70億分の1のキミへ
 引きつった人の泣き声のような物音で、意識がふと覚醒した。暗闇の中でベッドサイドに置いてあるスマートフォンを手に取ると、時刻は真夜中1時半。キングサイズのベッド上、隣に寝ている人に一瞬視線をやる。起こさないようにそっと布団を抜け出し、ハンガーに掛けてあったガウンを羽織った。
 ドアを開けると、引きつった泣き声はより鮮明に聞こえる。暗い廊下には半開きになったトイレの扉から差し込む一筋の光がよく目立つ。そっと扉を開けると、トイレの床にペタンと座り込んで荒い息を繰り返す娘の姿がそこにはあった。
「楓」
 しゃがんでその背をさすってやると、起こしてしまったという罪悪感を覚えた目がこちらを向く。その目からは大粒の涙が伝っていた。久々に目撃する娘の泣き顔に思わずギョッとしてしまう。
「……泣いてるの?」
「……ヒック」
 しゃっくりと嘔吐を繰り返す楓は、返事をできる状態ではない。似てほしくないところばかりが似るものだと、着ていたガウンをその肩に掛けて頭を撫でる。便座に手を突き項垂れる楓が、また涙を流した。
 真夜中に嘔吐することは今まででもあったが、こんなに弱々しい姿を見るのは初めてだ。原因は分かっているつもりだった。

 3月の終わり、幸村家との顔合わせを明日に控えた土曜の夜に突如帰宅した渚から告げられた話に、私たちは言葉を失った。
 雑用の押し付けや男性社員との待遇の違いだけならまだ女なのだからと抑えることもできただろう。楓はそのことにひどく憤りを感じているようだったが、それくらいは無視を決め込まなければ、社会に出て働くことはこの先どこへ行っても難しいはず。男性同期との小競り合いや、先輩たちの小さな陰口も同様。
 だが、男性社員に囲まれて卑猥な言葉を聞かされながらの残業は、明らかに常軌を逸したセクハラ行為だ。
 それだけでも頭が沸騰しそうなほどに憤りを覚える仕打ちなのに、さらに渚は項垂れ顔を顰める妹に寄り添いながら衝撃の事実を告げた。
『不倫の疑惑を掛けられたらしい』
『……は?』
『ひとりね、楓の味方みたいに振る舞う男がいたんだって。社内のあれこれの相談にも乗ってもらってたらしい。で、ある日突然この後どうって誘われて、バッサリ断ったら次の日からなぜか楓がその男に迫ったことになってたらしい』
 苛立ちと侮蔑を隠す気も無く、渚が吐き捨てるようにそう言った。めでたい結婚話がまとまり、これから嬉しさと物寂しさだけを抱えて式までの数か月を過ごすものだと思っていた私たちは、あまりの衝撃にほぼ同時に頭を抱えた。
 本来なら、これだけのことをされてただで済ますわけにはいかない。娘の名誉のためにも会社相手にひと暴れするのが千代田家の流儀だ。だが。
 この子はもうすぐ、千代田楓ではなく幸村楓になる。
 こんなこと、相手方のためにも式前に大事にしていいことではない。何があっても絶対に。
『……会社で体調悪そうにしてたら、何故かあの男の子供を身籠ってることになってる』
 続いて眉間に深い皺を刻んだ楓もそう吐き捨てるように言った。思わず眩暈を覚え、耐えられなくなって隣に座る仏頂面の男へ視線を向ける。彼はソファーに深く腰掛け、腕を組み何かを考えているようだった。
『とにかく、表向きは結婚するからってことで仕事は早々に辞める。幸村にも出産を機に辞めたって言って押し切る。……今できることはもうそれ以外ないと思う。ふたりもそれでいいよね?』
 何故か楓よりもよく発言する渚に、疑問を持ちながらも頷かざるを得ない。すると突然、隣から低い声が発せられた。
『楓、ひとつ訊いておきたい』
 鋭い双眸が、自らの娘に向けられた。
『誰も訊けない、少なくとも幸村くんは絶対に訊けないことだろうが、あえて訊く』
『……なに』
『お前、狙って子どもを作ったということは無いな?』
 水を打ったような静けさが、リビングを襲った。私は我が耳を疑い、渚はしばらく口を開けたまま固まっていた。
 それを、あんたが、父親が訊くのか?
