前編
!注意!
・身体接触はありませんが、性的行為を思わせる単語が記載されています。
・青少年幸村精市が心の中で下ネタを連発しています。
・名前は登場しませんが、脇役として幸村の妹が登場します。






 裸婦画描きたい。
 有り余るその衝動を抑えきれなくなったのは、高校三年の部活引退後だった。後先考えずの身体酷使でスポーツ選手としての資本を限界まで切り売りしていたこともあり、プロ転向は諦めざるを得なかった。真田や蓮二のように将来の夢のために受験勉強に精を出すこともできず、なんとなくフランス語の勉強したいなとぼやいていたらいつの間にか担任が指定校推薦を取ってくれていた。中学の反動で高校はできる限りの無遅刻無欠席を心がけてたからな。
 とにかく、テニスを趣味にして進路も決まった年の暮れ、俺は熱を持て余して仕方が無かった。
「違うんだよなぁ……何が違うんだ……」
 机に向かってスケッチブックに描くものは服を纏ってない女体。と言っても、男子高校生が教科書の端に描くような卑猥な落書きとかではない。誰に弁明するわけでもないが、純粋に美術を愛する者として絵画のような裸婦画を描いてみたいだけだ。ゴヤの裸のマハとかアングルのグランド・オダリスクとか。裸婦画ならムンクの思春期とかも教科書に載って有名だが、それよりは柔らかそうな大人の女の肌を描いてみたい。
 そう、ものすごく描いてみたくて実際描いてみるんだが、自分が描くとどうしたってコレじゃないと紙をぐしゃぐしゃに丸めたくなる。
 何が問題なんだと、まだ走り書きの裸婦画ならぬラフ画を眺める。色が乗ってないとかそういう次元の話ではない。根本的に肉の付き方が違う気がする。模写は出来るのに構図が変わると途端に崩れるのは何でだ、男の身体はこうはならない。
「つか、乳首そんなとこに付いてないし」
「ひっ!?」
 自分の声によく似たアルトの声音が真後ろから聞こえ、咄嗟にスケッチブックを伏せるが時すでに遅し。背後には腕を組んで仁王立ちしている血を分けた妹が居た。
「おまっ……ノックしろっていつも言ってるだろうが!? 忍者か!?」
「エロいことで頭いっぱいにしてるのが悪い」
 エロいことじゃない、これは断じてエロへの探求心から来る衝動ではないんだと言ってみてもおそらく女の妹には伝わらない。そうこうしている間にも、妹は俺からスケッチブックと鉛筆を取り上げた。
「乳首と腰の位置が可笑しい。あともっと全体的に曲線で。女の身体に直線なんて使うな」
 そう言って鉛筆を走らせる妹はいまだ週一で絵画教室に通っている。昔は同じ教室で風景を描かせるなら兄、人物なら妹と言われていた。今はおそらく風景画の実力も抜かされている。
「つか、絵画の裸婦画見すぎなんだよ。あれはワザと全体のバランス崩してるんだからね」
「知ってるよ。……女はいいよね、鏡見て観察できるし」
 昔から少しも叶わなかった肉体の描写力に嫌味をひとつ言ってやれば、俺によく似た形の眉がひくりと動きやってしまったと即座に後悔した。
「ほう? それは男体の硬さガッチリ感臨戦態勢とそれ以外のアレの造形ために三次元二次元問わず常にアンテナ張り巡らせて人間観察してる私たちへの挑発か? 自分に無いものにいかにリアルを求めるかで我々がどれだけ苦心しているか知っての発言か?」
 マジギレした母とそっくりの微笑みを浮かべて捲し立てる妹に対して思うことは、おそらく彼女の方が神の子のパブリックイメージに近いと言うこと。正直に言おう、妹にこう捲し立てられると俺はパニックで思考回路が停止する。
「女はいいよねなんて負け惜しみを言う暇があったら観察しろ、資料を集めろ、金払ってでもいいからモデルを雇え。既存の美術品模写して構図変えて喜んでるうちは漫画絵真似して絵師気取ってる三流オタクと同類だぞ」
「……」
