このボンボンが
 荒々しく部屋を後にした後、廊下に放り出した松葉杖を一本だけ回収して高杉は厨房へと踏み入った。大忠太に払い飛ばされた所為で右足の鈍痛を思い出してしまったのだ。彼は積み上げられた食器から自分の湯呑を探し出すと、冷蔵庫の中にある冷水を注いだ。そして懐から井上医師に貰った薬包紙を取り出す。歪んだ五角形に折りたたまれたそれはご丁寧に機械で封が施されているため、高杉はいつも角を千切ってそこから自身の口へ注いでいた。
 薬の苦みに口を歪めながら、冷水を一気飲みしてそのまま空の薬包紙を丸める。それをゴミ箱へ投げ捨てると、冷蔵庫に凭れ掛かりため息を吐いた。もう季節は水無月の終わりだ。梅雨真っただ中ということもあり、厨房は気温こそそれほど高くないが湿気がひどかった。
 着物の襟元を掴んでパタパタと開いて閉じてを繰り返す。少しずつ彼の頭が動き出す。
 仮に、万が一にも井上平蔵が家老殺害を企てたとして、常用薬を毒薬にすり替えるなどという安直な方法を彼がとるだろうか。それは、自分が処方している薬なのだ。平蔵が本当に下手人だとしたら、不可解な点が多すぎる。
 そもそも、殺害現場はどんな様子だったのだろうか。毒殺だということ以外、自分は知らない。
 やることを決めた高杉は、自室からありったけの貯金を持ち出して屋敷を後にした。
 萩城の城下にある武家屋敷の区画は広く、城に近づけば近づくほど大きな屋敷が増えていく。井上邸は比較的下町に近い場所にあり、高杉邸は直線距離にしたら井上邸よりは城に近い場所にある。しかし武家屋敷の区画内で言えば外れの方にあるため、どこへ行くにも不便だった。ここから近いのはさらに区画の外れにある藩の医学館くらいだろう。
 高杉は城と城下を繋ぐ大通りへ出ると、みやびの家や下町とは逆の方向へ歩き出した。
 家老上平の屋敷には案の定縄が張られ、二人の役人が見張りについていた。手負いの状態では塀を登るのも苦しい。やはり侵入は無理かと、本来の目当てのものを探し始めたその時だ。
 役人相手に真正面から絡みにいっている、尻っぱしょりに股引姿の見覚えのある黒髪長髪を高杉は発見してしまった。
「いや、ですからね? 元々主治医だった井上医師が自分の処方した薬を毒薬にすり替えるなんてバレバレな方法で殺害するのは可笑しいって言ってるんですよ。こんなこと十歳の子供にだって分かりますよ? あ、そういえば僕この前十一になったんだった」
「そりゃあ良かったな、良かったからもう帰れ坊主。十一になったんだからしていいことと悪いことの区別くらいつくよな?」
「十一歳、か……もうあれから四年経ったのか……あの日も、今日みたいな曇り空だった」
「おい何か回想始まったぞ。聞かねぇぞおい」
「父は、長州一と言われた凄腕の瓦版屋でした……。不正が許せず、いつも危ない目に遭いながらも西へ東へネタ集めに奔走しては記事にしていました。僕はそんな父が誇りで、いつか父のような瓦版屋になりたいと父の背中を追っていました……。けど四年前のあの日っ、藩の悪政を暴こうとした父は、刺客から僕を庇って……ううっ、父さーーーん!!」
「ゴメンって、なんかゴメン! 辛いこと思い出させて悪かった! おじさんたちが悪かったから泣くな坊主!」
「同情するならネタをくれっ!! 僕はあの日約束したんだ! 父さんと、日本一の瓦版屋になるって!!」
 高杉は松葉杖でその自称瓦版屋の息子に一発決めると、困惑する役人に軽く会釈してズリズリとその少年の首根っこを掴み引きずって行った。
「な、なにをする高杉!」
「それはこっちの台詞だこの電波バカ。井上家が大変な時に何やってんだテメェは」
 役人たちから隠れられる路地の角まで来ると、少年こと桂は高杉の手を払い塀に背を預ける。高杉も彼の隣へ移動し、右腕を塀に付けるようにして凭れ掛かった。
「つかお前、午後の講義は」
「俺とてサボりたくなる時くらいある」
「はっ! 特待生様が言うじゃねーか」
「……俺にとっても、井上先生は大切な恩人だ」
 桂が静かにそう言うと、少年たちは空を見上げた。一雨来そうな気配の空に、心なしか不安も煽られた。
