禁断の果実
!注意!
・本番はありませんが、性的行為を伺わせる描写があります。18歳以下の方は閲覧をお控えください。
・不二周助が脅迫行為を行っています。
・幸村がヒロインではない女性と付き合っている描写があります。


 2018年7月。
 都内某所にあるシティホテルの廊下には、深夜の移動でも音が立たないようにと無駄に踏み心地の良い絨毯が敷き詰められている。12センチヒールで踏みつけながらエレベーターから例の部屋までの十数メートルを早歩きで抜ける。やがて手紙に記載された番号と同じプレートが見え、私はゴールドに覆われた爪の先で呼び鈴を突いた。
 中から出てきた男は想像していたよりもずっと若く、そして美しい瞳をしていた。
「どうぞ」
 男にしては長い茶髪を後ろでひとつに縛り、黒縁眼鏡越しに綺麗な青い瞳を覗かせる男に誘われるまま、私は指定された部屋708号室へと入る。
 意外すぎる小奇麗なイケメンの登場に面食らいながらも、こちらに背を向け部屋の中へ入っていく男を見て段々とここに来た目的を思い出してくる。その背を追いながら付けていたバタフライサングラスを乱暴に取った。そして私にソファへ腰掛けるよう勧めるその手目掛けて、プラダのショルダーバッグから引き抜いた写真を投げつける。
 写真はくるくると回転しながら飛び、男の二の腕あたりにぶつかって床に落ちた。そこには、私の旧友と実妹が仲睦まじく腕を組んでマンションのエントランスへ入っていく光景が収まっていた。
「さぁ、来てやったんだからさっさとデータ渡しなさい」
 数日前、自宅ポストに消印も切手も無い封筒が投函されていた。身構えながら開封するとそこにはその写真が一枚と、不二周助と名乗る差出人からの脅迫状が一通。内容は、この写真を表に出したくなければ指定する日時にこのホテルの708号室へ来いというものだった。
 何も言わず指一本でも触れてこようものならすぐに警察に突き出してやると、懐には催涙スプレーを忍ばせている。が、この男も馬鹿ではないらしい。
「そう急く話でもないですよ。とにかく座ってください」
「三流芸能記者風情と交わす話題など無い。早く幸村と妹の写真のデータを渡せ」
「……分からない人だな。主導権はこちらにあると言ってるんですよ。小さな女王陛下?」
 張り付けたような笑みを一向に変えず昔のあだ名を口走る目の前の男に、顔が引きつるのが分かった。盛大に舌打ちをして長ソファに腰掛け足を組むと、男は満足げに名刺を差し出してきた。
「申し遅れました。僕はこういうものです」
 睨みつけながらそれをひったくる。シンプルなデザインの名刺で、フリーランスのカメラマンと書かれていた。
「まさか本当に、ロイヤル・バレエ団でプリンシパルを務めた伝説のバレリーナにこんなところまで来ていただけるとは、思っていませんでした」
「御託はいい。アンタ一体何が目的?」
 わざと名刺を半分に折ってバッグの中に捻じ込むと、男は笑みを深くして向かいのソファに座って肘掛に肘をつく。
「そう身構えないでくださいよ。知らない男と二人きりで恐いのも分かりますが、僕は何もしませんから」
「アンタなんか恐くないわ。何が欲しいの? 金? 身体?」
 問答無用で乱暴されるなら警察に突き出す所存だが、請求金額によっては契約として抱かれてやるのもやぶさかではない。いつまでも少女ではないんだ、そのくらいは当然覚悟してこの場へ来た。それほどまでに、この男のデータが外部へ流出するのだけは何としても阻止したい。
「それも魅力的なお誘いですが……僕は生憎、男である前にカメラマンですので」
「はっ、カメラマン? 人の恋路を邪魔する盗撮犯の間違いでしょう?」
「邪魔はしてないでしょう。こんな写真が出回った程度で終わる恋なら、僕が手を下さずともいずれ破局する」
 そう言って、男、不二周助は床に落ちたままの写真を革靴のつま先で踏んだ。
 現在プロのテニスプレーヤーとして活躍する旧友、幸村精市に実害はほぼ無いだろう。あの男のことだ、婚約発表の根回しの手間が省けたなんて言って笑って流しそうだ。問題はその相手、私の妹の方にある。
「まあでも、妹さんの夢は終わるかもしれませんけどね」
「……下種が」
 妹はOLを経て数年前にデビューを果たした駆け出しの女優だ。現在やっと舞台を中心に日の目を浴びるようになってきた。交際が始まったのはそれこそ彼女がまだOLだった頃だが、そんなのは目の前にいるような人種には関係ない。好き勝手ねつ造して自分たち好みのストーリーを書き立てるなんて朝飯前だろう。
 下手すれば妹は、好きなスポーツ選手ランキング5年連続1位に輝き殿堂入りしたテニスコートの貴公子を利用する、薄汚い売名女に仕立て上げられてしまう。
「主演舞台、決まったそうですね。僕も今度ゲネに呼ばれてるんですよ。相手俳優の菊丸英二っているでしょう? 彼、ちょっとした友人でして」
「……要求を言って」
 妹の夢をこんなところで潰すわけにはいかない。不二が足を組んだのと入れ替わりに、私は組んだ足を戻して揃え、両手を膝の上に置いた。
「……そんな悲しそうな顔しないで」
 黒縁の眼鏡越しに優しそうな青を覗かせ、彼は穏やかにそう言った。奇妙なほどに物音がしない一室で、私は悔しさで吐きそうになっていた。
「僕は、貴方の一ファンなだけだ」
 敬語を止めたその自称ファンは、そう言ってテーブルの上に置いた一眼レフを抱き寄せて撫でた。
「貴方は憶えていないだろうけど、駆け出しの頃まだバレエ学校を卒業したばかりだった貴方のグラビアを撮ったことがある」
「……憶えてないわ」
「だろうね。正確にはアシスタントだった。シンプルな黒のレオタードを着て、支えも無しに何秒もつま先で自立するその気高い姿、先輩カメラマンを睨みつける自信に満ちた眼に僕はひどく高揚した」
 ここではないどこかへ想いを馳せ、懐かしむ様に目を細める不二。学校卒業したてと言うと、もう10年以上前のことか。
「……貴方は老いる」
「!!」
 すると、とんでもない失礼なことを目の前の男は唐突に言ってのけた。
「その、30過ぎてもなお少年然とした美しい身体も、高貴な魂も、いずれは老いて醜い年増のそれになっていく」
「……ぼうや、30過ぎてもなおのくだりは必要だった?」
「ああ、僕キミと同じ学年だから坊やじゃないよ。若く見えるかもだけど」
 無礼に無礼を重ねていくスタイルの頭の中がぼうやなその男は、そう言ってやはり微笑む。
「でも、いずれ老いて醜くなっていくというのは貴方が言っていたことだ」
「……」
「昨年、自身の30歳の誕生日に刊行した自伝の最後は、その言葉で締められていたはずだ」
「……読んだの」
「ああ、とても楽しく拝読させてもらったよ。特に、章としては短かったけど立海大付属に居た頃の思い出話は貴方の根本が知れたようで興味深かった」
 友情出演として幸村や柳のことも書いた例の自伝のあの章を話題に出され、余計に疑心が煽られていく。実は柳にほとんどを推敲してもらったあの自伝だが、確かに一番私らしい文章が書けたのはあの章だった。
 無意識と言えどそれを見抜くほどだ、本当にファンなのだとしたらどうしてこんなことを。
「今の貴方のありのままを後世に残したい」
 ふと。目の前の男はその顔に張り付けた笑みを消して、真剣そのものの表情で私にそう告げた。
「こんな優等生カップルの放課後デートなんて、僕は何の興味もない」
 そう言って彼は、自分が撮ったのであろうライバル垂涎のお宝スクープ写真を踏みにじる。
「僕が撮りたいのは、いつだって美しいものだった。それは心の底から競技を楽しむ朴念仁や、自由気ままに世界中を飛び回る侍。……そして貴方だ、リトルクイーン」
 不覚だった。
 真剣な瞳、耳触りのいい中音の真摯な声に射抜かれて、情けないことに胸が高鳴った。
 ずっとバレエ一筋で生きてきた。色気のある話題なんて芸の肥やしにと付き合った同じ穴のむじな程度で、普段は男性相手にも闘争心剥き出しで戦ってきた。私の踊りで世界中を驚かせたかった。世界中を認めさせたかった。
 ついたあだ名はリトルクイーン。小さな東洋人プリンシパルを皮肉るあだ名は、いつしか親愛の情をこめた愛らしい女王陛下という意味合いを持った。
 美しいなんて言葉、腐るほど言われてきたのに。どうしてこんなにも嬉しいと思うの。
「貴方の一糸纏わぬ姿を、撮らせてほしい」
「うんうん、そんなに私が好きか分かった分かっ……今なんて?」
 目の前の青年の熱意に押されて私はその熱烈な、おそらく写真集を撮らせてくれというラブコールに頷きそうになった。
 だがしかし、不意に付け加えられた不穏な言葉に私の脳内は途端冷静さを取り戻す。
 見開いた目に映ったその男は、至極楽しそうだった。
「だからね、僕にヘアヌードを撮らせてほしいんだけど」
 沈黙、おそらく約10秒。息すら止まった。
「はああああああ!?」
 ヘア!? 今、ヘアとわざわざ付けたかこの男。こんな、僕女の人なんて興味ありません草食です、みたいな顔してヘアヌードと言ったか!? セミヌードならいざ知らずヘア!?
 ドン引きで背凭れにピタリと背を付ける私に、不二は身を乗り出して近づいた。
「キミのその服の下に、僕は興味をそそられて仕方ないんだ」
「ちょっ、ちょっと待って!? だから身体目当てなら抱かれてあげるからポルノだけは止めてっ!?」
「ポルノじゃない、芸術として撮りたいんだよ。あとそんな硬そうな身体男としてはそそられないから安心して」
「……」
 一発殴ってやろうかこの男。
「ね、前厄の厄落としと思ってさ」
「ね、じゃないよ。むしろ今初めて厄の存在実感したよ、ちょっと神社行ってくるわ」
 年明けてから母親がギャーギャーとアンタ前厄なんだからお祓い行ってきなさいよと騒いでいたのを思い出す。やはり母親は偉大だ、従っておけば良かった。
 付き合ってられるかと、バッグを引っ掴んで逃げるようにその部屋を後にしようとする。しかし後ろから聞こえてきた咳払いに、残念ながら歩みは止められてしまった。
「データ、欲しくないの?」
 ぎこちなく振り向けば、満面の笑みを浮かべた不二周助が片手で持った一眼レフをもう片手で指差している。
 悔しいが認めよう、顔は超タイプだ。満点、むしろそれを突き抜ける勢いで好みだった。だが中身は悪魔か鬼か。中学の頃悪魔と呼ばれていた後輩がコウモリか何かに思える程度には、その心は黒く濁っているように見えた。
 恐い。その時、生まれて初めて男を恐いと思った。
「……それ、出版するの?」
 羞恥と情けなさで顔が赤らむのが分かりながらそう俯きがちに問いかけると、彼は蕩けるような視線をこちらへ向けてくる。
「出来次第かな。僕がみんなに知ってほしいと思ったら売り込むし、僕が誰にも知られたくないと思ったら僕だけのものにする」
「……私だと、分からない様にはできない?」
「恥ずかしいんだ?」
 からかうような聞き方に、耳と首筋が燃えるような熱さを纏った。不二を見ていられなくて床に視線を落とす。泣きそうだ。
「結婚は、するつもり無いけど……晒し者にはなりたくない……」
「へぇ、そんな顔もできるんだ」
 立ち上がって近づいてくる気配に、身が竦んで動けなくなった。
 蹂躙される、晒される、侵される。
 恐い、男の人だ。
 いい歳した女が情けないといよいよ涙がこみ上げてくる頃、目の前に立った不二はそっと私の前髪を耳に掛けるよう頬に触れた。
「そのプライドを根こそぎ折るのも楽しそうだけど、今僕が見たいのはそれじゃない」
 そっと顔を上げる。甘ったるい顔をした美しい男が、私を誘惑していた。
 そういえば昔、柳に聞いたことがある。悪魔には人の心に入り込むために、これと決めた者が理想とする美しい人の姿に化けて現れるという説もあると。
「ねぇ、踊って? 名前」
 そこで初めて私の名を呼んだその男は、私にとっての悪魔なのか。それとも。


 そこから私は、1週間と少しの猶予を与えられた。
 撮影日は奇しくも私の31歳の誕生日。撮影スタッフは不二ひとりだけ、撮影場所は不二の知り合いの撮影スタジオ。持ち物はトウシューズだけでいいと言われた。
 それから、覚悟を決めて来るようにと。
 スタジオに一歩でも入った瞬間から泣き言は許さないということだろう。ホテルで会ってから3日も経つ頃には、私も頭が冷えてようやく自尊心が復活してきた。乗りかかった船だ、誰が泣き言など漏らすか。妹の夢は私が守る。
 全身のシェービングに噂のアンチエイジングエステに大枚叩き、私は誕生日を迎えた。
「どうしたの?」
 トウシューズを履きバスローブだけを纏って入ったスタジオは踊るのに適したリノリウム床だった。鏡やバーは無いがその代わりに余計な大きい窓がある。幸か不幸か今日は雨模様で、擦りガラス越しにも空の暗さが伺えた。
「……照明とかないんだ」
「そんなのあったら緊張するでしょ?」
 そう言いながら不二は一眼レフの設定を弄っている。そしてバスローブを纏ったままの私の見返り姿を許可なく一枚撮った。
「オッケー。ヘアバンドも外してくれる?」
「私、練習中はいつもこれしてるんだけど」
「少しくらいは色気出していこう」
 そう言って笑う不二に、外したヘアバンドを投げつけた。硬い黒髪がはらはらと顔や首筋に落ちる。
「勘違いしないで。私はここへポルノ写真を撮りに来たんじゃない」
「知ってるよ」
 可笑しそうに笑う彼を睨みつける。戦争を仕掛けるような心持ちでバスローブの紐を解いた。
「男の欲を満たすエロスなんてクソくらえよ。アンタに禁欲の美ってものを見せてやるから、よーくその玩具に焼き付けるのね」
 そして私は、バスローブを脱ぎ窓の方へと勢いよく放った。
 強く、気高く、逞しく、それを信条に今まで生きてきた。これからもだ。私は誰にも媚びないし、誰にも弱みなんて見せない。何があっても胸を張って堂々と生きていく。例え一糸纏わぬ姿で踊ることになってもだ。
 相対したカメラマンは呆然とカメラを構えることもせず、私の裸体を食い入るように見つめていた。
「……撮らないの?」
「ああ、うん……そうだね」
 呼びかけてやっと意識が戻ってきたようなその男に疑惑の目を向けると、彼は微笑んでその手に取ったカメラを顔の近くへ持ってくる。
「本当に、美しい身体だと思ってね」
「……そりゃあどうも」
 この男の言う『美しい』がこうも胸を打つのは、彼自身が美しいからなのか。芽生えつつある不二周助への下心を腹の奥底に埋めて、私は禁欲の仮面で表情を覆う。
 カメラを睨みつけると、すかさずフラッシュが光った。
「さあ、踊ってみせてよ。リトルクイーン、苗字名前」
 戦いのゴングが鳴る。挑発をかますカメラマン風情に、私は不敵に笑いかけて柔軟体操から始めた。
 体に曲線が無いとよく言われる。薄い胸と腹に棒切れのような手足。胴は肩から腰に掛けて徐々に幅が狭まっていく逆三角形で、骨盤の出っ張りなどはほとんど無い。自身の身体で柔らかい場所はと訊かれたら、苦し紛れに尻と答えるしかないだろう。それにしたって殿筋も普通の成人女性と比べたらだいぶ硬いだろうが。
 少年然とした身体とはよく言ったもので、私に第二次性徴の発現はほとんど見られなかった。体毛がちらちら生えて初潮が来たくらいか。
 もう何十年もこの体型のままで生きている。もしも年老いて醜い身体になっていくとしたら、私はそこでやっと女の身体になれるのだろうか。
「自分の身体にコンプレックスを持ったことはある?」
 スタジオに掛かったショパンの調べに乗って、自由気ままに即興の振り付けを行っていると、時折シャッターを切っていた不二が唐突にそう訊ねてきた。
 自分が脅してひん剥いた女相手に訊くことではないなと呆れるが、美しいピアノ曲を生まれたままの姿ででたらめに踊るのは思いの外気分が良かったから、なんとなく答えてやってもいいかという気持ちになる。
「自分の身体にコンプレックスを持たない人間がこの世にいると思う?」
「分からないよ、いるかもしれない」
「人間は強欲だからね、自分が持ってないものはどうしたって欲しくなる」
「キミも欲しかったものがあるの? 胸とか?」
 意外そうな顔をする不二を鼻で笑う。あんな脂肪の塊誰が要るか、バレエの邪魔になるだけだ。
「私が欲しかったのは身長だよ」
「……ああ、なるほど」
 静かな相槌に、私はそっと目を閉じカメラから背を向けて片足を天上へ向けて上げた。
 バレエはひとりでは踊れない。私があのロイヤル・バレエ団でプリンシパルに抜擢されたのは、当時そこで同じくプリンシパルとして活躍していた男性ダンサーに低身長の日英ハーフが居たからだ。
 私はその相棒として見出されたに過ぎない。150の低身長が相手になれる男性ダンサーなど世界中探しても居ないと、何度人に馬鹿にされたことか。
「チビは何処へ行っても馬鹿にされる。だから、態度はデカく在ろうと思った。誰よりも手足を大きく動かして踊ろうと思った。声も大きく背筋を伸ばして、高いヒールを履いて堂々と生きてきた」
「そして貴方は、世界中の小柄なバレリーナの希望になった」
 甘ったるい声で不二はそう答える。自嘲が漏れた。
「自伝にも書いたはずよ。身体のハンデを埋めるためには、血の滲む努力の他にたくさんの幸運が必要だったって」
 幸運はいつだって気付いた時には傍から消え失せている。ずっとそこにあると信じていたものが崩れるのは一瞬だ。
 だからこそ思う。イギリスの舞台の真ん中で踊れたあの5年間は、本当にたくさんの幸運が重なった末の奇跡だったのだと。
 ひとつでもボタンを掛け違えていれば、私はきっと今踊れてすらいなかった。
「貴方は?」
「……えっ?」
 恐ろしい『もしも』を考えたくなくて、踊る私を一心不乱に撮影していた男の集中力を削いだ。不二はカメラを顔から離し、眼鏡越しの青い瞳をこちらへ向ける。
「何かあるの? 体のコンプレックス」
「……唐突だな」
「私が言ったんだから言いなさいよ」
 そう催促すると、彼は少し言いよどんだ後に誤魔化すように一度フラッシュを光らせ、そしておもむろに口を開いた。
「あまり男性的でない体が、昔から恥ずかしかった」
「……そう?」
 踊る足を少し遅めて、彼を注意深く見る。服を着ているためよくは分からなかったが、けして男性的でないなんてことは無いと思った。たしかに少し小柄な印象は受けるが。
 彼は諦念を感じさせる微笑を浮かべ、自身の右手を見つめていた。
「筋肉が付きにくくてね。体毛も薄いし、顔も身長も声もこの通り。開き直って文化祭に女装なんかもしたけど、昔は好敵手とした友人に男としても選手としても遠く距離を置かれたのは悔しかったよ」
「……何か、スポーツを?」
「……」
 不二周助は、ただ黙って微笑んでいた。
「だから、だろうね」
「……」
「男にも女にもなれない身体を受け入れ、夢を叶えていく苗字名前にずっと憧れていた」
 うっそりとして目を細める不二周助のその顔は、憧れているなんてものじゃなかった。嫉妬、渇望、得体のしれない執着すら感じる。
 パンドラの箱を開けてしまった。何故だかその時、その一文が頭を過った。
 背筋を恐怖にも似た寒気が這い上がる。全身の肌が粟立ったのを感じた。
「それと同時に葛藤した。美しく孤高なキミの心身を永遠に見守りたいと思う一方、その魂がもがき苦しみ恥辱に塗れて縮こまる姿も見てみたいと思ってしまった」
 声のトーンが下がった。
 青い瞳に仄暗い光が灯る。それは私の視線を捕えて放さず、やがて彼はカメラを構えながら一歩一歩と近づいてきた。
 震えながら後退する最中で、この光景に猛烈なデジャブを感じた。得体の知れない闇を湛えたあの海色の瞳にも、それを恐いとも美しいとも感じる自分にも、何故か体に覚えがあった。
 途端、胸に熱が燻り始める。
「高貴なその身体を血の滲む努力の証だと誇らしく思う一方、膨らみも柔さも無い、何もかもが小さくつまらない身体を恥ずかしいとも思う苗字名前も見てみたいと思ってしまったんだよ」
 男はそう言いながら、後退する私のおそらく乳房を撮った。ただの薄い胸板の上に小さく自己主張する乳頭が付いただけの、乳房を。
 咄嗟に、両手で胸を隠してしまった。熱が顔にも移ったのが分かった。
「自信に満ちた表情を張り付けてはいるけれど、キミの顔のひとつひとつは優しくて頼りないね、名前」
「……!」
 今度は眼前にレンズを向けられる。胸が苦しく、息が荒くなっていくのが分かった。胸を隠しながら後退することしか私にはできない。
「幼い眉に丸い眼、真っ赤な頬も子供っぽくて愛らしい。その小さな唇で、今までどんな虚勢を吐いてきたの?」
「や、やだ……!」
 ヒタリと、背中に冷たい壁の感触が襲った。容赦なく響くシャッター音に、目を瞑って顔を背けることしかできない。
 目の前にいる男が、クスリと笑う気配がした。
「ここだけ大人っぽいのが、アンバランスで背徳的だね」
 その意味深な発言にハッと目を開くと、彼はローアングルから壁に背を付け俯く私の全身にレンズを向けていた。
 自身の濃いアンダーヘアのすぐ下に構えられたカメラに、思考が停止した。
「止めてっ、もう撮らないでっ!!」
 床に付いた膝を抱えるようにうつ伏せになったその体勢は、許しを請う謝罪の姿にも似ている気がした。頭上ではまだフラッシュが光っている。
 恥ずかしい、体中が熱い、消えてしまいたい。無様なダンゴ虫となり果てた私に、不二は膝を付き首元で散らばる髪を梳いた。
「ほら、頑張って気高い姿を見せてくれないと、キミの言うポルノ写真になってしまうよ」
 その手は皮膚に僅かに触れながら私の背骨を伝って臀部へと流れていく。ため息に似た吐息が漏れて、腰が震えた。
「エロス、色香と艶を纏った女の武器になれればいいけど、名前にそれは無理だ」
「あっ……」
 その細い指が私の臀部を弧を描くように撫でる。
「何も知らない憐れな獲物。嬲って虐めて踏みにじることで満たされる欲もあるんだよ」
「や、やめっ……」
 そして、先ほどまでシャッターボタンを押していたその指が、割れ目の奥へと伸ばされた。
 何もかもが終わってしまうと、縋る様に顔を上げて彼を見た。熱を持ったその自身が女である唯一の証明に触れられる寸前で、不二はその指を止める。
「さて、ここで名前に最後の選択肢だ」
 そう言って、不二周助は自身の髪を縛っていたゴムを解いた。艶のある細い栗毛がさらさらと流れた。その美しさに息を飲む。
 眼鏡を外した悪魔は、唇同士がくっつきそうになる距離で囁いた。
「もう一度立って誇らしげに踊るか、ここで僕にポルノ写真を撮られ続けるか。……それとも、頑張って僕を誘惑してみる?」
 緩やかに吊り上った口元を見て悟る。選択肢なんて初めから無い。在るのは、認めたくない情欲に火が付いた人間がひとり。それと笑う悪魔だけ。
 ゆっくりと上体を起こし、纏まらない思考を懸命に纏めようとしてその手を握った。私の陰部から離れた右手は確かに細く、それでも男性らしい骨張った手だった。
「私を……抱いてください」
 震える声で降伏宣言を告げた。祈る様に額に押し当てた手は、やがて私の手をすり抜けて私の頭を撫でる。
 目を開けたそこには、口元にだけ笑みを張り付け潤んだ瞳でこちらを凝視する不二周助がいた。
「ねぇ、天使がどんな姿をしているか知ってる?」
 歌うような軽やかな口調でそう問いかけ、彼は私を冷たいリノリウムの床へと押し付ける。
「諸説あるけど、近代までは性別が無いとされるのが普通だったんだ。どちらの性徴も持たない、男でも女でもない神聖な存在」
 美しい瞳を持った悪魔が、縋る様に私の肩を掴んで耳元へ唇を寄せた。
「キミは女になる。それでいいんだね? 名前」
 最後通告は、どこか悪魔の懇願にも聞こえた。


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