 頼むから、頼むから、そうやって兄のなけなしの絵に関するプライドを跡形もなく粉砕するのをやめてほしい。悪かったよ、でも兄ちゃんずっと絵はテニスの片手間だったんだよ許して。演劇部美術班班長様許して。
 ぐうの音も出ないほどあからさまに凹まされた俺の姿で察したのか、妹はリアルな裸婦画のラフ画を完成させてフンと鼻を鳴らした。
「ま、兄貴昔から平面より立体写す方が得意だったし、モデル雇って描くのが一番満足できるんじゃない?」
 描き殴ってはバッテンで消している失敗作の数々をページをめくり確認する妹に、肩を落しながら答える。
「お金ない。うちバイト禁止」
 例え引退しているといえ、元部長がピアスや飲酒喫煙に並ぶ重罪のバイトで捕まったらさすがにテニス部の風当たりが強くなってしまう。在学中は駄目だ。
「知り合いの知り合いとかに適当に頼めないの?」
「生憎狭い世界で生きていてね……」
 真田は論外、蓮二もああ見えて狭く深くの人間関係を好むタイプだ。柳生にはまず裸婦画を描きたいと思った動機をスルーしてもらえなさそうだし、仁王の連れてくる女は俺が信用できない。お人好しのジャッカルが苦心して自分の株下げながらヌードモデルを探すところなんて可哀想で見てられないし、丸井の知り合いの女は思いつく限りでは9割9分9厘口が軽い。赤也も同じ理由で却下。というか立海生は駄目だ。おそらく裸婦画に在校生のヌードモデルを立てたなどと知れたら、絵の公開前に作者もモデルも呼び出されて作品自体を握りつぶされる。
「……ほんっと、狭い世界」
 余りのつまらなさに鼻で笑ってしまった。
 自分に言い聞かせてきた品行方正温厚篤実、聖人君主でありながら誰よりも厳しい面も持ち合わせているという出来過ぎた仮面は、テニス部引退によって中途半端にぶら下がる過去の威光に成り下がった。
 こんな仮面をつけることを、俺自身は少しも望んじゃいなかった。ただ周りの人間がそれを望んだからそう演じたまでだ、テニスを邪魔されたくなかったから。
 ならば、俺のテニスが終わりを告げた今、俺自身の手で仮面も葬り去るのが礼儀だろう。そんな熱を持て余していた俺を知ってか知らずか、美術教師が持ってきた年明けの地方のアマチュア絵画展の話にこれだと思った。
 俺があくまで芸術として、大人たちが勝手にタブーとしているエロティシズムを突き付けたら、一体彼らはどんな顔をするだろう。考えれば考えるほど胸が躍った。
 でも所詮、俺はつまらない枠組みの中でしかまだ生きられないというのか。
「……何万までなら出せる?」
 ふと、妹は何かを決意したように静かにそう問いかけてきた。
「えっ?」
「心当たりがある。たぶん、いや絶対に断らない人がいる」
 妹はそう言ってどこか切なげに窓の外に視線を向ける。言ってる意味が分からなくて首を傾げた。
「えっと……」
「たぶん、事情話せば無償でやってくれるだろうけど、何事にもケジメで対価は必要だと思うから。……いくら出せる?」
「……1万5000とか?」
「何描くつもり? 油? 水彩? パステル?」
「水彩、かな……」
「サイズは?」
「え、F3かF4?」
「おばあちゃんが町内会の慰安旅行に行く暮れの29日にしよう。馬鹿夫婦も温泉デートでいないはずだし。こまめに休憩挟みながら6時間。兄貴筆早いからそれだけあれば行けるでしょ」
 破格だけど時給も2500円になると、文系脳の癖に金勘定だけは早い頭が即座に1万5000円を6で割る。何故か俺が置きざりで決まっていく裸婦画プロジェクトに、思わず声を上げた。
「ま、待った! ちょっと、待った」
「なに」
「事情話せば無償でもやってくれる相手ってなに、怖すぎるんだけど」
 事情らしい事情なんて俺にも正直分かってない。複雑に絡み合った想いや葛藤がこれまでにあるけど、結論を言うなら『ただ描きたいから』それだけだ。それを無償って。
「……後に引くような面倒くさいのは嫌なんだけど」
「私がそんなメンドイの用意すると思う?」
 腕を組んだままの妹は、椅子に座ったままの俺を呆れたように見下ろしてくる。
「兄貴に自分を描いてもらいたいって言ってた、美術少年幸村の一ファンだよ。それ以上でも以下でもないから心配ない」
「……素性は?」
「あのね、ヌード晒すかもしれないって人の個人情報晒すわけないでしょ」
「……体型は?」
 わりと大マジに聞いたら、思いっきり頭を殴られた。
「私が知る限りで一番そそる身体してる上に美人だよっ!! 文句あるか!?」
「ぜひ、お願いします」
 結局はそこかと言われればそこまでだが、どうせなら美しいものが描きたいと思うのは男のサガだ、諦めてほしい。殴られた後頭部を擦りながら、真っ赤な顔で退室していく妹を密かに拝んでおいた。今度好物のとんこつラーメンを奢ってやってもいい。

 そうして迎えた制作日。前日早朝から何も知らない祖母は意気揚々とバスツアーに旅立ち、バカップルは年末恒例の温泉デートに出かけた。いよいよ年の瀬という感じが出てくる本日、妹は朝から俺をリビングに監禁した。
「準備したら呼ぶから、それまで一歩たりとも出ないでよ。トイレも我慢しろ」
 待ち人はまだチャイムを鳴らしてもいないというのに、何故か半分キレてる妹はそう言ってリビングのドアをぴしゃりと閉める。
 絶対妹に対する教育を間違えたと思いつつも、完全に俺を嘗めているその女の背中を見送り俺はリビングで宿題に勤しんだ。進路は決まったとはいえ、一応年明けにはセンターの記念受験が控えている。モチベーションは低いが受験料分は真剣にやらなければ。
 コーヒー片手に英語の受験対策問題集を解いている最中、無駄に重厚な鐘の音が鳴った。妹がバタバタと階段を下りてくるのが分かる。時計を見ると朝の9時半。コーヒーカップをソーサーに置く手が震えた。もしかしたら、柄にもなく緊張しているのかもしれなかった。
 何を隠そう、俺は生の女の裸などもう十数年見ていない。最後に見たのももちろん母の裸だ。当然セックスや疑似行為の経験も無い。それどころかファーストキスもまだだ。
 落ちつけ、精神統一だ。と問題集に向かうも気が付けばまだ見ぬ『そそる』と噂の彼女の裸体に思考を持って行かれる。ちょっと待て、もしかして俺とんでもないことしようとしてないか。今から6時間? 裸の女の人と? 部屋の中でふたりきり? 待ってくれ待ってくれ、タブーへの挑戦だか芸術だか知らないが、その前に男の本能をどうするんだ俺? 初めて目の当たりにする眩い肌と柔い肉に我慢できるのか、それらを押し殺して芸術をちゃんと優先させられるのか。
 もしかしたら非常に命知らずな事をしようとしているのではないかと冷や汗をかき始めた頃、リビングのドアが開いた。
「準備出来たよ」
 妹だった。相変わらず不機嫌そうな彼女に付いて二階まで階段を上がっていると、不意に先行する影が振り向いた。
「言っとくけど」
 下手したら普段の俺より低い声だった。
「指一本でも触れたらマジで潰すから」
 何を、とは聞かなくても分かった。2段上から見下ろされ凄まれ、さすがに変な気は跡形もなく消え失せた。
 自室の扉を開ける前に、私はおばあちゃんのサンルームに引きこもってるからと妹は1階へ引き返していく。それを見送り一度深呼吸してから、ドアをノックした。
「はい、どうぞ」
 聞こえてきたのはアルトの綺麗な声だった。ゆっくりと扉を開けると、妹の物だったはずの白い毛布に包まった、窓辺に立つ黒髪の女性と目が合う。
 美しい人だった。
「は、はじめまして……」
「こちらこそ、はじめまして……」
 たどたどしい挨拶は日曜の朝の陽ざしが射す部屋にゆらりと消えていく。しっかり頭を下げた後に顔を上げると、同じく顔を上げたその毛布の君と再び目が合う。
