大人な話(全年齢)
 不二くんの血相変えた顔と切羽詰まった声をモーニングコールに起きたのが10時過ぎ。そこから不二の呆れ声の説明を聞き、まぁ見れるような身支度を整えて後輩の家を出るまでで20分ほど。そこからはただひたすら電車に揺られながら回収したスマホを眺めつつ懺悔の時間だった。楓からの着信は合計で18件。メッセージは10件。その他姉の千代田が8件、不二が3件、母親5件の不在着信。楓には先ほど不二くんのスマホを借りてひとしきり謝り倒したので、それ以外の人物に短く詫びと経緯を記載したメッセージを送ったら、千代田から返信が来た。
『大船まで迎えに行くから、着き次第西口へ』
 無愛想な文面だったが、正直乗り換えの手間がだいぶ省けて助かった。
 大船とは湘南鎌倉エリアのなかでも主要と言っていい駅の一つで、横浜から今日のドレス選びの会場であるレンタルドレスショップに行こうと思うと、ここで一度モノレールに乗り換える必要がある。さらにその後江ノ電にも乗り換えなければいけなかった。いっそ大船でタクるかと考えていた矢先のことだ。素直に甘えておこう。
 そうして大船の西口で見つけたシャンパンゴールドっぽいフィットは、たしか不二の愛車だったはずだ。てっきり千代田家が所有するあの赤いミニで来ると思っていたので、千代田が東京からそれを転がしてきていたことには純粋に驚いた。
「……迷惑かけたね」
「いいえ、義弟が無事で何よりですよ」
 とりあえず助手席に乗り込んで再度詫びを入れると、千代田は一度もこちらを見ずにシフトレバーをDに合わせてサイドブレーキを乱雑に下ろした。
「今日、仕事は?」
「バレエ団の練習は無いよ。夕方から教室の方があるから、アンタ送り届けたら私は帰るわ」
 そう静かに答える千代田。遠回りさせた原因は他でもない俺だが、中学で一度は潰れてしまったあのバレエ馬鹿が10年前に夢見たようにバレエで食べていけているのは、傍から見ていてとても嬉しかった。楓絡みで色々あった例のバレエ団を退団した後、10代半ばの少女たちに混ざって業界最大手のバレエ団で実習生からやり直すという作戦は功を奏したらしい。今ではちびっ子や大人の初心者にバレエ教えながら立派に役を貰えているそうだ。
「今度の公演は何やるの?」
「シンデレラ。私意地悪な義姉役」
「ぴったりじゃん」
「うるさい」
 車内にはFMが音量をかなり絞られて流れていた。流行りの音楽がエンジン音交じりで微かに聞こえる中、千代田がドレスショップに向けてハンドルを切る。律儀に両手をハンドルに添えて運転をする様は、運転に慣れていないというよりも意外にマナーが良いのだなという印象を受けた。
 ふと、そのハンドルを握る左手の薬指に、チラリと光る小さな石が乗った指輪を見た。
「……そういえば、指輪買ってなかった」
 小さく呟いた言葉に、千代田はすぐには反応しなかった。ただ黙ってジッと進行方向を見つめてアクセルを踏み込む様に、呆れて言葉を失くしているのだと思った。指輪がほしいなどと自分からはとても言えず、どこか諦めた様子で笑う楓の顔が脳裏を過る。
 思い描いた通りに行かないことばかりだ。何がきっかけということでもない、ただいつの間にか何かに追われているような焦燥感が胸に燻り続けていた。
 楓に今朝電話をかけた時、彼女からの第一声は落ち着いた『体調は大丈夫ですか?』という問いかけだった。
 本当は謝り倒して、経緯という名の言い訳もつらつらと並べたかった。会社の飲み会が断れなかったこと、行ったら上司に絡まれて潰されてしまったこと、後輩である不二の弟の家で保護されて一夜を明かしたこと、スマホを失くしてしまったこと、不二が不二の弟にかけた電話でやっと起きたこと。そして、もう二度とこんなことは無いようにすると誓うつもりだった。
 けれど彼女は少しも気にしていない風に、俺の体調を気遣った後には『全然気にしてないので、謝らないでください。お付き合いお疲れ様です』と淡々と告げた。そうして、俺の謝罪も言い訳も懺悔も反省も全て封じてしまったのだ。
 不二の言ってた『パニック』というのが誇大表現だった可能性もある。不二がそうしたというより、千代田が不二にそう大げさに言ったという状況は容易に想像がついた。けれど、もし、万が一そうではなかったとしたら。楓はどうして俺に自分の不安や苛立ちをぶつけてくれなかったのか。千代田にはその姿を見せたというのに。
 考えても詮無いことだということは分かっていた。それでも、楓に離職したいという意志を聞いた日から、どうにも俺は楓の本意を掴みかねているような、そんな得体の知れない焦燥感に駆られている。
「あー……うん。今日の午後、暇ならふたりで見に行ったら? 誘ったらたぶん喜ぶよ。一緒に結婚指輪も買っちゃいな」
 その時、俺の負の思考回路を現実に引き戻してくれる声があった。
 中学時代に聞き飽きた、甲高く子供っぽい響きはいつの間にか落ち着きのある大人の女のそれになった。思わず横顔を盗み見る。やたらめったら書き込んでいた高校生の時とは違う、童顔の自分を理解した薄化粧が年相応の落ち着きを見せていた。
 あれ、こいついつの間にこんないろいろ大人っぽくなったんだ、とふと思った。
「そう、だね……」
 そして、この世で一番大好きな女性を寝坊で待たせておきながら、昔好きだった女にちょっと見惚れてしまっていた自分を殴り飛ばしたくなってくる。視線を進行方向に戻してスマホを握りしめた。恥を知れ幸村精市、今のこいつをちょっとでも綺麗だなんて思ってみろ。陰で不二がほくそ笑むだけだぞ。
「あっはは! 心配しなくても楓ちゃんそんな高級志向じゃないし! 給料1ヶ月分とかが相場らしいよ?」
 何を勘違いしたのかそう言って爆笑しだす千代田は間違いなくよく知る無鉄砲サル女なのだが、そもそも俺のよく知る千代田は大事な打ち合わせに遅刻してくる義弟に対してこんな優しい言葉はかけない。
 そういえば、ふたりきりになるのは何年振りだろう。
「そう……」
「なに、1ヶ月も厳しい?」
 こういうことを無遠慮に訊かれてどこか安心する自分が馬鹿らしくなってくる。千代田とまで腹の探り合いなんて本当にごめんだ。
「1ヶ月、くらいなら何とか」
「ってことは、わりともう?」
「カツカツだね」
「……あー……楓はなんて?」
 薬指の愛の証を誇らしげに光らせながら、千代田は少し真面目な口調でそう問いかけてくる。どこまで暴露するか一瞬思案して、たぶんこの先友人たちとこういう話題する機会も暇もないだろうと結論を出す。人の意見を聞いておきたい。
「楓には、言えてない」
「……え」
「わりと俺が会計係なんだけどさ、俺の貯金額とか給料とかも、全然訊いてこないんだよね。だから、俺が俺の判断でやりくりしている状態というか……」
「なにそれ。まさかアンタ式の費用全部一人で工面するつもり?」
「いや、それは完全折半って決めた」
「新生活の準備とか、新婚旅行とか、出産準備は?」
「……今の予定では、俺の貯金に祝儀で補てんする感じで」
「……」
「仕方ないだろう。社会人2年目がそう貯金できてるとは考えにくい。ボーナスだって1回しか出てないだろうし」
「……まあ、アンタたちがそれでいいならいいけど」
 少し含みのある言い方でそう呟いた千代田が、アクセルを踏み込んで追い越し車線に進路変更をした。2台3台と車を抜いていく。左車線を眺めながら、ああ今すごく生々しい話してるなと奇妙な気分になってくる。
「いや、やっぱそれは楓に言った方がいい。あの子だってもしかしたらもう少し貯めてるかもだし、いざとなったらバックが出てくる」
「いや、そこは頼りたくない」
「何で?」
「何でって……俺が出てこないのに奥さんの家に出させるわけには」
 そう。楓に金銭面の話を振りたくない理由には、タイミングが掴めない他にこれもあった。
 楓の貯金がもし結婚式費用の折半分で消えていた場合、十中八九あの子は両親に頭を下げに行くはずだ。おそらく俺に黙って。それだけでもあまりに不甲斐ないのに、輪をかけて情けないのは俺の実家が現在それほど金銭に余裕がある状態ではないということだ。
 両親はけして悪くない。幼少期からテニスなんて金のかかる習い事をしていたのに加え、中学から私立校にも行かせてもらっていた。さらに極めつけは中学時の大病の治療費。そこへ追い打ちのように学費が高いと有名な氷帝学園大学へのうのうと進学した俺が全部悪い。妹が遅めの反抗期だった高校生の頃、兄貴は私の3倍は維持費が掛かってると嫌味を言われたが、それは存外真実だったりする。親父の退職金が入るまで、親に返す金はあっても借りる金など少しも存在してはならない。
「気にすることないと思うけどな。私たちだって東京のマンション貰ったし」
「不二は抵抗あったと思うよ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
