7月7日
 7月7日月曜日。思ったよりも、不二くんと菊丸くんとの接触に私の心は動揺したらしい。あの日書類を片付けた私は、いつもなら昔の思い出に浸りつつ眺めるテニス部の練習を見ずして早々に帰宅した。それから何も食べず、風呂も入らず、眠りもせず。給水と排泄以外のすべての時間を費やして小説を書き上げていた。気がついた時には朝陽が昇っていて、ああ徹夜してしまったかとテレビを付けたら、おかしなことに日付が5日ではなく6日だった。どうやら私はタイムスリップという経験をしてしまったらしい。
 いやいや、冗談だろう? と自問自答してみるが、朝のワイドショーの時計は嘘をつかない。報道内容は嘘だらけだけど。どうやら本気で40時間ほど夢中で書き続けていたらしい。それで出来たのがまたしても駄作、もう目が当てられない。
 とりあえず風呂に入って軽く食事をとり、眠りについたのが昨日の朝8時。次に起きたのは、今日の朝7時。いつもの目覚ましの音によって、だ。さすがに引いた。どれだけ不健康な生活を送ってるんだ私は。
 父が帰ってきた形跡はなかった。
 顔を洗い、寝癖がついた真っ黒なショートボブの髪をヘアークリームで整えた。キッチンへ行き、食パン一枚にマーガリンを薄く塗って口に放り込む。歯を磨き、白いワイシャツに紺と青とグレーのタータンチェックのスカートを履き、青いネクタイをしてグレーのサマーセーターを着た。男子はセーターくらいしか選べる要素がないのだが、青春学園高等部の女子制服には複数のバリエーションがあり、個人で好きにカスタマイズしていい仕様になっている。ギャルっぽい子たちは、赤とピンクとグレーのタータンチェック柄スカートに、ピンクのリボンかネクタイで、ピンクかベージュのサマーセーターを着るというスタイルが非常に多い。その逆で、私のような格好はすこし大人しめの女の子によく見られるスタイルだった。
 しかしメイクは比較的しっかりとしていく方だ。周りに舐められないように。ただ単に気弱で暗い女だと思われないために、子供っぽく地味な顔を無理やり大人に見せていた。その効果があってか、私は高校では『ブス』と貶されたことは一度もなかった。髪の毛を立たせズボンをずり下げている男子から『お高くとまってる』とか、『無愛想』などという陰口は何度も叩かれたが。
 友達はいない。けれど私のことを悪く言う女子もほとんどいなかった。ブスだなんだと歩くたびに陰口を叩かれていた以前の学校とは大違いである。印象が悪くならないよう話しかけられたらちゃんと丁寧に応対するし、男に全く媚を売らない毅然とした態度がおそらくプラスのイメージを与えているのだろう。そうやってちゃんと計算して生きている。前みたいに、男へ媚びていると勘違いされないように。
 クールで知的なタイプ、と言われているのをこの前小耳に挟んだ。以前の友人がそれを聞いたら腹を抱えて大爆笑しだすだろうが、私はこの立ち位置を結構気に入っている。
 もう、誰からも恨みを買いたくないのだ。
 父と二人で暮らしているマンションから高校へは、五体満足の人間なら徒歩で5分ほどの距離だ。10分かけてゆっくりと登校し校門をくぐった時、校舎の壁に取り付けられた時計は8時25分を指していた。覗き込んだ昇降口の中では、朝練を終えたテニス部の連中がたむろしているのが見える。できるだけ存在感を消して自分の靴箱まで行き、そっとその場を去った。
 教室に着けば、数人の博愛主義者の女子から挨拶される。微笑みながら挨拶を返し、席について本を開いた。ブックカバーがされているためみんなは私が何を読んでいるか知らない。純文学とか読んでるっぽいと言われていたっけ。
 たしかに、私に本の面白さを教えてくれた友人は、私へ三島由紀夫の『潮騒』を勧めてくれた。
 しかしだからと言って純文学愛好家にはなれない。なれるはずがない。その友人が好きな夏目漱石も読んではみたが、私にはさっぱり意味が分からなかったからだ。そういった意味では、私の好むジャンルが青春小説だと見抜いた友人は、やはり読書の天才なのだろう。
 好きな作家は女性ばかりだ。青春小説で、恋愛色があまり濃すぎないものを好んで読んでいる。小学生のころから好きだったファンタジー小説への愛もまだ冷めず、『カラフル』や『薄紅天女』なんかはいまだに好きだった。そして今読み進めているのは、話題の宮部みゆき最新作『ブレイブストーリー』。
 それを開いて数分。週末に二者面談で揉めた担任が入ってきて、なにやらお菓子の空箱をみんなに回しだした。そういえば、奇数月の最初の月曜日は席替えだったな。そんなことを思い出しながら回ってきた空箱に詰まっているクジを一枚引く。7番と書かれていた。その場所は一番後ろの窓際、いわゆるゴールデンシートだ。これは幸運とばかりに一目散に机と椅子を持ちあげて移動を始める。
 途中近くにいた女の子が「千代田さん、手伝おうか?」と申し入れてくれたが、気持ちだけ受取っておいた。
 確かに右足は若干引きずらなければいけないが、怪我はもう5月末に完治しているのだ。みんなが思うほど不便ではないし、自分を甘やかすわけにはいかない。今はリハビリが必要だった。
 席を引きずり指定の位置でセットすると、5、60cmほどの空間を置いた隣に人の気配がした。誰が隣か反射的にそちらを見ると、
「よろしく」
 感情の読めない綺麗な微笑みでそう告げてくる不二周助。その瞬間冷や汗が噴き出たが、負けじとこちらも同じような微笑みで返事をした。綺麗さでは完敗だが、胡散臭さではいい勝負だったと思う。
 よりによってこの学年の二大アイドルの1人と隣同士になるとは。慌てて不二に夢中な女子生徒たちの顔色を伺ったが、案外平気そうだった。こちらを見てすらいない。これは、私なんか全く脅威じゃないということなんだろうか。……別にいいけど。
 でも油断は禁物だ。彼女たちの結束力は強く、すぐに下っ端の不二ファンは数名の過激派にチクることで有名なのだ。

