知らない子
拝啓
 突然、このような物を置いていくことをお許しください。
 お手紙なんて書くのは初めてで、少し緊張しています。
 実は、お二人に伝えたくて、でも直接は言いづらいことがあったので筆を執らせていただきました。
 その伝えたいこととは、私や父、井上家のことについてです。

 今日の夕方、父が殺人罪並びに反逆罪の容疑で逮捕されることになりました。
 お二人は家老の一人である、上平様をご存知ですか。
 父は藩医に取り立てられて以来、その家老上平様とご家族の体調管理を仰せつかっていました。
 上平様は先の戦の後に今の地位に就き、率先して尊王攘夷派を表舞台から排除した幕府恭順派の重鎮です。
 経歴だけ見れば怖そうなお方ですが、上平様は快活なご老人で父にもとてもよくしてくださいました。
 その上平様が、先日何者かに一族揃って謀殺されました。
 藩医数十名による検死の結果、死因は毒の服用によるものと判明しました。
 また現場を調べた役人たちが、父の処方した上平様一家のそれぞれの常用薬が毒薬にすり替えられているのを発見したそうです。
 そして私は先ほど父自身から、自分が下手人だという告白を聞きました。
 家老一家とは金銭の貸し借りで揉めていたと。今日の夕方に役人が来たら自白するつもりだ、とも聞きました。
 不可解な点が多すぎると思いますが、父の意志は固く、私にはどうすることもできませんでした。
 現役家老の殺害は大罪中の大罪なので、元々町民出の父は腹も切らせてもらえないようです。
 現役当主の打ち首で、おそらく井上家は御取り潰しになるでしょう。
 義母や義兄は親戚の家へ身を寄せることになりましたが、父は天涯孤独の身なので私に親類はいません。
 父の話によれば、同じく家老の堀田様が行儀見習いとしてなら私を引き取っても良いと言っているそうです。
 そこで五年勤め上げれば、私を堀田様の養女として迎え入れることも視野に入れると。
 堀田家の養女にさえなれれば、例え罪人の娘でも武家に嫁入りすることが可能なんだそうです。
 父上が私にそう生きることを望んだので、私はそれに応えることにしました。

 だからもう、今までみたいに二人に会うことはできません。
 びっくりさせてごめんね。こんなこと、手紙で伝えられても困るよね。
 でもどうしても、二人には私から全部を伝えておきたかった。
 どうか私のことは忘れてください。
 井上みやびは、もうすぐこの世から消えます。
 もう何があっても、今までみたいに二人と笑える気がしないから。
 そんな抜け殻の私を、私だなんて思ってほしくないの。わがままでごめんね。

 今まで、仲良くしてくれてありがとう。
かしこ
 井上みやび
 高杉晋助様 並びに 桂小太郎様


 それは、ほんの束の間の楽しい時間だった。
 高杉への見舞いの品である果物に舌鼓を打ったり、桂が持ち出したUNOで遊んだりしている間、みやびがいやに高杉の部屋の時計を気にかけていたのは彼も気付いていた。
 日が傾くにつれ、だんだんと会話や遊びに集中できない様子になってきて、どうしたのかと声をかけようとした時だった。彼女はお手洗いに行くと言って席を立った。どうにもその態度が可笑しかったので問い詰めたかったのだが、UNOで桂と一騎打ち状態になっていた高杉は迷った挙句黙って見送ることを選択してしまった。
 みやびが彼の自室に戻ってくることはなかった。
 いくらなんでも戻ってくるのが遅すぎると、二人で様子を見に行って初めて彼女の履物が玄関に無いことに気付いた。
 そして高杉は、みやびが預けていったという長く寂しい手紙を、女中から手渡されたのだ。
「みやびっ……!!」
 二人の少年が駆け付けた頃には、もう全てが終わっていた。
 藩医、井上平蔵の屋敷の前には人だかりが出来ていた。その大半が野次馬だったが、屋敷の周りを警護しているのは役人たちだ。だがその姿もまばらで、既に平蔵が連行された後であることを物語っていた。
「すみません、通してくださいっ!」
 桂が高杉に手を貸しながら、懸命に野次馬の中を進む。文句や叱りの声を浴びながらも屋敷の扉の前に出られたと思ったら、円形になって固まっていた役人たちが割れた。道を作る様に周りの野次馬たちへ指示を出す。せっかく門扉に近づけた二人も押し返されてしまった。
 だが、門から出てきたその小さな影に。
「みやびっ!!!」
「井上!!」
 二人は叫び、飛び出した。慌てて二人を押さえつける役人たち。だが、二人の頭には彼らのことなどなかった。
 大きな風呂敷包みを背負い、項垂れた井上みやびが歩いていた。その顔に表情は無く、正しく能面のような姿に高杉は絶句する。
 それでも、彼女をこのまま行かせたくはなかった。
「みやびっ、おい! こっち向け!! 何だよあの手紙!!」
 足が不自由な状態で、それでも役人の腕から抜けようともがく高杉。みやびは一向に彼の方を見なかった。自身を映さないその光の消えた瞳に、高杉は激しい怒りに似た苛立ちを覚える。
 そのまま、役人の手に噛みついた。
「痛っ……!! おい、このガキッ!!」
 左足のみで跳ねるように進む。そして、その細い肩を掴んだ。
「みやび、お前な……!」
「みやび。誰だねその子は」
 みやびに話しかけたはずが、しゃがれた冷たい声が振ってきただけだった。そこで初めて高杉は、みやびの三歩前を身なりの良い中年男が歩いていたことに気付いた。
 常に人を見下しているような三白眼、助平そうな笑みを浮かべる口元。その男の顔には見覚えがあった。高杉と同門の堀田兄弟にそっくりだ。
 この男が、みやびの後見人。何か言ってやろうと高杉が口を開こうとしたその時だった。
 パシッ、と乾いた音が響く。
 左手に走る軽い痛み。
 みやびに手を払われたのだと、事態を飲み込むのに高杉は少し時間を要した。
「知らない子です」
 耳を疑うような言葉を、信じられないほど抑揚のない声で告げられる。今度こそ高杉は言葉を失った。
 みやびの目には、どうしたって彼の姿は映らない。伸ばした手が空を切る。みやびは何も言わずに、後見人の後を追う。
 高杉は、自身の左足の力が抜けていくのを感じた。
 夕日が落ちていく。可哀想な娘の姿を見られて満足したのか、ひとしきり噂をして野次馬たちも散っていく。やがて、役人たちすら数人の見張りを残していなくなる。
 一番星が輝く頃、座りこんだ高杉に桂がようやく声をかけた。
「……帰ろう。……送っていくから」
 みやびが歩いていった方向をジッと見つめている高杉を見下ろし、そう言う。だが彼に反応は無い。桂は辛そうに目を細め、高杉の正面に回り込んで自身もしゃがんだ。
「家老宅の住み込み行儀見習いになるんだ。みだりに他人の男と口がきけるわけないだろう。あれはみやびが気を使って……」
「違ェよ」
 桂の言葉を高杉が遮る。深緑の虚ろな目は、正面にいる桂のことなど少しも見てはいなかった。
「本当に、抜け殻になっちまった」
 彼らしくないか細い声は、桂以外の誰にも届かない。
 二人はしばらく、無言でその場から動くことができなかった。