「……変わってないね」
 そう言って、千代田はほんの一瞬だけ横目で俺を見た。
 目尻を少し細めた流し目は、どことなく千代田のフィアンセを彷彿とさせた。ふたりは一見正反対の性格をしているようでいて、時々ひどく似た表情をする。
 千代田の告げた言葉の真意を分かりかねてる俺を余所に、車は目的地であるレンタルドレスショップの駐車場へと滑りこんでいった。千代田がバックモニターを見ながら狭い駐車場の一角に不二のフィットを収めていく。
 しばらくよく見なかった内に、時折垣間見える昔の面影を見て安心するほど印象が変わった旧友に、変わっていないと言われた。どうしても、褒め言葉には思えなかった。
「……それは、どういう意味」
 サイドブレーキを引く千代田にそう問いかける声は、思いの外か細くなった。シフトレバーをパーキングに合わせた彼女は、やや緩慢な動きで俺の方を見る。そして、少し笑った。
「誰かに凭れるのが下手というか。甘え下手は甘やかせ下手にもなりやすいから、もうちょい周り頼りなね。みんなアンタたちの味方だよ」
 昔から、この女は俺の肩の力を抜くのが異様に上手かった。
 この世で一番愛している人間や、信頼している人間、一緒にいて楽しい人間には当てはまらなくとも、きっと一生俺は千代田渚の隣で自分でも気付かなかったような弱音を吐かされてしまうのだろう。いまみたいに。
「今朝の、楓のことだけど」
 エンジンが切られ、静まり返った車内で俺は恐る恐る切り出した。千代田から目を逸らす。喉が異様に渇いていた。
「楓のそばに、いたんだよね? 楓、なんて?」
 本当は、こういうことを人づてに聞くのは大嫌いだ。人の情報は本人からしか聞かないし、人に対して覚えた考えも本人にしか言わない。噂話陰口愚痴、そのどれもが物心ついた頃からずっと苦手だ。お陰で周りには駆け引き下手の馬鹿ばかりが選抜されたが、楓だけは別だった。
 苦手なことをしてでも、その心を大切にしたいと思える唯一の人だった。
「『大好きな人であればあるほど、何も本音を言えなくなった』」
「……え?」
「4年前、幸村が私に教えてくれた楓の言葉。憶えてる?」
 突然、千代田はそんなことを言い始める。その細い指がドアノブにかかる。セミロングの真っ直ぐな髪がさらりと方から零れて、少し俯いた彼女の表情を隠した。
「……あの子さ、幸村のこと本当に、本当に大好きなんだよ」
「……知ってる」
 痛いほど知ってる。
「楓は、きっと今朝のことをアンタに知られたくないと思う」
 千代田がドアを開ける。風が車内に吹き込む。靡いた髪の隙間から見えた表情は、何かひどく思い悩んでいるような難しい顔だった。俺も楓も尊重したい千代田が言えるギリギリの発言だということはすぐに分かった。
 やはり、今朝俺からの電話に出たあの楓の冷静さは演技だった。
 ありがとう千代田、それだけ分かれば十分だ。
 窓越しに見える看板の『wedding』の文字を睨みつけ、俺もドアを開ける。
 そして車から出て、ボンネットを挟んで千代田に、その向こうにいる今朝の楓に話しかけた。
「俺の楓への想いは『知りたい』って気持ちから始まったって話、したっけ?」
「……えっ?」
 変わってないわけない。俺は変わった。変わってしまった。4年前、必死で楓を口説き落とした俺に顔向けできないほどに。あの貝のように閉ざされた口から、悲壮と卑屈にまみれた本音を引き出したのが俺たちの始まりだったはずだ。
「最近、どうも自分の立場に驕っていたみたいだ」
「……そうね。私たち昔から、親しい人を過信しすぎる癖があるからね」
 決意を込めて千代田に笑いかけると、彼女は俺のよく知る子供っぽい笑顔でそう言った。
 あの頃のことを自虐でネタにできるほど、俺たちの取り巻く環境も大事なものも夢も変わった。傷口は痕になり、時々痒くなることもあるけれど大概はその存在を忘れている。
 だからここから先、俺はこの古傷が二度と開かないように、もっともっと上手くやらなければならない。良い方に、変わっていけるように。
「ありがとう、千代田。ちゃんと楓と話してみるよ」
 さて、世界で一番綺麗な俺の奥さんのドレス姿を見に行くとしよう。それから指輪を買いに行って、久々のデートを楽しみながら話をしよう。いろいろと、聞かずに来てしまったことがあるような気がする。


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