後編
 鼓動が煩かった。
 自分が持っているものだとか、何故彼女が一糸纏わずここにいるのかもすべて頭から吹き飛んで、ただただその美しい裸体に見入った。
 妹の言うとおり、女性の身体に直線なんて使うのは野暮だ。彼女の上半身の柔らかな線を見てそう実感した。足や鎖骨のイメージから肩などは意外にシャープなのかと思えばそんなことはなく、丸っこさが目立ち内から外に向かって緩やかに落ちている形が何とも艶やかだった。腰のくびれは妹が示した通り俺の想像よりもだいぶ上にあり、そこから骨盤、太ももの外側に向かって線はふっくらと外に広がり続ける。骨盤まわりや太ももの付け根のあたりの肉などは、けして男が想像で描けるようなものではない。影のようにも見える下腹部の薄い茂みの生え方も同じくだ。
 ああ、あの張りのある白い胸の中心で鎮座する色づいた蕾を、いったいどんな絵具で表現しよう。そんなことを考えていたら、顔を真っ赤にした苗字さんに胸を隠された。
「あ、あの……」
「ご、ごめん!!」
 落ちつけ、落ち着くんだ幸村精市。お前は今何のためにここにいる、思い出せ真田のあの暑苦しい顔を、真夏の部室の悪臭を、妹の凄みを。
 不安げな苗字さんを前にいよいよ不審者になり始めていないか気にしながら、なんとか自分も用意した丸椅子に腰掛けスケッチブックと鉛筆を構える。
「あの、私……胸の形可笑しいですか?」
 木製の背凭れが付いた椅子に腰かけたまま、恐る恐る腕を開いていく苗字さん。変も何も比べる対象は名立たる先人の裸婦画しかありませんが?
「いえ、綺麗で少し驚いただけです。気にしないで……じゃあ、行きますね」
 あくまで経験済みのオーラを醸し出して誤魔化しつつ、どうにかスタートを切ることができた。
 モデルと舞台役者に共通点があるのかは知らないが、モデル素人であるはずの苗字さんは非常にいい仕事をしてくれた。動かないどころか瞬きや呼吸の際の胸の上下すらほとんど目立たない。錯覚とは不思議なもので、彼女の美しさや俺の集中力が段々高まったのも相まって、途中から苗字さんが人形に思えてきた。
「はくしゅ……っ!! す、すみません……!!」
「……いや、大丈夫」
 途中、1回だけくしゃみを漏らした際にたゆんたゆんと揺れた胸に生命を感じ、また煩悩に支配されそうになったのは許してほしいが。
 ただ椅子に座った姿を横から、足を組んで肘をついて背凭れに凭れてもらった状態を正面から、床に座って壁に凭れ片膝を立てたものを斜め前から、体育座りを横から、ベッドに仰向け、うつ伏せを上から。計6つのポーズをしてもらったあたりで、30分の大きな休憩を入れる。再び白い毛布に包まった苗字さんとどの構図で行くかの相談をする頃には、お互いの話し方はだいぶ砕けたものになっていた。
 いや、砕けた話し方になったのはいいが、毛布一枚巻いただけでそう近くに座られるといろいろ支障が出てくるのだが。
「正直な話、一番楽だったのはどれ?」
「体育座りですね。背筋を伸ばすことも呼吸を抑えることも気にしなくて済んだので」
「逆にこれはキツいってのは?」
「うつ伏せです。普通に疲れました」
「だよね……どうするかな。正直どれもそこそこ気に入ってる」
「何か、裸婦画を描こうと思ったきっかけですとか、目指したいテーマみたいなものはあるんです?」
 自分の裸体が男の目線で描き出されたスケッチブックを覗き込み、苗字名前さんは至極真面目にこの作品と向かい合おうとしてくれていた。最初こそその毛布の間から覗く胸元にばかり意識が行ってしまったが、やがてその黒い大きな瞳が映す真剣みに、沸々と部活引退後から行方不明だったものが湧きあがってくるのを悟る。
「ジレンマからの逸脱」
 しっかりしろ、俺が本気じゃなくてどうするんだ。
「……逸脱」
「そう、例えば……人間には誰でも、自分しか知らない内側の自分と、他人が知ってる外側の自分がいると思うんだけど」
「はい」