 翌日、井上平蔵は詮議にかけられることもなく、三日後の朝に牢内にて打ち首が決まった。そのことを講武館で門下生たちから聞いた高杉は、桂の制止を無視し午後の講義も放り出して足早に帰宅した。
 松葉杖を突く乱暴な音を廊下に響かせ、彼は屋敷の最奥の扉を無遠慮に開ける。
「……こんな昼間に、ここで何をしている」
 高杉は、父が明け方に帰宅していたことを知っていた。
 机に向かい筆を執っている彼に、高杉は右足を引きずりながら詰め寄る。
「井上先生が詮議にもかけられねェのはどういうことだ」
「それが父親に対する口のきき方か」
「はっ! 息子が大怪我負った時に三週間も家空けてるヤツが、今更父親ヅラすんじゃねェよ」
 高杉が大忠太の胸倉を掴むが、それは深いため息を吐いた大きな手にいとも簡単に払われた。強い力で畳に転がされた高杉は、鈍く痛んだ右足を抱えてうずくまる。
「お前のようなろくでなしに話すことなど無い」
「ろくでなしは……どっちだよ……」
 温度のない父親の声に、高杉は呻く。親友やその息子、自身の娘に穏やかな笑みを向ける、あの優しい眼をした人畜無害なお医者を思い出していた。
「アンタ、直目付になったんだろう……? 自分のダチが不当に処罰されようとしてるってのに、藩の監察方が聞いて呆れる」
「平蔵は正当な手順を踏んで打ち首死罪との沙汰が下された。俺にできることはない」
 高杉の顔に、怒りで赤みが差す。
『……君で良かった』
 あの日の優しい大きい手、穏やかで真っ直ぐな言葉。忘れることなど到底できるはずがなかった。
「アンタ、本当に井上先生が殺ったと思ってんのか……?」
 自分の命を救ってくれた。貴賤問わず自分を必要とする患者には分け隔てなく適切な治療を行った。命の重みを人一倍分かっている彼が。
 あんな優しい父親が。
「答えろよ親父!!」
 息子の叫びは、父には届かなかった。彼はやがて高杉を眼中に入れることも無く、机に再び向かい筆を動かし始める。高杉はその様子を、失望した面持ちで黙って眺めていた。
 これが、武士だ。
 二十年来の友人の危機に、家で呑気に書類仕事ができる。上からの命令を盲信して、やがて思考する力も反抗する心も摘み取られてしまう。
 俺も、こんなつまらないものになるのか?
 高杉は父親を見つめながら自問自答する。みやびの笑顔、泣き顔、怒った顔、手紙の滲んだ痕、そして壊れてしまった表情を思い出す。
『みやびを、頼むよ』
「……約束、したんだ」
 それは小さな呟きだった。だが、大忠太が顔を上げるには十分な音だった。しかし彼が息子を見た瞬間にはもう、高杉晋助は別の方向をしっかり見据えた後だった。
 交わらない親子の視線に、大忠太はほんのわずかの間苦しそうに口を歪める。そのことには結局、息子は気付かず仕舞いだった。


prev next

bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -