終わらない世界
※こちらは後篇です。


『仕事辞めたかったから、狙ったわけじゃないよね?』
 妊娠が確定したその夜、東京の姉さんのマンションに行った。恐る恐る、だが無遠慮にそんなことを聞いてきた彼女に、私は今までの行き場の無い憎しみや憤りを全てぶつけるように思いきりその頬を張った。
 小柄な姉さんは、そのまま後方によろめいて大事な足をテーブルにぶつけた。
『どうして、姉さんまでそんなこと言うの』
 あんなに一生懸命、私が何を考えてるか伝えたのに。どうしてそんなことが言えるの。
『姉さんじゃあるまいし、そんな!!』
 そんな、男の責任感に媚びるような真似なんて絶対しない。
 そう言おうとした私の口を封じたのは、ペンだこの出来た男の手だった。
『妊婦がそう興奮するものじゃないよ。……今日はもう帰った方がいい、送ってくから』
『!! 結構で……』
『いいから』
 振り返った先に会った冷たい青い瞳を、しばらく悪夢で見るほどだった。
 未来の義理の妹に向けるものではない。自身の庇護対象に手を出されて殺気を剥き出しにする、雄そのものだった。
 頬より足を擦って俯き、言い返すことも無く無言を貫く姉さんに謝ることもできず、私は結局その日不二周助の車で実家まで送り届けられることになった。
 そして。
『0.02ミリの隔たりがもどかしくなった?』
 帰りの車内で、あろうことか不二はそんなことを聞いてきた。
『……なにを』
『キミが考えそうなことは何となく分かるよ。気付いてる? 僕ら、実は結構似てると思うんだ』
 相変わらずの笑みを浮かべて、彼はそんなことを言いながら高速の加速車線から本線へと合流した。
『いいこと教えてあげようか?』
『……』
『渚、ここ4年間ずっとピル飲んでるよ』
 お前みたいな馬鹿女と一緒にするなと、そう言われている気がした。
『ああ、馬鹿な女だとキミを揶揄する意図は全くないから』
『!?』
『渚から大体のあらましは聞いたけど……楓ちゃん、もう少し冷静になってみない?』
 姉を誑かす大嫌いな男の静かで妙な説得力がある言葉に、胃の奥がシクシクと痛む。その先を聞きたくないと駄々をこねる自分がいる。
『聞きたくない? それならそれでも良いけど』
『あの、いちいち人の心読まないでくれませんか?』
『読んでないよ。言っただろ? 僕ら、実は似てるんだ』
 認めたくないその一説を鼻で笑い飛ばすだけの元気はもう残っていなかった。諦めて聞き流す心の準備をした、その時だ。
『キミの敵は一体誰?』
 聞き流すことも、即答することもできない自分に困惑した。目は自然とサイドウィンドウへと泳いでいく。
『会社の心無い上司や同僚? SOSを受け取ってくれない幸村? 根本を分かってくれない渚? それとも、この国に蔓延る差別意識そのものなの?』
 知らない。そんなの、もうとっくの昔に分からなくなってる。
『僕は、そのどれでもないという印象を持ったけどね』
『……』
『キミの真の敵は他の何でもない、キミの中にある偏見と不信だ』
 大嫌いな男が突き付けたその言葉が、悔しいことにぐちゃぐちゃだった思考回路を束ねて一つの真実を浮き彫りにさせた。
 悔しくて、苦しくて、歯を食いしばって目を覆った。
『偏見は、心が弱ると差別になる。不信は心が疲れると嫌悪に変わる』
『……うるさい』
『キミにその種を植え付けた心ない他人は責任を取ってくれない。キミが、自分の力でそれを取り除くしかないんだ』
『黙れ』
『そんなに』
 そんなに、自分で自分を傷付けなくてもいいじゃない。
 不二周助は、泣きたくなるほど優しい声音でそう呟いた。
『……お前に、何が分かる』
 同じ言葉を、仕打ちをぶつけられてからもう一度同じことを言ってみろ。
 どれだけ惨めで空しくて、消えたくなるか分かるだろう。
『救済も助言も求めていない。欲しいのは理解者と言う名の道連れだけ』
 私の敵意など少しも気にせず、彼はそう言って自嘲にも見える微笑を浮かべた。
『本当に……難儀だよね、僕たち』

『俺は神様じゃないから、楓の全てを分かってあげることはできない。これまでも、これから先も』
 分かってもらえないというのなら、最初から何も知られたくはなかった。
 幸村精市にとっての千代田楓は、気が長くて穏やかで他人の幸福をちゃんと祝える、幸村精市のことが大好きでたまらない女。それでいい。それがいい。
 私の汚いところなんて、貴方は一生知らなくていい。
『何があっても、楓を愛している』
 私のそういう側面だけ愛していると言ってくれて、良かったのに。
『例え性格が変わったって、今までの楓が全部消えるわけないだろう!?』
 馬鹿じゃないの。
 だってこの先、一生このままかもしれないのよ。
 ずっと心が疲れたまま、友達ともどんどん距離を置いて、道行く幸せそうな人に心の中で舌打ちしながら生きていくかもしれないのよ。
 貴方にはもっと、自分にも他人にも優しい人が似合うに決まってるのに。
『……病める時も、健やかなる時も』
 どうしてそんなに、私なんかを救おうと必死なの。
『貴方を愛し、敬い、慈しみ、生涯をかけて守り抜くと誓うよ』
 私、なんか。

 こんな私を、それでも受け入れ守り抜くと誓う世界一の馬鹿を、私以外の誰が幸せにできるというのだろう。
 私以外の誰が、その綺麗ごとを信じ抜くというのだ。

『招待状、そろそろ届いただろうか。つわり酷いけど何とか生きてます』
 小さな一歩だったと思う。そう認めてあげることが自分への薬だと思った。
 他愛ない呟きは、流れの速いタイムラインに埋もれていく。周りからの反応は無い。それでいい。少しずつでいいんだ。
 本当は気付いていた。私の周りに、浅慮で非力で傲慢な女性像を受け入れて幸せになっている女など一人もいない。
 みんな、自分らしさを大切にして今を懸命に生きている。だからこんなにも眩しくて、妬ましい。
 スマホを表向きにベッドサイドへ置いた。そろそろ打ち合わせが終わって、彼から連絡が来るかもしれない。まだ『せいくん』と呼びなれない旦那様からのコールを待ちながら、私は大人買いして途中挫折したあの漫画を手に取った。
 しばらくしてバイブレーション音が聞こえ、表示された名前すら確認せず通話ボタンを押したのは、断念していた11巻の因縁対決が予想以上に熱くて手に汗握る名試合だったからだ。
『あ、楓? 久しぶり! 今大丈夫?』
 だから聞こえてきた声に、思わずスマホを落しそうになった。それは旦那様の声でも、姉や家族の声でもなかった。
「……あ、杏?」
『なあに? その幽霊の声でも聞いたようなリアクション』
 思わず通話相手の名前を確認する。画面に表示される名前は間違いなく『橘杏』だった。
「な、なにかあった?」
『何かなきゃ友達に電話しちゃいけない?』
 最後に聞いた明るく爽やかな口調と少しも変わらない、私の知っている杏だった。そう、彼女はメッセージのやり取りが苦手なクセに電話が好きで、大学時代もこうやってよく突然電話を掛けてきた。
 私は電話はあまり好きじゃない。相手が出てくれないと寂しいから。
『さっき楓の呟き見て、なんか声聞きたくなっちゃってさ。……っていうかつわりって何!? デキ婚の噂、本当だったの!?』
「噂って……そんなのあったの?」
『うん。最近遊びに誘っても全然顔出さないし、SNSにも浮上しないし……これは会社で死んでるか彼氏と別れたかってみんなイヤな想像ばかりしちゃってさ。ともかく楓をどうしようってみんなで話してた時に招待状届いて、ホント驚いたんだから』
「あはは……ごめん」
『いや、それはいいんだけど……で、有希が「妊娠でもして体調崩してたんじゃないか」って言い出して』
 有希とは演劇サーで仲良くしてくれていた経済学部四人組の一人だ。杏ともそれなりに交流はあった。
「相変わらず、有希ちゃんの勘は鋭いね」
『やっぱそうなのね……体調は? 栄養ちゃんと取れてる?』
「あー……まぁ、ぼちぼち?」
『楓のぼちぼちは全然ってことね』
 ため息交じりの友人の声に、私は乾いた笑いを漏らすしかなかった。よくお分かりで。
『なんか声も元気ないし、大丈夫なの? 幸村さんにはちゃんと頼れてる?』
「……えっ」
『楓、キツい時ほど人に頼らないから……。ちゃんと辛いとか苦しいとか、言葉に出してる?』
 杏の、私の身を案じる声が、言葉が、勝手に負傷した私の患部を優しく探り当てている気がした。
 楽しかった学生時代の、テニスにも勉強にも一生懸命だった杏が、自慢の友達が私を見てくれていた。
「……あのさ、杏」
 もう一歩、もう一歩だけ。
「断られたり、無視されることが怖くて人を頼れないんだけど……これは、私が人に期待してるからなのかな」
 あともう少しだけ、貴方に近づいてみたい。
「理解されなかったり、上手く気持ちが伝わらない時……杏はどう思う? 悲しいって思う?」
 思わず鼻を啜ってしまった。その音を聞いたのか否か、杏はしばらく黙りこくってしまった。
 あと五秒、数えてそれでも無言だったら話を変えよう。そう決めてゆっくり指を折った。祈るような気持ちで実際の一秒よりも格段に長い間隔で、一本一本指を掌にくっ付けていく。
 緩慢な動きで小指を仕舞った時、私は小さく笑った。
「ごめん、変なこと聞いたね。それより……」
『待ってよ』
 無理やり話題を変えようとした私の言葉を遮ったのは、強い意志を持った凛々しい声だった。
『大事な話でしょ。答えさせてよ。……考えるから、どれだけ時間がかかっても、ちゃんと伝えるから……待っててよ楓』
 すすり泣く声が聞こえた。
 どうして杏が泣くの。どうすればいいのか分からず戸惑ってると、受話器越しに遠く男の人の声が聞こえた。
『杏ちゃーん! どうしたのこんなとこで、もう締めのチャーハン出てきちゃっ……杏ちゃん!?』
 そこで初めて、杏が出先で電話を掛けてきて、しかも誰かと一緒にいることが分かった。
『な、なん……どうして泣いてっ!? えっ!?』
 私が慌てて謝って通話を終わらせようとするその前に、杏の怒声が聞こえてくる。
『っるさい!! 今大事な話してんのよ、見て分かんないの!?』
『えっ、ええーっ……今? だって打ち上げ……』
『打ち上げと女の友情、どっちが大事だと思ってんのよ!? ああもう、神尾くんの馬鹿っ!』
 どうやら、会話相手は中学の頃から彼女を想っている例の彼らしい。杏の涙交じりの癇癪に彼はたじろぎながらも、とりあえず自分は打ち上げに戻るという判断をできたみたいだ。
『えっと……じゃあチャーハン食べちゃうからね?』
『いいわよもう……あ、でも杏仁豆腐は守っといて!』
『あはは……了解、任せて!』
 戸惑いつつ爽やかに去っていく彼の声からは、相変わらず杏のことが大好きだという気持ちが滲み出ていた。
『ごめん、騒がしくて』
「ううん……私、杏と神尾くんのやり取り、好きだからさ」
『そ、そうなの? うるさいだけじゃない?』
「そんなことないよ。そういう言いたいこと言い合える仲、素敵だと思う」
 私には一生、無理だと思うから。
 傷付くし、傷付けてしまうと思うから。
『……私、楓に必要なのは人を信頼することだと思う』
 橘杏がそんな、私にとって一番難しい綺麗ごとを告げてきたのは、皮肉にも信じると決めた伴侶を思い浮かべていた時だった。
 信頼、信じるって、頼るって。
 だから、それが出来ないから困ってるのに。
『あのね。人に頼るとき、期待するのは当然のことなんだよ。それを断られた時、辛いことが伝わらなかった時、悲しいって思うのも当たり前なんだよ』
「……じゃあ、どうしてみんなはそれでも、何度も人を頼ろうと思えるの」
 私には無理だよ。そう何度もその傷を負いたくない。
『信じてるから』
 杏が、拗ねて駄々をこねている私に欠けているものを必死に伝えてくれているのが分かった。
『期待した通りじゃなくても、その裏に必ず自分への愛情があるって信じてるから』
 友人たちが、家族が、幸村さんが、絶えず伝え続けてくれていたものを、杏はたったひとりでかき集めて形にしてくれようとしていた。
『期待しないことでやり過ごす関係だってたくさんあるよ。会社の人間との繋がりなんてそれで十分。……でも、どうか楓のことを好きだという人たちにだけは、期待も悲しみも持っていてあげて』
「……どうして」
『だって、それが無いと気持ちが通じ合った時の喜びも消えちゃうじゃない』
 今朝、ふたりきりで生涯の愛を誓い合った。
 古い病室のベッドの上、ふたりとも寝起きで身なりすら整えず、私はパジャマで彼は頬に大きな寝跡を付けていた。
 それでも、嬉しかった。幸せだった。幸村さんのことが大好きで大好きでたまらないって、そんな喜びで全身を満たされていた。
 そうか。
 そういうことだったんだ。
『ねぇ、楓。また落ち着いたら一緒にお茶でも行こう? 今度あそこ行きたいんだ、自由ヶ丘に新しくできたカフェなんだけど、そこの抹茶ティラミスが、すごく美味しいって、評判で……だから……』
 嗚咽交じりで言葉を詰まらせる杏に、今すぐ駆け寄ってその涙を拭ってやりたい。
『楓と会いたかぁ……寂しかったばい……』
 か細い声に、その熊本弁は卑怯だろと負け惜しみを言うことさえ出来なかった。
 夢を仕事にして、恋も自分の時間も充実させる杏やみんなが羨ましかった。きっと、私では釣り合わないだろうと、拗ねて遊びの誘いはほとんど断った。報告できるような近況も無かった。在ったのはただ、日々の生活に疲れ果てて誰とも関わりたくなかった私だけだった。
 きっと少し前の私なら、この杏の言葉だって信じられなかっただろう。
「うん……私も、杏に会いたい」
 それでも、そのキラキラした日常のほんの狭間で、杏が私を思い出してひっそりその表情を曇らせていたのだと言うのなら。
 私だって、杏のことを忘れたことは一時も無かったと、そう伝えなければと思った。

『世界一面倒くさい。……一生振り回されるんだろうな』
 面倒くさい自分なりに、それを受け入れて立ち上がらなければ。待っててくれてる人たちがいるんだ。


prev next

bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -