救われたがった罪人について
 入院6日、自宅静養4日。私が学校へ通えるようになったのはもうすぐ二学期が終わるという頃だった。それでもなんだか教室に行きにくくて、保健室登校と欠席を繰り返していたらいつの間にか冬休みになった。翼は県外へ突然転校したという扱いになっていた。
 終業式の日、保健室の先生に「人と顔を合わせて話すことが辛いようなら、ここへ連絡しなさい」と言って小さな名刺みたいなものを渡してきた。名前も顔も知らない人に相談できるなら、それもいいかもしれないと思った。人の顔色を伺いながら話すのに疲れていたから。
『はい、子ども相談窓口』
 けれど携帯越しに聞こえた無愛想なおじさんの声に、私の声帯は固まって動かなくなった。左手に握りしめた『子ども相談ガイドライン』という紙切れに、大した意味は無いんだと思った。
『もしもし?』
 不機嫌そうな呼びかけに思わず通話を切った。紙切れを投げ捨て、ベッドの上に倒れ込む。その数日で涙は枯れ果て、もう残滓すら浮かんでこなかった。目を閉じるとその数日で起こった様々な出来事が思い浮かんで、気持ち悪かったのを憶えている。
 母が泣きながらバレエスクールの退会申請をしてきたこと。それによってもう居られなくなってしまった立海の芸能コースに、今年度の終わりまではなんとか在籍できるよう父がかけあってくれたこと。幸村が毎日見舞いに来たこと。院内カウンセラーも毎日来たこと。
 医者から、もうバレエは無理だと何度も説明されたこと。
 諦めきれるわけが無くて、医者の制止も聞かずに私は体を鍛えた。左腕はすぐに治ったから、その後はストレッチにも筋トレにも励んだ。その頃はそれくらいしかできることがなくて、あとは幸村がアドバイスしてくる『イメージトレーニング』とやらを何度も繰り返した。
「医者の言うことなんて信じなくていいよ。案外何とかなるものだから」
 幸村は私に明るくそう言った。何とかなったヤツだけが言える勝ち組のセリフだと思った。私は笑顔で「そうだね」と頷いた。
 体が思うように動かない。その中で上手く踊れる自分を想像するのはとても苦しい作業だった。もうこんな風には踊れないかもしれない。これは私の妄想で終わるかも。そんな気弱な自分との戦いだった。
 バレエができない月日が湯水のようにドボドボと捨てられていく。
 こんなに長期間休むのはもちろん生まれて初めてだった。焦りが生まれないはずがなくて、その内上手くイメージも出来なくなって。それなのにバレエを踊る夢を見た。上手く踊れもしないのに舞台の中心に引きずり出されて、私は観客から指を差され笑われながら踊った。最前列には、心底可笑しそうに顔を歪める翼がいた。
 それを心療内科のカウンセラーに話したら、まるで私が病人みたいに扱われたのでもう誰にも言うもんかと思った。
「千代田、俺だって経験者だ。悩みがあるなら全部聞く。八つ当たりでもなんでもいいから、俺に話してほしい。……千代田は俺が一番辛い時にずっと支えてくれたから、だから今度は俺の番だ」
 恩返しをしたいらしい。幸村が私に纏わりついてチョロチョロとうっとうしかった。幸村は挫折を味わってた時、よく私のことがイヤにならなかったなと逆に感心した。彼は本当にお人好しなんだなと思った。私には無理だった。何一つ不満なく日々を過ごす幸村がひたすら妬ましくて、だから悩みを相談するなんて到底無理だった。
 ひょっとしたら、前の私だったら八つ当たりくらいできたのかもしれない。
 ただ、それをしようとする瞬間いつもあの翠の眼が脳裏を過った。狂気と悲しみに満ちた瞳と幸村の心配そうな目が重なる。私みたいな最低人間を支えてくれようとする、優しい人を傷つけてはいけないと思った。だからいつもニコニコ笑って、平気だよって話をはぐらかした。
 私は、何も自己主張をしない笑う人形になった。

「お前は案外呑み込みが早かったんだな」
 赤ペンを持ってノートをめくる参謀にそう褒められる。別に学力を褒められても少しも嬉しくなかったけれど、とりあえず笑っておいた。作り笑いというのも慣れると案外バレないもので、人はこうやって笑いながら上手く生きているのかと思った。
「これなら、コース変更の試験もおそらく余裕で通過するはずだ」
 立海には中等部から高等部へ上がる段階でのみコース変更が認められる。幸村を始めとした立海テニス部はみんな、私は当然芸能から進学へコース変更するものだと思っていたみたいだ。
 当の本人はまだそれを決めあぐねていたが。
 しかし、どんな進路だとしても勉強はしなければならない。劣等生へ勉強を教える役を買って出てくれたのは参謀様だった。本当は幸村が私に教えたがっていたのだけど、それは立海テニス部メンバーによって阻止された。幸村は千代田を構いすぎていると、部員たちから指摘されたのだ。
 私は当時、それが凄く羨ましかった。自分の悪い所を言ってくれる仲間がいる、そんな幸村を妬んだ。
「1カ月弱でよくここまで頑張った。久々に教え甲斐のある生徒でこちらも楽しかったよ」
 とりあえずこれからは自学自習だな。しかし分からなかったらすぐに言いに来い。そう言って柳は私の頭を撫でた。足を壊してからというもの、柳は私の頭をよく撫でた。それは別に不快な行為ではなかったけれど、もう特別嬉しくも思えなかった。同情されてるのだろうな、という歪んだ解釈しかできなかった。
 けれど私は笑う。嬉しそうに。柳を傷つけてはいけないから。
「帰るか。何か奢ろう」
「いいよ別に。それより本屋行こう」
「もう読んだのか? 前に買った小説」
「……ヒマで死にそうなんだ」
「? 済まない、なんて言ったか聞き取れなかった」
「ん? 何でもないよ!」
 柳が私にコートを着せてくれる。言葉を交わしながらゆっくりと3-F教室を出た。踊れなくなって1カ月以上が経過していた。
 日々の生活のほとんどを占領していたバレエが消え、私はとにかく時間を持て余していた。筋トレやストレッチで一日を潰すのは至難の業だった。だから本を読み、そして小説を書くことを覚えた。最初に書いた文章はめちゃくちゃで、とにかく書き手が病んでいることしか伝わらないと思ったのでここに載せるのはやめておく。
 行き場を失くした感情のはけ口に、文字を使った。出来るだけ主人公に感情移入できるような薄暗い小説を読み漁り、苛立ちをぶつけるために文字を打った。本当に文学を愛している柳が知ったら、きっとすごく怒るのだろうなと思った。
 夕日に染まった廊下を、いつも私が松葉杖をついて先に歩いた。柳はその後ろをゆっくりついてきてくれた。まず最初に3号館の1階まで下がって、進学コースの子たちが使う昇降口へ行く。そこで柳の靴を回収してから、2号館を通って1号館へ行くのがいつもの帰り道だった。
 2号館1階。高校生たちが使う昇降口の目の前にはテニスコートがある。日の光が射しこまない暗くじめじめしたその先の、出入り口から漏れる赤い光に私は魅せられた。少年たちの声とインパクト音が聞こえてきた。思わずそちらへ歩き出すと、柳が慌てて追いかけてくる。何度か名前を呼ばれたけれど私は振り返らなかった。
 外に出ると、階段下の掘り下げられたテニスコートで幸村が切原と試合をしていた。
 芥子色のユニホームを靡かせ、幸村はコートを縦横無尽に駆けている。ラケットを振るい、その口元に笑みを浮かべ、自分はここにいると主張するように思いっきりテニスをしていた。相変わらず打球は鋭くコーナーへと打ち込まれ、サーブは目で追えないくらい速い。しかしあの日の幸村とは全く違う。三連覇に押しつぶされ、意地でテニスをしていた彼はもうどこにもいなかった。
 幸村が立海に残ったのは意地。けれど、彼のテニスはもう意地だけではなかった。そこにはちゃんと、愛情も楽しさも感じられた。

 なのに私には何もない。ここにあるのは諦めの悪い抜け殻だけ。

「精市を見るのは辛いか?」
 松葉杖を投げ出し、座り込んでしまった私を柳は抱き留めてくれた。もう出ないと思っていた涙は、まだ止めどなく流れ落ちてきた。
「なら何故そう言わない? 俺たちは今までのお前に期待してしまっている。当然、自分の思っていること全てをぶつけてきてくれると。お前とだけは、腹の探り合いなんて虚しいことをしなくていいんだと」
 声が嗄れるまで叫びたかった。そんな期待をされても困る。私にはもう、自分の思っていることを全てぶつけられるほどの勇気も体力もなかった。
 もちろんそんな主張さえ私はできなくなっていた。私は彼らの期待や意向を、真正面から裏切るのが怖かった。
「幸村は……無事に完治できて良かったね……私も、嬉しいよ……」
 なんで幸村だけ? 私も治したい。私だって踊りたい。
 楽しげにテニスをする幸村が、ひたすら憎かった。でも、そんなことを言ってしまえば嫌われてしまうのは明らかだった。幸村を翼にしちゃいけない。私は誰にも嫌われてはいけない。
「無理をするな。……思っていることを全部言えばいい。俺はそんなことでお前を殴ったりはしないから」
 柳の言葉を、私は信じられなかった。
 優しい人は怖い。最低な人間にでも優しくするから。人に敵意を向けられることに慣れている私みたいなクズは、少し優しくされるとその人にすぐ甘えてしまうから。甘えちゃいけないんだ。この汚い感情は人にぶつけてはいけないものなんだ。
「……何でもないの……本当に、ごめん。いつまでも落ち込んでて、迷惑かけてごめん……」
 柳の腕の中は、昔おばあちゃんの葬式で嗅いだような匂いがした。
 いつだったか、それは白檀という線香の原料に使われる木の香りだと教えてくれた。その木の匂いが自然に香る様なにおい袋を、彼はその胸ポケットにいつも潜ませていた。なんでそんなものをいつも持ってるのと聞いたことがある。すると彼は「なんでだろうな」と自問自答し始めた。自分で持ってるのに変なのと私が笑うと、彼は困ったように笑っていた。たぶん、これを持っているといつも家にいるような気分になって安心できるからだろうと言った。
 柳も外の世界が怖かったのだとしたら、人と関わるのに少しでもうんざりしていたのだとしたら、たぶん私なんかがこの恐怖に打ち勝つのは無理だと思った。

 柳に見送られ家に帰ると、話があると言って母に呼ばれた。リビングの黒い革張りのソファーに座ると、お母さんはその向かいのソファーに座って膝をきちんと閉じて背筋を伸ばした。
 母は私が足を壊してから私を腫物のように扱っていた。当時の私はそれが気持ち悪くて仕方が無かった。
 その時目の前にいた厳しいコーチとしての顔つきの母の方が、私にはなじみ深かった。
「楓の留学を考えているの」
「……は?」
 私は母を母として好きだったかと問われると、正直即答しかねる。けれどコーチとして、バレリーナとしての母はこれ以上なく尊敬していた。
 けれど、それもその時までの感情だった。
 私や翼とは違い、ずっと端役でしか踊れなかった妹の実力を思い出した。何を考えているか分からないあの澄んだ無機質な瞳を思い出す。真っ黒で透き通っていて、こちらの弱みを全て見透かしてしまうような目だ。
 あの細長く白い手が、お母さんを攫って行こうとしていることだけは分かった。そして、母が今度は妹を利用して自分の夢を叶えさせようとしていることにも気付いた。
「ああそう。そういうこと……」
「渚?」
 ここまで来るともう笑いしか起こらなかった。バカだと思った。どこへ留学するのかは知らないが、あんな実力で外へ行けば大笑いされるのは目に見えている。帰れジャップ、お遊戯会は祖国でやれと言われるに違いない。そんなことは母が一番よく分かっているはずだ。なのに力不足の妹を引っ張り出した。そうまでしてまだバレエと関わっていたいのか。実家が借金を抱えて、資金不足で引退を余儀なくされた時にきっぱり足を洗えばいいのに。
 楓も楓だ。何を思って今更バレエに本気になったのかは知らないが、だったらどれだけ足掻けるか見物させてもらおうと思った。アンタが生半可な覚悟で踏み込もうとしている世界は甘くない。優雅な舞台の裏では罵声が飛び交い、容赦のない足の引っ張り合いが横行する闘技場だ。それでも私からバレエもお母さんも奪おうっていうなら、好きにすればいい。
 そう心の中で暴言を吐いて、ぐらついた自分を何とか留めた。つまり、私はあのへたくそ以下の役立たずだと言われたのだ。
「いいよ。どこにでも行けば?」
「ええ、だから貴方もせめて一緒に外国へ……」
「はあっ? 冗談じゃない!」
 ソファーの肘掛を叩いて勢いよく上体を前へ乗り出した。久々に怒鳴った所為か、お母さんが目の前で少し肩を竦めて目を見開いていた。目の前にいたのはもうコーチじゃなくて、口うるさい癖に肝心な時に役に立たない母親だった。今まで押さえつけていた感情が少しだけ外に噴き出た。
「バレエだろうが留学だろうがいいよ、勝手にやって。でも留学先についていくなんてとんでもない。なんで私がお母さんと楓ちゃんの都合で海外に行かなきゃいけないの? っていうか、留学って普通寮に入るもんでしょ。なに、お母さんもついていくっていうの?」
「貴方と違って楓は海外に不慣れだし……それにバレエに関してもそう。だから少しでもそばにいてサポートしてあげたいのよ」
「ああそうですか素晴らしい親子愛ですこと。分かった、それに関してはもう何も言わない。でも私が海外へ行くなんてありえない。丁度良かった。独りになりたかったし」
「渚、お母さんいろいろと考えたの。貴方一度日本から離れた方がいいわ。ねぇ、転地療養っていうものがあって……」
「バレエもできないのに外国へ行く意味があるなら、私が納得できるようにちゃんとした理由を言ってよっ!!」
 自分の怒声がキンキンと頭に響いて煩わしかった。お母さんはやがて顔を手で覆い、ごめんなさいと一言つぶやいただけだった。そんな光景を見ながら、ああやってしまったと思った。
 実の母親にさえこんな仕打ちをしてしまう自分が、悪魔か何かに思えた。
 片足立ちで壁を伝ってリビングを出ていく。すると部屋の外には制服姿の妹が俯いて立っていた。相変わらず何を考えているか分からない。無表情を絵に描いたような顔を見上げた。
「頑張ってね、楓ちゃん」
 ニッコリ笑って、ワザとゆっくりそう言った。もちろん妹が返事をするわけがなかった。不気味な子だ。内心でそう吐き捨てて、私はそのまま壁を伝って2階の自室へ向かった。

 明かりをつけて、灰色のベッドに横たわった。その体勢のまま、持っていたスクールバックの中から本屋のビニール袋を取り出す。さらにその中には2冊の文庫本と1冊の雑誌が入っていた。
 バレエ雑誌『Giselle』3月号。青い表紙には新宿・バレエシアターの現プリマの全身写真が載っている。丁度その日が発売日だった。そのページをめくっていると、海外の有名なコンクールで入賞を果たした同い年の女の子のインタビュー記事が載っていた。たしか私が中2の時に全日本で1位をとった子だ。その後海外へスカラシップで留学したと聞いた。その彼女はこの度めでたく、新人バレリーナの登竜門である世界的なコンクールで入賞を果たしたというわけだった。私はそのインタビュー記事を流し読みしていく。
――休日は何をしているの?
『実はわたし、バレエを始めてから自分で希望してお休みしたことって1日もないんです。小さな頃に胃腸風邪にかかって1週間練習をお休みしたことがあって、後日ブランクを取り戻すのに1カ月かかりました。その時、お休みって怖いなぁって思って。だから今でも暇な時間が無いくらいずっと踊ってます(*^_^*)』


 私は、バレエを諦めた。
 もう立ち上がるだけの力もなく、戻れたとしても誰も待ってくれていない。
 私に仲間はいない。
 そんなことは自分が一番よく分かっていた。


「うわ出た、千代田渚」
「つか、まだ幸村くんと一緒にお昼食べるの? ちょっとありえなくない?」
 どれだけ逃げても幸村が追いかけてくる。昼食は別々に食べようって言ったら、その理由をしつこく訊かれた。私を馬鹿にする生徒がいたら、これ見よがしにそいつらへ制裁を加えていた。嫌がらせの勢いは弱まったが、私はそれすらも余計なことをと思った。
 自分がしたことを全部やり返される。幸村は私が今まで彼にした行為を全て迷惑に思っていて、だからそれを分からせるために敢えてそれをやってくるのかとさえ思った。いや、本当にそうなのかもしれない。
 今まで聞こえなかった雑音が聞こえる。
「死ね千代田」
「つかキモッ、あの顔面でよく幸村くんと並んで歩けるよね」
 いつも前だけしか見てなくて、聞きたいと思う声だけ耳に入れてきた。だから気付かなかった。
 敵意と悪意に満ち溢れた校舎、歩けば自分を貶す声が聞こえた。駆け抜けて逃げたくても足が動かない。助けてとも言えない。
 もう立ち上がる気のない腑抜けを、それでも幸村たちは支えようとしてくれた。もう放っておいてほしい。私にはどうしてもその一言が言えなかった。ただひたすら嫌われたくなかった。失望されたくなかったんだ。
 どうしてそう思ったのかなんて、その頃には忘れてしまっていた。

「私と一緒に暮らさないか?」
 そして、私に蜘蛛の糸が垂らされる。


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -