そのまま圧し折らなかった理性を褒めてくれ
 名門女子校とは、花も恥じらう乙女を集め女らしさを大切に教育を行う場所だと世間一般的には認識されているようだと知ったのは、氷帝大学へ進学して少しした頃だった。もちろん、そんな場所私は知らないと盛大に戸惑ったのを覚えている。
 多感な時期に身近に異性がいない代償として、我々はむしろ女らしさや慎み深さを失った生き物だ。創立何十年という由緒正しき私立ともなると教師陣も見事卒業生の女性で固められ、大和撫子の皮を被った女戦士たちにむしろ『男がなんぼのもんじゃ、今の時代は女も自立して生きにゃならん』という精神の元で徹底的な人間力を養われる。進学科は立海を始めとした近隣の進学校をあからさまにライバル視して有名大学への合格率を争い、商業科は卒業までにありとあらゆる生きるためのノウハウを叩きこまれるのだ。
 女が男より劣っているなんて考えたこともなかった。最も、私という存在が劣っていると思っていた時期はあったけれど。
「千代田さん今日も定時っすかー、女はいいなー? 結婚妊娠、人生の休暇作りたい放題じゃないっすか?」
 部署全体に聞かせるような大声でそう捲し立ててくる同期の男性社員を無視して、私は今日の業務に一区切りを付け自前のマグカップを洗うためにそれを持って流しへと立つ。
「いいなーいいなー、俺も妊娠したいー! 先輩、俺と不倫してー」
「ったく、もうほっとけ。また倒れられたらどーすんだめんどくさい。さっさと帰しゃいいんだよ」
 まだ背後で騒いでいる同期を、私の隣の席の三十路事務員としょっちゅう電話で私の悪口を言ってる営業が聞こえよがしに注意していた。近くのデスクの女性陣がクスクスと笑いながらのらりくらりとキーボードを叩いている。
 だから不倫じゃねぇよ、戸籍謄本見せたろかとここ数か月で職場にいる時の心の声がますます汚い言葉遣いになっていくのは致し方ないことなのか。五月末で退職するなら会社での名義は千代田のままで良いですよね? と食い気味に人事に圧を掛けられ頷いてしまったことを少々後悔する。こんなことなら残り一か月でも幸村楓を名乗ればよかった。
「つか最近なんなの千代田? 全然やる気ないし。洗い物当番制に戻っちゃったじゃん」
「もう辞めるから開き直ってんじゃん? ふつー辞める前に部署の先輩には一言あってもいいんだけどね」
「ねぇ、マジに結婚相手商社マンのイケメンエリートって? ありえんでしょあんな不倫女」
「マジらしいよ。大学からの付き合いらしい」
「うっわ、主任が浮気相手かよーないわー。しかもそれ隠してあっさりデキ婚とかますます無いわー死ねばいいのにー」
「それより、あいつホントは結婚式も二次会もやるらしいよ。隠してるけど」
「はぁ!? うわ、性格わっる! 呼べよ、商社マン紹介しろよホント空気読めねぇなアイツ」
 流しに出向くと、ピンクのゴム手袋をはめて男性陣のマグカップや湯呑を洗ってるふたりの先輩事務員がいた。ちなみに口が悪い方が黒髪童顔低身長で表向きの性格は内気で恥ずかしがり屋、部署内人気ナンバーワンだ。世の中そんなものだ。
 あんな性悪サル女、パパの大事な仕事仲間に紹介できるわけないじゃないのね。マグを持っている方とは逆の手で下腹を撫でながら、給湯室入口横の壁に凭れ掛かった。
 仕事は真面目にやってるふりをして流し、生きるのが不器用そうな人間に押し付けられるものは押し付け、自分は少しでもステータスの高い男を物色しながら女子力なんて少しも腹の足しにならない謎の力を蓄える。最終目標を他人本位にしている彼女たちをずっと見ていたのならば、この会社の男性陣が女を馬鹿にするのも頷ける。ここ最近はそう思うようにもなってしまった。そのくせ彼女たちは心の底では男なんてみんなサルと嘲笑っているのだから、そりゃあサル以下の男としか懇ろになれないのも納得だ。
 もっとも、男の肩を持つ気も毛頭ないが。彼らも自分の自尊心や征服欲を満たしてくれる都合のいい異性を探しているだけだ。
 きっと、彼と同じように。
 夫、幸村精市と付き合い始める前に将来を誓い合った男がいた。彼からプロポーズを受けたのはまだ高校生の頃で、当時誰でもいいから誰かから必要とされたかった私はその求愛を唯一無二と思い込んで必死に縋りついていた。結局彼とは決定的な別れを迎えたわけだが、当時は本気で結婚するつもりだった私を周りの友人たちは一様に口を揃えて「おかしい」と非難した。
