12月6日
 その翌日、私が屋上に顔を出すとそこには柳がいた。どうやら3-Fの授業が早めに終わったらしく、柳は日の当たるベンチに座ってお弁当を脇に置いて読書をしていた。
「やーなぎ! なに読んでるの?」
 私が近づいてきたのを分かってたみたいに、柳はスッと顔を上げて私に微笑んだ。私が座れるようにお弁当を退けてくれたので、それに甘えて彼の隣に腰を下ろした。
「こゝろだ。夏目漱石の」
「あれ? それってだいぶ前に読んでなかった?」
「そうだな……かれこれ五回は読み直してる」
 柳が好きだという夏目漱石を、私はあまり好きにはなれなかった。とにかくドロドロとした三角関係が多いのだが、そのドロドロが人間関係ではなく横恋慕してる男の内面が酷くぐちゃぐちゃしているのだ。あれこれひとりで悩みすぎている主人公に煩わしさを覚えることも少なくないと私が言うと、柳はいつも眉を少し寄せて可笑しそうに笑った。
「千代田らしい感想だ。……お前は何かに悩んだりしないのか?」
「失敬な! これでもそれなりに悩んで考えて生きてるんだから!」
「それは済まなかった」
 それで、例えばどんな悩みなんだ? と、本に柳色のしおりを挟んで閉じながら訊いてくる彼。ちなみにそのしおりを『緑色』と言って、柳色だと訂正されたのは当時わりと記憶に新しかった。
「例えばねー……友達が恋をしているのですよ」
「……ほう?」
 幸村と真田を待つ間、私は少しだけ柳に相談することにした。
「そのことについて、まぁ多少いろいろ考えたりして」
「ちなみに、その友達とは男か? 女か?」
「女だよ。……って、これ言うとバレるか」
 私が悪戯っぽく言うと柳もつられて笑った。「お前の友好関係はつくづく把握しやすい」って、嫌味か!
「それで、何を考えているんだ?」
「まぁ……一番はどうやったらその子の力になれるのかなってことなんだけど……」
 その子の好きなヤツが私の友達なんだけど、協力できることはした方がいいかな? と私が問いかけると、柳は少し右手を顎に当てて考える素振りをした。
「まぁ、その想い人が迷惑だと思わない範囲で、一緒に居られる空間をそれとなくお膳立てしてやるくらいが最善ではないか?」
 間違っても『翼がアンタのこと好きって言ってた』なんて言うなよ、と釘を刺してくる参謀。彼は私を相当の馬鹿だと思っていたらしい。確かに当時の私は向こう見ずの馬鹿だったが、そこまで無神経ではなかったと思う。
「一番があるということは、二番もあるのだろう?」
 どうやってお膳立てするのが良いんだろうと考えていたら、柳が私を覗き込んできた。
 柳の優しさが好きだ。誰かが興奮している時に冷静にたしなめ、落ち込んでいる時にはそっと寄り添ってくれる。野球部やソフト部からは『食えない書記』『狐参謀』なんて言われてるけど、それだってテニス部を思う優しさの裏返しだ。そこからはふわっと母性のようなものさえ感じる。
「あのね、やっぱり私……恋がしたいなって」
 柳の膝に載っているこゝろへ視線を落とす。別に小説みたいなドロドロとした劇的な恋がしたいんじゃない。ただ、普通に誰かを好きになってみたかった。
「気になる男は誰もいないのか?」
「うん、全く」
「……一応、立海テニス部は学内でも有数の異性人気を誇っているのだが」
「みんな、人気だから好きになるんじゃないと思うよ。恋って、そういう理屈で陥るものじゃないと思う」
 たぶんだけど。自信なくそう付け加えると、柳は少し驚いた様に言葉を失った後そっと私の頭を撫でた。
「お前のお眼鏡に適う男は、はたしていつ現れるかな?」
「私ね! こう見えて理想は高いの。顔はまあ普通以上なら良いとして、ロマンチストであることが大前提!」
「……意外だな。お前はフランクな付き合いが好きだと思っていた」
「えーっ、それじゃあ柳や幸村たちとの付き合いと何にも変わらないじゃん。私、物語の王子様みたいな男の子が良いんだ。私のこと、妹扱いとかペット扱いじゃなくて、ちゃんと女の子として意識して接してくれる男子」
「俺の知る限り、王子様といえば幸村精市しか思い浮かばないのだが……」
「だから違うんだってば! 外見じゃなくて中身が王子であってほしいの! 幸村はなんていうか……肝心なところでカッコつけられないタイプじゃん? っていうか、まだガキなんだよアイツは」
 みんなアイツのこと王子様とか貴公子とか言うけど、私から見れば近所の悪ガキが関の山。
 そう言うと、柳は途端に堪えきれなくなったように大声で笑い始めた。柳が声を上げて笑うのは珍しく、首を傾げていると急に頭に衝撃が襲った。
「いったあああ!?」
「ガキからガキって言われるとはね。……蓮二笑いすぎ」
「ほらっ、そういうすぐに手が出るところとかが近所の悪ガキなんだよ! ママ助けてっ!」
「あっ、コラ! 馬鹿、蓮二に抱き付くな!」
「ひどいっ! パパにも殴られたことないのにっ!」
 柳の後ろに隠れようとしたら引き剥がされたので、今度は呆れてため息をつく真田の後ろに回った。
「……一応確認するが、そのパパと言うのは俺ではなかろうな?」
「パパー助けてー、お兄ちゃんがいじめるのー」
「その猫なで声やめろ、キモい」
「うっさい。バーカバーカ、幸村なんかパパの鉄拳制裁で一発だぞ!」
「……だって。ちょっと一発かどうか試してみようか、真田」
「やめろ幸村、指を鳴らすな」
 べったべたのホームドラマのようだなと思った。貞淑で心配性なお母さんと、厳格で苦労性のお父さん。意地悪で妹をイジめてばっかりだけど、本当は優しい兄貴。プリガムは兄貴のダチで、柳生はお隣さん、桑原は三河屋さんってところかな。切原はペット。そんな騒がしくて温かい人たちに囲まれて、私は残された立海での一時を謳歌するんだ。
 あとは、兄貴に可愛い彼女ができたら上出来だ。本当にそう思っている時期が私にもあった。


 しかしその日の放課後、いつものように練習をしているとやはり翼の様子がおかしかった。基礎練習の段階からやたら窓の外を気にして、そして私を一瞬だけ見た後に肩を落とす。定期的に漏れるため息に、私はキレる数秒前だった。
 恋をするのはいいことだと思う。でもそれとバレエを切り離して考えられないなら、そんなものはするべきではないと無性に憤りを感じた。
 バーレッスンでいつもよりもいくらかテンポが遅れていて、なおかつ自分でそのことに気付いていない彼女に私はとうとう堪忍袋の緒が切れた。基礎練習を中断し、オーディオの電源を切る。
「……渚?」
「もうやめよう」
 カーテンを閉めて扉を施錠した。私はそのまま着替えはじめる。翼はようやく生気が宿った目を私に向けた。ただその大好きな翠は戸惑うばかりで、私が何で怒っているのかを理解しようとしなかった。
「団長とうちのお母さんがさ、どうして私たちを同じ中学に入れたか知ってる?」
 桃色のレオタードと白いタイツを脱ぎ、素早くワイシャツを羽織った。翼はその場で俯き、固まるばかりだ。
「一緒の空間に長く居させることで、お互いを意識させて切磋琢磨できるように。だってさ」
 私も最近知ったんだけど、と付け加える。翼は黒いレオタードに付いているシフォンスカートをギュッと握りしめていた。
「私、今の翼のことを意識なんてできない。一緒に居てもイライラするだけだ」
「!!」
 俯いていた所為で、表情は見えなかった。
「仕方ないじゃない……私は、渚みたいに強くない……」
「……ねえ、昨日言ったよね? 幸村を射止めたきゃ、アイツにふさわしい女王になれって」
 翼の華奢な肩がビクッと震える。私はワイシャツのボタンを留め終え、ジャンパースカートを頭から被った。
「……少なくとも幸村は、恋にうつつを抜かしてやらなきゃいけないことを疎かにするような女は、好きにならないと思うけど」
「そんなことない!!」
 ジャンパースカートの背中のファスナーを上げようとしたところで、翼が急に顔を上げて怒鳴った。私は少し狼狽えながらも翼を睨みつける。
「そんなことない……幸村くん、私の悩みを分かってくれたもん……あの時、私のことを受け止めてくれたから……」
「……翼? ねぇ、アンタちょっと最近おかしいよ?」
「幸村くんのこと、知ったような風に言わないでよ……。私のことだって……」
 翼は頭を抱えて、そんな内容を何度もうわ言のように呟いていた。覗き込むと、その見開かれた目は血走っていた。私は制服をろくに着ることもなく翼の肩を掴んだ。
「ねぇ、翼!」
 彼女の名を叫んだ。すると彼女はそれまでの狂気じみた表情を全て消し去り、笑顔で顔を上げた。完璧な口角、薄く色づいた頬、少しだけ細められた美しい瞳。長い睫毛が震えて、きっとどんな男も彼女に見つめられたら瞬殺だと思った。
 ただ、瞳が暗かったことだけが気がかりだった。
「待ってて、渚。私ちょっと幸村くんと決着付けてくる」
「はぁ?」
 決着。その意味が分からず翼が私の手を振りほどくのを許してしまった。けれど彼女が制服のジャケットを着込んでそこに出ていこうとした時に、彼女が今からやろうとしていることが分かってしまった。
 翼の肩を慌ててもう一度掴んだ。
「なに? 今さらやめてって言うの? やっぱり渚も幸村くんが好き?」
「そうじゃない! っていうか今テニス部練習中だし、アイツ部活中にそういうの持ち込まれるとすごい不機嫌になるから!」
「可笑しなことを言うんだね。『考えごとにキリが付いたらまたバレエすればいい』って、昨日そう言ったのは渚じゃない。……私だって、好きで恋にうつつを抜かしてるわけじゃない」
 私だって、早くバレエに集中したい。そう告げる翼は確かに笑っていた。それなのに、彼女の笑顔は私の体の芯まで凍えさせた。
「……そ、そう……。分かった、そこまで言うなら止めないよ……」
 嫌な予感、だなんて可愛らしい表現では済まされない。嫌なことが起きるという確信があった。それでも私は止められなかった。レオタードの上に立海のジャケットを羽織って出ていった翼が、なにかとてつもなく大きなものに追い詰められているような気がした。
 翼は今戦おうとしているんだ。だったら、それを親友の私が止めることはできない。何があったとしても私は翼の良きライバルで在りつづけよう。私はそう決意して彼女を見送った。