 授業中。ついいつもテニス部の観察をしてしまう延長で、手が空くとすぐに隣を盗み見てしまった。不二くんは見かけどおり丁寧で女性的な字を書く。しかし見た目に反してノートの書き方は雑だった。いや、男の子っぽいと言った方がいいのだろうか。ノートは一切色分けがされておらず、次のテストに出るであろう重要単語にも、色ペンではなくそのままシャーペンで線を引いていた。独特の方法を用いているのだろうか、先生が黒板に書いたとおりに写していない時もある。見にくくないのだろうか。その癖、テストに出なさそうな先生の豆知識の話を、真剣に聞いてはメモしている。え、黒板にも書いてないのに、なぜ?
 あと、嫌いなのだろう理科総合の時間なんかは、メモもほどほどに筋トレをしている。足首に重そうなパワーアンクレットを仕込んで目立たないように少し上下運動していたり、机の死角で小さなダンベルを持ちあげていたり。
 この子の観察、ちょっと面白い。
 6時間目。暑さに耐えかねたのか、不二くんは私よりも長い髪をうなじのあたりで縛り、制服の青いネクタイを外していた。紺と青とグレーのタータンチェック柄長ズボンもひざ下まで捲りあげ、どこからパクってきたのだろうか携帯メーカーの宣伝が描かれたうちわで、パタパタと自身を仰いでいる。こんなルーズな格好するんだ、と観察を続行していた私の耳に不意に届いた教師の声。
「じゃあ、今から隣同士で例文のスピーキング練習ね」
 そういえば今英語の授業中だった。騒がしくなり始める教室内に、慌てて私が教科書の例文に目配せをしたその時だった。
「僕の観察、楽しいかい?」
 不二くんだった。バレてたらしい。
「ごめん。物珍しくて、つい」
「違ってたら言ってほしいんだけど」
 もしかしてここ数カ月、僕たちの練習を観察してなかった? 半ば確信した口調でそういう彼は、怒っているようには見えなかった。だから私も、素直に認めることができた。
「ごめん。私、テニスの観戦が好きなんだ」
「ふーん。……それは、何か特別な思惑があっての行為?」
 感情が読み取れない瞳に、僅かな不快感が宿ったような気がした。そこで思い出す。この人は女子の一方的な好意に辟易している立場の人間だ。
「違う……。別に不二くんやほかの部員に下心があるとかじゃなくて、選手たちが頑張って練習をしているのを見るのが好きなんだ」
「へぇ……珍しい。理由を聞いてもいいかな?」
 警戒心がスッと消え、逆に好奇心がその声音に現れた気がした。喉が、一瞬詰まる。たぶん、私の緊張は気取られてた。
「とくに、ないよ」
 嘘をついた。もうこの数カ月ですっかり得意になった嘘を。
 私にとって、あの思い出はけして悲惨な思い出ではない。今でもかけがえのないくらい大切で、幸せな記憶だ。それだけは、誤魔化しようのない私の本音。真実。
 でもあの頃の自分は、周りの人間の気持ちを何も考えずに、その一瞬の楽しさのために生きていた。その所為で起こってしまった例の事件を思い出す時は、いまだに右足が鈍く痛む。
「そっか。そういえば千代田さんって、出身中学どこだっけ」
「都内じゃないから、たぶん知らないよ」
「え、何県?」
「さぁ、どこでしょう?」
 すっかり手慣れたはぐらかす態度も、不二くんは微笑んで「秘密主義ってヤツだね」と返してきてくれる。この距離感はなんとなく好きだと思えた。深くまで入り込んでこないのは、すごく助かる。
「よかったら今日は、もう少し近くで見ないかい?」
「え?」
「今日、僕と英二で練習試合やるんだ」
「……いや、いいよ。いつも通り、あの場所から見てる」
「近くで見た方が、もっと迫力あると思うけど」
「さっきの不二くんみたいに、『何か特別な思惑がある』と思われたら嫌だから」
 人からあからさまに距離を置かれ、こういう寂しそうな表情を浮かべるテニス部員を私はもう一人知っていた。
 やっぱりここに来たのは間違いだったのだろうか。どこでも同じなんだ。出来すぎた選手たちは自由に身動きも取れず、友達を選ぶこともできない。憧れた普通の子たちは巻き込まれることを恐れて逃げ出し、自分のファンだと言う子たちも結局は、ある程度の距離をとって影からこそこそと見ているだけ。抜け駆けの制裁は重いからだ。特に不二のファンたちから与えられる制裁は、即日転校モノだと噂で聞いたことがある。
 藍色の髪に隠れた、寂しげな横顔を思い出してしまった。
「ごめんね。また文芸部室から応援してるから。頑張って」
 思慮深いのだろう。彼は何となく悟ってくれたらしい。私の線引きを。一瞬微笑んで、何事もなかったかのように黒板へと向き直った。


 不二くんと菊丸くんの試合は、6-4の不二くん勝利で幕を閉じた。相変わらず、彼は常人離れした華麗な技で魅せてくれる。口には絶対出さないが、私は彼が試合しているのを見るのが一番好きだった。あの決まると凄く気持ちのいい技の数々を気に入っているというのもあるが、一番は彼の動きだ。
 大胆で華美な技の中で、繊細な動きをしていると思う。体が柔らかくて、一つ一つの動きが綺麗なのだ。体の柔らかさで言ったら菊丸くんの方が上なのだろうが、彼の動きはとても動物的で、例えるなら野良猫だろうか。それとは違う。踊るような不二くんのあの動きは、妙な話だが昔の自分に似ているような気がした。
 昨年の夏、私は自校のテニス部の応援で全国大会に行った。そこで私は青学テニス部の試合を目撃している。自校の強豪たちが苦戦し、敗北した彼らの死闘を私は一生忘れられないだろう。
 私はその数ヶ月後にあの事件に巻き込まれ、友人たちに何も告げずに外部受験を経てここに入学した。ともに苦難を乗り越えた友であり恩人である彼らへ、別れの一言も告げなかった薄情者だ。そんな私だけれど、この文芸部室に初めて訪れた時、確かに嬉しかった。
 ラケットにボールが当たるインパクト音。選手たちの掛け声。緑の人工芝を敷き詰めたオムニコートに青い空。ラケットを振るう彼らを見つめながら、私はテニス部との奇妙な縁がまだ続いているような気がした。別れを選んだのは私なのに、泣きたくなるほど嬉しかったんだ。

 その奇妙な縁が生まれた文芸部室から退室したのは、不二くんたちの練習試合が終わった後だった。そのまま学校のパソコン室へ向かい、週末に書いた駄作を一応印刷する。A4用紙80枚ほどになったその無駄に長い大作を抱え、私は気持ち急ぎつつ校舎を出た。私の家は北門から出たほうが近い。北門の施錠時間は6時。今は5時55分を少し過ぎていた。その時だ。
 考え事をしていたせいだろう。私はクラブ棟前の曲がり角で誰かと盛大に接触した。またしても飛び散る駄作。デジャヴだ。
「千代田さん!」
 青学名物の青と白と赤のラインがカッコいい、レギュラージャージを着た不二くんだった。その首には水色のタオルがかかっている。
「ご、ごめん! 不二くん怪我ない?」
「それはこっちのセリフだよ! 立てる?」
「うん、平気。って……」
 差し出された白い手を取ろうとせず、自力で起き上がろうとしたその時だった。彼と私の足元に散らばった大量の紙切れに、血の気が引く。
「うわあああああっ!! み、見ないでっ!!」
「えっ? ……ああ、これか」
 私と不二くんの間を隔てるように広がった紙を拾おうと、慌てて腰をかがめる。不二くんは私が慌てるその理由に気が付いたようで、少し呆れたように笑った。その時だった。
「あ、待って!」
「えっ?」
 1、2枚拾った私を、急に不二くんが制止した。時刻は夕方、早く帰って夕飯を作りたい時間帯だ。
「……不二くん?」
「なんか……この構図、写真に撮りたいな」
 でも残念。今日はカメラ持ってきてないんだ。
 そう言って肩を落とし苦笑を漏らす不二くん。私は一度立ち上がって彼を見上げた。不二くんはあまり身長が高いわけではないが、150cmの私よりはだいぶ視線が上だ。
 不二くんと私の距離はおよそ70cm。彼は私たちの足元とその間に広がる書類をただただ見つめていた。意味が分からないけれど、美少年は不思議なことをしていても絵になることだけは分かった。
「普段なら気にも留めないけど。今日は七夕だし」
「え、ああ、そうだね」
 彼が指差す先には、テニス部が大きな笹を囲んで飾り付けをしている。彼が何を言いたいのかまるで理解できなかったが。次の瞬間、
「この書類、僕と千代田さんを隔てるように、横長に広がってるでしょ?」
 彼の言葉と天使の微笑みが、私をかつてない衝動へと駆り立てた。
「まるで、天の川みたいだよね。千代田さんが織姫で、僕が彦星。ほら、小さな文字が星に見えない?」

 鼓膜と視界から、彼は魔法のように私の胸へ溶け込み、いつまでも心地よい甘さを残した。
 こんな素敵なことを言える男の子が、この世に存在していたのか。自分の今までの常識がグラつく。私を姫に例える男も、小さな文字を星にしてしまう人も、少なくとも私の周りには一人としていなかった。
 鼓動が早く、大きな音を立てる。心臓に何かを急かされているような気さえする。綺麗だとは思っていたがそれ以上の感情は抱けなかった不二周助を、直視できなくなってしまった。彼の指先を見るだけで頬が火照った。


「ふ、不二くん……。そういうことは、言う相手選ぼうよ」
 何とか精神を落ち着かせ、やっとの思いで言うことができた言葉がそれだった。不二くんの表情は分からない。彼の顔が見れない。
「僕は、今言いたいことを言いたい子に言う。それだけだよ」
 不二くんの声は少し拗ねた様な様子だった。そんな子供っぽさにすら、内心で『可愛い』を連呼したくなる勢いだ。これはヤバい。とりあえず一刻もここを離れて冷静にならなければ。人気者に恋をするということ。それがどれだけ過酷で残酷な道のりになるか、私はそれを嫌と言うほど知ってしまっている。
「お、女の子はこういうこと言うと、勘違いするから気をつけようね!」
 慌ててそう言い、私は天の川を拾い始めた。早く片付けて帰ろう。焦る指先を宥めて何とか拾い集めていた、その時だった。
「キミも、僕をそういう目で見るの?」
 不満げなその声に、頭から冷水を被せられたような衝撃が襲った。

「……恋愛感情は、いや?」
「僕のファンだって言ってくれる子がいるのは、凄く嬉しいよ。応援されると頑張りたくなるしね。……でも、たまに息が詰まりそうになる」
「っ、息が?」
「英二はモテるけど、彼のことを何とも思ってない女友達だってたくさんいるんだよ? それにファン同士が徒党を組んで親衛隊みたいになってもいない。……僕と英二の何が違うんだろうね」
 遠くから隠れて見ているばかりで、みんな腫物のように扱ってくる。僕だって、くだらないことを言いあえる女友達の一人や二人、欲しいよ。

 不二周助が七夕に願った思いを、私は昔別の男から聞いたことがある。フラッシュバックするあの日の夕日に、右足が鈍く痛んで警告してきた。けれど私はその痛みに気付かぬふりをして、小さな天の川を隔てて彼とメールアドレスを交換していた。
 やはり何故か私は、普通を羨むテニス部員に目を付けられる運命にあるらしい。しかし今回は3年前とは違っていた。私の心の中には、あの時になかった別の思いがあったのだ。女の本能とも言える、すこしでも好きな人の近くに居たいという願望が。
 この下心が不二にバレないように。ファンクラブに恨まれないように。ちょっとだけ。ちょっとだけ仲良くなってみたい。そうやって後先考えない私は、本当に馬鹿だ。所詮『今が良ければそれでいい』というお気楽体質から抜けきれない、空気読めない女なんだ。


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -