飲みニケーションの陣
 聖ルドルフの高等部を卒業した後、結局俺は実家には戻らなかった。
 姉貴は30歳を目途に家を出て、しばらくは兄貴と母さんが実家で二人暮らししていたようだが、俺が就職した年に兄貴は恋人の渚さんと婚約し青春台のマンションで同棲を始めた。母さんを独りにするわけにはいかないと、今度は姉貴が実家と職場も兼ねて自身で買ったマンションを往復する生活を始めた。
 来年には親父が定年退職を迎えてやっと日本へ帰ってくる。結局家族5人であの家に居られた時間ってどんなものだっただろう? と、一時期家族を空中分解させかけた俺が持っていい疑問でもないか。
 スポーツ科学とこじつけて物理や数学の勉強をするのは中学の頃から好きだった。高校でテニスに一区切りを付け、さて何がやりたいと思った時に真っ先に思い浮かんだのもそれだ。観月さんがたくさん取り寄せてくれた物理学を学べる大学のパンフレットの中には、あの立海大のものもあった。
 第一希望は無謀にも国立だったが、第二希望の立海大に合格できたのはなかなか運も味方してくれたと思う。理系学部がとにかく充実している立海に入学し、まず探したのはテニスコートとそこでプレイする伝説の王者たちだったが、蓋を開けてみればかつての王者立海たちは全員外部へ進学したか就職したとのことだった。
 切原と共に立海四連覇を果たした俺たちと同じ世代の立海メンバー何人かとインカレで共に戦いながら、湘南に下宿しありふれた大学生ライフを送った。アポなしでたまに奇襲をかけてくる観月さんや赤澤部長たちと宅飲みしたり、同じく神奈川の大学に進学した金田と同じラーメン屋でバイトしたり、二度と戻ることは無い楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
 よく、末っ子は上の兄弟の失敗を観察し教訓として生かすから、要領がいい人が多いと言うが、俺に関して言えばそれはまるで当てはまらない。
 まず、姉貴とは歳が離れすぎている上に姉貴の歩んでいる人生は特殊すぎる。学生時代から何かと人の相談に乗ることが多くて、アドバイス通りに行動したら良いことがあったと評判だったらしいことは知ってる。喫茶店を経営している親戚のおじさんがそれを面白がり、当時15歳高校1年だった姉貴に店舗最奥のテーブル席で『放課後占い相談所』とかいうふざけた商売をさせ始めたのがすべての始まりだった。よく憶えている。その占い相談所で出会った年上の高校生と姉貴が付き合い始めて、そいつが通っているテニススクールへ連れて行かれたのが俺と兄貴のテニスとの出会いだ。
 放課後占い相談所は口コミが口コミを呼び、主に女子中高生から大人気になった。姉貴の外見効果も手伝い、ティーン向けの雑誌で何度も特集を組まれた。そして姉貴は高校卒業後に、いくつかの雑誌社やテレビ局とも契約を結ぶ売れっ子占い師になった。
 ほらな、何の参考にもなりゃしねぇ。
 もう一人の上の兄弟こと不二周助も似たようなものだ。なんでも特に努力せず適当にこなしても上の中くらいの成績を叩き出し、テニスでは天才なんて言われて数多くの脚光を浴びていた。顔もよくて女にモテる、華奢なクセに意外に喧嘩も強い、あの終わってる味覚ですら個性とか言われて、俺はあの人が何かに苦戦したり失敗するところなんかほとんど見ることが無かった。
 就活だってそうだ。
 観月さんにああだこうだと今の就活の恐ろしさを事前に聞かされすぎた所為で、大学三年の冬になるころには俺はかなり就活に対してナーバスになっていた。あの観月さんでさえ、100社の説明会に行き、80社にエントリーシートを出し、50社に面接へ赴いて、内定が出たのはたった10社だったそうだ。それでも企業名を聞いたらそうそうたる顔ぶれで、この人やっぱこういう綿密な計画性とか自分をいかに魅力的な人物に見せるかに関しては神の子以上なんじゃないかなと思ったのは内緒だ。言うと図に乗るから。
 就活時期の観月さんの月間予定表を見せてもらって吐きそうになり、その愚痴を少しだけ兄貴に零した。ポーカーフェイスの兄貴の顔色がどんどん曇っていくのが分かって、最後は少し尻すぼみしたが。酒が入ってたこともあるが、兄貴の観月さんに対する感情を甘く見ていた俺の配慮不足だった。
『裕太、就活中は観月と連絡取るな』
 開口一番がこれだ。まだ俺のことで恨みがあったのかと慌てたが、そうではなく。兄貴曰く俺は話半分で聞かなきゃいけない話を丸のみして勝手に焦ったり、気分を落としたりする節があるからと。確かに一理あるような気がして、とりあえず相槌を打った。
『ちなみに兄貴は何社受けた?』
 軽い気持ちで聞いた俺に、兄貴は衝撃の真実を告げた。
『10社』
『……は?』
『正確には1都3県5校と1社』
 兄貴は古文の中高の教員免許を取り、東京とその近郊県の教採を受けたが全滅。さらに都内の私立校の教員採用試験も受けたがこれも駄目で、7月に見かねたバイト先の塾長が本社に推薦してやっと就職先が決まったらしい。
『……教員以外する気なかったのか?』
『うん。それ以外勉強してきてないし』
『……7月まで内定ゼロって、怖くなかったのかよ?』
『別に? 決まれば4月から社会人、決まらなければ就活し続ける。それだけの話だよ』
 観月さんは4年の春までに内定がひとつも取れていないイコール死だと言っていた。それはさすがに極端だとしても、兄貴がやはり只者ではないことだけは分かった。そして、俺は人生においてこの人をまるで参考に出来ないということも。
 結局俺は観月さんにも兄貴にもなりきれず、中途半端に真面目にだらだらと就活をし続け、学部の友達や金田なんかが着実に就活を終わらせていく中で夏まで戦う羽目になった。それでも一部上場の総合商社から内定が出た時は嬉しかった。一番に知らせたかったのは実は観月さんだったのだが、就活のストレスに兄貴の忠告がちらついて既読スルーやらなんやらをやらかしていたのが後ろめたく、結局自分の口から報告はできなかった。
 一時期連絡が途絶えていた俺と観月さんの間を取り持ってくれたのは、新しい俺の先輩である意外な人物だった。

「田辺さん、さすがに酷すぎます! 嘘ついてまで幸村さん引っ張ってくることなかったじゃないですか!!」
 トイレに立った田辺を追いかけて、宴会場の外で問い詰めた。目の前の男はヘラヘラと笑うばかりで俺のことを歯牙にもかけない様子だ。
「いやー、俺も最初はね? 上司は抜きで純粋にゆっきーのお祝い会したかったんだよ? でも課長と主任たちにバレちゃってさぁ。俺だってお前と同じペーペーなの、断れないの分かるっしょ?」
「金曜の夜、こんな駅チカで、急に人数が5人も増えて対応してくれる飲み屋があるんですかね?」
「ちょっと人数多めに予約してたの〜」
 埒が明かない。こうしている間にも下戸の幸村さんは酒癖の悪い課長と主任に挟まれておそらく潰されかけているはずだ。
「……明日、朝からお嫁さんのドレス選びがあるからって、幸村さん言ってたじゃないですか」
 男の俺がこんなことを言うのも変だが、お嫁さんが一番楽しみにしている準備だと思う。幸村さんもそれを分かっていて、今日はちょっとと最初断ろうとしていた。でも同期や先輩たちが折角サプライズで計画してたのにと泣き落とされ、じゃあちょっとだけと優しさを見せたらこれだ。
 この田辺という男、隙あらば幸村さんを陥れようと常に目を光らせている。入社して1年しか経っていない俺でもさすがにもう気付いていた。
「体調悪くて行けなかったり、お酒の匂いさせて行ってお嫁さんに不快な思いさせたらどうするんですか! 貴方、そんなことも……」
「いや、体調管理と酒のかわし方も知らないアイツの自己責任っしょ」
 にっこりと、目元を口元を歪ませて心底面白そうに男が笑った。