 透き通るような白い肌、癖ひとつ付いてない真っ直ぐな背に付くほどの長い黒髪、色気を感じる切れ長の瞳は長い睫毛に縁どられ、整った目鼻立ちやほっそりとした輪郭とは対照的に、小さな唇と薄く色づいた頬が少女らしくて実にアンバランスで淫靡だった。首は細く長め、毛布から覗く鎖骨の浮き出方が最高に好みだ。そのまま視線は毛布を飛ばし、下から生えた白い生足に釘付けになる。陶磁器と表現するのが正しくふさわしい滑らかな肌に程よく付いた筋肉が見てとれる。柔さを感じる脂肪も捨てがたいがこれはこれで。そして男にはまずないキュッと締まった足首の細さに目を奪われる。
 ヤバい、どうしよう。すごく綺麗だ。
「あ、あの……」
「!! す、すみません黙っちゃって!」
 明らかに視姦していたのを悟られてしまったかと、慌てて謝ると彼女はふわりと笑ってくれた。桜色の唇が緩やかな弧を描いて頬が少し上がる。
 か、可愛い。
「すみません、モデルを頼んだことがあまりなくて……不慣れですが、ご容赦ください」
「いえ、こちらこそ。……それより、本当に私で大丈夫ですか?」
 危ない毛布の裾から眩しい太ももをチラつかせながら、少女は恐る恐るこちらへ近づいてくる。不安げにそう訊いてくるため息が出そうなほどタイプな彼女に、むしろ今から口説いて良いですかと言ってしまいたかった。そんな度胸は少しもないが。
「そんな、むしろ本当にありがたいです。なかなかこんなモデルは頼めないし……あ、寒くないです?」
 空調を弄るフリして一度彼女に背を向け深呼吸をする。大丈夫、今日は持っている中で一番硬い生地でゆったりしたシルエットのデニムを履いている、問題ない。
「はい、お構いなく」
「寒かったらいつでも言ってくださいね。あ、あと喉とか乾いたりトイレ行きたかったりとか」
「分かりました」
 いつの間にか妹が淹れていたのであろう、サイドテーブルに置かれたティーカップと横の魔法瓶を見て、彼女は柔らかい表情を浮かべた。何か喋らなければと気ばかりが焦る。
「も、申し遅れました……幸村精市といいます。えっと、妹のお友達さん? なんですよね?」
 どこまで踏み入っていいか分からず探り探りそう問いかけてみると、彼女はハッとしたように向き直る。
「失礼しました。私、苗字名前と申します。妹さんとは部活動の先輩後輩の間柄でして……」
「そうなんですね! じゃあ、演劇部?」
「はい。僭越ながら部長をさせていただいております」
 その『部長』というワードが、心の奥底に張った無意識のバリアを少し溶かしたような気がした。
「部長さんが、わざわざ……すみません、兄妹で無理言ってしまって」
「いえ、そんな、謝らないでください……その、私、えっと……ずっと貴方のファンでして……」
 恥ずかしそうに僅かに頬を赤らめ視線を逸らす彼女に、いよいよ押し倒したい感情を通り越して密室で男とふたりきりなのにそんな無防備な姿を晒すなと説教したくなった頃。もじもじしながら苗字さんはそんなことを言い出した。
「そういえば、妹がそんなことを……」
「あの、そろそろ始めませんか? もう5分も経っちゃいましたよ」
 そう言って、誤魔化すように彼女は俺の部屋にある置時計を視線で指し示した。大げさに生唾を飲みこみそうになるのを懸命に堪え、俺はスケッチブックを構えた。
「そう、ですね……では、今から10分間ずつのクロッキーを6回行います。事前にいくつかこうしてもらおうというポーズを決めてあるので、無理のない範囲でなるべく10分間動かないでください。全部終わったら俺と苗字さんでどのポーズがいいかを話し合って、ひとつ選んで本番として描きます」
「分かりました」
 よろしくお願いします、と凛とした声が部屋に響いた。その少女が舞台の上で堂々と立ち振る舞う光景が目に浮かぶ。良い絵が描けそうだと思った。
「じゃあ最初は、そこの椅子に普通に腰掛けてくれる?」
「分かりました」
 彼女が、どこか焦らすようにゆっくりと毛布をその身から剥がすまでは。


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