そういう質の男
 高杉晋助が屋敷の自室で眼を覚ましたとき、最初に考えたことは井上みやびのことだった。その後すぐに襲ってきた右足の激痛でそれどころでは無くなったのだが、それでも鎮痛剤を打ち込まれた後にはやはり、意識が朦朧とするなかでもみやびのことが頭から離れなかった。
 今度みやびと会ったら、まず何を言おうか。礼は言わなければならないが、なんだか照れくさい。弱ってるところを見られてしまったし、思いきり抱きしめてしまった。そういえば俺、アイツに袴脱がされたんだっけ。最悪だ、絶対白フン見られた。ああ、顔合わせ辛いな。でも俺、アイツがいなきゃたぶん死んでたよな。あんなに必死になって、助けてくれた。ありがとうと、すまないを言いたい。言わなきゃなねェ。それに無視とかしたらアイツ、絶対また泣く。心配させるなって、泣きながら怒るに違いない。もう見たくないな、アイツが泣くところ。また笑ってほしい。あの、梅の木の下で見せたみたいな笑顔。見せてほしい。もう心配もかけない。アイツが泣かないくらい強くなるから。
 そんなことを夢うつつで考えていると、ふと意識がはっきりする瞬間があった。その時目の前にいたのは、みやびの父井上平蔵だった。
「まさかまた、こうやって君を看病することになるとはね」
 そう言って微笑む平蔵に、高杉は自嘲交じりの笑みを返した。
「まさか、娘にまで助けられるとはな。夢にも思わなかったぜ」
 平蔵は感染症を防ぐための抗生剤を注射器で投薬しながら、高杉の言葉を黙って聞いていた。
「アイツにまで、デカい借り作っちまった」
 そう言って、少年は天井を仰ぎ見る。思い出すのは昨年の夏の出来事。
 高杉にとって、十回目の誕生日が来てすぐの夏の日だった。体の内側から焼かれるような高熱、全身の気だるさ、息苦しさ。体力の低下で、あの日彼は他の病気まで併発しかけていた。
 三日三晩の寝ずの看病で、その命を繋ぎ止めたのは井上医師だ。親友の息子を死なせまいと、彼は必死に治療に当たった。
 そして発熱から三日後の晩、彼らの前に天人かぶれの魔女が現れたのだ。魔法の薬を片手に、妖艶な笑みを湛えて。
「君とあの子が仲良くしてくれているようで、私も一安心だよ」
 注射器を容器に仕舞い、包帯を取り換えはじめた平蔵を高杉は軽く睨みつける。
「なぁ、井上先生。今更無かったことにしたいわけじゃねェんだが……アンタ、やっぱりもう一度よく考えた方が良いんじゃねェか?」
「えっ、何をだい?」
 包帯を巻く手を止めて、きょとんとした顔で高杉の方を見る平蔵。このどこか抜けているところが親子そっくりだ、と高杉はため息を漏らす。
「確かに俺は、アンタに命を救われた借りがあるから、アンタと親父に提示された許嫁の件を飲んだ。婚姻とか、そういうのは今のところピンと来ねェけど……どうせ遅かれ早かれ親父の決めた女と所帯持つんだ。だったら、俺はアンタに借りを返すためにみやびを護る。そう決めた」
「ああ、そうだったね」
 声変わりもしていない少年の、頼もしい宣言を平蔵は穏やかな表情で聞き入っている。
「でも……俺なんかより、アイツにはもっと良い相手がいるんじゃないか?」
 そう言って、彼は仰向けの状態のまま両腕を枕にした。
「藩医の娘、控えめだが気が利く、見目も悪くない、教養もある。おまけにあの量の血を見てもまったく怯まない気骨。もうあと四、五年もすればそこいらの武家に引く手数多だろう?」
「あははっ、ベタ惚れだね。そんなに好きになってくれるとは嬉しい誤算だ」
「なっ……俺は真剣な話をしてるんだ!」
 平蔵に茶化され、高杉は思わず上体を起こした。怒鳴ると傷が鈍く痛んだが、それよりも体が熱かった。心臓の音がうるさく感じる。
「……俺には分かんねェよ。アンタが俺にこだわる理由が」
 俯き、呟くようにそう告げる高杉を、平蔵は困ったように笑って見つめていた。そしてまた包帯を巻く作業へと戻る。
「君が悪童と呼ばれてようと、お父さんと折り合いが悪かろうと、私はそんなことはどうでもいいんだよ。……自分の娘のことしか考えていない、性悪だからね」
 静かな、諭すような声音だった。高杉はそっと顔を上げる。
「私はね、君によく似た男を知っている。一度交わした約束は、例え死んでも破れない。そういう不器用な生き方しかできない、君はそういう質の男だ」
 言葉だけなら、それはどこか人を小馬鹿にしたような冷淡なものだ。ただ、平蔵の声は優しかった。少なくとも高杉にはそう聞こえた。
「私はそれを知っていて、君を利用した。女が父親よりも長く共に過ごす男、夫に選んだんだ。あのか弱く可哀想な子を、君ならちゃんと護ってくれると思ったから。……だから、君が私を気遣う必要はない」
 何なら一発くらい殴っても良いくらいだと、軽口を叩く平蔵。
 しかし次の瞬間、その坊主頭に容赦なく拳が打ち込まれた。
「痛っ!?」
 呻き声を上げ頭を抱える平蔵に、高杉は口をへの字にした仏頂面を見せる。鼻息荒くまだ拳をチラつかせる彼に、平蔵はまた困ったように笑った。
「本当にぶつかい? 普通」
「みやびを、そんな風に言うな」
 平蔵の笑みは、その真摯な言葉を受けてサッと引いた。高杉の深緑の目が真っ直ぐ平蔵を見据える。
 高杉は、この数か月見てきた井上みやびを思い出す。彼女は常に大人しく、従順で聡い。自分が自分がと出しゃばることも無く、辛抱強い少女だった。烏が白だと教えられたら、例え自分が黒だと思っていたとしてもちゃんと白だと認識しようとする。何故なら、反論することで相手との仲を壊したくないから。自分とは違う、思いやりのある平和主義者。
 だが高杉はちゃんと察していた。その従順さの裏には、周りへの絶望的な諦めがあったことに。
「アイツは……周りがアイツへ勝手に押し付ける印象に、仕方なく応えてやってるんだ。そうしてないと誰にも受け入れてもらえないって、諦めてんだよ……。だからアンタがそんなこと言ってる限り、アイツはいつまでも『か弱くて可哀想』な娘のままなんだ」
 平蔵は、少年の言葉に黙って耳を傾ける。
「なあ。俺なんかじゃなくて、自分の娘にこだわってくれよ。アンタの娘は弱くない。自分のことを可哀想だとも思ってない」
 高杉晋助は、井上みやびに惚れている。あの日梅の下で見せた笑顔の愛らしさ、駄目にした羽織の代わりにとハンカチを差し出した律義さ、自信たっぷりに唄う声の朗らかさ、顔を真っ赤にしながら他人のために怒れる優しさ、血塗れになりながら介抱する手を止めない気丈さ。
 そのどれもが好ましかったし、彼も少しずつ勇気を貰っていたのだ。
「それでも……そんなみやびが可哀想だって言うんなら、俺が元に戻してやる」
 だから、彼女を過小評価する人間がどうしても許せなかった。たとえ父親でも。
 高杉が敵意剥き出しの好戦的な笑みを浮かげていると、ふと平蔵の表情が和らいだ。力を抜くように笑った彼は、幼い少年の頭に軽く手を乗せる。
 高杉も、自分から毒気が抜けるのが分かった。
「……君で良かった」
 静かにそう告げて、彼はさらりと高杉の紫がかった黒い髪を撫でた。
「みやびを、頼むよ」



 事件から三週間後。高杉は昨日ようやく、平蔵の弟子である医者に外出許可を貰えた。本当はもっと早く外出許可をもらいたかったのだが、融通を利かせてくれる上腕のいい平蔵は事件後すぐに藩の仕事で忙しくなり来られなくなっていた。
 ともかく自力で動けるようになった高杉は、松葉杖を突きながら渋々講武館へ通い始めた。それは彼なりによく考えた上で通すと決めた義理だ。本当は彼のその姿を見て遠巻きに噂し合う同輩の顔など見たくも無かったのだが、この度不本意ながら世話になってしまった父親の顔を立てるためにも、しばらくは大人しく通う必要があると判断したのだ。
 もっとも、彼はあの事件以来まともに父親と顔を合わせていないのだが。
 大忠太が攘夷浪士を斬り捨てたことについては、当然お咎めなしとなった。それどころかこの度反体制派の凶刃から子供たちを護った功績が認められ、どうもまたもや大昇進をしたらしい。
 役職は直目付。目付と言えば監察方の管理職だが、直が頭に付くとその意味はだいぶ違ってくる。直目付とは藩主が直々に動かすことのできる直轄の監察方だった。大忠太のその大抜擢の裏には、今回彼が斬った浪士と藩の重鎮との黒い繋がりがあった。先の攘夷戦争以来、藩の重鎮は全て幕府恭順派へと首を挿げ替えられたはずだった。しかしどうも件の浪士たちが、その藩の重鎮の誰かと繋がっている可能性があるというのだ。恭順派の皮を被り戦争の生き残りを匿いながら、藩政の奥深くまで干渉している者がいる。大忠太はその黒幕が誰かを探る任に就いたのだ、と奉公人同士が噂しているのを高杉は小耳に挟んでいた。もっとも、本人から聞いたわけではないので真偽のほどは分からない。
 これではまた、浪士たちに恨みを買って晋助坊ちゃんが危険にさらされてしまう。一人の女中がそう言って嘆いていたが、高杉自身はそうは思わなかった。
 敵将の首根っこに、大忠太自身が刃を押し当てているのだ。これで攘夷浪士たちは迂闊に高杉家に手を出せなくなった。現に事件発生までの一週間、絶えず彼に纏わりついていた殺気は綺麗さっぱり無くなっていた。それだけでも外出する気力が湧いてくるものだ。
 本当ならこんな良い天気の日は、神社の裏山で修行か川原で日向ぼっこでもしていたいものだ。そう内心で愚痴を零しながら、彼はまだ固定された右足を松葉杖と共に畳の上へ投げ出した。左手で持っていた風呂敷包みの勉強道具を乱雑に机の上へ置く。教室の中で自分の半径二メートルだけが誰も居ない。問題児の久々の登校に、皆遠巻きで面白おかしく噂に尾ひれを付けていた。
 分かっていたことだがな、と高杉は諦めた面持ちで不貞寝を決め込もうとした。その時だ。
「高杉……!」
 パタパタと軽快な足音がこちらへ寄ってきた。高杉は俯こうとしたその頭を止めて、盛大に顔をしかめた。
 そう、彼が講武館へ行く決心をしたのは、父親の顔を立てるためだけではない。
「お前、怪我はもう良いのか?」
 高く結われた黒髪を揺らし、優等生らしからぬ不作法な足取りで駆け寄ってきたのは桂小太郎だった。その大きな黄みがかった褐色の瞳には、分かりやすく嬉しそうな色が浮かんでいる。
 高杉は、そんな桂を冷たい眼で見据えていた。
「気安く話しかけてくんな、この女男」
「……誰が女男だ」
「ちゃんと講義に出てやるんだ。もう俺に用は無いだろ、散れ散れ」
 心配の言葉を随分な挨拶で返したのには、理由がある。
 桂小太郎はこの講武館きっての秀才、対する高杉は悪童と忌み嫌われる問題児だ。本当は、この天然ボケでお人好しで一本筋の通った馬鹿が高杉は嫌いではない。けれど桂の立場を思うと、自分と気軽に話す関係になっていいとは到底思えなかった。
 まァ、それ以前に俺友達ごっことか嫌いだし。と高杉はそんなことを考えて今までも桂を突き放してきた。彼はそういう子供だった。
「……それだけ生意気な口が利けるなら大丈夫そうだな」
 引きつった笑みを浮かべて刺々しい口調でそう告げる桂。しかしそっぽを向いた高杉の横顔を少しの間見つめると、重たいため息をついて彼の横に座した。
 講武館の教室で席は決まっていない。好きに座っていいその教室内で、高杉の定位置はいつも最後列の窓際だったし、桂の定位置は教卓の正面だったはずだ。
「なに勝手に座ってんだよ」
 高杉の横に座る猛者は、彼が悪童と呼ばれ始めた頃から一人もいない。高杉もそれでいいと思っていた。けれど桂は何食わぬ顔で彼の横の席で勉強道具を広げ始める。
「井上がな」
 そしてぽつりと、高杉にとっての魔法の人物の名前を出した。
「あの夜、泣きながら言っていたんだ。……自分のこと心の底から心配してくれる人はいない。そう言ってたお前自身は、ちゃんと他人を思い遣れるのに……どうして人がお前を思う気持ちは信じてくれないのかって」
 高杉が、ゆっくりと桂の方を見る。彼は高杉を真摯な眼で見据えていた。
「俺はお前のそういう、人を信用しない基本姿勢が嫌いだ」
「……嫌いで結構」
 桂を一瞬だけ見た高杉が、そう言われて眼を逸らそうとするのを桂は黙って見ていた。左下に泳いだ彼の目は宙を通り越して、何か得体の知れないものを見ているようだった。桂はやがて、目を伏せて言葉を続ける。
「俺は、お前が思っているほど周りの評価に固執はしていないよ」
 信じてもらえないかもしれないがな。
 後から付け加えられた一言には諦観が混じっていた。目を伏せている桂は気付かない。高杉の深緑の目が再び、彼に向いたことに。
「ま、端から短期決戦にするつもりはない。とりあえずは登下校の荷物持ちからだな」
「……は?」
 突然投下された桂の爆弾発言に、高杉は真顔からまたしかめっ面へと表情を変えた。桂は片目だけ開けて、そんな高杉に悪戯っぽく告げる。
「怪我をしている時ぐらい、その荷物を寄越せと言っているのだ」


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