「それに、井上のことだって……」
「情報聞き出そうってんなら、役人に聞くのは筋違いだ。見張りの下っ端が持ってる情報なんて碌なものじゃねーよ」
 淡々と告げる高杉に、桂はその目を彼に向けた。
「なら、どうする?」
「……発想は良いんだがな」
 講武館の悪童は、そう言ってニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべる。そして首を傾げる桂の胸のあたりを、彼は指差した。
 上平邸の周りを注意深く見てみると、今の桂と同じような格好をした男がいることに気付く。だが彼は役人に話しかけるわけでもなく、たまに通行人に話しかけては手早くメモをとるのみだった。
 彼の格好は桂のそれとただ一つ違っていた。目深に被った編み笠が、男の人相を分かりにくくさせていた。寺子屋帰りの子供たちはそんな彼を気味悪がり避けて通っていたが、高杉は不敵な笑みを湛えてその男に近づいていった。右手には松葉杖、そして左手には十歳の少年が持っていい金額ではない金の入った財布を持って。
「瓦版屋と言っても所詮は雇われ。まして俺たちみたいなガキがこの情報を上手く使えるわけがないとタカをくくったんだろう。安い買い物だったぜ」
「このボンボンが……」
 少しだけ軽くなった財布を左手に跳ねさせ、高杉は上機嫌で城に背を向け歩き出す。呆れ顔の桂がその後をため息交じりで追いかけていた。
 情報のために瓦版屋を買収など、着る物にも困る境遇の桂には思いつきもしなかった発想だ。
「やっぱり俺はお前が嫌いだ」
「言ってろ」
 桂の宣言を軽くいなすと、高杉は手で持て余していた財布を懐に仕舞った。そして上機嫌そうな笑みをその顔から消し去る。
「……どう思う、桂」
「どうもこうも、本人に聞いてみるしかなかろう」
「俺ァいっそのこと、締め上げてこいつが犯人ですって突き出しちまってもいいと思うんだがな」
「高杉!」
 桂の鋭い声に高杉が振り返る。口元は僅かに弧を描いていたが、何より目が笑っていなかった。
「井上弥七。あいつは自分の義父のことですら、卑しい町民の出身だとか講武館で吹聴してたクズだ。義父を貶めるために本当にやったのかもしれねェよ」
 瓦版屋から買った情報の内容はこうだった。
 上平一家がその亡骸を女中たちに発見された際、確かに井上医師が処方した薬の包み紙を持っていた。部屋に荒らされた形跡も無く、一家は薬の管理も決して使用人などには任せていなかったと。
 そして井上医師が最後にその上平邸へ往診に行った日、彼はいつもは連れていない十四、五歳の少年を連れていた。おそらく井上医師の義理の息子である弥七だろうと、その姿を見かけた上平家の下女がそう証言していると。
「確かに弥七はクズだ。だがあれにそんな度胸があるとは俺は思えん。まかり間違えば自分が打ち首にされる恐れがあるし、そうでなくとも現にヤツだって罪人の息子という汚名を着ているだろう?」
「チッ……汚名だけでその身は安全だろうが。最後の往診時にヤツが居たなら、どうして井上先生が一人で罪を被らなきゃならない?」
「……役人が、瓦版屋でも知っている情報を取りこぼすはずないのだがな」
 ともかく、ヤツと話さない限りは何とも言えない。そう結論を出した二人は、翌日から弥七が今身を寄せている親戚とやらの家を探すということでおおむね合意した。
 大きな武家屋敷が並ぶ大通りを歩く。城に用のある役人や武家の使用人たちが行き交うそこを下町方面に向かっていた。その時、桂が歩みを止める。
「桂?」
「……ここが、家老堀田様の邸宅だ」
 考えないようにしていた。
 井上みやびを救う手段はまだある。何故なら平蔵はまだ死んでいないから。彼の無実が証明できて、生きて会うことが出来たら、また元に戻るはず。そう信じて、高杉は昨日の彼女については考えないようにしていたのだ。
 彼は自分の家よりも余程大きな、その門扉を見上げた。
「殺させやしねェよ、絶対」


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