2004年1月3日
 それらを全て書き上げたのは、1月3日の早朝だった。何度も読み返して、記憶違いや誤字脱字がないか確かめた。涙はもう出てこなかった。けれどその代わりに体力はほとんどすべて搾り取られて、5回見直した後に私はベッドへ潜り込んで泥のように眠った。夢を見た様な気もするが、起きた直後に忘れた。
 目が覚めた時、確かになっていく視界で捉えたのはスーツを着た父だった。彼は閉じたはずのノートパソコンを開いて、マウスに右手を乗せて画面を見ているようだった。私は思わず飛び起きる。
「ちょっ、何してっ!?」
 父はパソコンの画面から視線を逸らし、私の方を見る。その平然とした表情に私は怒るのも忘れて呆然としていた。見られたのか。という焦燥感が込み上げる。
「よ、読んだ……?」
 父は肯定も否定もせずに私を無表情で手招く。私は寝起きの重い四肢を動かしてベッドから這い出た。
 そして父の隣にしゃがむと、その大きな掌が私の額をピシャッと叩いた。
「いったああ!?」
「この馬鹿娘が」
 容赦のない平手が炸裂した額を押さえて蹲る。心底呆れたとでも言うように、父が大きなため息を漏らした。数回のクリック音が響いた後、パソコンを閉じる気配がする。
「ここに書かれているのは全て事実か? お前の妄想ではないんだな?」
 語尾を強めた言葉に、私は涙がこみ上げてくる。父に叱られるのは久々な気がした。彼は私たちに対して、どこか他人のように一線引いているところがある。諭されたり正論を上からぶつけられることは多くても、こうやって感情を露わにして声を荒げられることは本当に珍しかった。
「ぜ、全部……私が記憶してる限りでの、事実です……」
 震えた声でそう言うと、もう一度重たいため息が漏れた。
「年末年始に、勉強もせず部屋にこもってこれを書いていたことは、多大に譲歩したとしてまあ認めよう」
「……課題はもう終わらせたんですけど」
「課題は勉強とは言わん」
 おでこを両手で覆ったまま顔を上げると、胡坐をかいたスーツ姿の父が三白眼でこちらを睨みつけていた。確か今日から出勤だったはずだ。ということは、父が帰宅するような時間だということを表していた。空腹を思い出す。
「鈍感で要領の悪い娘だとは思っていたが、まさかここまで阿呆だとは思わなかったぞ」
 そう言って、閉じたパソコンを2度叩く父。私は唇をきつく閉めた。
「……お前は、最高の友とも言える人間を自分の過失で失った。それが分かっているか?」
 静かな問いかけだった。私は少しだけ考える素振りを見せた後、黙って頷く。
「幸村くんとはその後、何も連絡を取り合ってないのか?」
「……取れるような気分じゃなかったし……でも、向き合わなきゃって思ってこれ書いたの……」
 額から離した掌をカーペットの上へ置く。肩を落としながら、後でパソコンに鍵をかけようと考えていた。できれば誰にも見られたくなかった。ここに書かれているのは私の一番汚い部分についてだから。
「向き合う気があるんだな?」
 限りなく脅しに近い確認の声に、私はまた黙って頷いた。しばらく無言の時間が続いた後に、父がゆっくり立ち上がる。
「来なさい、渚」
 そう声を掛けると、彼は私が立ちあがるのを待たずに部屋を出ていく。ドアの開閉音が響いた後、なぜか私はその時やっとここが自分の部屋であることを思い出した。叱られてからしばらく経ち、ようやく冷静さを取り戻した先で沸々と湧き上がる怒り。
 っていうか、年頃の娘の部屋に無断で侵入とかどういうこと!?
「ちょっとお父さん!? 私の部屋に入った上にパソコン覗くとか、プライバシーの侵害なんですけど!?」
 怒りにまかせてリビングへ飛び込むと、そこには煮物の良い匂いが仄かに漂っていた。もう随分と嗅いでいない実家の夕食時のものとほぼ同じ。脳裏に過ったのは、ベージュのエプロンをして台所に立っていたあの小さな背中だった。
「お母さん?」
 奥にあるダイニングキッチンを覗く。淡い期待を全く抱いていなかったかと言われるとたぶん肯定はできない。
 しかし、そこに立っていたのはスーツ姿の大きな男。ジャケットは脱いでいたが、ネクタイを緩めてシャツを捲っただけで鍋の中身の味見をしている初老男性はそれなりにシュールだった。
「……な、なにやってるの?」
「見て分からんのか」
 馬鹿娘があまりにも料理をしないものでな、となんだか小馬鹿にするような口調でそう言われる。私は恐る恐るダイニングへ踏み込んだ。
「料理、できたの?」
「お前私を誰だと思ってる」
「千代田明57歳O型、誕生日は……」
「そうではない。……これでも定食屋の一人息子だ」
 父は火を切ると、小鉢にそれを盛り始める。お前も手伝いなさいと言われ、とりあえず茶碗を取り出し炊飯器を開けた。そういえば米炊いてない! という焦りは蓋が開いた瞬間に吹き飛んだ。そこには美味しそうな五目ご飯が詰まっていた。
 やがて食卓へ並んだのは、五目御飯と筑前煮とお雑煮。どれもほかほかと湯気がたって美味しそうで、私には猛烈な既視感があった。母が作る料理とそっくりだったのだ。
 父が黙って咀嚼し始めた頃に、私は手を合わせて小さく「いただきます」と言った。筑前煮の里いもを箸にとって、ゆっくり口の中へと運ぶ。里いものとろみと甘辛い醤油だしの風味が口いっぱいに広がった。母の味だった。冷凍食品と即席めんとお惣菜ばかりを飲みこんでいた喉へ、優しく滑り落ちていく。
 バレエをやめてから、お母さんの料理が嫌いになった。何を思ってか知らないが、母は私に今まで食べさせたこともないような料理ばかりを作った。ハンバーグ、コロッケ、ビーフシチュー、トンカツ、すき焼き。どれも美味しくなくて、半分以上残した。
 泣きながらそのことを父に言うと、少し苦笑交じりの声が聞こえた。
「あいつはお前と同じ鈍感だから、言わないと分からないぞ」
「でも、だって急に料理の種類が変わるなんて思わないじゃん! 絶対太らせようと思ってたんだって! あれは遠回しに、もうお前はバレエダンサーとして終わってるってことを……」
「人の感情に敏感になることと、被害妄想は全くの別物だ」
 父は冷たく端的に、私が今一番直さなきゃいけないところを指摘した。私は箸を握ったまま俯いた。
「……今まで食べさせてやれなかった物をという母心だと、何故考えない?」
 お母さんの泣き顔が脳裏を過った。
「柳くんは確か、テニスの時間を割いて毎日お前の勉強を見てくれてたんだったな。それが優しさだけで出来る行為だと本気で思っているのか?」
 柳の穏やかな声音を今でも思い出せる。
「宇田川さんに信じてもらえなくて悲しかったのに、どうしてお前は幸村くんへ同じことをしたんだ」
 翼の見る者全てを明るくする微笑みと、幸村の陽だまりみたいな笑顔が瞼の裏に浮かんだ。あの文書を書いている時には一滴も流れなかった涙が、今になって堰を切ったように流れ始めた。自分の身勝手な数か月を全力で恥じる。
 あの頃、確かに私を取り巻くものはみんな優しかったのに。
