9月24日
 不二周助がテニスを辞めて3週間たった。
 廊下を歩いている時、授業を受けている時、下校中。彼を見かける機会は前よりも増えたが、いつも私は彼を発見する時に奇妙な感覚に襲われる。
 不二周助は、確実に存在感が薄くなっていた。
 元々進んで目立つタイプではなかったけれど、それでもその身に纏うオーラみたいなものが彼に多くの視線を集めた。どれだけ生徒で溢れた教室でも、不二周助と菊丸英二の居場所だけは一瞬で判別できていた。けれど、今は真横にいる彼を時々見失いそうになる。授業中も放課後も、ヒーローであり王子様であったはずの彼は『その他大勢の男子生徒』として黙々と与えられた役目を果たすだけの存在になった。わざと目立たないように振る舞っているわけじゃない。ただ、確実に目立つ存在ではなくなっていた。周りがそう認識しなくなった。
 信じられないのは、あれだけ不二に対して熱っぽい視線を送っていた女子たちが、廊下で擦れ違っても彼に気付かなかったということだ。
 相変わらず彼は文芸部に通ってきている。不二に惚れている女子生徒から睨まれることに怯えていた私にとっては、その兆候はむしろ幸運だったのかもしれない。けれど、どんどん透明になっていく彼を見ていることが私には心苦しかった。
 欠けてしまったのだ。不二周助の中で、何かが。テニス以上の大事な何かが欠けてしまった。
『やっぱり、僕にはテニスしかなかったのかなぁ』
 あの日呟いた彼の言葉を思い返す。そんなことはないと簡単に言ってあげられるほど、私は彼のことを知らない。周りの生徒たちだって知らない。不二周助はテニス部の天才で、学年一モテる王子様。それ以上の『彼』を知っている人間が、この学校にどれだけいる?
 悲観的な事を考える日が増えた。恋心は日増しに強くなるばかりなのに、時々彼を見失いそうになる自分が許せなかった。もっと彼のことを知りたい。このまま彼を『その他大勢の男子生徒』になんてさせない。その一心で私は彼に話しかけた。
 もっとも、彼自身はこの状況をもっとプラスにとらえていたみたいだけれど。
「不二くんって手先器用なんだね」
「そうかな」
「うん、すごいよ! この井戸に張ってあるお札とか超リアル!」
「おい女子ーっ! この井戸俺らも作ったんだぜー!」
「不二だけ特別扱い反対!」
 特別でなくなるということは、特別でない者たちと仲良くなれる機会だったらしい。最近、不二はクラスメイトとよく話をしたり行動を共にするようになった。フルネームもよく知らない、平凡を絵に描いたような男子生徒と戯れる不二は、どこからどう見ても普通の男の子だった。
 不二周助は『テニス部の天才不二』でなくなっただけで、これも不二であることに変わりはない。そして彼自身は新しい自分を受け入れて、それなりに楽しんでいるんだ。と理解したのは、文化祭の準備に追われていたとある日の放課後だ。
「不二、衣装班は大方決着ついたよ。大道具は?」
 行程表を脇に挟んで廊下から教室内を覗き込むと、不二が髪をさらりと揺らして振り返った。私を視界に入れると微笑んでくれる。ああ、好きだなぁと感じる瞬間だ。
「あー……もうあと1週間ほしいくらい、かな?」
 でも、彼の微笑みには裏がある。これは最近知ったこと。
「……大道具班班長の不二周助。文化祭はいつだったかな」
「三日後だね。あと千代田、キミ童顔だから頑張って凄んでも逆に滑稽だよ?」
 頑張ってキレた表情を浮かべたのに、不二にはクスクスと笑われて流されてしまう。
 互いを呼び捨てで呼び合うほどには、私たちの仲は親密にはなっていた。その一つの要因がこの文化祭準備である。学級委員長が2週間前くらいに突然、私たちに大道具と衣装の班長をやってくれないかと頼み込んできたのだ。
「大体、無理があると思うんだ。2週間前に突然『内装関係は全部任せる』なんて言われてもさ」
「でも私は衣装間に合わせましたけど?」
 少し得意げに胸を張ると「キミに裁縫ができるとは思えないんだけどなぁ……」とぼやいた不二に軽くエルボーを食らわせた。
「いたっ! うわー全治三日の大怪我だぁ。慰謝料として大道具班の手伝いだねこれは」
「ちょっと! 私はちゃんと自分の分のノルマ終わらせたんだからねっ!?」
 オーバーリアクションで痛がるフリをする不二に掴みかかっていると、ふと周りの視線がこちらに集まっているような気がした。
 周りを見ると、数人の女子生徒がニヤニヤしている。残りはチラチラとこちらを伺いながらも作業を続行していた。
「ねーっ、ふたりともホントにつきあってないの?」
「最近やけに仲良いよね」
 その数人の中で、色恋沙汰の噂が大好きなクラスの仲良し女子ふたりが詰め寄ってきた。このふたりはクラスの姉御肌的な立ち位置にいるサバサバした女子たちだ。私は焦りのあまり突拍子もないことを口走りそうになったが、その照れよりも先に不二が即答した。
「違うよ。千代田は僕の初めての女友達」
「女友達、ねぇ?」
「不二って意外に天然ちゃんだよね」
 品定めするような4つの視線が上から注がれる。ふたりは私より背が高かった。
「つまりさー不二。うちらが聞きたいのは、その女友達って完全に対象外の存在なわけ? ってこと」
 一方がそう言うと、不二はあざとい首の傾げ方をした。可愛い。こんな張り詰めた不穏な空気でなければ心中でずっと可愛い可愛いと連呼しているところだ。
「天然ちゃんな不二にも分かりやすく言うとね、不二は千代田サンとヤろうと思えばヤれるの? それとも、絶対に無理だからオトモダチなの?」
 ちなみに、私はこのふたりのサバサバという称号には、前に自称が付くと思っている。
 相手にしなくていい。ていうよりもしてほしくない。今すぐにでもここから逃げ出したくて、不二に声を掛けようとしたその時だった。
「んー……千代田とは絶対ないかな」
 顎に手を当てて、少し考え込むようなポーズをとって。不二はそう告げた。
 心臓が痛い。息ができない。
 ギャハハ、という彼女たちの下品な笑い声がとても遠くから聞こえてくるような気がした。
「そっかー、絶対ナイのかぁ!」
「うん。初めての女の子の友達だから、大切にしたいしね」
「うわー、マジウケるわ。腹いてぇ」
「だってー千代田サン。良かったね、不二に大切にされてさ」

 誘導尋問だ。あの場で、不二にあれ以外の選択肢は用意されていなかった。遠ざかっていくふたりの声に、ただ無言で床を睨みつけた。涙は出てこなかった。
 何が透明だ。ちゃんと牽制は生きている。あの二人が不二のファンだったとは知らなかったが、これは間違いなく私の計算ミスだ。近づきすぎたんだ。
 右足が痛んだ。足を引きずりながらも急いで教室を去る。階段の踊り場まで来たところで、誰かに腕を掴まれた。固い掌。生ぬるい体温。
「……怒ってる?」
 不二の声は何かを怯えているようだった。私は振り返れない。
「……大丈夫、だから放して」
「ごめん、不愉快な思いをさせて」
「不二は悪くないじゃん? ってか、あのふたり最初から私をバカにしたくて不二に絡んできたんだよ? 不二は、巻き込まれただけで……」
「それは違う」
 腕を掴んだまま、不二が正面に回り込んできた。その目は真剣で、私を真っ直ぐ見つめてくれる。先ほど好奇の目にさらされた体が清められていくような気がした。
「確かに、一見すると女子同士のくだらない権力誇示に見えなくもない。けど僕がテニス部にいたままだったら、あの子たちはあんな絡み方できなかったよ」
 不二はそう言って綺麗な自嘲を浮かべた。馬鹿な私でも悟る。
 そうか、確実に『不二周助』というブランド力は損なわれつつあるんだ。いや、もうそんなものは存在しないのかもしれない。
「つい先日まで誰とも馴れ合わなかった孤高の女子生徒が、ひとりの男子生徒と仲良くなり始めた。だからからかわれた。それだけだよ。牽制とか、そんなんじゃない。大丈夫だから」
 不二の言葉から悟った。この人は、自分も馬鹿にされていると気付きながら、なんでもないフリをして平静を装ってくれたんだ。女子同士のどろどろとしたポジション争いに巻き込まれながら、私を気遣ってまでくれた。
 本当は、誰よりも悔しいくせに。
「……やっぱり、不愉快だったよね。ごめんね」
 まさか退部したことでこんなところにまで弊害が出てくるとは思わなかったんだ。そう言って踵を返す不二のサマーセーターの裾を引っ張った。水色が少し伸びる。
「……慰謝料、支払ってあげる」
「……は?」
「ほら! 文化祭まで時間ないよ! 私、こういう祭りごとで手を抜くのって嫌いなの!」
 手を握る勇気はまだない。セーターも伸ばしてしまったら申し訳なからすぐに放した。私と不二の距離は大体5、60cmの距離がデフォルトだ。でも今はこれでいい。女友達を望まれているなら、この距離から彼の望むことをしてあげたい。
 対象外でもいい。と吹っ切れることはできないけれど。諦めなければ希望はあるよね? まだ出会って半年も経ってないんだから。
「千代田!」
 階段をゆっくり3段降りた時、不二が後ろから声を掛けてきた。踊り場の窓から風が吹き込み、栗色の髪がさらさらと揺れる。廊下からは文化祭の準備に精を出す生徒たちの声が響いてきていた。
 不二の頬は、少しだけ赤い。
「……絶対ないとか言って、ごめん。……ああいう会話に慣れてなくて、その……」
 青い瞳が泳いでいる。
「でも、僕思うんだ。男のそういう欲望みたいなものは、簡単に人に見せてはいけない汚いもので、少なくとも僕は心の奥底に隠しておきたいものだって。特に、千代田とそれは絶対に結び付けたくない。……千代田が居なければ、僕はきっとどこかへ消えてしまっていた。ここにいるのは千代田が繋ぎ止めてくれたからなんだ」
 ああ、だめだ。
 好きで好きで仕方がない。
 照れながらそう言う不二を、もう直視なんてしてられなかった。真っ赤な顔を隠したくてわざと顔を背ける。私の名を呼ぶ不安そうな不二の声に、もうそれだけで十分だとさえ思った。
 キミを消させやしない。テニス部の天才でも、その他大勢の男子生徒でもない。不二周助を繋ぎ止めよう。なんとしてでも。
「心配しなくても、私は何があったって不二の友達でいるから」
 いつか言ってみたい。本当はあの七夕の日からキミに恋をしていたのだということを。けれどその前にやらなければならないことがある。


 大道具の手伝いをして疲れ果てながら帰宅した私は、自室の勉強机にてエクセル表と睨めっこしていた。他の仕事でいっぱいいっぱいな学級委員長から、先日文化祭のシフト作成を頼まれてしまったからだ。半泣きの彼女の懇願を断るわけにも行かず渋々引き受けたのだが、それが今回まさか役に立つとは。
 不二と私の二人でやる予定だった受付の枠が複数。私の名を全て消して、代わりに菊丸くんの名前を入れた。
 不二がクラスや私と仲良くなるのに反比例して、テニス部と彼の距離は離れていった。
 あれ以来、不二はテニス部と事務的な会話以外を交わしていない。それは菊丸くんも乾くんも例外ではなかった。寂しくはないのかと、一度問いかけたことがある。
「僕にとってはみんなかけがえのない友達だから、悲しくないと言ったらウソになる。でも、寂しいってわけではないよ。僕には千代田も、クラスのみんなもいるからね」
 模範解答過ぎて、それが本心だとは俄かに信じられなかった。
 不二周助を私みたいにここから消させないためには、たぶん菊丸くんや他のテニス部の仲間たちとの繋がりをもう一度復活させることが一番だ。それは私の経験上、避けては通れぬ道だと思えた。これをやらなければ遅かれ早かれ不二は消える。あの青春学園から。
 私は確かに一時的に不二を繋ぎ止めることができたのかもしれない。でも、私では力不足なんだ。長年共に過ごした仲間でないと、受け止めてやれない無念や悲しみがある。何度失敗したって、その結果私が嫌われたって、今の不二にはテニス部の仲間たちが必要だと思った。
 あの当時、私に必要だったものは一体何なんだろう。ふとそんな邪念が脳内に湧いたけど、眠けに邪魔されて四散した。
 ふと時計を見たら日付が変わる瞬間だった。文化祭まであと2日。私情と願いと決意を込めて、私はシフト表に入れ込んだクラスメイトの名前を再度見直した。


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