彼には言えない
 それは2011年7月のこと。
 私が現在所属しているAYASAKIバレエカンパニーにて、この度めでたくソリストの契約を結んでもらえることになった。完全歩合制から月給制の契約社員となり、それがきっかけと言うわけでもないが、その直後に周助と婚約して青春台のマンションで一緒に暮らし始めた。
 オンもオフも順風満帆。誰がどう見ても上り調子だった当時の私には、わりと重大な悩み事があった。
「料理教室にね、通おうと思うんですよ」
 そんな宣言に、ダーリンは読みかけの『老人と海』から視線だけ一瞬上げた。
「いいんじゃない?」
 非常にクールな返しだった。次の瞬間には彼の興味は小説に戻っていたことから、私の料理スキルに彼が一縷の期待も持っていないことは明らかだった。受講の意志を固めるには十分な追い打ちだった。
 同棲を始めるまでに3年ちょっとの一人暮らし期間がありはしたが、正直この間に作っていた自作の料理は野菜ジュースフルーツジュースサラダステーキささみ焼き魚と、素材の味しか生かす気が無い物ばかり。それ以外のものを私は必要としていなかったし、周助がたまに泊まりに来る時も彼は自分で食べたいものを買ってきていた。
 だがしかし、やはり正式に同棲を始めたなら作ってあげたいのが乙女心と言うもの。彼好みで少し辛めのパスタやフライ物なんかをスマホ片手に作りましたよええ。そして「美味しいよ」と言われながらタバスコを足された私の気持ちが誰かに理解されてたまるか。純粋に辛みが足りなかったのか、それともその他の部分でアウト認定されて強引に辛みを足して食べたのかは彼のみぞ知る。
 ちなみに、料理教室通いなんてそんな新妻みたいな暇あるのかバレエダンサー、というツッコミはしてはいけない。雇用状態の変更が影響して生活にいろんな意味で余裕はできた。ダイニングバーでのホールのバイトも晴れて卒業し、手取り14万8000円という夢のかけらをようやく手に入れたんだ。普通の女の子の真似くらいしてもいいだろう。
 ということで、絶対に一人では長続きしないであろう料理教室に巻き込む人間を私は物色し始めた。
『はぁ? 料理? 生まれてから23年間、包丁握ったことすらないわよ。一流シェフが何人もウチで働いてるのにあたしがする必要ある? あ、搭乗案内出た。悪いけど私これからパリに行かなきゃいけないから。じゃ』
 1年しかない高校時代に出来た唯一の友人……友人? である跡部財閥の跡取りの妻には、やはり想像から1ミリもぶれない理由で断られた。そりゃそうだ。
『せっかくのお誘いやけど、私はむりですわ……実はついこの前決まったことなんやけど、来月から旦那の都合で大阪に戻ることになったんです。ええ、ええ、ほんま残念ですわ。また引っ越し前にランチでも行きましょね』
 周助の大学の後輩、あの白石くんの妹さんである友香里ちゃんは大学卒業と同時に一緒になった旦那さんの転勤で故郷に戻ることになったようだ。大阪で薬品会社に勤めている白石くん的には、例え結婚していたとしても妹が故郷に戻ってくるのはやはり嬉しかろう。
『わーっ、料理教室! 私、ずっと実家暮らしで料理とか全然駄目なんで、私なんかで良かったらぜひ……ちょっ、どうしたのリョーマんくん、今話しちゅ……えっ、アメリカ? 来月? えっ、旅行ってこと? ……一緒に暮らそうって……えっ、うそ、どういうことリョーマくん!?』
 同じく周助の中高の後輩である竜崎ちゃんにも声を掛けたら、あろうことか今世界で一番テニスを楽しんでいる男こと越前リョーマ選手のプロポーズ現場に電話越しで立ち会ってしまった。後から突っ込んだら竜崎ちゃんはどもりながら『そ、そそそそんな! 家政婦代わりに呼ばれただけですから!』と否定していたが。ちなみに彼女の料理全然駄目とは、みそ汁の出汁を鰹節と昆布から取るレベルだったのでどの道私とは通うクラスが違っただろう。
 青春台近辺に住んでいる友人が全滅し、仕方ないと範囲をもう少し広げて物色することにした私が、一番最初に思いついたのは当然彼女だった。
『いいけど』
「そーだよねー、楓ちゃんまだ社会人1年目で忙しいよねー誘った姉ちゃんが悪かっ……え?」
『土曜の朝一の教室とかならいいけど』
 棚から牡丹餅とはまさにこのこと。ダメもとで誘った妹が釣れた時は純粋に嬉しかった。聞けばその春から某大手企業の事務員になっていた彼女は、残業こそあれど休日出勤はほとんどなく、逆に幸村はたまに土曜に仕事が入る所為で最近のデートはもっぱら日曜になってるからとのことだった。そうと決まれば善は急げ。少し遠くなるが、ふたりの住居の中間地点ということで横浜の初心者向け料理教室にすぐさま申し込んだ。
「でさ、私言ってやったの。この出窓に入りきらないサボテン買ってきたら古いのから実家に持っていきなさいって。そしたらアイツなんて言ったと思う? キミの服とバッグもそうするなら良いよって。あの男、私にワンシーズン上下5着ずつで過ごせとでも言いたいのかまったく」
 料理教室の後は、私の仕事がある昼過ぎまでお茶をして過ごした。最初の1ヶ月は、同棲を始めたばかりの私の愚痴が話題のほとんどだった。
「姉さん、別に着道楽ってわけでもないでしょう?」
「もち。それどころかここ3年はファストファッションを極めし者になってるからね。GU大好きだからね」
「一度1シーズン3着で過ごしてやれば。婚約しても貧乏なりに格好に気を使う女がいかにありがたいか分かるわよ」
「いや……アイツ多分それは気にしない。結局私がどんな格好してても気にならないんだよ、ある程度清潔感とTPO弁えてれば」
「TPO弁えるってことはすでに1シーズン3着は無理ってことでしょう? ちょっと高めのレストランで食事って時にデニムで行く女が好みなの?」
 楓は時に笑って、時に怒って、時に呆れながら、私のどうでもいい愚痴に付き合ってくれた。今思い返せば、慣れない共同生活のモヤモヤに幸せ同棲生活の惚気を混ぜ込んで、親しい人以外にはできない話もたくさんした気がする。楓は喜怒哀楽を見せながらいつも頷いてくれた。
 様子がおかしくなってきたのは、教室に通い始めて1ヶ月が経過した頃。8月の長期連休が明けたあたりからだった。
「楓ちゃん? どうしたの、今日ちょっと変だよ? 体調悪い?」
 幸村が変えてくれた、いや、取り戻してくれた朗らかな楓が、元に戻ってしまったみたいになった。ある日突然のことだ。その前の週に会ったときは確かに元気で、いつも通りだったのだ。
 能面のような無表情。料理教室で一緒の新妻さんたちも、体調が悪そうだと私に耳打ちするほどには無口で無愛想だった。当然気になって、いつも通り教室後のカフェでそう問いかけると、彼女は閉じた唇をさらに固く閉ざした。
 ああ、これはまさかまたか? そう思った。
「……楓ちゃん、何かあったなら話してみ? どうしたの。会社? お母さん? ……それとも私?」
 虚ろな黒い瞳を覗き込む。子供の頃、この心情の読めない眼が怖かった。その延長で彼女と向き合うことを無自覚に避け続け、2度も傷付けてトラウマを植え付けてしまったことを、ここ数年ずっと悔い続けていた。
 歳の近い姉妹は難しい。彼女の欲するものを無意識に奪い続けていた私は、物理的な距離を置いて彼女の生活圏内から消えることで贖罪を乞うた。妹自身と、彼女の悲鳴に最初に気付いた幸村精市に。
「……その、解決方法も無いし、冷静に話せる自信もないし、ただただ不快になるだけの話だと思うのだけど」
「構わないよ。話して楽になるんだったら、ここで吐き出しときな?」
 それでも、私は妹が好きだった。妹と仲良くしたかった。家を出て数年間、ずっとそう思っていたのだ。
「……会社の人たちと、合わないの。仕事のやり方とかじゃなくて、もっと根本的なところが」
 ここで支えないで、いつ姉妹の絆を取り戻すというのか。
 純粋に楓の力になりたい気持ちは確かにあった。私が話を聞くことで、月曜日少しでも会社に向かう足取りが軽くなることを願ったのは嘘じゃない。この先何度も自分の心に確かめる事柄だが、やっぱり何度思い返しても同じ結論になるから間違いない。

「入社初日に『電話は若い女が出るの、他は出ないからね!』って怒鳴りつけられたところからたぶん始まったと思うの。こっちがすでに電話取ってて保留にしてるのに、掛かってきた電話を取らせようとする時とか、本当に頭が爆発しそうになる」
「デスクが隣の先輩が、私がハンドクリーム塗ってただけで『私そういう匂いに敏感だから会社いる間は付けないでくれる!?』って。そのくせ営業の男が付けてる安い香水はべた褒めしてた」
「誰かがすぐ近くにいる時に、狙ったように私に社内の人間の悪口を言わせようとする同期がいるの。男なんだけど。どうやらその子、他の人に私が会社の人の悪口をずっと言ってるって嘘を吹聴してるみたいで」
「係長と男の先輩と私の3人しかオフィスにいなかった時があって、その、女の局部の形の話を大きな声でしながらこっちを見てることがあって。無反応決め込んでたら最近参加人数が増えてきたのよ。昨日は男6人で体位の話しながらずっとこっちニヤニヤしながら見てた」
「社内ニートになるのが怖くて、最初の1ヶ月で雑用を全部請け負ってたらいつの間にか全部私の仕事になってた。お陰で部署の女で一番残業してるし、みんなその誰でもできる残業が残ってると私に文句言ってくる」
「隣の席の先輩が営業と電話越しで私の悪口言ってた。すぐ隣で私仕事してるのにね。営業の声が大きいから受話器越しでも聞こえるのよ。顔はそこそこなのに可愛げがない、あれには仕事教える気が起きないって、仕事は可愛げで貰うものなの?」
「女はいざとなったら結婚すればいいんだからいいよな、千代田さんも営業二課の山田なんてどうだって。彼氏がいること公表してないからってどうしてそこまで言われなきゃならないの。仮にいなかったとしてもあんな会社で社内恋愛なんて絶対に嫌」
「簡単な仕事だからすぐできるだろうって、コピー取りと発注書作成の仕事が山のように積まれていく。その簡単な仕事ばかり任されてる人間が退勤してる姿最近誰か見たの?」
「女はどうせすぐ辞めるからって、誰でもできる簡単な仕事ばかり回されて羨ましいって男の同期に言われた。ねぇ、私は誰でもできる仕事を毎日9時過ぎまで独りでやってるの? すぐ辞める、替えがきく存在なら明日にでも辞表をあの禿げ頭に叩きつけてやりたい」
「……ねぇ、例えば私が月曜から急に行方を暗ましたら、あの人たちは私がどれだけの量の、彼ら曰く雑用を抱えていたか分かってくれるのかな」

 2ヶ月、3ヶ月と料理教室に通い続けた。私たちの料理スキルが上がっていくのと比例して、楓の口からは会社の愚痴しか零れなくなった。会社勤めの経験が無い私は解決策を提示することもできず、ただ彼女が憔悴していくのに心をすり減らして一緒に憤ってやることしかできなかった。
 自身の無力さを呪い始めたのはこの頃からだ。私には本当に、話を聞いてやることしかできない。会社に怒鳴り込みに行くことも、楓の代わりに辞表を提出しに行くことも、今の私にはもうできないことだった。力になりたいと思った気持ちが、どんどん汚れて踏みにじられていく気分だった。他ならぬ私の無力と、ひとりの社会人という立場に。
「……幸村にも、相談してみたら?」
 縋るような思いだった。それと同時に、幸村に降伏宣言をしている気分だった。楓の愚痴を聞き始めてから3ヶ月が経過していた。
 けれど、楓は黙って首を横に振った。
「幸村さんに言うつもりはない」
「……どうして?」
「たぶん、この苦しみを幸村さんは根本的に理解できない」
「そんなことないよ。アイツだっていじめられた経験はある」
「私が苦しんでいることは単純ないやがらせ行為そのものじゃない。これがいじめかと訊かれたら微妙だし」
「……」
「男で、徹底的な合理主義のあの人に、女である私の主観に満ちた話は理解できない」
 私にだって、周助に言えないことはある。恋人、夫婦にだって共有されない感情や情報はあった。それは当たり前のことだ。特に一緒に暮らし始めてから、男と女の性差というものは日常の至る所に感じた。あんな中性的に見える周助でさえ。
 ただ、当時の楓はあまりにも男性不信と自身の女性性への嫌悪を拗らせすぎていた。
「……理解はできなくても、幸村が楓を傷付けてる人の存在を許せるはずないじゃん」
 あいつ、楓のこと大好きなんだよ。絶対に、何か力になってくれる。
「……無理」
「どうして!」
「姉さん、私」
 何も知らない幸村さんと、早く結婚がしたい。


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