7月4日
 深い海の底のような場所に響き渡る場違いな電子音。目の前に少しづつ光が差し込み、やかましい赤色の長方形型目覚まし時計を殴るように止め、柔らかいまどろみの中で己の怠惰する心と葛藤。そして、意を決して飛び起きる。7月初旬の朝は、やはり少し鬱陶しい蒸し暑さで覆われていた。
 2003年7月4日。今日という日が素敵な日になりますように、なんて祈るような乙女心は持ち合わせていない。平穏に、傷つかずに生きていけるのならばそれでいい。そのために私はここへ来た。
 銀縁のフォトフレームの中で笑う旧友たちを一瞥し、私は白いカッターシャツへと袖を通した。


 私立青春学園高等部。偏差値は中の上、校風は穏やかで生徒の素行も悪くない。荒れた公立高校が目立つ都内一角の中では『学力が良ければルドルフ、金があるなら氷帝、どちらもそこそこなら青学』と言われる安全な三大私学校の1つである。青春学園の系列は中学から大学院まであり、中学から高校へと上がってくる者はおよそ400人。外部からの受験を経て入学してくる者は80人ほどだ。学内のコースが『普通』と『進学』に分かれるため多少の誤差はあるが、およそクラスの中の6、7人が右も左も分からない青学初心者ということになる。
 それがどういうことを指すか。内部進学者ばかりの群れの中に1人で放り込まれたのなら、友達ができなくとも『最初からグループが固まっていた』という言い訳ができるだろう。しかし、少なくともクラスの中の数名が私と同じ境遇なのだ。友達ができなかったら、それはすなわち『私に何か難点があるせいだ』と教師どもにも認識されるわけで。
 おそらく私の事情は、前の学校の担任からこの学校へと通達されているだろう。先ほど行われた、半強制の二者面談での不毛なやり取りを思い出す。
『千代田にも色々あるんだろうが、やけになっちゃダメだぞ。ここには、楽しいことがいっぱいあるんだからな』
 扱いづらい女子生徒の機嫌を損ねぬよう、取り繕っている中年男性教諭の苦笑。その表情と言葉によって芽生えた不快感を振り払うかの如く、私は今日も放課後の雑踏から離れた。埃臭い旧校舎の廊下を、なかなか思い通りにならない足で歩く。
 放っておいてくれたらいいのに。独りで生きる方が楽なことだって、世の中にはたくさんあるじゃない。

 入学して3カ月。一学期末のテストも今日終わり、後は夏休みを待つばかりとなった。旧校舎の隣に立つ部室棟からは、運動部の待ちに待った部活動再開に気合いが入る声が聞こえてくる。その中でもひと際、同じクラスの菊丸くんの声が高らかに響き渡っていた。
 私はいつも通り、旧校舎一階のつきあたり、文芸部という古びた看板が掛かった木製の引き戸を開け、その6畳ほどの部室の窓を開ける。まず、50mほど離れた左前方にテニス部の部室が見える。忙しなく開閉するドアには、お世辞にも綺麗とは言えない男子独特の字で『男子硬式テニス部』と書かれたプレートが掛かっている。開けっ放しにされた窓からは、仲間たちと談笑しながら着替えている黒縁眼鏡で黒髪長身の男子生徒が見えた。確か隣のクラスの乾くんだ。テニス部一年レギュラーにして主席の男の子、いわゆる学内の有名人である。
 次に、コートへと視線を向ける。テニスコートはこの文芸部部室やテニス部部室のある小高い場所から階段を下った場所にあった。全部で4面。周りを囲うフェンスはところどころ錆びれ、その年季を伺うことができた。そのテニスコートの傍で、ボールがたくさん入った箱を運んでいる4人の男子生徒。普通の体操着を着ている2人は知らないが、レギュラージャージを着ている2人は見覚えがあった。チョコレートよりももっと明るい茶色の髪をさらさらと揺らしている華奢な男の子と、赤みががった髪をワックスでちゃんとセットして顔に絆創膏を張り付けている男の子。同じクラスの不二くんと菊丸くんだ。
 これはこの場所にある文芸部だからこそ知りえたことだが、どうやらこの学校のテニス部は先輩後輩関係なく、校内試合によってランキング付を行い、その上位者が大会出場権を獲得できるという制度らしい。入学して1週間後の校内戦で、昨年全国制覇を達成した不二くん、菊丸くん、乾くんは見事先輩を寄せ付けない圧倒的な強さを示してレギュラー入りを果たした。あと、ジュニアテニス界最強と謳われる男、手塚国光選手も入ればほとんど敵なしなのだろうが、彼は今学籍こそうちの学校に置いてはあるがドイツへ留学中で、帰ってくるのは来年の3月だという。しかも帰国後は青学テニス部には戻らず、そのままプロに転向するとかしないとか。
 中学と違い、高校テニスのインターハイは県ごとの予選しか行わないらしい。今年の5月にあった予選、青学は見事優勝を飾って出場権を獲得した。確かシングルが2枠、ダブルスが1枠という人数配分で構成される団体戦メンバーの中に、不二くんがS1という大役を任されていたはず。そして個人戦のダブルスに乾くんが二年生の先輩と組んで出場していて、菊丸くんは団体の控えだったと記憶している。
 菊丸くんといえば、中学時代に組んでいたあのなんとかっていうダブルスパートナー。外部受験して都内最高の偏差値を誇る公立高校へ進学したため結局あのペアは解消になったらしい。そのせいだろうか、菊丸くんはもう誰ともペアを組む気がないのだとか。先日部室の前で『俺はこれからシングルスオンリーだよーっ!』とどこか空元気のようなテンションでそう言っていた。しかしテニス部の二年生が『来年は菊丸と乾あたりでダブルスを組んでもらったらいいかも』などと言っていたことも、私は前に偶然小耳に挟んでいた。果たしてどういう方向へ転がるのだろうか?
 来年には乾くんお気に入りのマムシ少年や、あの青学の曲者くんも高等部へ上がってくるはずだ。手塚くんがいなくなった今、不二くんがこのままS1オンリーなのは固いとして。青学は手塚国光以外にもその菊丸くんのパートナーだったダブルスの名手やパワー自慢の力強い選手なども失っている。余計なお世話だとは分かっていても、かつて純粋に『すごい』と思った中学の団体が高校に上がりチーム力が損なわれつつあるのはどこか心配だった。
 そんなことをとりとめもなく考えていた、その時だった。空いた窓から風を切る音が聞こえ、咄嗟に首を捻って体勢を変えれば、0.5秒前まで頭があった場所に黄色いボールが通っていった。それは空いた窓を通り部室の中へダイナミックに飛びこんで、積み上げてあった大量の書類の中へダイブ。運悪く窓から強い風が吹き込んだものだから、広範囲に書類は散らばり、室内は悲惨を極めた。
「うわあああああっ!! ごめんごめん! ヤバッ、どうしよーっ!」
「英二っ! もう、ふざけてるからだよ? ……ごめん、キミ。大丈夫だった?」
 腰掛けていた椅子から半分ずり落ち、部屋の悲劇に閉口していた私に話しかけてきたのは、ラケットを抱えた菊丸くんと不二くんだった。どちらも近くで見ると、やはり整った顔立ちをしながらもあどけなさを残す中性的な美少年だった。学年中の女子の6割が、どちらかに淡い思いを寄せているという理由も分かる気がする。菊丸くんは表情豊かで褐色の瞳がキラキラと輝いている。不二くんはどこか儚げで透明感のある、海の底のような瞳がミステリアスだった。
 しばらく彼らの顔を凝視し、ふと我に返る。部屋の悲惨さにようやく気付き、そしてこれが彼らの仕業だということがやっと理解できた。
「って、あれ?確か同じクラスの、」
「千代田さん、ここでなにやってたの?」
 意外だったのは、いつもクラスに関わろうともしなかった私の名前を、不二くんが知っていたということだ。
「……名前」
「えっ?」
「なんで知ってるの?」
「なんでって……同じクラスじゃないか」
 不二くんが少し不思議そうに首を傾げる。栗色の髪がさらりと肩から零れた。
「美化委員で、いつも本を読んでいる千代田渚さんだろう? ……僕が知っていること、そんなに意外?」
「意外というか……いや、いいんだけどさ」
 確かにまめな人なら、クラスメイトの顔と名前くらいは覚えるかもしれない。特に不二くんは見た目からして女性的な几帳面さが見え隠れするから、彼にとってそれくらいは常識なのかも。しかし、まさか学年のアイドルに存在を認識されているとは思わなかったので、私の心臓はまだ嫌な跳ね方をしていた。
「あーっ! もしかして不二に名前覚えられてて嬉しいとか?」
「!!」
 そこで窓枠に身を乗り出しながら、ニヤリと笑いそう茶化してくるのは菊丸くんだった。猫のように目を細めて唇に弧を描いている。思わず声を荒げて否定しようとすると、それより先に菊丸くんの首根っこを不二くんが掴んで諌めていた。
「英二」
「にゃはは……。ごめんごめん、冗談だって」
「驚かせてごめんね千代田さん。別に特別な理由があるとかじゃなくて、ほら……。キミ、いつも独りで行動してるだろう? 僕以外にも、キミのこと気に掛けてる子は結構いると思うよ」
 別に独りのほうが気楽だって言うなら、無理に群れることはお勧めしないけどさ。
 そう言って、不二くんは少し微笑んだ。自分が女である自信を無くしてしまうくらい、綺麗で愛らしい笑みだった。そうか。私は、周りにそういった印象を与えていたのか。情けないな。
 滲み出てしまっていたのだろうか。本当は寂しくて仕方がないという感情が。だから、教師にも。
「っあ! そうだボールボール! 部屋の片づけもしなきゃ!」
 無言で黙り込んでしまった私に、菊丸くんが明るい声で告げた。無邪気な彼に、思わず笑みがこぼれそうになる。慌てて俯いた。こういうタイプの男の子は、あまり前の学校の友人にもいなかったな。ちょっと系統が似ているとしたら、同級だった彼か。それともあの後輩か。
「あ、ボールね。ちょっと待って、探すから」
 話を逸らそうと、ボールを捜しに書類だらけの床へ足を引きずり膝をつく。すると、彼らが慌てたように窓から身を乗り出してきた。
「あ、オレも手伝うよっ! 元はといえばオレたちが旧校舎の近くで試し打ちしてたのが原因だしっ」
「そうだよ。これだけの書類、片付けるの大変でしょ?」
「いや、いいよ。あ、あった。これこれ」
 これ以上踏み込まれると危険だ、この学校へ逃げてきた意味がなくなる。ましてや今は高校生、中学の時よりも惚れた腫れたに敏感なお年頃であることに間違いはないのだから。
 書類の中でかくれんぼしていた黄色いボールを見つけて手渡せば、彼らは微妙そうな顔をして私を見つめた。
「ありがとう」
「ねぇ、やっぱ手伝うって。大切な書類なんでしょ?」
「大切じゃないよ。全部ただのゴミ」
「ゴミ? そういえば、千代田さんここで何やってたの?」
「部活動」
「部活? え、ここ何部!? すげーいっぱい本とか書類あるけど」
「文芸部だよ。って言っても、活動してるの私だけだけど」
「ぶんげい? って、なにやるの?」
「小説とかエッセイとか、そういう文学作品を書いてる部、ってことだよね」
「そうそう」
「あ、もしかしてそこの書類、千代田さんの作品じゃあ」
「えええええっ!? うわっ、ホントごめん!やっぱり俺片付け手伝う!」
「いや、いいって。大会まで時間ないんでしょ? 練習してきなって」
「で、でもっ」
「練習、頑張って」
 これ以上入ってこないで。そんな私の微かな警告を不二くんは敏感に感じ取ってくれたらしい。
 戸惑っている菊丸くんを連れ出し、私に再度お礼と詫びを告げて去っていった。彼は一度だけ振り返ったが、咄嗟に俯いてしまったので、彼がどんな表情をしていたのかは分からなかった。
 練習が始まり、しばらくすると彼らがランニングをしているのが見えた。もう、彼らの頭の中から私は消えているだろう。それでいい。もう、あんなキラキラした人たちとは付き合いたくない。本当は、彼らみたいな楽しい人たちは好きだ。でも、私は保身を選んだ。彼を傷つけてここにいる。
 背負い続ける罪悪感と、右足に刻みつけられた罰。母親に見捨てられた、二度と踊れない体と付き合いつつ、私はキーボードに思いを叩き付けた。けれど書けば書くほど、その小説は『私が実現できなかった未来』に近づき、絶望しては消す。
 言えなくなってしまった、私の本当の言葉。それをぶつけるために、私は今日も書き続ける他無かった。


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