 年齢に見合わない愛の重さに皆はそう言っていたのだと当時は思っていたが、今なら分かる。私は当時、あまり認めたくはないがそこで私を蔑む性悪たちと同じ思考回路の人間だった。
 自分の欲しいものを与えてくれる男に媚を売り、顔色を窺って寄生していく寂しい存在だった。相対するのは自己主張をしない愛玩人形を愛でて、それを愛と名付ける悲しい生き物。
 健全な人間関係を知る者には、さぞ歪に見えたことだろう。
「げっ」
「……」
 一仕事終えて出てきた彼女たちが、壁に凭れ掛かって待っていた私を視界に入れてあからさまに顔を顰める。軽く会釈だけしてすれ違うと、スイッチでも入れたかのようにまた罵詈雑言が再開する。
 徐々に遠ざかっていくそれを聴き流しながら、茶渋が付いたその白いマグカップを簡単に洗って他の社員の物と一緒に並べた。
『キミにその種を植え付けた心ない他人は責任を取ってくれない。キミが、自分の力でそれを取り除くしかないんだ』
 男も女も馬鹿ばかり、自分も含めみんな滅びればいい。そんなことばかりを考えていた矢先にぶつけられた不二の言葉を、最近よく思い返している。
 こめかみを掌で叩いた。そうだ、こんな思考の迷宮にいつまでも沈んでいるんじゃない。会社の人間はどうでもいい、元婚約者はもっとどうでもいい。
 男が女がと深く考えすぎて、会社の人間を嫌うあまり彼らと同類になり掛けていることにはだいぶ前から気付いてた。気付いていて止められなかったのだ。私は泥中の蓮にはなれない。環境に応じてそれなりに汚くなっていく平々凡々な人間だ。
 だが、それでも決めたのだ。このまま堕ちていくのをけして受け入れはしないと。最愛の人と誓い合ったあの朝に。
「……お疲れ様でした」
 時刻は午後6時半。定時からやや過ぎた時刻にそう挨拶をして退社するも、オフィスからひとつも挨拶が返ってこないのはもはや慣れた。しかしその程度のことで私の弾む足取りは止められない。
 エレベーターを待つ間にスマホを取り出しメッセージアプリを起動させる。自身が育てたマリーゴールドのアイコンが目印の彼のトークには新着メッセージが一件。
『ちょっとだけ残業かも……すぐ行くからちょっとだけコンビニとかで待ってて!』
 メッセージが届いたのは五分前だった。そう、彼は今週の月曜から今日まで、朝だけでなく退社時も私を待ってくれていたのだ。
 頭のおかしい弊社の愉快な仲間たちは、過労で倒れた妊婦に連休明けの月曜日に相変わらず理不尽な雑用を押し付けた。案の定私は九時近くまで残業させられたわけだが、それよりも退社時にようやく気付いた旦那からの鬼電連投メッセージの方がよっぽど血の気が引いた。幸村さんの勤務先のような本物の優良企業ではない弊社の悪しき残業風習が明るみになり、盛大に笑顔でブチ切れ「明日からもう出社するな」とどこかのバレエ馬鹿と同じ台詞を吐き捨てる夫に、元はと言えば私の態度がこの常態化した残業を招いていることと、明日の朝必ず上司に体調面で残業が厳しいと相談することを条件にどうにかなだめたのが今週の始まりの出来事だった。思い返せば衝撃の週初めだ、とにかく今週が無事終わって良かった。
 翌日ハゲ上司に掛け合い、想定通り定時退社と引き換えに四週間弱の針のむしろを入手したわけだが、背に腹は代えられない。姉と似て幸村さんは一度口に出したことは是が非でも実行したがる強引さがある。
 五月末退社に拘るのは、表向きにはあくまで寿退社として可笑しな辞め方をしないため。その実、夏季ボーナスをなんとしても手に入れるためだった。
『賞与算定期間は五月末日までなので、その前に退社する人間には一切お支払いできません』
 それが法に引っかかるのかどうかを調べる体力すらなかった。叩けば叩くだけ埃が出る企業なのは分かりきっていたが、戦うにも金と時間が要る。今の私にそれは無い、冷たい声で淡々と言い放つ人事に従う以外の道は無かった。
 妙なことに幸村さんは私に金銭の話題をほとんど振ってこないが、彼だってまだ社会に出て二年と少し。ただでさえ、この人生の金欠時に収入源を断つという我儘を許してもらったのだ。少しでも新生活の足しにするためにも、せめてボーナスだけはもぎ取らなければ。
『いつものコンビニで待ってます。急がなくていいので、気を付けてきてくださいね』
 到着したエレベーターに乗り込みながら、送信ボタンをタップした。すると、誰かが急いで駆け込んできたのが分かった。
 強引に扉をこじ開け乗り込み、そしてすぐさま閉ボタンを押したその人物の顔を確認するのが一瞬遅れたことを、私はすぐに後悔した。
「ねぇ、本当に辞めちゃうの?」
 わざとらしい寂しそうな表情を張り付けながら、その眼は欲でギラついていた。ぐるぐると胃が痛くなっていく気がする。
 乗り込んできたのは、件の噂の相手。数か月前まで社内唯一の私の味方だと思い込んでいた男性だった。
『千代田さん見てるとうちの奥さん思い出しちゃってねぇ。バリキャリで会社の男全員敵に回してるような人だけど、その強さに惚れ込んじゃってさ』
 残業中によく缶コーヒーを差し入れてくれた彼は、当初そんな奥方の話ばかりしていた。
 話し方や雰囲気がほんのちょっとだけ幸村さんに似ていると当時は思っていた。聞けば学生時代テニス部に入っていたということもあって、不覚にも心を許すのにそう時間は掛からなかった。
 頼れる優しい上司として好きだった。部下として可愛がってくれているだけだと信じていた。もう少しプライベートに踏み込んだとして精々妹扱いだと。だから、女として狙われていたんだと知ったあの夜、本当にこのまま車道に飛びだして死んでやろうとかと思った。
「いろいろと変な噂流れちゃったけどさ、あんなの一時だけだよ。これからも俺だけは楓の味方だから、辞めないでよ」
 もう止めてくれ、喋らないでくれ。
 キミを抱きたい、ホテル行こう。そう言われて無理やり抱き付かれた時、衝動的に死にたいと思った。それを阻止してくれたのはふと脳裏に過った幸村さんの笑顔で、私は藁にも縋る思いで電話帳から姉の名前を探した。駆けつけてくれた姉に散々喚いた後で、残ったのは女という性への諦め。
 本当に、優しくしてくれたのだ。右も左も分からない私にさり気なく助け舟を出してくれた唯一の人だった。その優しさの正体が汚い性欲に塗れた男の下心だったと知った時、せっかく幸村さんが塗り替えてくれたこの体がどす黒く染まっていく恐怖に襲われた。
 ただヤりたかった上司、人形が欲しかった元婚約者。私に良くしてくれる人間の裏なんて所詮こんなものだ。
 もしかしたら、幸村さんだって。そう考えてしまう自分が本当に大嫌いだ。
「楓のことが好きなんだよ。彼氏の次でいい、遊びでもいいから俺と……」
 一階へ辿り着いた瞬間、エレベーターを命からがら飛び出した。
 彼を男として見たことは一度たりとも無かった。ただの上司として見ていた当時は自信を持ってそう言えたのに、今となってはそれすらも断言できない。私は無意識のうちに男を誘っているのか。そんな、幸村さんを裏切るような行為を行っていたというのか。
「おい! 今まで散々味方してやったのにその態度はねぇだろ!?」
 入口の自動ドアを出て数メートルのところで右手を掴まれた。恫喝して従わせようとするその男の凶暴さが恐ろしいと思った。声が出ない、力も入らない。視界が滲む。私は見返りを渡さなければ、男の人から人として認められることもままならないのか。
『大好きだよ』
 聞こえた愛の言葉は、元婚約者のものだったのか。それとも最愛の彼のものだったのか。

「痛っ!?」
 突如、目の前から濁った悲鳴が聞こえて掴まれた右手が自由になった。
 驚いて、いつのまにか閉じていた眼を見開くと、私と彼の間に誰かが立っている。
 濃紺のスーツのジャケットは前のボタンが閉じられてなくて、覗いている薄ピンクのネクタイは似合うと思っていつかのバレンタインデーにチョコと一緒に贈ったものだ。
 捻りあげたその汚い手を突き飛ばすように離したその右手は、数多の勝利と引き換えにたった一つの絶望を生んだ尊い存在。
 無表情で目の前の男を見据えていた幸村精市は、やがてそれはそれは美しく微笑んだ。その瞳に烈火の如き怒りを湛えて。
「初めまして、楓の夫です」


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