、テメェが井上先生ハメたんだろ」
 捻りあげる力をさらに強めると、いよいよ悲鳴が尋常じゃなくなる。大げさすぎだろうと高杉は呆れたが、桂はそれに少し動揺した様子を見せる。
「おい、さすがにやり過ぎだぞ」
「反抗する気力削いでんだよ。おい、何ならその優秀な頭脳にも何発か叩き込んでやろうか?」
 高杉が余った腕を高く翳す。すると弥七は目尻に涙を溜めて降参の意を示した。
「まさか、まさかこんなことになるとは思わなかったんだよ!!」
 叫ぶ弥七。高杉と桂は顔を見合わせ、再度視線を落した。
「どういう意味だそりゃあ」
「俺は、正直に言ったんだ……俺は悪くねェ……」
 要領を得ない証言に、高杉の頭に血が昇って行くのが分かった。井上平蔵の処刑は明後日の朝。時間が無かった。
「よう自称インテリ。俺ァこの女男と違って馬鹿だからよォ、もっと分かりやすく言ってくれねェとお前の頭を馬鹿にしてやりたくなっちまうだろ?」
「誰が女男だ。それに俺にも分からん」
 高杉のげんこつが弥七のこめかみをぐりぐりと抉る。その力が徐々に強くなっていくことに恐怖感を覚えたのだろう、弥七はとうとう泣き出した。
 だが高杉の力は強まるばかりだ。彼は焦っていた。自分の睨んだ通り、この事件には裏がある。それを早く知りたかった。
「何とか言えよ、あ゛?」
 耳元で静かにそう凄むと、弥七は蚊の鳴くような声で何かを告げる。高杉はプチンと自分のほっそい堪忍袋の緒が切れたのを理解した。
「腹から声出せやオラァ!!」
「ヤクザかお前は」
 悪童の本領発揮とばかりに恫喝を繰り返す高杉に桂が項垂れる。
「そんなだから友達が居ないんだ。井上はお前が不器用でシャイなアンチクショウだから周りに馴染めていないだけだと思っているようだが俺から言わせればお前がボッチなのは自業自得だ」
「今その話する必要あるのか? そういう場の空気読まないところとか人の話聞かないところ、マジで直した方がいいぞ。お前に友達が居ない理由はそれだ。つかいちいち語彙が古ィよ気持ち悪い」
 高杉が右手で弥七の手首を掴んだまま左手で桂の胸倉を掴んだ、その時だった。
「脅されたんだ……」
 今度は確かに聞こえた。二人は互いに掴み合ったまま、視線を弥七へと向ける。彼は号泣しながらこう叫んだ。
「脅されたんだよ! 毒薬を処方する薬とすり替えて上平一家に渡せって!!」
 弥七が言い終えるのと、高杉がそっと弥七の首を後ろから掴んだのはほぼ同時だった。ひんやりとした手の温度に弥七の嗚咽が止まる。
「誰にだ?」
 高杉は返答次第で、いつでもその虫けらを絞め殺そうと思っていた。
「……ただの下剤だって、言われたんだ。俺もそう思った。まさか、こんなことになるだなんて……」
 弥七は何かに言いよどむと、うわ言のように質問の答えとは違うことを話し始める。高杉が目を細めた。
「そうか、答える気は無いんだな」
 高杉の右手に力が籠る。弥七がヒュッと息を吸い込み硬直する。
 だがその手首を勢いよく掴み、弥七の首元から引き剥がす者がいた。
「桂……」
「よせ。貴重な証人だ」
 そう告げる桂の目にも隠しきれない怒りが滲み出ている。だが彼の方が幾分か冷静な様子で、押し殺すような声で尋問を続ける。
「もちろん、そのことは大人に話したのだろうな」
「言ったよ! 事件が起きた後、怖くなって真っ先に義父上に!! けどあの人笑って、心配いらない、弥七の所為じゃないって!!」
 そう言って号泣しながら項垂れる弥七。
 あまりにもくだらない事件の真相にたどり着いてしまったと、高杉は虚しくさえなってきた。桂も同じ気持ちなのだろう、虚ろな目をしてただ弥七を見下ろしていた。
 おそらく、あの人の良い医者は自分の義理の息子の不始末を庇っているのだ。いくら脅されているからと言っても、真相が知られれば弥七も責任逃れは出来ない。謹慎や幽閉で済めばいいが、藩追放や島流しという可能性も十分ある。
 高杉は弥七の上から退くと、泣き喚く彼の髪の毛を掴んで無理やり上体を持ち上げた。
「そのこと、今から役人に言えるな?」
 静かで穏やかな声音だった。だが首筋に悪寒が走るような不気味さも孕んでいた。弥七は鈍い光を放つ深緑の瞳から目を逸らせず、黙って頷くことしかできない。今度は桂もそれを止めることはできなかった。
 彼らは弥七を追い込んだ路地裏から表通りへと出る。動くのに邪魔になるからと、今日から高杉は松葉杖を使わずに行動していた。まだ肉は鈍く痛むが、痛み止めを少し多めに飲めば動けないことはない。三週間前に平蔵が処方してくれた薬が切れる前に、なんとしても高杉は彼の無罪を証明したかった。
 表通りを弥七を挟む形で三人並んで歩いていると、突然弥七が立ち止まった。高杉が振り返りざまに睨むと、彼は真っ青な顔をして俯いている。
「どうした。歩けないってんなら縛って引きずってやろうか?」
「違う……頼む、母上と少しだけ話をさせてくれないか」
 そう言って、また悲痛そうに涙を滲ませる弥七。高杉は顔をしかめた。
「何を話すことがある? テメェが今話さなきゃならねーことは、義理の父親の無実だろ」
