期待と甘え
 結論から言おう。その問題はちょっとどころの騒ぎでは無かった。
「中国支部の倉庫で火災!?」
 部長が指示する資料を集めるだけ集めて小会議室にふたりで向かうと、課長係長主任以下俺の一番歳が近い先輩まで、総勢20人がひとり残らずお通夜モードだった。何が起きたのかを端的に説明されてオウム返ししてしまうほどには俺にも衝撃が走る。
「20棟中5棟が全焼、3棟が半焼。数字に直せばそれほど被害は甚大には見えないが、燃えた場所が悪かった」
「T社に納品予定の部品がほぼ全滅。このまま行くと1週間後にはT社のラインが止まるぞ」
 T社とは、世界的な自動車メーカーのあのT社である。うちで取り扱っているT社部品は、それこそ車内で使われる運転席助手席の脇に付いたドリンクホルダーだけ。たったそれだけでも、足りなければ製造ラインは止まる。
 事の重大さに先ほどの幼稚な水の掛け合いはすっかり頭の中から飛んでいた。2年もここにいるとさすがに遠い世界のことではなく、自分が当事者である自覚もある。
「うーん、とりあえず鈴木くんは明日朝一で現地飛んでくれるかな? 一緒に小野田くんも行こうか」
 部長に指名された課長と主任が重々しく返事をする。
「それと……幸村くんにも行ってもらおうかな」
「はい……えっ?」
 ノリで返事をしてしまい、慌てて聞き直すとシリアルキラーの目がキラリと光った気がした。
「こういう非常事態の対処の仕方を学んでくるといい。中国語も頑張ってるみたいだしね」
 週2でベトナム語と中国語のオンライン講座を受講し、毎日誰も出たがらない中国人ベトナム人の電話対応をした甲斐があったと、喜ぶべきところなのか。
 個人的には崖下に落された獅子の仔の気持ちだ。
「お、俺が行ってお邪魔にはなりませんか……?」
「邪魔だと思われるくらい前に出てからそういうこと言え。謝罪要員としてしか期待してないから問題ない」
 口の悪い主任が間髪入れずにそう言った。その視線は俺がかき集めてきた資料から離れない。
「邪魔だなんて思うわけないじゃない、心配しなくても無茶振りはしないよって」
「チッ……おい幸村! 新婚気分で浮かれた性根叩き直してやるから覚悟しろよ! 男は仕事が最優先、日本経済のために我慢しろって嫁に伝えとけ!」
「ちゃんと教えるべきことは教えてあげるから安心してね。しばらく帰れないってお嫁さんに謝っておいた方がいいよって」
 主任翻訳機である主任の同期の言葉に、隣で主任が怒り狂っていた。酒癖の悪いことで有名なこの直属の上司、俺も飲み会の度に絡まれては要らぬ迷惑を被るが、実はこの通り分かりやすいツンデレで部下からの信頼はそこそこ厚い。俺も、嫌いじゃないからこそ酒の席での対応に困っているだけだ。
「では、鈴木小野田幸村の三名は明日朝一の便で上海へ。残りは本日から一旦日常業務を停止して全力で各社対応に当たる様に。小野田くんと幸村くんは今日はもう帰っていいよ。どうせ明日からしばらく寝られないだろうし。他は終電までは居てね。鈴木くんはこの後詳しい打ち合わせしたいから残って」
 部長が淀みなく告げる指示に、全員が暗く、しかし何とかしなければという覚悟を決めた顔をした。そんな俺たちをぐるりと見渡したシリアルキラーは、朗らかな笑みを浮かべてこう言う。
「さて、踏ん張りどころだ」

「と、言うわけでですね……」
 夜10時過ぎ。帰宅した俺は一先ず期間未定の出張支度を慌てて整えること以外を考えられなくて、そして準備途中に突如電話を掛ける用事を思い出すことができた。まずは電話帳に入っている唯一の警察官の名を呼び出しコールして、彼との通話を終わらせた次は現役T大大学院生に掛ける。
 準備の片手間、自室でスーツケースと向き合いながらマイクをスピーカーにしてかなり掻い摘んだ説明をしただけだ。
『大変そうだな、俺で良ければ何でも力になるぞ』
 先ほど電話した皇帝と一字一句違わぬ返答に、立海三強の絆はまだ健在かと少しだけ気持ちが慰められた。
「ありがとう。ごめんね、そっちも忙しいだろうに」
『生憎大学院生はこの時期それほど忙しくはない。それで、俺は何をやればいい?』
「二次会の会計をやってほしいんだ。幹事はさっき真田に投げたから」
『なるほど、承知した。先ほどの口ぶりからして、二次会関連は何も決まってないと取っていいか?』
「うん、もうゲストから箱から内容まで何もかもまっさら……」
『任せろ。予算は?』
「30万くらいまでかな。その範囲であれば、会費である程度元が取れるようにしてくれたら値段にはそれほどこだわらないよ」
『了解だ。ゲストを決める余裕はあるか?』
「今夜やるよ。たぶん夜中か明け方に真田と一緒に送るけど、起こしたらごめん」
『気にするな。招待状はどうする?』
「そうだね、さっき真田と会話しながらちょっと調べたんだけど、二次会は郵送での招待状じゃなくてメールやSNSでの通知が主流みたいでね。出欠の返事も簡単にできるサイトがあるみたい」
『そうなのか……では、それを利用するとしよう。お前の知人友人は大概俺か弦一郎も連絡先が分かるはずだが、知らなさそうな人間だけ連絡先も一緒に添付しておいてくれ』
「分かった。……あと、楓のゲストの方だけど」
『ああ、こちらでコンタクトを取っておくから心配するな』
「ありがとう……ホント助かるよ」
 そう言い終えたのと同時に、洗面道具とシェーバーを入れて出張準備に一区切りがつく。小さくため息を吐いた。
「ああ、それとさ。二次会の企画とかいかにも赤也向きだし、気が向いたらあいつも巻き込んでよ。真田にも伝えたけど」
『……ああ、分かった。赤也で思い出したが、精市。先ほど言っていた披露宴の余興、何かやる予定はあるのか?』
「ああ、いや。全く何も考えてないな……なに、赤也の一発芸とかならお断りするよ?」
『そうじゃない。ほら……前に仁王が結婚した時、お前が冗談で言ったこと。赤也憶えてるぞ』
 記憶力極振りの参謀の言葉に、俺は首を傾げた。何か言っただろうか。
『俺の結婚式ではアラキ歌えって。あいつ張り切ってたぞ』
「えっ、ホントに!? なにそれ超楽しそうじゃん、俺も混ざりたい」
『超過密スケジュールで泣き事言ってたのはどこのどいつだ』
「あはは……」
 俺だってアラキ歌いたい、松ズンポジでかっこよく愛を誓いたいと駄々をこねるには、確かにやることが多すぎる。
「仕方ない。蓮二の結婚式まで俺は我慢しておくよ」
 半分冗談、半分本気でそう言った。参謀はしばらく無言だった。
『……残念ながら、その予定は無いな』
 彼がおそらく考え抜いて返したのであろう言葉は、傍からするとあたりさわりが無いように聞こえるだろう。自嘲交じりの静かな声音には、きっと俺にしか分からない諦めと意地が混ざっている。
 どうせ今の俺には、それを察しても黙殺するしかできないと高を括っているのだろう。
「そう、それは残念」
 まあ、その通りなのだけど。
 その後、不用意に会話を長引かせることも無く俺は蓮二との通話を切った。今俺がやるべきことは、真夜中という時刻になる前に奥さんにしばらく日本を離れると報告することだ。
 旧友に昔付けてしまった足枷を外すため向き合うことも、社内で不倫疑惑が掛けられている楓とコミュニケーションをとることも、今やる内容ではない。そう割り切って楓の名を呼び出し通話ボタンを押す。田辺の声が頭の中で何度も響いてうっとうしい。掻き消すためにも煙草に火をつけた。
 楓が不倫なんて、そんな馬鹿馬鹿しい話は一切信じていない。そんなことより、もしも田辺が喚いていた内容がすべて楓の職場でも囁かれているとしたら、あの子は今どんな立場で仕事をしているというのか。それが頭から離れない。
 なんて、綺麗ごとを言えたのならまだ良かったのに。
「もしもし、楓? あのさ、今大丈夫?」
 どうして何も言ってくれない?
「実は中国支部で大変なことが起きちゃって、俺明日の朝一で上司と一緒にそっちへ行かなきゃいけなくなったんだ」
 どうせ俺と結婚して辞めるから、無かったことになるから、俺にそんなことを知らせる必要はないと思ってるのか?
「そう、わりとマズい状況。出張期間も未定で、もしかしたらゴールデンウィークまでに帰って来られないかもしれない」
 何も問い詰めない俺に、甘え過ぎじゃないのか。
 ねぇ、俺たち夫婦なんだよね。
「今さっき真田と蓮二に二次会の幹事と会計投げた。たぶんどっちかから楓にも連絡行くと思うけど、ふたりにゲスト名簿さえ投げればあとはどうにかしてくれると思うから」
 そんな隠し事ばかりで、これから俺たちやっていけるの?
 相談事もできない、頼れもしない男を旦那にして、キミはそれでいいの?
「だから楓には挙式と披露宴のこと、しばらく丸投げしちゃうことになりそうなんだけど……本当にごめん。毎日なるべく、メッセージは見るようにするから」
 もしかして、仕事さえ辞められればそれでいいの?
 俺に期待しているのは、それだけ?
『こちらのことは私に任せて、お仕事頑張ってください。新居探しもなるべく進めておきますから』
 明るい、朗らかな声の楓に、自己嫌悪で死にそうだった。
「……うん。あのさ、楓」
『なんですか、せいくん』
「……何か、俺に言うことある?」
 つまらないプライドを守るために、俺は最後に短くそう訊いた。
『……体に気を付けて。大好きですよ』
 時刻は12時を過ぎようとしていた。明日は空港に6時待ち合わせ、二次会のゲストリストも作らなければいけない。
「うん……楓も無理しないでね。大好きだよ」
『ふふっ……じゃあ、もう切りますね。また何かあったら連絡ください』
「うん……じゃあ、おやすみ」
『おやすみなさい』
 通話を切って、余りの不甲斐なさに思いきり携帯をベッドへ叩き付けた。勢いよくバウンドしたそれは2、3回ベッドの上で跳ねまわり、床へと落ちる。
 出窓に腰掛け、衝動的にもう一本煙草に火をつけた。出窓の端に置かれた灰皿には、既に吸殻がいくつも潰れている。
 甘えているのはどっちだ。楓が何も言ってこないことを理由に知らないふりを突き通して、目の前の課題しか直視しようとしない愚か者は他でもない。俺だろうが。
『家族よりも三連覇が大事ですか』
 ふと。
 夢枕にも立ってくれない鬼婆の声を思い出した。思わず開いた窓から下を見下ろすと、俺と母さんが飾り立てた庭の端、住居部分からはみ出すように庭の一角を覆うガラス製の天井と壁が見える。
 俺が17歳の時に亡くなった祖母の部屋と繋がっているそこは、いわゆるサンルームと呼ばれる場所だ。祖母は生前、そこで紅茶を飲んだり読書をしたりしながら一日の大半を過ごしていた。四季を問わず薔薇が咲き誇るそこを妹は「花園」と呼び愛し、小学生くらいから一度も入ることを許されなかった俺は「墓園(はかぞの)」と密かにあだ名を付けていた。
『家族にも人格があります。甘えるのも大概にしなさい』
 一度思い出してしまうと、止めどなくその鬼婆にぶつけられた言葉の数々を思い出してしまう。黙らせるためにも、俺は短くなった煙草を灰皿に押し付け、床に転がった携帯を再び手に取った。


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