腹が減っては
 不二の愛車であるシャンパンゴールド色のフィットに乗り込んで揺られること1時間弱。俺は何処へ行くのか聞くことも無く、不二も先ほどのやりとりに突っ込むことなく、ひたすら無言で行く道をふたりで睨みつけていた。
 途中、俺の方が沈黙に耐えきれずラジオを付けた。気だるげなDJの適当な人生相談、うるさいアナウンサーのわざとらしいラジオショッピング、耳に付く高音で喋るアイドルたちのトーク番組を経て。
『さあ、まもなく始まりますBMWオープン準決勝。昨日、見事1セットも落とさずストレート勝ちした手塚選手ですが……』
 淡々と高速を走っていた車が、一瞬だけ揺れた。
「……BMWオープンか」
「悪いけど変えてくれない?」
 試合が始まる前に早くとでも言いたげに、不二は早口でそう告げた。まぁそう言うだろうなと予想していたので、意外ではなかった。
「家で録画してあるから」
 それは強がりか歪んでるのか、はてまた普通の友達に戻れたのかどれだ、不二周助。
 本人たちには絶対言わないが、つくづく立海から誰もプロにならなくて良かったと思う。友情と嫉妬に板挟みされて、液晶画面越しにその勇士をただ眺めるだけなんて絶対ごめんだ。俺と手塚の距離感でさえ、たまに試合を見ると腹の底に言い知れぬ濁った羨望が溜まるくらいなのに。
 俺は素直にチャンネルを変えた。
『ではでは、次のお便りはっと……ラジオネーム、ゴーヤー食わすよさんから!? うげっ!?』
『えっ、どうしたんです菊丸さん!?』
『あ、いやなんでもないよん!? えっと何々……』
 次のチャンネルから聞こえてきたのがまたしても青学だったのは、この車が青学の魔王と呼ばれた男のものだからか。関係ないと思いたい。
「菊丸、最近よく見るようになったね」
「すっかり売れっ子の仲間入りだよ。本人は本格的にスタントやりたかったみたいだけど」
「スーツアクターと俳優が一緒っていうアレがはまり役過ぎたね。なんだっけ、ジャガー&ドギー?」
「今度映画化するみたいだから見に行ってあげてね」
「へぇ……」
 昨年春に火曜10時枠で放送された、近未来の架空都市で展開される異能力ヒーローものを思い出す。菊丸はそれに主人公の仲間として準レギュラーで出演していた。ちなみに、敵方の特殊メイク係にはうちの詐欺師も噛んでいたりする。
 身体能力の高いイケメン俳優を多く起用したり、主人公コンビの師弟愛にも似た友情に若い女性たちの間で一大ブームを巻き起こした。男が見ても話が面白かったこともあって、会社や取引先でもよくネタにさせてもらった。
『そうなんですねぇ。じゃあ、今の身軽さは中学時代のテニスで身に付いた物なんですか?』
『うーん、そうでもないかな? 元々鉄棒とか平均台とか、そういうのは好きだったかんねー』
 ゴーヤー食わすよなんていういかにもなラジオネームで送られてきた便りで振られた話題に、菊丸はのらりくらりと答えている。質問の内容からおそらく木手ではない。
「甲斐かな」
「甲斐だね。彼まだ沖縄?」
 同じことを思っていたらしい。不二に同意して、質問を投げかけた。
「うん、実家の手伝いしてるって木手が言ってたよ」
「へぇ。木手は確か弁護士目指してるんだっけ?」
「そうそう。家がわりと近所でね、学生時代はラーメン屋でよく出くわしてたんけど、司法修習始まってから全く見なくなったな」
「忙しいんだろうね……うちの柳生も音信不通で何故か仁王経由でしか連絡取れないし」
「……それ、結婚式来れる?」
「たぶん? 大丈夫じゃろ? って疑問符だらけで詐欺師が」
 結局5人テーブルに7人無理やり押し込むことになってしまったわけだが、それでも人数は減らしたくないものだ。いざとなったら毛利先輩か浦山を代わりに呼べと丸井は言っていたが、明らかに人数合わせな招待は失礼に値するだろし、できれば俺はあのメンバーに全員揃ってほしいと思ってしまう。
 準備と片付けは手伝うと言う名目で、従業員の丸井も当日特別にゲストとして出席できることになった。あの夏のレギュラー陣が全員揃い踏みするのは、本当にいつ振りだろう。
『ねぇ、楓はもしかして』
 無事に結婚できたらの話、だけど。
 あの後続けようとした言葉は、上海にいる間ずっと頭の片隅でぐるぐる回り続けていた禁断の問い掛けだった。
 考えたってどうしようもないことばかりが、消しても消しても頭の中に湧いて出てくる。身も心も疲れ切っていたのに、何故だか目は冴えて仮眠を取ることもできなかった。
「着いたよ」
 そうしているうちに、目的地へ着いたらしい。
 東京のおそらく目黒区、たぶん青学の近くまで連れてこられた俺は、不二がどこかの駐車場に車を入れ終えたのを見計らって降りた。住宅街というにはこじんまりとした個人経営の店が多い、小規模な商店街のようなところだ。不二が停めた駐車場も、いくつかの店が2、3台ずつ借りている共同のもののようだった。