「……それでも、自暴自棄になってしまうのも致し方ないと思ってしまうあたり、親の欲目か」
 父はそう独り言のように呟くと、自嘲するように鼻で笑った。私は俯いているので、どんな表情をしているのかは見れない。
「渚。もうあれから一年だ」
 父の言うとおりだった。毎日、あの場から消えることしか考えられなかったあの頃から、もう1年が経った。
 私は10カ月も、幸村に傷を抱えさせたままにしているんだ。
「……許してもらえない可能性の方が高い。傷つけられることもあるだろう。それでもお前は、それだけのことをしてしまった」
 頷いた。腕でごしごしと目元を拭う。
「もう向き合えるな?」
「うん」
 今度はちゃんと返事をした。ちゃんとお父さんの目を見た。
「なら、よく噛んでゆっくり食べなさい」
 ずっと昔に見た、優しい目をした父だった。


 皿に盛られていた食事は綺麗になくなった。食器を流し台へ片付けた頃には、時刻は夜の11時を過ぎていた。父は明日も朝早く出ていくのだろう。けれど彼は食卓から動こうとせず、私も自分の部屋へ戻ろうとしない。私たちはふたりで向かい合い蜜柑を食べていた。もっと話さなきゃいけないことがある気がしたから。
「……でもお父さんスゴイな。お母さんと同じ料理作っちゃうなんて」
 鍋にはまだ筑前煮がある。明日の朝に食べようと思いながら、そんなことを言った。
「私があいつの料理の師匠だからな」
 しかし、よそ見をしていた矢先のその爆弾発言に、私が口へ放り込もうとしていた蜜柑が膝へと転がって床へ落ちてしまう。
「……はい?」
「考えてもみろ。バレエ一筋でそれ以外のことを何も考えずに生きてきた富豪の娘に、家事ができると思うか?」
 自分のことを思えば一目瞭然だろう、と遠回しに嫌味を言ってくるのはさておき。確かに母は規格外の金持ちだった。それをたった一代で莫大な借金に変えた伯父さんが、連日メディアでその無能ぶりを取り上げられたくらいには。
 ふとまた湧き上がってきた疑心暗鬼。母は口うるさい癖にメンタルが弱くてヒステリックだ。外見も別に可もなく不可もないライン、悔しいことにその遺伝子は私へすべて受け継がれている。ついでに言うなら胸もない。私はてっきりお父さんは胃袋を掴まれたのかと思ってたのだが、そうでもないらしい。
 じゃあなんで結婚した? 本当に家柄目当て? 旧華族の血が欲しかった?
「……あのさ、なんでお母さんと結婚したの?」
 あれだけ父の秘密へ触れるのに戸惑ったクセに、訊く作業はほんの一瞬だった。お父さんは白いすじごと蜜柑のかけらを口へ含む。私もすじごと食べる派だ。母と妹は丁寧に取り除く派で、前にそれで揉めたことがある。
 お父さんは蜜柑を咀嚼して飲みこむと、少し間を置いて口を開く。
「月並みな表現で言うなら、一目惚れというやつだな」
 あまりにも唐突に、日常会話の延長のような口調で言うものだから。私は一瞬ふーんそうなんだーと聞き流してしまうところだった。
 私はもうひとつ蜜柑を落とす。それを見て父は眉をひそめた。
「先ほどから落しすぎだぞ渚」
「いや、待って初耳すぎる。ってか、えっ!? 一目惚れ……お父さんがお母さんに!?」
「取引先の女社長に誘われてな。興味の欠片もない新宿バレエ・シアターのバレエ公演に付き合わされたのがきっかけだ」
「えっ……日本にいた頃……? って、それいつの話!?」
「舞が十九の頃だ」
 自分の年齢ではなくお母さんの年齢を挙げるあたりが生々しかった。つまり、32のおっさんが未成年に手を出したってことか!?