 今なら分かる。それは戦いに行ったのではなく、逃げ場を探して彷徨っていたのだと。

 翼が出ていって程なくして、締め切ったカーテンと窓ガラスの向こうから「よーし、んじゃ今から15分間の休憩な!」という新部長切原の掛け声が聞こえていた。私はのろのろと着替えながら翼を待った。しかし15分の休憩が終わったあとも翼はしばらく戻ってこなかった。私はどこかへ探しに行く気にもなれず、帰るわけにもいかず、ただその場で翼のことを考えていた。
 宇田川翼と最初に出会ったのは、私たちがまだ園児だった頃のことだ。今日からこの教室で一緒にバレエをすることになりました、うたがわつばさちゃんです。みなさん、仲良くしましょうね。そんなありきたりな紹介文に寄り添って、翼は終始にこやかだった。
 未就学児の中で人気者になれる存在には、とあるひとつの共通点がある。それは『優しい』という特徴だ。ろくに我慢も出来ない子どもたちは、いつだって自分の願望を少しでも多く叶えてくれる存在を欲した。つまらないいさかいで喧嘩になることも少なくない年頃で、翼はすでに自分の感情をコントロールできていた。誰にでも優しく、我儘を叶えてくれる翼はすぐにバレエ教室の人気者になった。もちろん私も例外ではなく、翼のことが好きだった。優しかったから。
 翼が教室に入ってきて1年。私たちが小学校へ上がる頃になると、やがて私は教室で孤立し始めた。それは同学年の子よりも2歩も3歩も先のレッスンをしていた所為もあるし、私の性格の問題でもあった。早くも女という生物特有の群れる習性を発揮し始めた彼女たちは、まずみんなのアイドルだったつばさちゃんを自分たち側に抱き込もうとしたらしい。
『つばさちゃんも、渚ちゃんには近づかないほうがいいよ』
『あの子ね、すーっごくセイカクわるいの。この前年下の子をいじめてるの、Cクラスの子が見たって言ってた』
『わたしなんかイトコがあの子と同じようちえんだったんだけどね、あの子がしいく小屋のうさぎ殺しちゃったんだって!』
 よくある根も葉もないウワサに、私は膝を抱えて泣いた。その頃からプライドだけは一人前で人前では絶対に泣かなかったけれど、よくトイレにこもって声を押し殺しながら泣いていたものだ。父からのアドバイスを胸に私がもう少し強くなるのはその数カ月後だが、その前に私はかけがえのない宝物を手に入れていた。
 だから、父の言うとおりに強くなれたのだと思う。
『渚ちゃん! すごいね、もう次のレッスンにすすんだんだって?』
 練習が終わった後、いつも翼は私に話しかけてきてくれた。それでも当時、人の親切を信じられなかった私は翼に少し冷たく接していた。それなのに翼は、飽きもせず毎時間話しかけてきてくれた。つばさちゃんが渚ちゃんと仲良くする。裏切り者。女の子たちがそう認識するのに時間は掛からなかった。
『もうほっといてよ! つばさちゃんもきいたでしょ? わたし、セイカクわるいの。だから、つばさちゃんもわたしといるときらわれちゃうよ!?』
 ある日、それが耐えられなくて翼に怒鳴った。周りは少し脱つばさちゃんムードになりかけていたクセに、途端に翼を囲んで『ひっどーい! 渚ちゃんさいてい!』『つばさちゃんにあやまりなさいよ!』とブーイングを飛ばし始める。
 練習終わりの広い教室で、私はひとりだった。翼の周りをたくさんの人が囲んで、私に敵意を向けていた。
 とうとう涙を堪えきれなくて教室を飛び出そうとした。その時、私の手を誰かが掴んだ。
『セイカクがわるくても、ひとりぼっちはさみしいよ。……みんなが友だちになりたくないっていうなら、わたしが渚ちゃんの友だちになる。ううん、なりたい。そうすれば、みんなさみしくなくなるから』
 宇田川翼は、優しいんじゃない。究極の平和主義者だった。
 どうすればその場が丸く収まるか。それでいてひとりでも多くの人が幸せになれるか。そんなことばかりを計算しながら彼女は生きていた。気を使いながらの人生が楽しいのか、成長すればするほど思うがままに振る舞うようになった私はずっとそれが気がかりだった。人の幸せばかり気にして、自分のことは考えてる? そう問いかけれと翼は困ったように笑うばかりだった。
 どれだけ表面を取り繕ったって、人間はみんな自分が一番可愛い。だからこの世界がいつか、翼をズタズタに引き裂いてしまいませんように。そう願っていたのは嘘偽りのない事実だ。

 12月の太陽はあっという間に沈む。薄暗くなった教室の中で膝を抱えて丸まっていると、誰かが室内に入ってくる音がした。顔を上げなくても分かった。扉をきっちり締めると、その人物は扉に鍵をかけた。たぶん今から着替えるのだろうなと思った。
「遅かったね……」
 私は膝に顔を埋めたままそう言う。足音を響かせ、彼女は無言で教室を横断した。
 そしてしばらくすると、部屋にあるオーディオから音楽が流れ出す。オーボエの悲壮感漂う主旋律。チャイコフスキーの白鳥の湖、終曲だった。白鳥オデットが王子と悲劇的な結末を迎える時に流れる曲。その選曲に、私は全てを察した。なんと声を掛ければいいのか迷いあぐねていた、その時だった。
 重々しい弦楽器と金管のファンファーレが鳴り響く。ただでさえうるさい曲なのに、翼は外にまで聞こえるくらいボリュームを上げていく。
「ちょっと、翼……」
 ヴァイオリンの音が私を急かせる。金管の重々しい音が、翼の叫びを代弁していた。
 顔を上げた時、硬い何かが私の左腕をおもいきり強打した。
 打撲音にシンバルが重なり、私はその場に勢いよく倒れ込んだ。
 何が起こったのかよく分からない頭を置いてけぼりに、体は勝手に反応していた。翼を見上げ、次の瞬間にはちゃんと彼女から逃げようとしていた。けれど恐怖と痛みと混乱で上手く動けなかった。
 翼は、鈍く光る鉄パイプ製の折り畳み椅子を持ってそこに立っていた。顔を涙でぐちゃぐちゃにして、見たこともないくらい醜く顔を歪めながら。
 やめてっ、やめて翼っ!!
 声を張り上げても、おそらく翼には聞こえていなかった。翼の絶望を表す白鳥の湖の終曲が、鼓膜を破かんとばかりに大きな唸りを上げていた。
 翼は肩を押さえて蹲る私の足元に立って、パイプ椅子の左右を両手でしっかり握り、そして右足へと突き落した。

 誰にも届かない悲鳴を上げた。その時の私たちを救ってくれる者はいなかった。

 2回、3回と右の足首に何度も何度も落とされる、硬い脚の部分の鉄パイプ。まるで何かの作業に打ち込むように、翼はただ一心に私の足を傷つけていた。やがて痛みを超越して感覚が無くなってくる。全身から脂汗が滲み、ただもがき苦しんだ。何が起きていて、自分が何をされているのかが分からなかった。
 ただ漠然と、翼に謝らなきゃと思っていた。酷いことを言ったと、ただ一言謝りたかったのに。私の口からは悲鳴しか出てこなかった。
 嫉妬と憎悪と劣等感で燃え上がったあの翠の炎は、今でもたまに悪夢で見る。


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