「こっち」
 あたりを見渡していると、ボタンで車の鍵をかけた不二が振り返ることなく歩き出す。無言で後を追うこと30秒。見えてきた看板に少し驚いた。
「ごめんください、タカさん?」
「ああ、不二待ってたよ」
 かわむらすしと書かれた看板の店、準備中の札が掛かったその扉を不二は何の迷いも無く開けた。中から久しく聞いてなかったあの青学のお人好しの声が聞こえてくる。
「ほら、入ってよ」
 先に中に入った不二がそう言って店内から覗いてくる。恐る恐る一歩踏み出すと、カウンターの向こうにいた作務衣の男と目が合った。
「幸村久しぶり! 元気だった?」
「え、ああ……久しぶりだね、河村」
 10年前と変わらぬ人の良さそうな笑みを浮かべる河村隆に、そっと店内に入って扉を閉めた。
「不二、えっとこれは」
「まぁとりあえず座ってよ。幸村、何がいい?」
「えっ!?」
「タカさん、僕真鯛で」
「あいよ! 幸村はどう? あ、今日いいカレイ入ったんだけど」
「えっ、と……じゃあ、それで?」
 あれよあれよと言う内にカウンターに座らされ、目の前には生きのいい大好物の海産物がこれでもかと並んでいた。だがそのまま店内に視線を走らせれば、そこそこのお値段や値段すら書いていないメニューがずらりと壁に張り付けられている。
 今俺の財布の中に現金は5000円しかない。カード支払いと言う手もあるが、そもそもこんな贅沢をしていい状況ではなかった。
「不二、あの……寿司食べたかっただけ?」
「……」
 俺の問い掛けに、不二は湯呑に口を付けながら横目で一瞥をくれるだけだった。おい!?そんな理由で問答無用でこんなところ連行してきたってことは、奢るくらいの気概は見せてくれるんだろうな!?
「今日は俺の奢りだよ。結婚祝いってことで」
 俺の不安を察してか否か、カウンター越しに河村がそう話しかけてきた。それと同時に彼は俺の目の前にカレイのエンガワを置き、不二の前に真鯛を置いた。不二のそれはわさびがはみ出してるんだが、それでいいのか寿司屋のせがれ。
「そんな、悪いよ」
「と言う名目の参謀の差し金だよ」
 そう言って大量わさびの真鯛を口に含んだ不二。河村が咎めるように名前を呼んだが、不二は素知らぬ顔で咀嚼していた。
 カレイに視線を落とす。二次会のことで連絡を取り合っていたのだとしたら、蓮二や真田が楓の入院を知っていた可能性は大いにある。
「……情けない」
 方々にこれでもかと言うほど気を使われて、それでもこんなに盛大に拗ねて。子供か俺は。
 口に含んだカレイは噛むと甘い脂が口の中に広がり、12日ぶりに食べたふっくら日本米の感動も相まって目頭が熱くなるほどだった。
 本当に美味しいものを食べた時、人間は言葉ではなく涙が出るらしい。
 いや、ダメだろう幸村精市。何があったとしてもこの男の隣でだけは泣いては駄目だと、気力だけで涙腺を封鎖する。
「幸村、焼き魚食べる?」
「……えっ?」
「良いメバルがあるんだ。今焼いてるからちょっと待っててね。その間に食べたいものある?」
 覗き込んできた河村がそう言って笑う。寿司屋で焼き魚。これも蓮二の差し金なんだろうか、俺が満身創痍で帰ってきてとどめを刺されることをアイツは何処まで察していた? まさか千代田のやつ、俺には言ってない楓の事情をその他にはペラペラ話していたのではないだろうな。
 いや、もしも。蓮二にも、真田にも言ってないあの夏の出来事を、把握されていたとしたら。
 行き過ぎた猜疑心で頭が痛くなる。
「でも、お寿司屋さんで焼き魚は失礼じゃない?」
 いずれにせよ河村に当たるのはお門違いだ、そう言い聞かせて当たり障りのないように断ろうとすれば、河村は2、3回瞬きした後に声を出して笑う。
「そんな、高級寿司屋じゃあるまいし! っていうか、昼のランチで焼き魚定食出してるから。こんな超庶民の、しかも昔なじみの店で気なんか使わないでよ。回転寿司感覚でマナーも無く気軽に食べられる、がうちのモットーなんだからさ」
「そ、うなの?」
「そうそう。ね、次は何がいい? 玉子とかアナゴとか赤身でもなんでもいいよ?」
「じゃ、じゃあイカで……」
「あいよ!」
 明るくそう言ったあと、河村は手を動かしながらふっと声のトーンを落とした。
「柳に、立海の近況を聞いてたのはホント。バイト代が入った時とか、よく乾と一緒にランチにくるからね」
 青学の母と並んで二大良心と言われていただけのことはある。それか接客業ゆえの空気を読むスキルか。穏やかな声で話し始めた彼は、あっという間にイカを握って俺の前に置いた。
「あと、真田も切原くんとたまに来るよ。だからあの日、俺の店で二次会の話し合いしてて、平日でお客さんもあまりいなかったからつい話に混ざっちゃったりしてさ。デリカシー無かったよね、ごめん」
 置かれたイカをどうぞ、とアイコンタクトで食べる様勧められて、口に含んだ。マナーも無く気軽に食べられる庶民の寿司を謳っていても、回る寿司とは一線を画す肉厚でもっちりとした食感と濃厚な甘みに頬が落ちるとはこの事かと思った。空腹は最大の調味料と言うが、ここで初めて俺は腹が減っていたのかと気付く。
「河村」
「なに?」
「めちゃくちゃおいしい」
「あははっ、それは良かった」
 とりあえず帰るまでにもうあと5回は褒めちぎろう。追加はせずに焼き魚を待機していると、河村は話の続きをしてくれた。
 不二はというと、途中で河村が注文も受けずに出した謎の緑の巻き物を無言で食べ続けている。
「出張中の幸村が、奥さん入院してることを知らされずにいるって知って、大丈夫かなとは思ったんだ。もし俺だったら、俺旦那なのになんで蚊帳の外だったの? って自信失くしそうだと思って」
 河村は中腰で何か作業を行いながら、そんなことを言う。
「でも、俺じゃなくて幸村だしな、そんなことで自信失くしたりなんかしないよなって思ってたら……おとといだっけ? ここで不二たちが夫婦喧嘩始めてさ」
「ちょっ、タカさん!!」
 そこで初めて、今まで無言を貫き通してた不二が焦ったように声を上げた。菜箸を持って長皿にメバルとはじかみを盛り付けている彼に、不二は抗議の睨みを向けていた。
「柳を巻き込んだままじゃダメでしょ。彼はただ純粋に二次会成功させようと頑張ってるだけなんだから」
「……」
 押し黙った不二を横目に、河村は俺の前にメバルの塩焼きを差し出す。
「ごはんもいる?」
「いる」
「みそ汁は? しじみだけど」
「ほしい!」
 完全に餌付けされているが、そこは大目に見てほしい。12日ぶりの日本食、しかも大好物の焼き魚を前にして俺の中での河村株は爆上げだ。もちろん、その柔和な態度なんかも満身創痍な心身には優しく染み入っていた。
「基本、不二って渚さんのことを笑顔で見守ってるイメージがあったっていうか、渚さんがリードしてる関係なのかなって思ってたからびっくりしてね。あの不二が、幸村のこと庇って渚さんをきつく諌めてたからさ」
「……不二が?」
 思わず隣に視線を向けると、不二はあからさまに俺から顔を背けて湯呑を口元から離さなかった。俺は再び視線を河村へ戻す。
「で、これは只事じゃないなって思って、帰り際に不二を引き留めて『今度幸村に、奢るからうちにおいでって伝えて』って言ったんだ」
「……どうして、もう何年も会ってなかった俺に、そこまで?」
「うーん……どうしてかな。その時の不二が心配だったってのもあるけど」
 そんなに怒ってたのか不二。明らかに今俺が持っている情報だけでは不二がそこまで激昂する理由が推理できずに戸惑っていると、河村はつややかに光るご飯を盛った茶碗と良い香りがするシジミのみそ汁を出してくれる。
「もし、幸村がちょっとでも疲れていたり自信を失くしたりしているなら、せめて美味しいものを振る舞いたいと思ったんだ。ほら、U-17の合宿の時、夕飯に焼き魚があるとすごく幸せそうに食べてただろう? 俺、あの顔すごく印象に残っててさ」
「……なんてものを憶えてるんだキミは」
「職業病でさ、ごめん」
 手を合わせ、箸を持ち、ヒレを取って身に箸を入れた。頭の後ろのひとかけらを持ちあげて口に入れると、柔らかな身が口の中でほどけて仄かな塩味を素材の甘さが追いかけていった。温かくて、優しくて、何故だか心の底から安心する。
「……こんな美味しい焼き魚食べたの、初めてだ」
「持ち上げすぎだよ、幸村」
 照れたようにそう言う彼に、本当だよと心の中で言って白米を口に入れた。
『今日のご飯は、精市の好きな焼き魚よ〜』
 中3の夏、退院したその日の晩御飯も、涙が出るほど美味しかったけれど。
 テニスだけが生きる理由だなんて豪語してしまった手前、照れくさくて絶対に言えなかったけれど。母さんの手料理を数カ月ぶりに食べられたあの時、母さんに『生きてて良かった』と伝えておけばよかったなとふと思った。
 俺は案外、みんなが思っているよりも単純なことで一喜一憂したりする。母さんの夕ご飯を食べて生を実感することもあれば、好きな人に頼ってもらえないだけでとんでもなく落ち込んだりもする。
「ほんと、すごくおいしい」
 美味しいものを食べて、かつてのライバルたちと昔話に花を咲かせるだけで、また頑張ろうと思えたりもする。


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