2003年3月5日
 2月に入ると、私はとうとう学校へ行けなくなった。それでも幸村は毎日家へ来た。母がいる時は何かと理由を付けて追い返してもらい、いない時は居留守を使った。その間に私は父のマンションの近くにある高校、私立青春学園高等部を受験した。父が裏から何か手を回したのか、それとも私の学力が本当に向上したのかは分からないが、なんとか合格した。準備に追われる内に卒業式が終わっていた。しかしどうでも良かった。誰も千代田渚を知らない場所に行けるということだけが、当時の私の希望だった。
 引っ越す前々日。下見をしに青春台へ訪れた時にお洒落な美容院を見つけた。髪を切りたいと言ったら、父は黙って私を連れて美容院へずかずかと入っていった。綺麗な顔のお姉さんたちが、一斉に振り返っていらっしゃいませと言った。お父さんが手近な女の人に話しかけた。「春から高校生なので、それらしく見れるように指導してやってほしい」お姉さんはニコリと笑ってかしこまりましたと言った。
 美容院は髪を切るところだと思っていたが、本当に美容に関することなら何でもしてくれるらしい。私はそこでメイクの仕方を教わった。ベースメイクの極意や眉の書き方やアイシャドウの位置、アイラインは目の際に引くのが一番目を大きく見せるということ、チークの入れ方で印象が変わるということも。
 プロが作った私の顔は別人だった。普段の薄幸そうな私でも、バレエメイクを施したキツい顔の私でもなかった。感動というか、希望を噛みしめている時にヘアスタイリストさんが声を掛けてきた。20代後半くらいの綺麗な女の人で、髪型はお決まりですか? と人の良さそうな笑顔を浮かべてそう問いかけてきた。
「私だと分からないくらい、変わりたいんです」
 お姉さんは一瞬驚いた様に口を半開きにすると、慌ててヘアカタログを差し出してきた。ショートカットの美人さんがいっぱい載っていた。お姉さんは「女の子らしい顔だから、ベリーショートよりはショートボブの方が良いかもしれませんね」と私の方を見て微笑んだ。これなんてどうですか? と指差す先にあったのは、『小顔効果もあり! ガーリーショートボブ』という煽り文の髪型だった。私はそれにしますと言った。
 髪を40センチ切ってもらった。前髪は目の上あたりまで切って、左へ流すようにしてもらった。後ろ髪は項が隠れる程度にしてもらって、毛先に少しだけパーマを当てて軽く内巻きになるようにしてもらった。スタイリングの際はいったん髪を濡らしてタオルドライした後に、ソフトワックスかヘアクリームで整えてくださいと言われた。
 美容院の待合室では父が足を組んで新聞を読みながら待っていた。私を視界に入れると、少しだけ眉を動かしたけれど特に何も言わなかった。


 引っ越し準備は荷物の量のわりに時間が掛かった。何を持って行くか迷って、結局衣服と文庫本と家具とその他日用品だけ持って行くことにした。中学時代の教科書と、バレエの参考書は置いていくことにした。でも、アルバムとフォトフレームだけは置いていくことができなかった。
 自分でも理解不能だけれど、私が会いたくないのはその時自分の目の前にいた幸村精市だけだった。写真の中の幸村には会いたいとずっと思っていた。それは、あの頃に戻りたいという一種の現実逃避だったのだろう。荷物が次々と積み込まれていくのを避けながら、私は家の外に出た。松葉杖は2本から1本に減っていた。右脇に挟み込んで歩き、家の真正面に立った。使いもしない煙突が2つと小さな窓が8つ。左右に小さなベランダが一つずつ付いていて、家全体はベージュの石製タイルで覆われていた。似たような建物をイギリスで見た。おそらく海外暮らしが長かった母の趣味なのだろう。
 住み慣れた我が家は、その月をもって無人の屋敷となった。その家に家族全員が戻ってくることは、もう2度とないのだろうなと私は漠然と予感していた。その時だった。
 強く肩を掴まれる。
 振り向いたその時、私は軽率に家の外へ出たことを後悔した。
「やっと捕まえた」


 幸村はラケットバックを抱え、濃紺のウィンドブレイカーとタータンチェックのマフラーを着けていた。見ての通り引っ越しで忙しいと追い返そうとしても、決して私の手を離そうとしなかった。結局根負けしたのは私で、歩いて5分ほどの場所にある近所の森林公園へ彼と行くことになった。
 その日は天気も良い平日だったのにも関わらず、ベビーカーを押した若いお母さんも散歩の老夫婦も見当たらなかったのを憶えている。その広い敷地の中を落ち葉を踏みしめて歩き、木々が生い茂る中にぽつんと設置されていた小さなベンチにふたりで腰掛けた。そこは丁度陽だまりになっていた。
「どういうことかな?」
 幸村はお得意の神の子スマイルで首を傾げる。けれど目が暗かった。私は咄嗟に目を逸らす。
「不登校決め込んで、家に行っても全然出てこないで、挙句卒業式まで休んで……お洒落だね、その髪型。それに化粧も覚えたんだ」
 幸村は私の横髪を手に取り、自分の指にくるくると絡めて弄んでいた。私は硬直してその場から動けなかった。
「……見違えるように女の子らしくなったね。……でもさ、それってあの引っ越しトラックと何か関係あるの?」
 そのざらついた声で喋らないで。心の中で悲鳴を上げても、当然彼に聞こえるはずはなく。
「お前見てるとすっごくイラつく」
『アンタ見てるとすっごくイラつく!!』
 すっかり大人になった幸村の声と、癇に障るクソガキの声が重なった。やっぱり、幸村は意図的に私が幸村に行った仕打ちをなぞっているのだと思った。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
 全身が恐怖で震えた。幸村は怒っている。このままじゃ嫌われてしまう。あの日の翼みたいになってしまう。体の震えが止まらなくて、着ている赤いダッフルコートの裾をギュッと握りしめた。そしてその白く染まっていく指先をじっと見ていた。
「こっちを見ろ! 千代田渚!」
 途端、肩を掴まれ引き寄せられた。
 目の前にいる幸村は、唇をへの字に曲げて眉間に皺をよせ、その濃紺の瞳に惜しみない怒りをさらけ出していた。感情を隠そうとしない真っ直ぐな目。出会った頃と違う、生きた人間の顔。
 それは確かに、私の望んだ結果だった。
「いいか、正直に答えろ。お前は俺を恨んでいる。そうだろう?」
 口を固く閉ざして、首が千切れても良い覚悟で横に振った。私の肩を掴む幸村の手の力が途端に強くなった。それでも言えるはずない。
 憎んでも憎み切れないくらい、幸村が大嫌いだって。
「何故正直に言わない!? お前は、俺の所為でバレエが踊れなくなったんだ。俺の所為で唯一無二の親友を失ったんだっ。全部俺の所為にすればいいだろ。それなのにっ、どうして無理して笑った? 何も言わずにいなくなるくらいなら、最初から全部吐き出した方がお前だって楽になれたはずだ!!」
 なあ、そうだろっ!! 幸村の怒声が響いた。私はひたすら首を振りながら、彼の手から逃れようともがいていた。なのに拘束は解けず、とうとう私はその腕の中に閉じ込められた。幸村の胸は温かく、大きかった。
「俺のこと、一生恨んでていいから……どんな仕打ちも受け止めるからっ。だから、頼むから俺の前からいなくならないで……昔の千代田に戻れるまで、今度は俺が、ずっとそばにいるから……」
「なんで……そんなこと言うの……?」
 初めて口を開いた所為か、幸村の腕がピクッと動いた気配を背中で感じた。幸村は少しだけ間を置いて、そして重大な宣告をするかのように大げさに息を吸った。
「俺は、千代田に何度も救われた。……どんなに辛い状況でも千代田が支えてくれたこと、悪いけど俺は忘れてあげられない」
 短くなった髪を幸村が撫でた。
「千代田の作り物じゃない笑顔が好きだ。千代田の真っ直ぐな言葉が好きだ。千代田の嘘をつかない目が好きだ。俺は、千代田の良いところをいっぱい挙げられる」
 やめて。
「どこまでもストイックだったその志も、馬鹿かってくらい諦めの悪いプライドの高さも、俺を救った鈍感さだって……。だから、大丈夫だよ。心配しなくても、また昔に戻れるから」
 もういい。
「前の千代田を千代田自身が忘れても、俺がちゃんと、全部憶えてるから」

 そいつは、私のすべてを奪った悪魔なんだ!!


 今だからこそ、ここへ書ける様々な思いがある。
 私は幸村が憎くて、妬ましくて、怖くて、大嫌いで、そして大好きだった。
 その時の幸村と昔の私は言動がとても良く似ていた。けれど決定的な違いがあった。
 幸村は挫折を乗り越えていて、私は挫折を知らなかった。
 幸村の纏っていたものは本物の勇気と強さで、私が振りかざしていたのはただの無知と強がり。
 その頼りない武器さえ失った惨めな私の隣で、綺麗な戦利品と頼れる仲間を見せびらかす幸村精市が、死ぬほど羨ましかった。
 それなのに、ご立派な幸村くんは惨めな私を何度も褒めて慰めるのだ。大丈夫だよ。また昔に戻れるよと。
 落ちぶれた自分を正当化するために、昔の大好きだった自分を一生懸命否定してたのに。

 ただそれは、後から冷静に思い返して付け加えた自分への補足。
 その時の私は、とにかく幸村を視界から消したいだけだった。


 気が付けば、私は幸村の上に圧し掛かっていた。ふたりして日陰の湿った枯葉の上に倒れ込み、私は幸村の首元を押さえつけていた。私は手負いであちらは全国区のテニスプレーヤー。それなのにあっさり彼が私に押し倒されたのは、火事場の馬鹿力からだったのかそれとも幸村が油断して防御できなかったからか。
 私は馬乗りになって、無我夢中で幸村のマフラーを両手で引っ張った。あの布をゆっくりと食い込ませていく感覚を今でも鮮明に憶えている。白い首に巻き付いた青いタータンチェックのマフラー、それを引く手を幸村が掴んだ。けれどそれは弱々しかった。
「千代田……なに、す……」
「どんな仕打ちも受け止めるんでしょ? ……ねぇ、これが昔の千代田渚だよ。アンタが言う、良いところがいっぱいある千代田渚だよ」
 幸村の薄く色づいた唇が、酸素を求めて大きく開いていた。いや、驚きのあまり開いていたのかもしれない。
「せっかくさぁ……傷つけないように、嫌われないようにって思ってここを離れようと思ったのに……ねぇ、幸村はどれだけ私のことを台無しにすれば気が済むの? ねぇっ!?」
 幸村の目に、生理的なものか心因的なものかは分からないが、薄く透明な膜が張った。
「はな、し……で……」
 掠れた声は届かない。私の耳はもう、自分への罵詈雑言を聞くので手一杯だった。校舎を歩けば囁かれるあの中傷でいっぱいだった。
「私なんかに構ってる暇があったら、さっさと仲間とテニスしてきなさいよ」
「!!」
 とうとう幸村は泣き出した。私が泣かせた。幸村のどこを抉れば血が出るかなんて手に取る様に分かった。
 そのまま体を前に傾かせて、幸村の顔をまじまじと見た。とうとう彼の意識は朦朧としてきたらしく、目が虚ろで顔色が悪かった。私はようやくマフラーを緩めた。途端に唇から漏れだす激しい呼吸と咳。幸村は吐息まで花の匂いがするような気がした。
 どこまでも綺麗で、純粋で、強い人だった。
 ああ、この人と私は似た者同士で、かつては夢を並べて語り合った仲なのだ。
 それなのに、私だけが堕落していく。それがとても悲しかった。
「なんでアンタがテニス出来て、私がバレエできないの?」
「はぁっ、千代田っ……はっ」
「どうしてアンタが健康で、私が怪我してるの?」
「……千代田っ……千代田っ!」
「アンタなんかと、友達になるんじゃなかった」
「   」
「あの時本当に、幸村がこの世から消えていればよかったのにっ!!」

 堕ちるなら、幸村と一緒がいい。ひょっとしたら、そんなことも考えていたかもしれない。
 それきり幸村は動かなくなった。ただ静かに息をして、嗚咽も漏らさず涙を流し続けていた。目の焦点が合って無くて、まるで死んでいるようだった。
 私は涙を流すこともなく、ゆっくりとその場から立ち上がった。ベンチから転がり落ちていた松葉杖を回収し、縺れながらも何とか立ち上がった。その間も幸村は微動だにせず、影の差す腐葉土の上に横たわり絶望し続けていた。


 それは、2003年3月5日のこと。


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