「入社当時からすっげームカつくんだよねぇ。大した努力もしないで上に気に入られて、要領よくすんなり仕事覚えられて、ツラが良い、外面が良いだけで老若男女にモッテモテ。こっちが苦労して黒いカラスを白って言って上の機嫌とってりゃ、隣で澄ました顔でマジレスかますし、周りもそれを『さすが幸村くん』って、ふざけんなよクソが」
 冷や汗が首筋を伝って、背中を悪寒が走った。宴会場の喧騒が遠くに聞こえる。
「やっと尻尾見せたから引っ張ってちょっと引きずり回してやってるだけだよ。入社3年目でデキ婚なんかする世間知らずの坊やに人間社会の厳しさ教えてやる。ガキなんか作って退路断ったこと、冷え切った家庭で後悔させてやるよ」
 最後まで聞かず、踵を返して宴会場へ向かった。
 田辺はもう、社内で幸村精市を失墜させることは不可能であると半分悟っていた。
 だから陥れる場所を会社から家庭に変えようとしている。気持ち悪すぎて眩暈がした。俺の周りにいなかった、粘着質で執念深いタイプだ。たぶんもう、幸村さんが幸せそうにしてたり楽しそうにしてるのが気に食わなくて仕方ない、ただそれだけのヤツだ。
 覚悟を決めて宴会場へ戻ると、案の定課長主任の絡み酒ペアに挟まれて幸村さんが前後不覚な状態になりかけていた。愛想笑いが引きつっている。顔には出ないタイプだから余計まだいけるだろうと注がれるんだ。
「課長、隣失礼してもいいですか?」
 その隣の幸村さんと目が合った。どうしてここへ来たと言いたげな切羽詰まった視線に笑いかける。
 幸村さん。俺、あんたと一見似てるようで全然似てないヤツのこと、よく知ってるんです。でもそいつとあんたにはいくつか共通点があって、ひとつは人からの理不尽な嫉妬を集めやすいところだったりします。
 中学時代、俺はその嫉妬のとばっちりを喰らって、その人のそばから逃げ出した。聖ルドルフで6年間選手としていられたことに少しの後悔もないが、兄貴との別れ方にはもう少し他の方法があったんじゃないかと、最近ふと後悔することがある。
 幸村さんが兄貴と違って、陰ですごい努力しているが故の実力者であることは知っている。要領がいいように見せかけて実は案外世渡り下手なのも、自分に攻撃してくる相手にはそれ相応に怒ることも分かってる。幸村さんは兄貴とは全然違う。
 でも、俺のことを気にかけ、守ってくれているところは一緒だ。
 だったら俺はもう二度とそれから逃げたくない。


『裕太、ごめん。起こしちゃったよね。今大丈夫?』
 霞む視界でどうにか目を凝らしながら、夢の中でまでけたたましく鳴っていたスマホをどうにか視認する。そのまま表示された名前を確認することなくカッスカスの声で出ると、聞こえてきたのがその聞き覚えのありすぎる声だった。
「兄貴……? んだよ、こんな朝っぱらから……」
『あのさ、もしかして裕太、昨日飲み会だった?』
「え、ああ……そうだけど」
 やけに腰とケツが痛い。呆然とスマホを耳に当てながら、痛みにも勝る眠気で勝手にまぶたは閉じていく。黒いカーテンから差し込む朝日が丁度鼻先に細く当たって眩しかった。
『じゃあ、その飲み会に幸村って参加してた?』
「幸村さん……? してたけど……」
 そもそも幸村さんの結婚祝いのためにサプライズで企画されていた飲み会だ。いや、ただ単に飲みたかっただけのような気もしているが。
『じゃあ、幸村がその飲み会の後どうしたか知らない?』
「え? えっ……と……」
 幸村さん。ああ、どうだったかな。ケツが痛い。幸村さんはたしかあのあと案の定主任に潰されて、俺は酒は強くも無いけど弱くも無いからふらふらになりながら何とか生還して。自力で帰れなくなってた幸村さんを口実に女子たちがなんとか幸村さんのお嫁さんを呼び出そうとしていて、そんなことさせるかと俺は命からがら奪還してアパートに連れ帰って。
 あれ、今日なんか大事な用無かったっけ?
『さっき渚から連絡があってね。昨日の夜から楓ちゃんが幸村と連絡が取れないらしくて、どうやら家にも帰ってきてないらしいんだ。今日結婚式の打ち合わせらしいんだけど、それにも姿を現さないって……』
 一気に二日酔いも眠気も何もかもが吹き飛んで飛び起きたら胸部を強打した。ローテーブルの下に体を滑り込ませて寝ていたらしい俺は一瞬咳き込むが、そんなことより今は幸村さんだ。
 電話の向こうで焦る兄貴を余所に部屋を見渡すと、案の定俺のベッドで体を丸めて惰眠を貪る神の子が。
「幸村さん起きて!! 結婚式の! 打ち合わせ!! ドレス!!!」
「んー……不二、くん?」
『ちょつと裕太、なに、今そこに幸村いるの!?』
 カーテンをレースごと動かして直射日光を幸村さんの顔に当てた。スーツを着たまま目を瞬かせる幸村さんは強烈に酒臭かった。
「あれ、俺……」
「幸村さんヤバいです、もう朝です! 結婚式の打ち合わせ行かないと!!」
 寝ころんだまましばし呆然としていた幸村さんは、やがてゆっくりと目を見開くと、勢いよく起き上がりワイシャツの胸ポケットに手を当てた。
「……ない」
 続いてあたりをキョロキョロ見渡す。自身が下敷きにしてたジャケットのポケットも探るが、ない、ない、とうわ言を呟くばかりだ。
「スマホが無い」
 やっぱこの人が要領いいなんて絶対嘘だ。
「……兄貴、聞こえたな」
『だいたいね。とりあえず状況を説明するからスピーカーにして』
 呆れかえった兄貴の声が何故だか俺にも突き刺さった。いや、これは連帯責任と言ってもいいだろう。会社を代表してお嫁さんに謝りに行きたい気分だ。
『幸村。不二だけど。簡潔に状況を説明するから黙って聞きなよ』
 幸村さんは信じられないとでも言いたげな虚ろな目で、ただ黙って俺の持つスマホから聞こえてくる声に耳を傾けていた。
『昨日の夜から何回か電話してるけどキミが電話に出ない、今朝家に電話してみたら帰宅してない、待ち合わせにも来ないって言って楓ちゃんが軽くパニックになってる。渚がたまたま近くにいたから今はなだめられてるけど、捜索願い出される前に連絡して。今裕太の携帯に番号を……』
「いい。楓の番号は見ないでも分かる。迷惑かけたね」
『あっ、ちょっと待て! とりあえず僕が渚に連絡して幸村が裕太の家にいたってこと連絡するからちょっと待って!』
「なんで」
『パニックになってるって言ってるだろ、いいから2分だけ待て、いいね!?』
 そう強引に約束を取り付けると、兄貴は一方的に電話を切った。全然腑に落ちてない顔の幸村さんの視線が俺のスマホから離れない。表示されたデジタル時計の指し示す時間は10時21分。俺は大人しくスマホを幸村さんに渡した。
「とりあえず、俺そこの薬局で二日酔いの薬と口臭消し的なもの買ってきますから、幸村さん電話終わったらとりあえず髭剃って着替えてください。俺の服適当に着ていいんで」
「……うん、ありがとう。不二くん」
 時計が22分に切り替わる。切ない顔でそれを凝視する幸村さんに罪悪感を覚えて、俺は逃げるように部屋を出た。
 すると、部屋の外に落ちている黒いカバーの付いたスマートフォン。まさかと思って拾い上げると、やはり見覚えのあるものだった。ロック画面に花の画像なんていかにもらしいじゃないか。
 ロック画面にはびっしりと『千代田楓』の文字が並んでいた。不在着信とメッセージ。よほど心配していたのだろう。
 大事なものを守るのはとても難しい。そもそも、どうする状態が守っているということなのだろう。そろそろ楓さんと連絡が取れた頃だろうかと、俺は一度だけ扉を振り返ってから頭痛を覚えつつ薬局へ向かった。


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