12月7日
 機械的に、一定の間隔で振り下ろされたパイプ椅子。それは工場のプレス機のようでもあり、罪人を裁くギロチンのようでもあった。私はその光景をまるで他人事のように眺めながら、この悪夢が早く終わればいいのになと漠然と願っていた。
 そうしている内に意識が霞み、気が付いた時には私は何か柔らかい所で横たわっていた。
「渚っ、渚!! ああっ、良かった……よかった……」
 視界がぼやけていた中で、優しい温もりに包まれた。穏やかな夢から覚めたあとに待ち受ける現実をどこかで覚悟しながら、私はその時少しだけ母親の偉大さを実感した。別に特別母親が好きなわけじゃない。むしろ口うるさくて面倒くさいと思ってる。それでも、お母さんの腕の中はすごく安心できた。
 残酷な世界に放り投げられた体を、探し出してどこにも行かないように繋ぎ止めてくれているのかなと思った。
「つば、さ……」
 母の胸の中でそう呟くと、母は少しだけ動きを止めてそのあとわんわん泣き出してしまった。そんなお母さんを私から引き離したのは父だった。相変わらず堅苦しいスーツを着ていた彼は、その大きな腕の中に小さな母さんをすっぽりととじ込めてしまった。
 やっとはっきりしてきた意識の中で、苦手な父の目と妹の目が私に向けられていたのに気付いた。冷たい目で見ないでほしかった。
「何が起きたか、憶えているか?」
 父が冷静にそう問いかけてくる。私は黙って頷いた。ボサボサの長い髪が顔にかかる。視線はその髪に遮られた先にある、右足に巻かれたギプスと包帯に釘づけだった。
「ははっ……参っちゃうな、翼のヤツ……。普段ケンカとかしないからさ! アイツ、加減とか分からないの! 普段おとなしいヤツの方がキレると怖いってホントだね……。ほんと、馬鹿なやつ……」
 最初に殴られた左腕は包帯で固定されていて、私はその痛む場所を右手で撫でながら蹲った。右足はピクリとも動かなかった。
「宇田川さんのことを知りたいか、自分のことについて知りたいか、それとも今はまだ何も知りたくないか。……選びなさい、渚」
 父の声に、最初に反応したのは母だった。
「貴方やめてっ、まだ言うには!!」
「それを決めるのはお前ではなく渚だ」
 父の腕の中で暴れていた母を、父はその重苦しい一言と視線で母を黙らせた。また両手で顔を覆って泣き出す母の肩を抱き、父は私に向き直った。
 私は父の姿を横目で確認すると「自分のこと」と短く告げた。それが自己中ゆえの判断だったのか、それともただ単に一番知りたくなかったことを先延ばしにしたくなかっただけなのか。私は今でも分からない。
 そして、私は希望通りに父から宣告を受けた。
「結論から言おう。お前はもう、バレリーナにはなれない」

 私はその頃、自分の努力次第で叶えられない夢はないと信じ切っていた。
 人生なんて自分で切り開くもの。選ばれるのを待つんじゃなくて、選ばれにいくのが生きるということだと思っていた。
「……なにそれ、冗談きついって」
 乗り越えられない壁なんかない。だって私は間近で見ていた。
 奇跡を起こした男の一部始終を。
「リハビリ次第で動けるようにはなるらしいが、人並みの運動ができるようになるまで短く見積もって4年。繊細な動きとなると、もう二度とできないかもしれないとのことだ」
「だから、つまんないってばその冗談!!」
 体を捻ると、右足に激痛が走った。まるで翼の憎しみがそこへ宿っているかのように、ドクドクと痛んで存在を主張した。私はずっと苦しんでいた、私はずっと耐えてきた。だから今度は貴方の番。そう言われている気がした。
「趣味として続ける分には、なにも問題はないそうだ」
 父の嘘偽りない言葉が追い打ちをかける。すると、今まで静観していた妹がベッドのそばまで寄ってきて、リクライニングを弄ってくれた。私は妹へお礼を言う余裕さえなく、ただベッドに凭れ掛かった。
「趣味……? 冗談。こんな怪我、へでもないし……全然よゆーだから。そりゃあ、来年からイギリス行くのは無理かもしれないけど……でも、こんなことで諦めたりしない。諦めてなんかやらない。私は頂点へ行く! 日本人初の王立バレエ団のプリンシパルに!!」
 言っているうちに、翼の様子を徐々に思い出してしまった。涙を流し、歪んだ表情でただ私の足を傷つける翼を見て、もうこの子といっしょには踊れないんだろうなと思った。翼は2度と私と仲良くしてくれないし、私も翼と仲良くできない。
 それでも、それだからこそ、踊らなきゃと思った。私は何を犠牲にしてでも踊ってなきゃいけないんだ。翼を犯罪者に追いやってしまったという罪を背負って。
「……お前がそう言うなら止めない。好きなようにしなさい」
 行くぞ楓。父はそう妹を呼んだ。背を向ける父に私は怒鳴る。
「待ってよ! まだ翼のこと聞いてない!!」
 父は少しだけ振り返って、少し言葉を選ぶかのような間を置いた。
「……宇田川翼さんを警察に突き出すかどうかで揉めている」
「揉めてる?」
「学内で起きたことだからと、立海の教員側がなんとか示談にしてくれないかと交渉してきた。お前たちが無名の学生でないことも災いして、バレエ団からも遠回しに大事にはしないでくれと頼まれた。……返事は保留にしてある。お前次第だが……お前が許せないと言うのなら、私は構わずこのことを告発するつもりだ」
 いつも冷静な父らしくなく、その目には明らかな怒りが滲んでいた。今思えば、それは父の数少ない親らしい一面だった。けれどその時の私はそんなことに気付けるほど余裕ではなかった。
 翼は犯罪者。それは分かっていたことなのに、どうしてだか私はあの優しすぎる少女が断罪されるところなど見たくなかった。
 私は、首を横に振った。
「もう、これ以上翼を傷つけたくない……」
 右手で顔を覆う。3人分の足音が部屋を出ていくのが聞こえた。もしかしたらその前に何か声を掛けられたかもしれないけど、それは聞き取れなかった。


 どうやら私は丸1日寝ていたらしい。そのことを知ったのは、立海テニス部ジャージじゃないテニスウェアを着た柳が顔を出した時だった。フリース素材の黒いジャケットを着た彼は、近所にあるテニスクラブでの練習の帰りだと言った。入院中は退屈だろうと、私が好きそうなジャンルの大量の文庫本と綺麗な花を持ってきてくれた。
 ピンクのバラとガーベラにカスミソウが添えられたブーケが、柳の持参してきたガラスの花瓶に活けられた。その頃にはだいぶ、私も冷静さを取り戻していた。
「大丈夫だよね……乗り越えられるよね」
 動かない右足を眺めて、私は柳に自分が宣告された内容を告げた。柳は私のそばで丸椅子に座り、ずっと私の話を聞いてくれていた。
「出来るさ。お前なら」
 私のボサボサの黒髪を、柳の大きな手が丁寧に整えてくれた。私は柳に縋ることも出来ず、ただ布団を握りしめて泣いた。
「ねぇ、柳……私やっぱり、どこかおかしいのかな……」
「……どうしてそう思うんだ」
 宥めるような優しい声が私の体に染み入る。傷ついた翼の表情を思い出していた。
「翼が、傷ついていたことは分かるんだ……。私の無神経な言動に振り回されていたんだってことも今さらだけど分かったし、たぶん……幸村に振られたんだろうなってことも……」
 柳は黙って、布団を握りしめる私の右手に自分の右手を重ねてくれた。
「でもっ……納得できないんだ!! 身勝手な私にムカついて、幸村に振られて悲しくて、それだけで翼があんなひどいことをしたっ……? 信じられない。翼はそんなひどいヤツじゃない!!」
「落ち着け。……それは、俺も分かっているから」
 右肩を掴まれ押さえつけられる。こちらに身を乗り出してきた柳に凭れ掛かりながら、私はただ感情を吐露していた。
「……私は、ひどいやつだ……。親友がなんであんなに追い詰められたのかも分からない……」
 もっといっぱい、翼の話を聞きたかった。そう言うと、柳は私の左肩を痛ませないようにそっと私を抱き寄せた。私は、目を閉じて柳の静かな鼓動を聞いていた。
「誰もが他人のことなんて分からないはずだ。もし、お前から見て周りの人間が聡く見えているのなら、それはただ分かったような振りが得意なだけだ」
「……柳も?」
「ああ。俺なんかはその典型だ。……千代田は、その振りが苦手なだけだ。あまり気にすることはない」
 柳が、私の頭をポンポンと軽く叩いて離れる。彼の慰めは嬉しかったけれど、はたして本当にそうだろうかと疑問を感じた。

 私以外の人は、友達に嫌われないように気を使って、少しでも相手の気持ちを分かろうと努力して生きているのではないだろうか。
 相手が言われたくない言葉を言わないようにして、相手が言ってほしいであろう言葉を選んで、時には相手のために自分の意見を曲げたりするのではないだろうか。こちらが分かってあげるためことで、自分のことも分かってもらうために。
 そう思ったら、なんだかこの怪我は当然の報いのような気がした。私は何一つ、翼にそれをしてあげられなかったから。私たちは当然分かり合っていて、なんでも言い合える仲だと思い込んでいたから。

「そうだ。あの部屋に放置してあったお前の鞄、ここに置いておくな」
 柳はそう言ってベッドサイドのチェストの上にスクールバックを置く。聞けば、倒れていた私を発見して救急車を呼んでくれたのは柳だったそうだ。いろんな意味でお礼を言って、私は少し手を伸ばしてスクールバックをとった。
 ファスナーを空けて、当時使っていた薄ピンクの携帯を弄る。買った当初は最新だったカラーケータイも、3年も使えば液晶に傷がつきボタンの反応が悪くなる。もうそろそろ変えどきかと思いながら電源を入れた。
 新着メールが1件。送り主は、幸村精市。
 心臓が跳ねた。ケータイを持つ手が震える。はやる気持ちを押さえて、その未読メールを選んだまま決定ボタンを押した。

 その時。私は何度も、何度も読み返した。
 もう涙は出てこなかった。
 ただ、力が抜けて、もう何も考えたくなくなって。
 ああもう、思い出したくないなこんなこと。私、なんでこんな辛いこと、いちいち思い出しながら書いてるんだろう。胃のあたりが痛い。不二の声が聞きたい。ひとりじゃないよって、言ってほしい。


「千代田?」
 携帯電話を手放して放心する私を、不思議そうに覗き込む柳。彼の視線は自然と、私の携帯に向かったのだと思う。
 彼が、静かに息を呑む声が聞こえた。

12/06 16:57
From:幸村精市
件名:緊急事態?
本文
ちょっと面倒なことになったかも;
宇田川さんが急に告白してきてさ、最初丁重にお断りしてたらなんか取り乱して変なこと言い始めたんだよね
それで対応に困ったから俺彼女いるよって嘘ついちゃったんだけど、そしたら急に「それは渚か」って騒ぎ始めて;;
丁度部活の休憩が終わる時で、早く戻りたかったから肯定しちゃったんだよ……ごめん!
とにかく、宇田川さん取り乱してたっぽいし、会って詳しいことを話し合いたい。誤解も解かなきゃね
土曜日は新宿で1日練習だっけ? 夕飯とか一緒に食べられないかな?


 柳が、静かに息を吐いた。
「……少し、待っていてほしい」
 全身に怒りの気配を纏わせて、彼は病室を出ていく。私はそれを止められなかった。柳が置いていった携帯に、雫がポタポタと落ちる。退かさなきゃ、それができないなら涙を止めなきゃ。携帯が壊れることを予知しておきながら、私は指一本動かすことができなかった。ただ、ズタズタに引き裂かれた翼の心の行方を思った。

 私に、裏切られたと思ったんだね。
 ショックだったよね、翼。自分の好きな人を打ち明けるって、すごく緊張するし怖いよね。私、今なら分かるよ。あの時は分からなかったことでも、これを書いている今なら少しは分かるようになったよ。
 ライバルから好き勝手ダメだしされてさ、もう幸村への思いに蹴りつけるしか道はないって追い込まれてさ、それで告白しに行ったら幸村は私の彼氏だったんだもんね。つまり翼の頭の中で、私は翼に好きな人を打ち明けられた瞬間から翼のことを心の中で嘲笑っていた大悪党になるわけだ。翼が勇気を振り絞って私に打ち明けてくれたのに、私はその誠意を裏切ったことになる。プライドも恋心も思い出も、全部土足で踏みにじられたんだよね。分かるよ。そりゃあ、足の一本や二本潰してやりたくなるよね。
 潰す前に私へ事実確認をしないあたり、たぶんあの時もう翼は私を友達だと思ってなかったのだろう。

 嫉妬と憎悪と劣等感で燃え上がった、あの翠の瞳を思い出していた。命の危機とは違う恐怖が私を支配する。体中に染み込んで、私の腐った性根を別の汚い色に変えていく。
 友達に嫌われることは、とても恐ろしいこと。
 そんなことも分からなかったそれまでの自分を、私は抹消してしまいたかった。

「……千代田?」
 扉の開閉音が聞こえしばらくした後、聞きなれた声が響いた。穏やかなボーイソプラノ。まだ声変わりをしていない、柔らかな声。
「……千代田……なにこれ、どうしたの?」
 私は幸村を見たくなくて、俯いたまま黙っていた。すると、彼がベッドの端に手を付いてスプリングが軋む音がした。
「……あの女か?」
 ざらついた声が耳元を撫でる。幸村が時々発する、妙に雄っぽい威圧感だった。私はその雰囲気を纏っている幸村が少し苦手だった。
「宇田川翼にやられたのか?」
 闘争本能丸出しの、野蛮で恐ろしい男に見えるから。
 私が否定も肯定もせずにいると、幸村は弾かれたように踵を返す。その時私はやっと動けるようになって、慌てて幸村を止めようと彼の背に手を伸ばした。
 けれど幸村を遮ったのは、私ではなく柳だった。
「どこへ行く」
「決まってる。あの女を同じ目に遭わせてやる」
「彼女も被害者だ」
「どうしたんだ蓮二? お前でも取り乱すことがあるんだな。……まぁ、千代田がこんな目に遭ったんだから無理もないか」
 そこを退け。低く唸った幸村の頬を柳が平手で張った。乾いた音にビックリしていたのは私だけではなく、大きく目を見開いた幸村の横顔が見えた。
「お前が今最優先すべきことが何か、ちょっとは考えろ!!」
 柳の滅多に聞けない怒鳴り声に驚いたのか、幸村が背負っていたラケットバックが肩からずり落ちる。彼もまた、立海ジャージじゃない白いテニスウェアを着ていた。
 振り向いた幸村は、今にも泣き出しそうな表情で私に近寄ってきた。その目に薄い膜が張っていたのを見て、私の肝が冷える。
 ああどうしよう、幸村が悲しんでる。あの日の翼みたいに。
「ごめん……千代田、俺が悪かった……っ、軽率なことをした。本当に、ごめんっ……」
 怪我をしていない右手をとり、彼は許しを請うように私に何度も何度も謝った。
 翼が振られてなかったら、幸村がお情けでも彼女と付き合っていたら。いいや、せめて嘘さえつかなければ。そんな彼を責めるお門違いな言葉が湧いては消えた。もう放っといてほしかったけれど、幸村はまだ謝り続けていた。
 謝られたって、翼とはもう仲良くできないの。
 その一言を、私はとうとう言えなかった。幸村に嫌われるのが怖かったから。

「大丈夫だよ、幸村」
 うまく笑えてた自信はない。当然だ。笑いたい時にだけ笑っていた私が、初めて浮かべた保身の笑顔だった。嬉しいわけでもなく、誰かを安心させたいわけでもない。ただ自分の感情を隠すために笑った。笑顔は、悲しみを隠すのに最適なんだと知った。
 翼はそれをいつから知っていたのだろう。
「別に幸村は悪くないよ! 私が悪いんだ。翼につい余計なことをペラペラと……」
「千代田……?」
「たぶん、元から嫌われてたの。幸村は悪くない! ……私だけなんだ、悪いのは」
 何とか自分にそう言い聞かせたかった。悪いのは私。他人は悪くない。そう思っても、我儘で醜くて身勝手な私が心の中で暴れまわっていた。
 私は悪くない。悪いのは翼と幸村。ふたりが私を潰した。
 気を抜けばそう口走ってしまいそうな自分が怖くて、必死に何度も自業自得だと呟いた。私の所為。私の所為。私の所為。私の所為。全部私が悪い。他人は悪くない。自分の不始末を誰かの所為にしてはいけない。
「私が悪いから。幸村の所為じゃないから」
 第二の翼を作り出さないためにも、人を傷つけないように生きなければと思った。
 とりあえず、幸村を責めれば彼が傷つくことだけは分かった。だから言わなかった。
 こんな最低な私の正体を、これ以上誰にも悟らせたくなかったんだ。


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