「当時は今ほど歳の差に敏感な時代ではなかった。それに十八以上なら問題ないだろう」
「いや、まあいいんだけどさ……ってか、そんな前から出会ってたんだ……」
 私はお見合いから愛が芽生えた系を期待していただけに、予想斜め上をかっ飛ぶ父母の馴れ初めに思わずこめかみを押さえる。
「てっきり見合いだと思ってたんだけどなぁ……ってか、だったらあの政略結婚の噂はどこから……」
「いや、見合いだぞ?」
「えっ?」
「何度口説いても落ちなかったから、あいつの実家の会社の倒産を利用して縁談の根回しをしてそのまま丸め込んだ」
 その状況を飲みこむのに、馬鹿な私の頭はしばらくかかった。パッと思いついた光景はふたつ。お主も悪よのうと言う悪代官の父と商人の伯父。そしてあーれーと帯をくるくる剥ぎ取られる母。私は自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「な、ななななんという非道な男!!」
「欲しいものはどんな手を使っても手に入れるのが私の流儀だ」
 キリッ! というエフェクトが似合いそうな真顔で言ったって、カッコよくもなんともないからな!?
 急にこの場にいない母が可哀想に思えてきた。そんな身勝手な私利私欲のために結婚させられて、それでその強引な男は自宅へ帰ってきもしなかったのだ。私が不快感を露わにして蜜柑を口の中に入れると、父は少しだけ何かを思案した後に言葉を発する。
「身勝手な男と思うか?」
 自嘲交じりの静かな声だった。
「……バレエスクールで嫌なウワサを聞くたびに、疑問に思ってたことがある」
 私は質問には答えず、そう言って手にした蜜柑を見る。気まぐれに、白いすじを一本剥がしてみた。
「家を出ていく前、お父さんとお母さんは確かに仲が良かった。私はその頃まだ小さかったし、別居が長い上に不倫疑惑もあったから、もしかしたら私の妄想だったかもって今まで思ってたけど……。でも、ようやくその記憶が間違ってないって確信出来た。だからこそ、その謎がもっと強くなった」
 私はお父さんを真っ直ぐ見据えた。
「どうして出ていったの?」
 たぶん、この人は不倫なんてしていないだろうなと思った。金もあるし子供の贔屓目抜きにしても歳の割には清潔感があるから、たぶん声を掛けてくる女はそれなりにいるだろう。つまみ食いの一人や二人はしたかもしれない。けれど、なんとなくだけど、この人の心の中にはまだ母がいると思った。
 ずっと訊けなかったことを、ようやく訊けた。ここへ移り住んできて10カ月が経過しようとしていた。いや、もっと前にも訊けたはずだった。やっと向き合えたんだ。
 父は少しだけ目を伏せた。お父さんらしくない行為だった。彼はいつだってその鋭い目で、私を見据えていたから。
「まだ四つだったお前の手を引いて、この子を世界一のバレリーナに育てると言った舞を見た時……彼女の愛を信じられなくなってしまった」
 時計の秒針と私とお父さんの静かな息遣いだけが、そのダイニングルームに存在する音だった。やがて、蛇口から雫が漏れる音がする。シンクにポトッと落ちた水滴を想像した。
 人間が人間を信じられなくなる切っ掛けなんて、唐突で、些細で、他人には理解されないものなんだと思った。

 私はテーブルを両手で叩いて席を立った。右足はまだ不自由で、それでも私はもう自力で歩けるようになった。松葉杖が無くても、壁を伝わなくても、私は好きなところへ行ける。誰にでも会いに行ける。
 私はテーブルを回り込んで、座っているお父さんの横に立った。
「約束しよう、お父さん」
 少し崩れたオールバックが、なんだか人間らしかった。私の知っているお父さんは、完全無欠でどんな困難も軽々と乗り越えていってしまう完璧人間だったから。
 こちらへゆっくりと視線を向けた父へ、私は右手の小指を差し出した。
「私もちゃんと向き合うから、お父さんももう逃げちゃダメだよ」
 切れ長の瞳がゆっくりと見開かれ、そして徐々に細められた。厳格なその口元に僅かな笑みが見える。ごつごつとした長い小指が、私の小さく短い小指と絡まった。


第二章 幸村精市 完


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