揺れる天秤
「おかえり。良かったね、無事日本の土を踏めて」
「……はい、一時は彼の地でこの身朽ち果てることも覚悟した、次第です……」
 どうも、幸村精市です。見ての通りですが、死にかけています。察してください。
「あれしきのことで情けない。俺たちに付いてひたすら頭下げまくって、回した書類仕事順番にこなしてただけじゃねーか」
「いやでも、幸村くんが居てくれて助かったよ? 正直仕事のしやすさ段違いだったし。いやはやさすがは部長、お見事な采配でした!」
「あはは、鈴木くんは面白いことを言うなぁ。今の流れ、どう考えても幸村くん褒めるところでしょ?」
 満身創痍で立った部長の部屋で、俺はそんなことどうでもいいから一刻も早く帰りたかった。
 上海、正確にはその郊外にある弊社の中国支社近辺で過ごしたこの12日間は、中3夏の全国決勝敗退、中学の闘病時、それから高3インハイから帰宅した時のアレに次いで、俺の人生で第4位の悪夢に堂々ランクインした。鳴り響くスマホ、業者の宣伝メールを鼻で笑える量で届く各社からの苦情や催促メール、自分の権利ばかりを主張して話が進まない現地スタッフを何度殴りかけたことか。食事はマズい、空気は悪い、ベッドは硬い、水が合わなかったのか謎の湿疹が出る、挙句の果てにホテルで腕時計を盗まれた。何度も抗議したが清掃員は知らぬ存ぜぬ、俺がたどたどしい中国語で捲し立てている間にも上司から降りてくる雑用は溜まる一方。泣く泣くあきらめざるを得なかった。就職が決まったご褒美に奮発して買った3万円のシチズン、早すぎる別れを惜しむ瞬間すらなかった。
 そんなこんなで、先ほど部長に告げた言葉はあながち冗談でもない。
「あの……それで我々はこの後どうすれば……」
「あはっ、疲れてるねー幸村くん」
 当たり前だろうがこの12日間マジでろくに寝られなかったんだぞ!? と終いにはキレ始めるからとにかく迅速に帰してほしい。仕事が忙しかったのもあるが、環境の変化が地味に一番きつかった。できれば中国支部にだけは転勤したくない。いや、ベトナムもシンガポールも嫌なんだが。日本が良い、もう俺日本から出たくない。
「まぁ、とりあえず今日はお疲れ様ってことで帰っていいよ。あ、でも各自自分の机に溜まってる仕事は確認して帰ってね。一応みんなゴールデンウィーク入ってるけど、連休明けには机の上綺麗になってると良いな」
 時は西暦2012年、5月5日。こうして俺たちは長い戦いを終えて解散となった訳だが、恐る恐る確認しに行ったデスクの上に積まれたA4ファックス用紙や『至急!』と書かれた付箋がはみ出しているのを見て、俺は泣くのを懸命に堪えながらスーツケースを背後に置いて席に着いた。いや、正直ほんのちょっと泣いた。
 帰りたい、自室のふかふかベッドで今すぐ惰眠をむさぼりたい、それ以上に楓のふかふかおっぱいをまさぐりたい、あの程よく引き締まった太ももで俺の腰をだいしゅきホールドしてほしい、おでこ同士をこつんとくっ付けて両手でよしよししてほしい、楓の首筋くんかくんか、
「おい、幸村!」
「ひゃい!?」
 英文メールの返信を煩悩に支配されながら何とか作成していたら、主任に呼ばれて変な返事をしてしまった。顔が赤くなるのが分かる。
「スマホ、鳴ってんぞさっきから」
「え、あっ……」
 取ろうと思ったら切れてしまったが、表示された名前を見ることはできていた。
【お義父さん】
「オフのスマホだろ、それ。嫁か?」
「いえ、嫁の父親ですね……」
「げっ、マジか」
 血の気が引いていくのが分かる。中学時代からおっかなくて直視を避けていたあの鋭い双眸の幻影が見える。いや、違うんですお義父さん。僕も曲がりなりにも企業戦士でして、楓さんのことはとても大切に思っているのですが日本経済のために僕は私は
「おい幸村。とりあえずお前もう今日は帰れ。期限ヤバいのはやっといてやるから」
 頭がオーバーヒートを起こしていた俺に、その神の声は降りてきた。
 顔を上げると、斜め前の主任が呆れ顔で頬杖を付いている。
「しゅ、主任……」
「勘違いするなよ、これは慈悲じゃなく貸しだからな。利子も合わせて来るべき時にきっちり返してもらうぞ」
 主任翻訳機の先輩はこの場にはいなかったが、この分かりやすいツンデレなら俺にも訳せそうだった。
 主任に運動部仕込みの直角お辞儀で感謝の意を示し、そのままスーツケースを抱えて転がる様にオフィスを出た。エレベーターのボタンを押した後にスマホで着信履歴を呼び出す。深く深呼吸をしてから通話ボタンを押した。