 一字一句聞き漏らすまいとした姿勢に、俺も言葉選びを慎重にならざるを得なかった。それがいけなかったのかもしれない。
「頑張って世の中に関わろうとすればするほど、その二つの自分が乖離していく息苦しさを感じることはない? 俺だけかな」
「……あります」
 本当に心の底からそう思っていると分かる深い肯定を、彼女はしてくれた。それとは対照的に、俺はと言えば喋れば喋るほど頭の中で固まっていたテーマが酸化して錆びついていくのが分かった。
「……仕方がないと割り切れるほど俺たちはまだ大人ではなくて、それでも外側の自分ばかりを積み上げていってしまう自分に苛立ったり悲しくなったり、そういう類のジレンマからの逸脱を、図りたかった……」
 裸の女性を描けば、それを世に公表すれば俺は、そのジレンマを打開できると本気で思っていたのだろうか。
 確かに度肝は抜けるだろう。最高に俺らしくない、高校最後の爆弾投下にはこれ以上ないほど相応しい驚きだ。けれど、それで外側の自分を木端微塵に吹き飛ばしたとして、その先にまた積み上がる物は今度こそ乖離していかないと言い切れるのか。
 もっと根深い問題だ。目先の反抗で一体何が変わるというのか。
「……例えばですが」
 美術かぶれあるあるネタ、創作途中で自分が目指すものがひどく矮小で味気ない物に感じるという思考の迷宮に迷い込みそうになった俺を、引きずり出してくれたのはそんな澄んだ声だった。
「私なら、その逸脱を『反抗』と置き換えて、等身大の思春期の反抗現場を描きます」
 一瞬犯行現場と変換された脳内で、つじつま合わせのためにそれっぽい別の漢字を当てはめる。俺が数回瞬きをする間にも彼女の手はスケッチブックを数枚捲り、仰向けで横たわる自身のクロッキーを探し当てた。
「反抗現場、というと?」
「ロストバージンの後です」
 あまりにも大真面目にそれを言うものだから、笑ったり照れたり焦ったりなどというリアクションは、とてもじゃないが取れなかった。
「全てをぶち壊して、達成感と満足感の向こう側にある後悔と新たな葛藤から目を背けたい。それ以上に、疲れ切っていてしばらくは立ち上がることもできないかもしれない。そんな刹那を切り取ってみては」
「キミは……」
 まさかと、探るような気持ちで覗き込む。すると彼女はほんのわずかに微笑んでこう答えた。
「同じ動機で良かった」

 彼女の提案通り、その後は明言こそせずとも処女喪失の後というシチュエーションで描くことを前提に話を進めた。ポーズは仰向けで決定、クロッキー時よりも脱力してもらい、手も足も無造作に投げ出してもらうことになった。俺はそれを枕側のベッドサイドから俯瞰する形で描く。
 シーツに散らばる黒髪を表現したくて少しそれに触れて形を整えようとした時、上目遣いの苗字さんと目が合って妹の言葉が脳裏を過った。どちらも無視して、俺は髪の形だけ整えてベッドサイドに立てた水平イーゼルに向き合った。
 苗字さんも、どこかで誰かと反抗したのだろうか。
 しばらく無言で下描きをしていた時、ふとそんなことを思った。鉛筆の先は苗字さんの陰毛をゆるゆると描いている。この茂みの中を誰かが覗いたということなのだろうか。その柔らかそうな太ももの付け根を掴んで足を割り、中に触れた男が居たということなのか。この子は、男を知っているのか。
「そういえば、さっき言ってた『同じ動機』ってどういうこと?」
 よく分からないが、ついさっき会ったばかりの女の子のいるかどうかも分からない初体験の相手を想像して無性にイラついた。気を逸らすために話しかけてみると、彼女は体が動かない様注意を払いながら静かに告げた。
「私も、反抗したくてここに来まして……」
「そうなの? 俺のファンだからじゃなくて?」
「え、あっ、それもあるんですが……」
 顔だけで少し動揺してる様子をあらわにする彼女が少し面白くなる。こだわりの髪の部分を描き込みながら少し突っ込んでみることにした。