『仕事を辞めたかったからそんなことをしたわけではないな?』
『恥を知りなさいよ貴方!!』
 返答の無い楓へ追い打ちをかけるように再度問いかける自身の旦那に、耐えられずつい口を挟んだ。瞬間、例の冷たい目が私の方を向いたが、怖気づいてはいられない。
『貴方父親でしょうが!? 実の娘に訊くことなの!?』
『返答次第で今後の対処の仕方が変わってくる。楓のことは信じているが、心の中で思っているだけでは何も確定はできない』
『だからって……!』
『誰も訊けないだろうから私が訊いた。知らないところで楓が傷ついているのはもうたくさんだ』
 怒りと遣る瀬無さで顔が真っ赤になっていくのが分かったが、それを冷ましたのは先ほどまで難しい顔をして俯いていた下の娘だった。
 楓は何故か口元に手を当ててクスクスと笑っている。その隣では渚が苦笑しながら勢いよく背凭れに身を預けていた。
『どうした?』
『親子で同じこと言ってる』
『?』
『先々週、同じこと訊いてきた馬鹿がいたから思いきり横っ面張ってやったのよ。千代田渚っていうんだけどね』
『ったく、キレるとすぐ手が出る……アンタに殴られるの何回目よ』
 そう言って笑い合う姉妹に、思わず夫婦で顔を見合わせてしまった。いつの間にこんな、普通の姉妹のような軽口を叩き合う仲になったのか。
 置いてきぼりの両親は余所に、ひとしきり笑うと楓は真剣な表情で父親を見据えた。
『ありえない』
 短く、強い返答だった。
『……だからこそ、幸村さんにこのことは言えない』
 だが、それに付随する言葉に覇気は全く無かった。
『きっと……姉さんや父さんと同じ疑問を持つと思うから。私はその時、彼にうまく否定できる自信が無い』
『隠して、後から知られてしまったときの方が否定しにくくなるぞ?』
 間髪入れずに述べられた正論に、楓は目を伏せ押し黙る。そして、その問いかけに答えることはなかった。

「どう、寝られそう?」
 吐き気の波がどうにか収まったようで、心細そうな肩を抱いて自室のベッドへ連れていった。そこに腰掛け項垂れる楓の隣に寄り添って座り、そっと問いかける。楓がゆっくり顔を上げ、やつれた顔が蛍光灯に照らされた。
「ねぇ、母さん」
「なあに」
「……私ね、最近幸村さんといると、目の前で泣き喚いて思いきり困らせてやりたくなることが時々あるの」
 重大な罪を告白するかのように、突然重々しい口調で語られた告白。その表情はひどく追い詰められたものだった。
「姉さんといる時もそう。母さんや父さんといる時も、本当はそう。理由なんてないの。ただ子供みたいに、構って構って、私を見てって駄々をこねたいだけ。……もうすぐ奥さんに、お母さんになるのに、こんなことではいけないって……思えば思うほど突然涙がこみ上げてくる」
 涙声で時々詰まりながら紡がれる言葉に、私よりも大きくしっかりしたその肩に手を回した。思ったよりも華奢なことに驚く。
「知らなくていい。こんな弱くて幼稚な私なんて、彼は知らなくていい。じゃなきゃ、こんな欠陥品掴まされた彼が可哀想すぎる」
 自虐というには重たすぎる自傷のような言葉に、私自身が切り裂かれる心地がした。
 娘から、そんな自分を蔑むような言葉を聞きたい親がこの世界のどこにいるのか。けれどそこで言葉を遮ることは、彼女の心の回復を遅らせることになると本能的に悟る。
「辛くても、演じなきゃ。強くてしっかり者で、元気な奥さんを。お母さんを」
 ただ黙って、私よりもずっと背の高いその体を抱き寄せた。
 母親としての自信なんて皆無だ。私はいつだって、隠し事が上手すぎるこの子の本音を見抜けず、守ることも叱ることすらもしてやれなかった。何度も傷付けた、愛情を信じることができなくなるほど追い込んだこともあった。
 それでも、伝えたい。
 この子の未来が、幸せなものであるように。
「何も可笑しなことじゃないと思うけれどね」
 その悲壮感に塗れたところから、なるべく外へ連れ出せるように。けれど傷つけないように。懸命に言葉を選びながらもまずその言葉を口に出した。
 楓の体温を左腕と胸に感じながら、自分のことを思いだす。
「渚を妊娠した時、それはもう当り散らしたわよ、私」
「……え?」
 戸惑ったような声に思わず笑う。
「産婦人科の先生も言ってたでしょうけど、妊娠初期はある程度は仕方ないのよ。この程度の変化で根を上げる男ならそれまでだって、それはもう好き放題したわ。あの店の蜜柑ゼリーしか食べたくないって駄々こねたり、生まれるまで私と一緒に禁酒してって接待以外の飲み会を禁止したり」
「……えぇー……」
 幻滅を隠そうともしない素直な反応。これまでも感じてはいたけれど、確実に感情表現が豊かになってきている姿に、内心安堵の息を吐いた。
 彼の影響なのだろうと、花のように笑うあの青年を思い出す。
「長い人生よ。親よりも長く一緒に過ごす相手に、自分のありのままを受け入れてもらいたかった」
「……夫婦は、他人よ」
「そうね。でも、何十億人の中から選んだ特別な他人よ」
「……」
「親や子は選べない。でも、夫は選べるのよ。……自分の意志で選べる、たった一人の家族なの」
 仕組まれたお見合いだった。正直、当時の自分は選んだ気は皆無だった。
 それでもやはり思い返すと、選んでいたのだと思う。私はあの、無遠慮で偽悪者きどりのおじさんをこの人と思って選んだのだ。
「それは相手も同じこと。楓は何十億人の中から精市くんが選んだ、特別な他人なのよ」
「だからって、彼に好き勝手していい理由にはならない」
「……そうね。楓がそう思うなら、それもひとつの答えなのかもしれない」
 偉そうなことを言って聞かせているが、10年以上別居生活をしてきた。優しいこの子はそこに突っ込んでこないが、一度は破綻しかけた夫婦関係だ。些細なきっかけでも家庭が簡単に壊れることは身を持って体感している。相手に我慢させ過ぎても、自分が我慢しすぎても、バランスは遅かれ早かれ崩れるのだ。
 そこに、正解はきっとないのだろう。
「ねぇ、楓。貴方と精市くんは、どんな夫婦になるのかしらね」
 だからこそ、様々な形の絆が認められるのだと信じている。
「どん、な?」
「亭主関白になるのかしら、それとも楓が尻に敷く? 恋人同士の時のまま仲の良いふたりでいるか、それともふたりともすっかり所帯染みて安心感が出てくるか。言いたいこと言い合って激しい喧嘩もできる仲になるのか、それともお互いに節度を守って思いやりを大事にする関係になるのか」
「……」
「どんな形であれ、それは楓と精市くんにしか作れないものよ。……ね? そう考えると、ちょっと夫婦になるのが楽しみに思えない?」
 少し体を離して顔を覗きこむ。涙の張った充血した目がこちらをジッと見ていた。相変わらずの真一文字に結んだ口。本当に、こういう表情はあの人にそっくり。
「正解も、間違いも無いの。楓らしい奥さんとお母さんになれれば、それでいいんだからね」
 涙目がキラキラと光っている。少しは、せめて今夜僅かでも心安らかに寝られるくらいの影響は与えられただろうか。
 楓の退職日は5月末日。本来なら、そんな下種な噂の待つ場所に大事な娘を一日たりとも行かせたくない。けれど引き継ぎと精市くんに怪しまれないため、それから社内規則を守るという意地で楓はそこまで是が非でも出社すると言って聞かなかった。
 自己主張が控えめで表情の変化も乏しかったが、昔からこういうところだけは変わっていない。一度こうと決めたら絶対に周りが何を言っても考えを曲げなかった。
 そんなこの子が、自分の意志に絡め取られて身動きが取れなくなる日が来ないように。親の役目はまだまだ残っていると自身を奮い立たせる。その時だった。
 楓の白で統一された部屋にノックの音が響く。ビックリしてふたりでドアを凝視すると、ばつが悪そうにほんの少しだけそれは開いた。
「……茶を淹れたから、ここに置いておくぞ」
 隙間から辛うじて聞こえる低い声に、沈黙は5秒。最初に耐えきれなくなったのは楓だった。
 釣られて噴き出しそうになるのを懸命に抑えて、ドアまで出迎えに行く。彼は案の定しかめっ面で床にティーカップを二つ乗せたトレーを置こうとしていた。
「ああ、貰うわ」
 慌てて奪うと、鼻孔を酸味のある甘い香りが擽る。赤みがかったその液体を凝視する。
「ローズヒップ……貴方、茶葉のある場所よく分かりましたね」
「……馬鹿にしているのか」
「ふふっ……いいえ、ありがとうございます」
 私のつわりが酷かった時、貴方がよく淹れてくれていましたね。そう言おうとする前に楓が私の背後から顔を出した。
「……父さん、ありがとう」
 そう言って、私たちの娘は嬉しそうに笑った。


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