オムニコートで捕まえて
 杏と次に会う約束を取り付け通話を切りあげたその数分後、式の打ち合わせを終え自宅に付いたらしい幸村さんから電話が掛かってきた。当初の予定通りウェルカムパンフレットの内容や席次等の決定、披露宴中のBGMに引き出物の選定を行ってきてくれた彼は、その報告をした後に次回の打ち合わせまでに決めることやそろそろ本気で決めなければならない新居について話題にした。
 よく、こういうことは男性側の腰が重く結局女が全部決める羽目になったという話を聞く。だが私たちに限ってはそんなことは全くなく、幸村さんはその段取りの良さと決断力を遺憾なく発揮し常に私をリードしてくれる。
 これ以上何を頼れと、何を彼の肩に乗せるつもりだと、冷静な自分が蔑んでくる。
「あの、せいくん」
 頼る。信じる。大丈夫だ、大丈夫。
 爆音を奏でる心臓にそう言い聞かせ、私はスマホをギュッと握りしめた。
『ん? なに?』
 一通りの必要事項を聞いた後、一瞬の会話の途切れを突いて名を呼んだ。彼は穏やかな声で訊き返してくる。舌が渇く、当たり障りない話題で濁したい。
「あの、明日から五月末までの間……暇な時だけでいいので」
 冷たい目をして見下ろしてくる私の後ろで、杏が微笑んでくれていた気がした。ベッドマットに爪を立てる。
「朝、一緒に出社しませんか?」
 もう何カ月も前から意地だけで出社していた。
 あの地獄のような場所へ出向いても、待っているのは書類の山と嫌味な同僚、先輩の甲高い怒鳴り声に男性上司からのセクハラの数々。そして極めつけはあの男の度を超えた付き纏いと嫌がらせだ。倒れた理由の一つにストレスが上げられた時、マリッジブルーとマタニティブルーがどうのこうのと担当医に冗談っぽく言われたがそんなことは考えたこともなかった。
 心穏やかでいてあげられなくてごめんねと、どれだけ私の子宮を寝床にするこの命に謝ったことか。
 なんにせよ、今の私の緊急課題がこの残り4週間弱をどう乗り切るかであることは分かりきっていた。子は親を選べない、私の事情でこの子が生まれてこられなかったりしたらそれはあまりに理不尽だ。
 そこで考えたのがこの方法だった。毎朝彼と一緒に一時を過ごすことができたなら。
『ああ、いいねそれ』
 スマホから弾んだ大好きな声が聞こえてくる。
 そう言うと思った、貴方はそういう人だものね。
 そういう優しさに一度甘えだすと、どこまでも頼り切って貴方を追い詰めてしまいそうで、それが一番なによりも怖かった。
「……あの、本当に暇な時だけでいいですからね?」
『え? 朝なんて基本暇じゃない?』
「暇というか、精神的な暇というか……」
『精神的な暇ってなにさ』
 変なの、と笑う幸村さんにどう伝えてもきっと通じない気がする。疲れていたり懸案事項を大量に抱えている時に人と会いたくないと思うことが彼には無いのだろうか。
 私にはある。
『まあ、疲れてる時は断っていいとか、大方そういうこと言いたいんだろうけどさ』
「!!」
 四年間の付き合いを甘く見るなよとでも言いたげに、彼は私の心中を当ててみせる。そしてスマホ越しでも分かるあの不敵な笑みをおそらく浮かべてこう言った。
『むしろ一度全力で疲れさせてみてくれない? 俺の奥さん』

 そして翌日から、旦那さんはなんと毎朝甲斐甲斐しく私の家まで迎えに来るようになった。
 いくら同じ市内に住んでいると言っても、幸村邸から私の家まで徒歩十分はかかる。一見近いように見えるが最寄駅を挟んだ真逆の位置にあるそこへ、彼は忙しい朝にわざわざ迎えに来るのだ。頼むから最寄駅待ち合わせにしようと懇願したが、こんな暑い中駅の構内で待たせるの? と例の神の子スマイルと言われるあれで一蹴される。まだ五月で朝はそんなに暑くない、それ以前に待たないような時間に合わせて来ればいいだろうという主張は何故か通らない。
 そうしているうちに、朝デート三日目を迎える頃には彼はとうとう我が家で朝食を食べるようになった。
「……もう勝手にして」
「楓、ちょっと食欲戻ってきた?」
 母が差し出す白米が盛られた彼用になった客人用の茶碗を笑顔で受け取り、彼は聞こえていたであろう私の呟きをガン無視して私の目の前に並ぶ食事を覗き込む。
 本日は朝デート五日目の金曜日。やっと一週間が終わろうとしている今朝は、ライチとカットされたキウイが皿に盛られていた。
「病は気からってね、精市くんが来てくれるようになってだいぶ良くなったのよ。ね、楓」
 母は嬉しそうに幸村さんのみそ汁を注いでいる。嬉しいのは間違いないのだが、私が考えていた幸村さんに少しずつ頼ろう計画はもっと謙虚なものだったはずだ。
 先ほどから気配を消して食後の緑茶を啜りながら新聞を読んでいる父に助けを求めても、何故か彼はだんまりだ。男なら男の無理を察して止めてくれると信じていたのだが。
「それは良かった。もっと早くこうしておけば良かったな……」
 そう言って一瞬物憂げな表情を浮かべる彼だったが、すぐに母の用意した朝食の味を褒める作業に入る。営業になってからこういう世渡りが前にも増して得意になった。
 無理はしてない? 今度は父に経済関係の話題を振る彼の横顔にそう内心問いかけても、届くはずがない。
『ワイ、テニスが大好きやー!!!』
 朝の情報番組に合されていたテレビから、突如そんな騒がしい関西弁が聞こえてきたのはそんな時だった。
 四人の視線が一瞬テレビに吸い寄せられる。画面の中では今を時めくプロテニスプレーヤーの遠山金太郎が満面の笑顔でラケットを振るっていた。纏っているのは彼らしくない黒いインナーだ。
「インナーのCMか」
 わざとらしくそう言って食事に戻る幸村さんは、その瞳がほんの少しだけ揺れているのに気付いているのだろうか。越前手塚徳川に続いて四人目か、彼と因縁があるテニス選手がCM出演するのは。
 新居にテレビは本当に必要だろうかと頭の隅で考えながら、とりあえず明日からテレビは消しておこうと決意する。父がテレビから視線を新聞に戻したのを確認して私はキウイをフォークで刺した。
「相変わらず男前ねぇ、遠山金太郎」
 空気を読まずそんな発言をしたのは、やはり母だった。最後にニコリと笑った顔がアップで抜かれて終わったアイドル扱いのCMを見て彼女はそんなことをのほほんと言う。
「今度の全仏オープン、彼の他に手塚国光と越前リョーマも出るんでしょう? 日本人が本当によく活躍するようになったわよね、テニス」
 そうにこやかに幸村さんへ話しかける母のこの地雷原タップダンスは、今回が初めてではない。幸村さんに何度かやっている上にあの不二周助にすらやらかしている。姉さんが何度か強めに注意をしていたが、母は根本的に彼らがテニスに掛けていた想いを軽く見すぎている。伝わるはずもなかった。
 学校の部活動というものをそもそも無意識のうちに甘く考えているのだ、彼女は。
「そうですね。三人とも、良いところまで行けたらいいですよね」
「そうねぇ、手塚あたりが優勝しちゃったりして」
「あはは、それはどうでしょう? ボルグやアマデウスも出ますからね……」
 綺麗な笑みを浮かべて良き娘婿の仮面をかぶる幸村さんが見ていられない。とにかく今夜よく母さんに言い聞かせなければならない、けれどどうやって伝えればいいのか。母さんが夢半ばで帰国を余儀なくされた独身時代や、姉さんが怪我でバレエを断念したあの頃の話題を出せばいいのか。考えれば考えるほど気が重くなってきたその時だ。
「精市くんは他のスポーツは興味ないのか?」
 意外にも、その会話の流れを断ち切ったのは新聞を畳んだ父だった。
「他の、ですか?」
「パ・リーグは面白いぞ」
 始まった。母はそんな呆れ顔をして渋々キッチンに戻っていった。幸村さんの頭上には盛大に疑問符が並んでいるが、ロッテ贔屓のパ・リーグ箱押しの父は構わずそのままパシフィック・リーグがいかに面白いかを語り始めた。
 父さん、幸村さんはどちらかといえば野球よりサッカー派なんです、再びJ1へと必死で戦ってる湘南ベルマーレを支える地元愛に満ちたサポーターなんですとはさすがに言えなかった。おそらく父なりの気遣いだと分かってしまったから。

「お義父さん、パ・リーグが好きだったんだね」
 会社までの道のりで、幸村さんは満員電車の中私をその体躯で庇いながらそう囁いてきた。私は苦笑しながら控えめに彼のスーツの裾を掴む。
「適当に流してくださいね。じゃないと不二さんみたいに球場まで付き合わされますよ」
「えっ、不二一緒に観戦したの!?」
「姉さんも一緒にですけど」
 人の顔色を見て振る舞うのが上手い不二は父に話題を合わせるのも得意だが、不二が本当はウィンタースポーツにしか興味が無いのは父も気付いている。でも敢えてとぼけて誘い続けているのは、ああ見えて息子と野球観戦するのが長年の夢だったからだろう。
「でもまあ、誘われたら一回行ってみようかな。……気を使わせちゃったみたいだし」
 車内ドア横の角を陣取り、壁に私を凭れさせてくれる彼はそう言って笑いながら私に額を寄せてきた。背後のアラサーリーマンが『朝からいちゃついてんじゃねーよ殺すぞ角譲れクソカップル』とばかりに睨みつけてくるが、幸村さんは知ったことではない。
「……母が、朝から失礼なことを」
「んー……」
 視線を下に向けてそう呟くと、彼はバツが悪そうにそんな生返事をした。
「あのね、楓。確かに俺、いまだに手塚や越前が活躍してるところ見ると、お腹が痛くなるよ」
「……」
「仕事でくたくたになって電車に乗って、たまたまスマホで見たネットニュースで彼らの試合結果とか見ちゃうと、俺なんでここにいるんだろうなとか思う。思ってしまう」
 胸が苦しい。それは一時期本気で、演劇関係者のSNSアカウントを軒並み非表示にしようかと考えた私と重なって見えた。
 私はまだいい。夢を追うという道がしっかりと開けていながら、そこを自らの意志で選ばなかったのだ。自業自得、いくらでも諦めがつく。
 幸村さんはそうではない。
「でも、立海テニス部として駆け抜けた日々を後悔したことは一度も無いから」
 幸村さんは、高校時代に常勝の象徴というその責務を果たすため、様子の可笑しかった右肘を無視して試合に出続けた結果、テニス選手としての未来を永劫断たれていた。
 それがどれだけ、辛い結末だったか。この人は結局、最後まで自分のためだけに本気のテニスをすることなく、チームのために殉職したのだ。
「それに、本気でなくなった今でも、テニスというスポーツを俺は愛しているよ。心の底から」
 それでも彼は、こうやって笑うのだ。その気高い精神は少しも落ちぶれることなく、今でも惜しみない愛情をテニスに捧げている。
 まただ。不毛なのに、私と彼が同じ場所に立てるはずがないのに、私はまた彼と自分を比べて泣きたくなる。
「だから、お義母さんを責めないであげて。振られた話題に心の底から穏やかに対応してあげるのはまだ難しいけど、俺がテニスを頑張っていたことを知っていてくれる人がいるのは嬉しいんだよ」
「ひとつ、訊いていいですか」
 走行音がうるさい車内で、思いの外鋭く響いた声に私自身も驚いた。幸村さんは少し目を見開くと、すぐにいつもの微笑みに戻って「なに?」と問い返してくる。
 頑張っていた、なんてものじゃないだろう。私と貴方がちゃんと出会ったのは貴方が本気のテニスから離れた後だった。それでも分かる。知っている。
 命を、掛けていたじゃないか。
「どうして、テニスを趣味に出来たんですか?」
 涙こそ流していなかったが、まるで泣いているかのような震えた声を聞いて、幸村さんはどこか切なげに眼を細めた。大量の人を食った電車が刻一刻と横浜へ近づく。各人のパーソナルスペースが著しく冒されたその空間で、私たちだけが付き合い始めのあの頃の、氷帝大学のあのテニスサークルの練習コートに居るような気がした。
「立海以外でテニスをする気は無かったよ」
 目の前の愛しい人は、細めた眼をそのままゆっくりと閉じた後、口角を上げた。
「でも、どうしても、辞められなかった」
 そう告げる声は震えていた。私は縋る様にそのジャケットの裾を握る。
「同学年の氷帝レギュラーの中で一人だけ、日本のインカレで戦う覚悟を決めた宍戸を学内で見た時は、ここに来るべきじゃなかったと思った。しかも同じ学部に居たルドルフの観月が、就活の評価に色を付けるためなんてもっともらしいこと言って、テニス部のマネージャーをやり始めたのも見てて辛かった」
 氷帝学園にはテニスサークルとは別に、硬式テニス部というものが存在する。ふたつの団体は文化祭等の学内行事では協力して活動を行うが、それ以外の日常活動は全く別だった。テニスサークルは週二日の自由参加練習で幽霊部員や飲み会要員も多かったが、テニス部はインカレでの活躍を視野に入れた本気の部活動。当然練習は週五日あり、氷帝学園中等部高等部の流れを汲むその練習内容も過酷を極めていた。
 幸村さんは在学中テニスサークルの方に所属し、宍戸さんや観月さんはテニス部に籍を置いていた。
「見っとも無く燃え残った残骸を悟られたくなくて、彼らから、テニスから逃げ回ってたらある日宍戸に捕まってね」
 幸村さんの世代でテニス部の部長を務めていた、あの短髪の好青年を思い出す。どこか女に対してぎこちない態度で接する人だったが、部外者の私にも学内で会えば必ず声を掛けてくれた。
「お決まりの『激ダサだな』ってまずは一喝。逃げるふりして未練がましく俺や観月を目で追うくらいなら、さっさとコートに入りやがれ。その未練、神の子の名前と一緒にこの俺が葬り去ってやるよって」
 そう、そういうことを言いそうな、他人に厳しく自分にはもっと厳しい人だ。
「数か月ぶりの試合に、情けないことに大泣きしてしまったんだ」
 衝撃の告白を何でもない風に言う夫の表情は、ひどく懐かしそうだった。
「ずっと、テニスをしたくてたまらなかったんだ」
 横浜の手前の駅に停車し、逆側のドアが開いて幸村さんが私に体を寄せてきた。幸村さんの体臭は出会った頃と同じ、男性が好みそうな制汗剤の匂い。
 この人とテニスが永遠に離されることはないのだ、それを悟って何故だかひどく安堵していた。
「部活引退後は、チームメイトが勉強の息抜きに付き合ってくれって離してくれなくて。大学進学後はそうやってまんまと宍戸や観月の口車に乗せられて、就職後は死にかけの不二くんを今度は俺が元気づけるために。……入れ代わり立ち代わり、どいつもこいつも俺をコートに引き戻そうとするんだよ」
 そう言って可笑しそうに笑った神の子が、私は心の底から羨ましかった。
 誰も私を舞台に引き戻してくれないのは、私が舞台を心の底から愛せなかったからなのか。
 自分からその一歩を踏み出すには、私は色々な物を犠牲にして保身と安定に逃げすぎた。
「楓」
 電車が大きなカーブに差し掛かり、幸村さんが私に軽く覆いかぶさるような形になる。彼の高い体温を感じながら、私はそっと目を閉じた。
「俺が、楓が舞台に戻ることを応援するって言ったら、どうする?」
 馬鹿みたいな提案に、私は思わず吹き出した。
「たった一回ド素人演技を披露したくらいで、調子に乗らないで」
「だよね」
 その答えを分かっていたかのように、辛辣な言葉を物ともせず夫はいたずらっ子のように笑ってくれた。もうすぐ横浜駅に着く。


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