「そもそも、どうやって俺のこと知ったの?」
「それは、あの子の……妹さんの絵が賞を取ったコンクールで」
 曰く、妹が2年ほど前に優秀賞を受賞した学生向けのコンクールで、俺の絵も入賞して展示されていたのがきっかけらしい。確か俺はその時。
「貴方は、縁側で寝そべるご学友を描かれていた」
 ご学友、これは真田と蓮二だ。高1のインハイが終わった後の束の間の休暇、俺たちは一緒に夏祭りに行こうと約束していて真田の家に集まっていた。手持ち無沙汰を紛らわすために俺は他人の家に画材道具を持ちだして、佐助くんと遊び疲れたふたりが縁側でダウンしているのを佐助くんとふたり『だらしないね』と笑い合いながらその様子を描いたはずだ。
「温かくて、どこか懐かしくて、貴方がどんな顔でそれを描いたのかが想像できてしまった。そして、それを思い描いてまた胸が温かくなった。自然と笑みが零れたんです……何ででしょうね、会ったこともなかったのに」
 それ以来、彼女は俺がテニスの片手間に描いては応募していた学生やアマチュア向けの作品展に足を運んでは、俺の絵を探したらしい。絵自体と、その絵を描いている俺の表情を見るため。
 そう語る彼女の顔があまりに穏やかで、見てしまったことを軽く後悔する程度には何故か強く胸が締め付けられた。
「貴方が絵を描いているところを見たかった。できれば、私を描いてもらいたかった」
 そして続く言葉の言い方があまりに、今日限り、一度限りの関係で構わないという風に聞こえてしまったので。
「えっ、裸婦画を?」
 俺は色を付ける準備をしながらそうからかった。それは少し、いやかなりイヤだ。
「そ、それは!」
「あ、そのまま休憩していいよ。10分後に再開ね」
「幸村さん、私べつに裸婦画だから引き受けたわけじゃ……」
 慌てて自身の身体に毛布を巻き付けて詰め寄ってくる苗字さんが可愛い。今更発揮するその羞恥心って何と思っても、これを言ったらさすがに怒られそうなので止めておく。下描きを練り消しゴムで薄く消しながら、彼女にそのボードを見せる。
「こんな感じで行こうと思ってね」
「……これは」
 そのボードの中で、少女は顔を持たなかった。惜しげなくその疲れ切った裸体を晒しながら、口元よりも上は枠の外。苗字さんはそれを目の当たりにして静かに目を見開いていた。
「これはキミの身体をモデルとして描くけれど、キミではない」
「……」
「名前を持たない、誰でもない、そして誰でもある少女だ。……キミだけの反抗じゃないからね」
 そう言って微笑めば、しばし呆然としていた彼女は俺の顔と顔を持たない少女の裸体を数度見比べて、やがて諦めたように眉間に少ししわを寄せて苦笑した。
「一夜限りは駄目だよ、お嬢さん。もっと自分を大事にしようね」
 そう言えば、伺うような視線が下から向かってくる。毛布の隙間から谷間が見える。
「一夜限りにしないでくれるんですか?」
 どこか挑発するような物言いに、これまでの俺の男としての動揺は仕組まれた物だったと確信する。
 参ったな、まんまと術中にハマったというわけか。
「身体から始まった関係ですが、まずは肖像画デートからどうですか?」
 少し困ったように笑ってみせれば、彼女は今日一番の満面の笑みを浮かべた。
「はい、よろこんで!」

 その後、応募した名の無い少女の反抗現場は辛うじて佳作に引っかかった程度だったが、案の定俺は在学中初めて生徒指導室に呼び出され芸術など少しも解さない体育教師数名に1時間の説教を食らった。モデルは著作権フリーのポーズ集でもう売ったの一点張りで粘り勝ち、解放された後廊下で待ち伏せていた美術教師に「大人になったな」と言われた時、やっと堪えていた笑みが溢れ出した。
 ちなみに苗字名前さんとは、宣言通り肖像画デートから仕切り直して健全なお付き合いを重ねている最中である。


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