「ああそうだ! そして俺は下手すれば、そのままお縄だ」
 弥七がギュッと袴を握りしめるのを、桂はどこか物悲しそうに見つめていた。
「母上には、俺の口から全部説明したい。……謝りたい」
 頼む。そう言って往来で深々と頭を下げる少年に、高杉は冷たい目を向けたままだった。平蔵とみやび、どこにも身寄りがないたった二人の親子を見殺しにするような真似をしておいて、よくも抜け抜けとそんなことが言えるなと思った。実際、そう口に出して却下しようと思った。
 それを遮ったのは桂の一言だ。
「高杉。……善人でも悪人でも、親子間の絆に貴賤は無いと俺は思う」
 平蔵とみやびが互いを思いやる様に、佐栄と弥七の間にも親子愛はあってしかるべきだ。その二つを天秤に掛けることはできない。桂の言い分は高杉も頭では理解できた。
「それは、親に愛されたからこその発想だな」
 同時に、綺麗ごとだとも思ったが。
 高杉は、自身の父親の冷たい眼差しを思い出していた。

 その時だ。
 高杉は左目の視界の端に、忘れがたい姿を捉えた。
 揺れる長い三つ編み、菜の花色の着物の袖をはためかせ、朱色の長袋に入った三味線を抱えて走る少女。
 その長袋の先端には、梅柄の赤い小袋が括りつけられていた。
「桂、先にそいつ連れて行っててくれ」
「高杉? って、おい!」
 桂の声も無視して、高杉は真昼の喧騒へ飛び込んだ。地方と言っても城下町、昼間の表通りはそれなりに混雑している。行き交う人々の間を縫って、彼はひたすら走った。
 一昨日会ったばかりなのに、もう随分とその姿を見ていないような気すらしていた。
 話したいことがあるんだ。もう、あんな顔しなくていいんだ。湧き上がる気持ちをそのまま言葉にできるか不安だったが、それでも。彼はもうその手を放す気は無かった。どんなに拒絶されても。
「みやび」
 三味線を抱えるのとは反対の手を掴むと、彼女はまるで死人にでも会ったかのような顔を高杉へ向けた。高杉は多少荒い息を整えながら、握る力を強くする。
「な、んで」
「抜け殻になんて、させねェ」
 深緑の瞳が、みやびの黒目を真摯に見つめていた。
「お前も、お前の親父も、消える必要なんてないんだ」
「……なんで、そんなこと」
「助けに行こう」
 祈るような気持ちで、高杉は言葉を紡いだ。
「井上先生はやってない。そんなこと、お前が一番よく分かってるんだろ?」
「……分かってても、どうしようもないじゃない」
 みやびの瞳が涙を湛えて光を帯びた。俯く彼女の手を軽く引いて、高杉は彼女を自分へ近づけさせる。
「お前が戦わないで、誰が戦うんだよ」
 頼む、という声が高杉を突き動かしていた。みやびを護りたい。その身だけではない。彼女の笑顔も信念も誇りも、彼女の全てを護りたい。
 彼女自身に、護らせてやりたかった。
「簡単に投げ出してんじゃねーよ。たった一人の家族だろうが」
 そしてその言葉で、とうとうみやびの表情が崩れた。口元を多い泣き崩れるみやびに合わせ、高杉も膝を折った。通行人が何事かとジロジロ観察してきたが、知ったことではなかった。見たいものではなかったが、それでもあの壊れた姿よりはずっとマシな表情が見られたのだ。
 高杉は懐を探り、取り出した物をそっと彼女へ差し出した。梅の刺繍が施された、紺色のハンカチだった。
「このままで良いんなら、お前が手紙に書いた通り俺はお前のこと忘れるよ。……でも、お前の本当の望みはそうじゃねーだろ?」
 そう言いながら、ハンカチを見て驚いているみやびの目元を乱暴に拭う高杉。仕草はぶっきら棒だが、声は優しかった。
「言えよ。……お前の、本当の気持ち」
 拭っても拭っても溢れる涙に、高杉は思わず苦笑する。そしてみやびは固く瞳を閉じ、嗚咽交じりにこう答えた。
「父上と、お別れなんてしたくない……っ」
 一度口に出してしまって、とうとう壁は決壊したらしい。淀みなく、彼女の言葉が零れていく。
「よその家の子になんてなりたくない、井上みやびでいたい、父上とずっと一緒にいたい、あの家で暮らしたい、独りぼっちになんてなりたくないっ!!」
 そして、そこで一度言葉を区切り、彼女は閉じた目を開く。大粒の涙を流しながら、高杉の眼を見つめてこう言った。
「晋助くんに、忘れられたくない……っ」
 顔をぐちゃぐちゃにして泣き喚く少女が、高杉は愛おしくてたまらなかった。大事に真綿で包んで、思いきり甘やかしてやりたい気分だった。けれどそれをするにはまだ問題は山積みで、例え全部が終わったとしても自分の羞恥心が邪魔をしてそれはできないので、高杉はとにかく彼女の涙を拭く作業に没頭した。気の利いた言葉を返してやりたい気もしたが、口を開けば何か突拍子もないことを口走ってしまいそうな気がして黙っていた。
 今は想像も出来ないけれど。いつか自分が大人になったら、恥ずかしさや矜持なんてものに気を取られずにこの気持ちを上手く形容できるようになるのか。そんなことを考えながら、彼はひたすら少女の涙が止まるのを待っていた。


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