9月5日
 彼の退部の噂が全校に広がったのは、退部届を出した2日後だった。
「なんかさー、不二くんテニス部辞めたらしいじゃん?」
「あっ、それ女テニから聞いたわ。なんかインハイでぼろ負けしたんだって?」
「あれだろ? 立海の神の子幸村」
「あー、俺聞いたことあるわソイツ。従兄弟が立海の高等部にいるんだけどさ、すげー調子乗ってんだって。桁違いに強いから、ふつーにテニスしてるだけでも十分勝てるらしいんだけどさ。なんか無駄にウザい勝ち方するらしい」
「ウザいって?」
「なんか心折る系? よく分からんけど、再起不能になるプレイヤー多いらしいわ」
「うわ、マジぱねーなそれ」
 青学で幸村の名を聞いたのは、その噂が広まりきったすぐあとだった。
「なにそれー、ひどい。不二くん可哀そー」
「なんかそいつ、普段も調子こいてるらしくってさ。俺はお前らとは違う立場の人間だからー、みたいな感じでウザいらしいよ」
「でもそういや立海の幸村って、去年うちの1年生にボコボコにされてなかったっけ? ほら、全国決勝だからって俺らも応援に駆り出された時さぁ」
「ばーか、あの時幸村病み上がりで本調子じゃなかったんだよ。なんか難病にかかって8か月くらい入院してたらしいぜ?」
「うわ、マジか。ってことは去年のうっぷん晴らすために不二ボコボコにされたのかー。マジとばっちりじゃん」
「病気ねー。……もしソイツがそのままテニス引退してたら、不二くんが引退なんてしなくて済んだのに」
「間違いねぇな。……それより、どうすんだよテニス部」
「俺に聞くなよ。なんか部長たち揉めてて毎日会議開いてっけど、俺1年だしレギュラーでもないし?」
 ここでも、彼は勘違いされる運命らしい。
 確かに性格は良くはない、それは認める。本人だって重々承知しているはずだ。けれどあいつはお高くとまったことなんて一度もないし、自分が周りよりも上だとか、そんなことは一切思っていない。
 病気で引退していればよかっただと? 冗談じゃない。あいつからテニスを奪ったら、それこそ生きることすら止めてしまう。私はそのことをよく知っている。知っているのに……。
 いけない、湿っぽくなった。話を戻そう。
 その『テニスを奪ったら生きていけない』という一種の依存症とも言える症状は、多くのテニスプレーヤーに見られるものだと思っている。不二だってきっとその類だ。けれど不二は今、テニス部から隠れるようにこの文芸部に足しげく通い、パソコンに向かって小説を創作する私を横目に本を読んでいる。
 まるで、私自身を見ているかのようだった。
「テニス部を辞めたってバレた時にね、英二に殴られたんだ」
「そう」
 彼は突発的に話しだすことが間々ある。
「あんなことで落ち込むなんて不二じゃない、って。でも違うんだよね。落ち込むとか、そういう次元の話じゃない。怖いんだから」
 まぁ、その正直な気持ちを言えなかったのは僕なんだけど。結局僕が黙って何も言わなかったら、勝手にキレてどこか行っちゃったんだよね。
 と不二は苦笑いを浮かべながら言った。
「他のみんなには、辞めること言ったの?」
「中学の時のチームメイトには、言ったよ」
 えらいな、と、純粋に思った。私は何も言わなかったから。
「どうだった?」
「乾は、そうかって一言だけ。タカさん……今は実家の寿司屋を継ぐために調理学校に行ってる昔のチームメイトがいるんだけど、彼は僕の話を丁寧に聞いてくれて。最後に、不二がそう決めたならって。同じく昔の仲間の大石は、先に英二に電話で散々愚痴られてたみたいでね。考え直すことはできないのかって言われた。後輩の桃と海堂は凄く驚いてて、何か言葉が出ない感じで」
「手塚くんと、越前くんは?」
「越前は、オレまだアンタと決着付けてないんスけどって愚痴られた。手塚は……無言で電話切られたよ」
「うわ、きついね」
「ううん、いいんだ」
 不二くんはどこか諦めたような表情で肩を竦めた。
 私は視線を窓の外へと移す。この位置からではテニスコートは見えない。彼がこの部屋に入り浸るようになってから、私はテニスコートに面する窓を開けなくなった。彼がそうさせているわけではなかったが、なんとなく気まずかったのだ。
「手塚と同等か、それ以上の実力者を知らないわけじゃない。今回僕が当たった相手もそのひとりだ。……でもどんな強敵が現れたって、手塚以外のプレーヤーを最終目標にするつもりなんて毛頭なかった。……その結果がこれだよ。僕は自身が定めた頂点へ挑戦する前に尻尾を巻いて逃げ出したんだ」
 だからたぶん、手塚はそんな僕に呆れたんだと思う。
 と言って、苦笑いをこちらに向ける不二くん。いいや、呆れてなんかいないと思うよ。失望もされてないよと。そう言えないのは、私があまりに彼と似た境遇に立っていたからだった。
「でも、なんか嫌だなぁ」
「何が?」
「テニスから身を引いて、ふと周りを見回してみると、テニスで繋がっていた友達ばっかりだったんだ。テニスを辞めて、彼らと一気に溝ができちゃった」
 やっぱり、僕にはテニスしかなかったのかなぁ。そう呟く彼のことを、どうしても他人だとは思えなかった。なんでもいい、力になりたいと心の底から願った。
 宙へ視線を漂わせる不二周助を見てしまったその瞬間、どうしようもなく彼の逃げ場になりたいと思ってしまったんだ。例え一時的なものでも、有無の差はおそらく彼の今後を大きく左右するだろうから。


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bkm
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