貴方と私で
『何があっても、楓を愛している』
 このままではいけない、心の底からそう思った。

 二〇一二年五月六日。
 退院し、明日からの出勤に備えて今日は自宅静養を余儀なくされた。本来なら午後に結婚式の打ち合わせがあったのだが、今回は俺に任せてと言って旦那さんが断固として譲らず、私は独り部屋のベッドでこうしてスマホを弄っているというわけである。
 五月の連休最終日であるこの日曜の昼下がり、あと二時間もすれば西日も夕日になるという頃。もう半年以上呟いていないSNSのタイムラインはそれなりに騒がしかった。
『北海道ちょー楽しかった!!』
『2泊3日で北海道。桜キレイだったね』
 最初に目に入ったのは大学の演劇サークルで出会った経済学部の仲良し四人組の投稿。美しい桜をバックに、社会人を謳歌しているキラキラした女性たちがそれぞれポーズを取っていた。一緒に美味しそうな魚介の写真も上がっている。共に就職戦線を戦い抜いたかつての友は、私と違い上司は案山子顧客はATMと割り切り一年掛けて会社との距離感もうまく図れたようだった。
 大学時代はよく一緒に旅行へ行ったり遊んだりもしていたが、就職してから彼女たちと連絡はほとんど取っていない。今回の北海道旅行も日程や行先が決まった状態でお情けで声は掛けてもらっていたが、こちらも察して適当に理由を付けて断っていた。邪魔者はいない方がいい。
『劇団トリックスタア「要塞の住人たち」本日無事に全4回の公演を終えました。ご来場いただいた方、誠にありがとうございました。』
『要塞の住人たち、無事に千秋楽終わりました! それでは公演後の黒木の油断した顔をご覧くださいw』
『@kotaniiii777 おまっ、止めろ消せっ!?!?』
 ここ数週間タイムラインを一番騒がせていた劇団トリックスタアの面々は、今日千秋楽を終えたらしい。氷帝学園演劇サークルのOBOGが在学中に有志を集って立ち上げた少数精鋭のアマチュア劇団は、旗揚げから3年でその業界の人間からはある程度の知名度を獲得できたらしい。団員も順調に増え、引けないところまで来てしまったなと立川雪乃元部長は苦笑いしながら今日も車椅子で舞台に君臨している。
 私もそこに居たかったと、自分で選んだ道をずっと振り返って拗ねているのを認めたくなかった。在学時代は手伝いだ何だと理由を付けて団員よりも入り浸っていたそこに、顔を出さなくなってどれだけの月日が経ったのだろう。
『スパコミお疲れ様でしたー! 無料配布4コマ、ついでに上げときます』
『皆さんお疲れ様でした! さて、次はオンリー!』
 高校時代に支えてくれた副部長と会計は、ともに付属の短大に進んで3年前に一足早く就職していた。私が就活を始める前には社会の闇を覗き見てタイムラインに呪いを吐き散らしていたが、最近は環境に慣れてきたのか欲求不満を創作意欲にうまく転換させているらしい。推しカプが偶然被ったらしく、よく合同で同人誌を出したり二次創作作品の投稿サイトでコラボなどをしている。
 私も仲間に入れてほしくて原作読んだよと言いたくても、きっとそこに入る元気も情熱も私にはもう残っていない。それ以前に大人買いした既刊全14巻を読み切るのが辛かった。
『手塩にかけて育てたスズランちゃんがようやく咲いた^^ 下の子も大喜び!』
 そんな文章と共に子供の後姿と窓辺に咲いているスズランの画像を投稿しているのは、高校時代は副部長や会計らと共に校内で同人誌をさばき歩いていた可愛い後輩だ。念願のリア充仲間入りどころかいろいろすっ飛ばして三児の母になろうとしている彼女は、脱オタはできても兄と同じガーデニングの趣味はいまだコツコツ続けているらしい。先日の両家顔合わせの時、およそ一年ぶりにその姿を見た。
 彼女が母親としての幸せな日々を謳歌している投稿を見る度、嫉妬で頭が痛かったと言ったら彼女は兄そっくりのあの顔にどんな表情を浮かべるのだろう。
『県予選無事終わりました! みんな、よく頑張ったね!』
 スズランの画像の下には、数人の小学生と二人の青年に囲まれてニッコリと笑う橘杏の姿があった。大学卒業後、国体ベスト8まで上り詰め極めた自身のテニスをきっぱり終わらせた氷帝の戦乙女(ヴァルキュリア)は、今はクラブチームのコーチとして後進の育成に尽力を尽くしている。というよりも、同じく国体に出場した旧友神尾アキラと伊武深司と共にテニスの楽しさを子供たちに伝え続けていると言ったらいいのか。
 まただ。
 頬を伝う生暖かい水滴に、自分のメンタルの弱さを幾度呪ったことだろう。
 夢に仲間に教え子に、たくさんの宝物に囲まれてキラキラ光る杏を見ていられず、スマホをベッドサイドに力強く伏せる。

『はい、ではこれで面接終わりますね。ああ最後にひとつだけ……もうちょっと笑った方がいいよ』
『気が強いって言われるでしょう? 総合職は考えてないの?』
『4年間西洋史の勉強を? へぇ……それで、その経験は弊社でどう生かしてもらえるのかな?』
 二年前、女子大生の就活事情は思った以上に私に過酷な現実を突き付けてきた。職種は事務しか考えていなかった手前、年齢でアドバンテージがある高卒や短大専門卒相手に戦線状況は芳しくなかった。
 愛想や素直さが足りないことの注意や物腰が柔らかくないなどの指摘、はてまた女に四年もの勉強期間は要らないだろうと言わんばかりの発言に晒され、この頃には自身の女性性への絶望が生まれつつあった。幸村さんにひどい経験談を聞きながら、男の人も同じ苦労はしていると必死に言い聞かせた。それでも、面接官と向き合うたびに卑屈な自分が顔を出してこれだから女はと囁く。
 とにかく一刻も早く就活を終わらせたくて、最初に内定が出た企業によく考えもせず就職を決めた。一般事務なんてどうせどこも同じだと思った。パソコンを使った事務仕事、電話対応、その他諸々の雑事、男性社員のサポート。給料は低くても、アフターファイブを自分の時間として楽しめればいい、そう安易に考えていた。
 だから、バチが当たったのだと思う。

『早く出なさいよ! アンタの仕事でしょ!!』
 入社初日、いきなり配属され右も左もわからない状態で鳴り響くコール音に、そう怒鳴られ無理やり取らされた受話器。聞いたことも無い単語を羅列する中年男性の声に思考回路が凍り付いていくのが分かった。
 表向きは現代的な大企業を気取っているこの老舗洗剤メーカーの実態は、悪しき日本を象徴する男尊女卑年功序列強制残業の蔓延する極めて時代錯誤なものだった。お茶汲みコピー取りが女性新人の仕事なのはまだ良い。男女関係なく醸し出す『女は男より劣っているもの』『女は男より劣っていると見せかけて男を立てなければならない』という暗黙の了解が日を追うごとに精神を蝕んでいった。
 女性社員は、男性社員よりも悪口や噂話が好きな低俗な人間でなければならないらしい。
 女性社員は、男性社員に性の対象として見られることを恥ずかしがりつつも享受しなければならないらしい。
 女性社員は、例え仕事を山のように押し付けられても笑顔で男性社員を癒さなければならないらしい。
 女性社員は、すぐに退職するから男性社員に自分の仕事を馬鹿にされながらも嫁候補として従順でいなければならないらしい。
 女性社員は。
 女性は。

『女の人って、なんでこう噂話が好きなんだろうね?』
 幸村さんは、きっと憶えてもいないだろう。
 社会人一年目、お盆休暇中のデートでの出来事だ。他愛のない世間話の延長だった。
 分かっている。彼の言った『女』はきっと、特定の人物たちを指している。彼は彼で会社の女性社員に恒例の迷惑行為を受けて辟易していたのを私はちゃんと知っていた。理解していた。
 それでも、自身の中にあるたった一つの砦が音を立てて崩れていくのを止めることはできなかった。
 だって、もう無理じゃないか。この世で初めて私をただの『千代田楓』と見てくれた彼にすら、その根底には『女』に対する偏見がある。自身も気付いていない見下す感情がある。
 抵抗すればするほど、私は社内で小賢しく生意気な女というレッテルをベタベタと貼られていく。いつか幸村さんも、たったひとりの大好きな男性も、私を生意気な女だと、小賢しくて可愛くない女だと思うのだろうか。
 そうして、ちゃんと『女』としての生を全うする人に奪われてしまうのだろうか。
『アレは駄目だな。女として欠陥品だ』
 何の偶然か、また物品として見られている自分にもう自嘲しか漏れなかった。代用品の次は欠陥品。使い道があった分以前の方がマシだったのだろう。
『助けてって、そう言って頼ることはそんなにいけない?』
 そう、欠陥品なんだ。女として必要不可欠な何かが決定的に欠けている。私は姉さんみたいに男に可愛く頼ったり甘えることはできない。その先にある拒否というリスクを考えたら、むしろ世の女性はよくそんな恐ろしいことが平気で出来るなと思ったくらいだ。
 口が裂けても言えるわけないだろう。助けてなんて。結婚してなんて。
『……楓? ちょっと待って……ゴム……』
『……幸村さん』
 今日、大丈夫だから。そう告げる声は醜く掠れた。
 誰も信じてくれないだろうが、ベッドの上でそんな無責任な発言をしたのは、打算や画策からではない。
 私が幸村精市から奪えるたった一つの初めてをどうしても奪いたかったと言ったら、貴方は怒るだろうか。
 生真面目で優しい貴方が直接触れる、最初の女で在りたかった。いずれ来る別々の道を歩む日を見据えて、せめてそれだけでも。

『妊娠兆候が見られますね。ここに袋のようなものがあるのが分かりますか? これは胎嚢と言って……』
 産婦人科からの帰り道、絶望と後悔の中、自宅近くの森林公園の最奥で私は狂ったように笑った。
 なんで? どうして?
 たった一回だけ、しかもほんの少しの間。危険日だって避けた。しかもあの人、気持ちよさそうにしてたクセに途中で我に返って無理やり私を押しのけて、ちゃんと避妊具を付けて仕切り直したのよ? もちろん私だって、最後までする気は無かった。
 もっと無責任な事やってる人間なんて、腐るほどいるじゃない。
 適当に、感情のままに生きて上手いこといってる人間の真似は、私には一生できないっていうの?
 だって、たったひとつ。ほんの少しだけ好きな人の特別が欲しかっただけなのよ。
 結婚だとか、救済だとか、そんな大それたこと欠片も望んでいなかったのに。
 頭空っぽにして世の中の偏見や蔑みに気付かないふりして、浅慮で非力で傲慢な女性像を受け入れる彼女たちの方が幸せなのはなんで?
 ねぇ、なんで。
 私も、幸せになりたい。


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