 一応、帰国してすぐに楓へメッセージは送った。既読はすぐには付かなかったが、このタイミングで彼から連絡が来るということは高確率で楓から報告が行ったのだろう。
 お義父さんは、3コール目で出た。
『もしもし、精市くんか』
「先ほどは出られなくて申し訳ございません。……その、先ほど帰国したもので」
 まずは軽いジャブから。あまりのベストタイミング故可能性は低いが、楓のことだ。もしかしたら俺が出張に行っていることを両親に言ってないということも考えられる。
『ああ、楓から聞いている。大変だったそうだな、ご苦労様』
 はい、聞いてたねこれ。妊娠4か月、結婚式を1カ月後に控えた奥さん完全放置どころか仕事全部丸投げして音信不通になってたの知ってるねこれ。
 心の中でぐらい言い訳させてほしい。最初の2日3日は空き時間を無理やりにでも作り出して俺からメッセージを少しは送っていた。けれど楓の方は『こちらは滞りなく進んでいるから安心して』の一点張り。やがて空き時間の捻出すら難しくなって、ここ1週間は連絡を取っていなかった。
「いえ、こんな時期に長く不在にしてしまい申し訳ありませんでした……。楓さん、無理はしていませんか?」
『ああ、そのことなんだが』
 千代田氏が先ほどの声音よりもワントーン低い声でそう告げた時、エレベーターが到着した。
『落ち着いて聞いてほしいのだが』
「? ……ええ」
 重たいスーツケースを右手でエレベーター内に引きずり込みながら、意識はスマホの向こうへ集中させる。
『楓は今、入院している』
 ピンッ、と間の抜けた電子音を響かせ、エレベーターの扉が背後で閉まった。
 弊社は只今ゴールデンウィーク中。他階で使う人間がいない鉄の箱は、俺が階数ボタンを限りこの階から動かない。
 俺は、おれは。
『精市くん?』
「えっ……あ、はい。聞いてます……」
 聞いている。辛うじて聞こえている。
 記憶の中の蝉の声、妹の泣き声に掻き消されないように。懸命に千代田氏の声を探す。
『大したことはない。つわりが酷くて一時水分摂取ができなくなってな、脱水症状になりかけていたからピークをやり過ごすまで点滴で栄養を入れることになっただけだ』
 エレベーター内、扉の正面。俺の目の前には大きな鏡がある。大きなラケットバックを携えて、立海大付属のユニフォームを着た高3の俺が呆然と立ち尽くしていた。
『今は母子ともに健康。つわりもだいぶ収まってきたから、明日には退院予定だ。心配はいらない。……連絡が遅れて済まなかった。出張中に知らせても余計な心配をさせるだけだろうという私の判断だ。どうか、楓は責めないでやってほしい』
『おばあさんの遺言だった』
 千代田氏の済まなさそうな声に、淡々とした親父の声が重なった。肩からずり落ちるラケットバック、閉じられない口、喪服姿で項垂れる母、線香の匂いをまざまざと思いだしてしまう。
『……それから、自分も責めないでほしい』
 静かな諭す声に、ようやく意識を2012年弊社のエレベーターへ引き戻すことができた。
 右の掌を恐る恐る覗き込む。肉刺の消えた平たいそれを確認し、恐る恐る止めていた息を吐いた。
「あの、楓は今どこに?」
『金井総合病院だ』
 よりによってそこかと、呼吸が震える。
「そう、ですか」
『部屋は西館4階の425号室だ、分からなかったらナースステーションで訊いてくれ』
「ありがとうございます……」
 ようやく振り向いて、1階のボタンを押すことができた。音を立ててエレベーターはゆっくり下降していく。若干の立ち眩みを覚えながら、次の言葉をなかなか発しない千代田氏の声をただ無言で待つ。
『……きっと、その葛藤と後悔をこの先何十年も繰り返す』
 しばらくして、そのまま切る流れにはならずに千代田氏はそんなことを言った。俺は鏡に背を向けたまま、その言葉に目を細める。
『家庭を顧みず仕事ばかりをしてきた男が言っても説得力はないだろうが、どうか悩みすぎないでほしい。きみの立場は分かって……』
「お義父さんは、俺のことを買い被り過ぎですよ」
 耐えきれず、言葉を遮ってしまった。頭が痛い。義理の父親相手に何を言っているんだと、身を挺して止める冷静な自分はすでに自宅のベッドで爆睡しているようだった。自嘲じみた笑みが自然と口元に浮かぶ。
「優先順位は見誤らないつもりです。冷たいと、非情と言われても」
『そんなことは知っている。きみが極めて理性的で責任感が強いことも』
 そんな高尚なものじゃない。やめてくれ、俺は、俺は、大切な人が傷付き苦しんでいると知っても、結局最後に情や愛だけでは動けない人間なんだ。ただ、それだけなんだ。
『本当は、人間味あふれる平凡な青年であることも』
 その言葉を鼻で笑い飛ばしそうになる瞬間、1階に付いたことを電子音が知らせて俺は再び現実に引き戻される。
 相手は結婚相手の父親だ、俺の身内ではない。
「とにかく、今からその病院に行ってみますね」
 腹に溜まったどす黒いドロドロの感情の所為か、電話越しの相手にいつもの張り付けたビジネススマイルで対応してしまっているのが分かった。緩く上げた口角、細めた目。いつだったか偶然その表情を鏡で見てしまって、認めたくないが不二の笑い方にそっくりで絶望したことがある。
 同じ目的で作った笑顔だったからなのだろう。社会に出てから、取り繕ってばかりだ。

 何だかんだで金井総合には13歳の冬から5年間も世話になった。中3で参加したU-17の合宿で丸井が交渉してくれたアメリカでの治療を蹴って地元での対処療法に拘ったのは、ひとえに王者立海大で再び三連覇を目指すためだ。それが誰ひとり欠けることなく高等部へ進学しテニス部に再び入ってくれた彼らへの責任であり贖罪だと思った。俺ひとりだけ将来を見据え、1年も休学するわけにはいかなかった。
 主治医には何度も呆れられ、母親には何度も病室で泣かれた。命よりも大事なものがあるのかというふたりからの問い掛けに、俺はあの時何と答えたんだったか。思い出せないというより思い出したくない。
 そんな、封印したい痛ましい記憶というよりは黒歴史に近い若気の至りが詰まった思い出の場所に、およそ5年ぶりに立つ。相変わらず祝日だというのに、昼下がりのエントランスには疎らと言うには少し多い人影があった。俺が入院していた館とは逆の西館エレベーターで4階まで上ると、アルコール消毒液が設置されたカウンターの向こうにいる看護師と目が合った。
「425号室に入院している千代田……じゃなくて、幸村楓の家族の者なのですが」
「あ、こんにちは。こちらにご記入お願いします」
 名前を書いてナースステーションの前を通り過ぎる。若い看護師が数人、こちらを見ながら何かこそこそ話していた。
 見取り図を頼りに廊下を進む。初夏と言える5月の日差しはすでに暑く、どの病室も窓とドアを開けて風通しを良くしているようだった。方々から微かな物音や潜めた話し声、そして赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
 しばらく歩くと、壁が一面ガラス張りの一角が目に入る。ガラスの向こうを覗き込む数人の男女の背後からその中を見れば、そこには座布団のような大きさのベッドに寝かされ並べられた幾人もの新生児がいた。思わず足が止まる。
『テニス部に戻れない俺に、生きている意味なんてあると思うの?』
 痛むはずの無い左頬がジンと熱を持った気がした。13歳の冬、泣きながら母親に八つ当たりして、祖母に思いきりぶん殴られた時の言葉が蘇る。
 不思議だった。13歳の少年が死すら望んだこの場所には、こんな生しか感じられない空間もあったのか。
 ひとりの赤ん坊を覗き込み指差して笑い合う若い夫婦を横目に、逃げるように先を急いだ。
 足早に廊下を進む。後頭部に感じるはずの無い視線を感じる。敢えて形容するなら、この感情は後ろめたいとでも言えばいいのか。
『家族にも人格があります。甘えるのも大概にしなさい』
『私なんかに構ってる暇があったら、さっさと仲間とテニスしてきなさいよ』
『嫌だ、怖い、辛い、そう思った出来事が何度も何度も頭の中をぐるぐる回って、もうどうしようもなくなる時があるんです、たまに』
『気付いているか、幸村。大事なものを諦めるたび、保身を図るたびに、深く傷ついているのは他の誰でもない。お前自身なのだ』
『職場で相当肩身狭かったらしいね。どうしてもっと早くに仕事辞めていいよって言わなかったのさ』
『結局、テニス以外のことなんてどうでもいいんだろう?』
『きっと、その葛藤と後悔をこの先何十年も繰り返す』
 振り払っても、懸命に走って逃げても、どこまでも追いかけてくる。
 本当にこの先何十年も、俺はこんなものと向き合わなければいけないのか。冗談は止してくれ。
 テニス部だけだと思ってた。最後のインターハイでトロフィーを掲げた時、この瞬間が人生の最高点、もうこれ以上全てを賭けられることも大切に思える場所にも出会うことはないと思った。帰りのバスの中、この先の人生は全部老後だなんて紳士に言った言葉はあながち嘘じゃない。
 それでも、ただ生きているだけで大切な仕事と立場は増えていく。逐一天秤にかけながら、個より組織を尊ぶことが最良の選択肢と信じて、進むことしか俺にはできない。
「あ、お父さんから。もうすぐ幸村来るっぽい」
 個を蔑ろにしている、その罪を背負い続けるしかない。
「……怒っているかな」
「お父さんが上手く言ってくれてるよ、大丈夫」
 本日の神奈川の最高気温は28度、昼下がりの病室は例外なく窓と扉が解放されている。
 425号室は個室で、ベッド周りをオフホワイトのカーテンが囲っていた。風に靡いてはふわりと揺れるその向こうから、かつて何度も傷つけた人とこれから何度も傷つける人が話をしている。
「出国前、様子が変だったの。たぶん私のせい。……私が、変に弱音を吐いたせいだ」
「……あのさ、楓。ぶっ倒れた原因は過労とストレスもあるってこと、忘れちゃダメだよ。もっと自分を大切にしなって、もうひとりだけの身体じゃないんだから」
 窓から吹き込んだ風に、髪と頬を撫でられた。あるはずの無いラケットを握りしめる。
「それでも、あの人にこんなこと知られたくないし」

 勢いよくカーテンを引いた。
 大げさに肩を跳ねさせた千代田とは対照的に、ベッドのリクライニングを起こして座っていた楓はその目を徐々に見開いていっただけだった。
 ベッドサイドに飾ってあるライラックが風に揺られて花を落とす。それを眺めた後、管に繋がれた血色の悪い楓の手首を見据えた。左手薬指に、それはない。
「何を知られたくないの?」
 ああ、馬鹿やめろ。
「……急に仕事辞めたいって言い出したことと、何か関係あるのかな」
 やめろ、取り返しがつかなくなる。
「過労とストレスで倒れるくらいなら、どうして相談のひとつもできないの」
 違う。こんなことが言いたいんじゃない。
「相談する必要性すら感じてないのかな?」
 楓の瞳に薄く涙の膜が張る。千代田が何か言い掛けたのを遮って、俺は声を張り上げた。
「ねぇ、楓はもしかして」

「はい、ご近所迷惑」
 言ってはいけない禁断の言葉を遮ったのは、まさかの人物の声と唐突に口に放り込まれた大量の柔らかく質量のある何かだった。
 口の中にしばらく食べたことの無かった甘ったるさが広がる。事態を飲みこめずそれらを咀嚼しながら振り向くと、そこにはコンビニで105円で売っているマシュマロの袋を持った不二周助がいた。相変わらずのあの人を食ったような笑みを浮かべて、再度マシュマロを一つ摘まむ。
「会話丸聞こえ、声大きすぎ。それと先生が旦那さんのこと呼んでたよ」
「……」
 掌を使って思いっきり押し込まれたマシュマロを飲みこむのに時間がかかるのをいいことに、不二は好き勝手捲し立てて会話を強制終了させに掛かった。そして自らもひとつ、白く柔らかいそれを口に放り込む。
「ってことで、僕は幸村を先生のところへ連れていくから、渚は楓ちゃんとごゆっくり」
「えっ……あ、うん……」
「幸村疲れてるだろうし、今日はそのまま家まで送ってくるよ。渚、どうせ夕方までここにいるでしょ?」
「う、ん……あのさ、周助……」
 真っ青な顔をして不二に縋ろうとする千代田を、不二はひらりと躱した。
「それと、男の忠告もたまには聞くように」
 青い瞳を覗かせ、そう言って千代田を見下ろす不二はどこか怒っているようにも見えた。千代田は伸ばした手を引っ込めて、無言で頷き俯いた。
「じゃ、そういうことで。楓ちゃん、明日退院なんだから無理しないようにね」
 そう言って、俺がマシュマロを飲みこみきる前に俺を退室させようとする不二に、抵抗する気力は残っていなかった。最後に一瞬だけ楓に目を向けると、彼女は虚ろな表情でただ物言わず俺を見ているだけだった。2週間ぶりに会う夫に見せる顔ではない。
 俺も、体調を崩して入院した妻に言ってはならぬことを言ってしまった。
「連れていきたいとこがある。黙ってついてきて」
 もう、自分がどこへ行きたいのかも分からない。病室を出て、少し行ったところで立ち止まってしまった俺に、不二はそう声を掛けた。やはり先生云々は嘘だったかと、見抜いてしまったことに感じたくもない元対戦相手との腐れ縁を感じてしまった。


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