12月5日
 半年の執行猶予と言ったが、私と幸村が心穏やかに時間を共有できたのはおそらく合計3か月弱程度だ。
 新学期が始まり、久々に幸村と食べる昼食は美味しかった。柳と真田の3人で食べるご飯は指揮者のない楽団みたいで、勢いもなくどこかバラバラの方向を見ているようだったから。
 私たちの中心にはいつも幸村がいた。人はそれを、カリスマ性だとか人望だとか言う。でもそんな硬い言葉じゃなくて、それはただ自然に陽だまりを求める人間の心理だったんじゃないかと私は思う。
 11月からテニス部は例のU-17合宿に特別枠として呼ばれて1カ月も公欠した。それに合わせたわけではないけれど、私もおよそ1カ月間学校を休んでスイスに短期留学した。バレエ先進国での毎日はとても刺激的で、そりゃあちょっと海外との差に落ち込むこともあったけれどそんな時はパソコンを開いた。幸村とのeメールのやりとりは数日に一度の頻度で行われた。
 12月になり私たちが帰ってきた頃になると、陽だまりを求めるものは日ごとに増えていった。三連覇を成し遂げられなかった王者立海を責める者も確かにいたが、それは一年の頃からしこりがあった体育コースの連中だけだった。国際交流と芸能は我関せず、特進に至っては幸村の存在すら知らなかっただろう。そして立海において一番生徒数の多い進学コースの中で、幸村は相変わらずヒーローだった。男子の目標、女子の王子様。全国準優勝という結果より、戻ってきてくれたという過程に多くの生徒は心打たれていた。彼がプロ転向や留学を視野に入れず、高校でも三連覇を目指して立海で戦うと決意した点も大きく影響していた。
 ただ、それは同時に幸村の神格化がまた始まったという合図だった。
「マジか……」
 12月5日木曜日。ロッカーを開けると、そこには生ごみの山。扉の内側にはマジックペンで『千代田死ね』と書かれていた。当時の私はそのベタさ加減に閉口するしかなかった。
「うっわー、千代田さんちょーカワイソーなんですけどー」
「出た出た、女子特有のやっかみ。つか、仕事も金も絡んでないのにそこまでやるんだ」
「男だろー? 逆にソンケイ。まじ男のためにそんな頑張れんわワタシ」
 悲しみや怒りを通り越して、目の前に広がるドラマ顔負けの光景に呆然とする私。その後ろをモデル軍団が通り過ぎていく。中高生のギャル向け雑誌でよく表紙を飾ってた子と、子役からデビューしてその頃は学園モノドラマとかに準レギュラーで出演してた子と、当時人気が出始めていたキッズギャルバンドのギタリスト。
「あのあの、お三方!! えっ、男って!? 私全く身に覚えが無いんですが!?」
「はぁ? アンタ、いっつも屋上でキレーな顔の男子とご飯食べてんじゃん。どー考えたってあれが原因」
「今更!? 私その件に関してはすでに2年以上前に決着付けたのですが!?」
「知らないっつのそんなこと。つか、進学コースの男に手ぇ出すアンタが馬鹿なんでしょ」
「いやあの、手も出してないし進学コースがダメっていう理由もよく分からないのですが……」
 3人のリーダー格、ギャルモデルが大げさにため息をついた。
「うちら芸能コースと違って、あっちの女どもは大した特技もない癖に自己顕示欲だけは旺盛な馬鹿女の集まりなの。基本的にちょっとでも上級の男とヤることしか考えてないんだから、そんな女どもの目に付く男と隠れもせず仲良しこよししてたら叩かれるに決まってんでしょ? これだから脳筋は……」
「脳筋!? ……ていうか、私別に幸村と付き合ってるわけじゃ……」
 私と幸村の間にある絆を、惚れた腫れたの安っぽい恋愛感情に巻き込まないでほしい。当時の私はそんなことを考えていたが、目の前の彼女は「だから、知らないっつの」と言ってそっぽを向いた。
「ヒマ人なんだよ。やだねー、男のことしか考えられない女って」
「つか、早いとこそれ片付けてよ千代田サン。うちらの靴に臭い移るし」
「えーっ!? そんなこと言ってもこれはさすがに……用務員さんに相談すれば何とかなるかな!?」
「そーしなよ。この際教師でもいいんじゃない? あ、除光液いる?」
「いる!」
 正直、芸能コースの生徒たちはこの程度のことではビクともしない。どいつもこいつもされ慣れていたからだ。
 入学した当初は嫌悪感を抱く対象でしかなかったクラスメイトも、2年以上も一緒に居るとどこか愛着が湧いてくる。興味があること以外はどうでもいいという点で、私たちは面白いくらい似た者同士だった。話はするけどお互いに興味はない、他人のやっていることには不干渉。私が夢見ていた学園生活とはかけ離れていたけれど、そういうドライな付き合いはある意味私向きだった。あの進学コースの飢えた女子の群れに自分が放り込まれていたらと考えると肝が冷える。
 しかし、どうして今更私が幸村のことでとやかく言われなければならないのか。その疑問が晴れたのは放課後のことだった。


 オーディオからピアノのゆったりとした音色が聞こえてくる。それに合わせて踊る翼はどこか心ここにあらずで、バランスを微妙に崩したり少しテンポが遅れたりと凡ミスを繰り返していた。
 彼女が踊っていたのは白鳥の湖第三幕、黒鳥。悲劇のヒロインである白鳥オデットと悪魔の娘である黒鳥オディールを同じダンサーが演じる、珍しく難しい舞台だ。しかし彼女は別に公演でそれを踊るわけではなく次のコンクールに向けてその部分だけ練習していただけだった。だからその際、その舞台の特異性には目を瞑った。問題は彼女の踊りだ。
 第三幕はオディールがオデットに扮し、王子の結婚相手を決める舞踏会に颯爽と現れて踊りを見せつけるシーン。彼女は愛らしく、そして堂々と『自分が王子を射止めた女、オデットよ!』と触れ回る様に踊るのだ。たとえ曲調は愛らしくても、自信満々に踊るのが彼女らしいと私は思っていた。
 けれど、翼はその曲を空っぽの心で踊る。少しミスるたびにその踊りから勢いは消え失せていく。
 ちょっと感想をきかせてほしい。その願いを私は快諾した。だが見ているうちに、翼が全日本で入賞できなかった理由を悟ってしまった。
 スランプ。私の脳裏をその重たい4文字が過った。
「……どう?」
「正直に言っていいの?」
 曲が終わり、翼が静止の体勢から戻る。私の言葉に、翼は一瞬怯えたように肩を竦めた。しかし逃げないとでも言うようにこちらへ真っ直ぐな視線を向けてくる。
「私と渚の仲でしょ? ……言って」
「……いや、言葉より見せた方がいいかもね」
 ちょっと退いて。そう言って私はフロアを空けさせた。コンクール禁止令が出ていた頃、私は踊れる演目をひたすら増やしていた。黒鳥もその中の一つだった。
 先ほどと同じピアノの音が流れ出す。出だしから終わりまで終始続くピルエットのあとの静止のポーズに気を付けながらも、委縮せず堂々と、それでいて流れるように踊る。私が世界で一番踊りが上手いのよ。王子にふさわしいのはこの私。そんな黒鳥へ寄り添うように、自信たっぷり、不敵に。それでいて愛らしさを忘れてはいけない。彼女は希代の悪女。それなのに憎めないキャラクターで、ファンも多いのだ。
 筋力に差はないはずだ。持久力は私の方が少し上、技術も私の方が高い。それでも翼にはそれを補う表現力と優雅さ、気品がある。しかし今の彼女にそれは無かった。
「……何が足りないか、分かる?」
 曲が終わり、元の体勢に戻った。翼に向き合うと、彼女はただ呆然とその場に立ち尽くして眼を見開いていた。その目には見覚えがある。
 全日本の会場で、多くのダンサーが私に向けた目だった。化け物め。そう訴える悲痛な視線。
「……何が、足りないかって……?」
 やがて、翼はそう漏らすと不気味な笑みを浮かべた。口元だけ歪めるような狂気じみた表情に、私は思わず一歩下がった。
「分かるよ……わざわざ踊ってもらわなくたって分かるよ。全部でしょ? そう言いたいんでしょ? 知ってたよ……そんなの昔から知ってた。私が渚に適うことなんて何一つない……」
「翼!」
 自暴自棄な言葉を吐き出した彼女へ、今度は迷わず近づくことができた。その肩を掴んで覗き込む。教室を改造したスタジオには午後の日差しとまだ生ぬるい風が吹き込み、テニスコートからは選手たちの掛け声が響いていた。
「そういう自己否定、翼の口から聞きたくなんかない。私は、アンタがただ真剣に踊ってないってことを言いたいだけ!」
「うん、そっか……。渚の目からは私が真剣じゃないように見えるのか……。そうだろうね」
 翼の目が死んでいる。どうせ私は、なんて三下のセリフが似合いそうな面構えになっている。
「……何を考えてるの?」
「いろんなことだよ」
「そう。じゃあそれ全部忘れてバレエのことだけ考えなよ。話はそれからだ」
「……随分、簡単に言うね」
「できなきゃさっさと帰りな。それで、考えごとにキリが付いたらまたバレエすればいい。切り替えも上手くできないなら、最初から他のことなんて捨ててしまえばいいんだ」
「じゃあ渚は幸村くんを捨てられるのっ!?」
 翼はそう言うと、その場にしゃがみ込んで膝を抱えてしまった。テニスコートからは軽やかなインパクト音が聞こえてきていた。私は翼を追いかけるようにその場へ座った。
「な、なんでそこに幸村が出てくるの……?」
「分かってるよ……私の方が後から好きになったんだもん。私が悪いって分かってる!」
「ちょっ、ちょっと待って! 分からん、話が全く分からん!」
「だって、渚は幸村くんと付き合ってるんでしょ!?」
 Why? なぜそんなことを言うの? という単純な疑問が湧いた。ただ、その瞬間別件で悩んでいた例の嫌がらせの答えが出た様な気がした。
「だ、誰がそんなこと言ったのかなー?」
「進学コースはみんなウワサしてるよっ! 幸村くんに彼女が出来た、相手は芸能コースのバレエ馬鹿女だって!」
 先ほどの暗い表情はどこへ消え失せたのか、威嚇する子犬のような顔つきで翼は泣きながら私にそう叫んだ。思わず頭が痛くなってこめかみを押さえ俯いた。
「あのさ翼ちゃん……考え事ってそれ?」
「笑いたければ笑えばっ!? どうせいつもみたいに『安っぽい恋愛感情に翻弄される女はバカだ』とか思ってるんでしょ!」
 そう捲し立ててワアアッと泣き出した翼。どうしてだか私はその時、翼が可愛くて可愛くて仕方が無かった。
 ああ、恋をしてる女の子って可愛いんだなと思った。それは、恋ができなかった自分の劣等感だったのかもしれない。
 私は翼の正面から隣に移動して、並んで座った。
「まぁ、理解ができないとは思うかな」
 翼は泣くばかりだ。
「でも、そんな風に大泣きして一生懸命恋してる翼を、安っぽいとかバカだとは思えないよ」
 翼の方は見ないで、その肩に寄りかかった。翼の泣き声は少し小さくなった。
「……いつから幸村のこと好きだったの?」
「……幸村くんが、入院した頃から」
 翼は嗚咽交じりの小さな声で、順を追って話してくれた。
「最初は、憧れだったの。病気っていう大きな壁を前にして、悩んで苦しんで、それでも前に進もうとする彼がカッコよかった。自分もそういう風に強くなりたいって思った。……でも私は弱くて、全日本で入賞もできなくて。八方塞がりのスランプで、プライドが邪魔して渚にも相談できずにいた時……幸村くんが助けてくれた」
 聞きながら、幸村の隣で翼が笑う光景を想像した。仲間外れにされるのが少し寂しかったけど、ふたりはこれ以上ないくらいお似合いだった。当然だ。ふたりは私にとって自慢の友人だったのだから。
 大好きな人同士がくっついて、嬉しくないはずがない。私は今でも、本気でそう思っている。
「俺は、宇田川さんの踊りが好きだよって……そう言ってくれたのっ……」
 嬉しかったよ……。そう言って、翼は私に抱き付いて泣いた。私はそっと翼の背中を撫でた。
 正直、幸村が翼の好意を受け取る可能性は低いだろうなと考えていた。きっと翼のことは嫌いじゃない。むしろタイプだったと思う。ただふたりが付き合うには、立海の三連覇再挑戦という障害が大きく目の前に横たわっていた。幸村と恋の話をしたことはなかったが、なんとなくアイツは女なんて二の次三の次と認識しているだろうなと思った。何故だか無性にそう予感していた。
「でも……渚と幸村くんが付き合ってるって聞いて……」
 そう。アイツは私と同じ人種。夢中になってるものがあると、それ以外を上手くこなせない。
 だから、私たちの間に恋愛なんてありえない。
「今までの疑問が、一気に解消された気がしたの。渚がなんであんなに幸村くんと仲良くなろうと頑張ってたのかも、不思議なくらい献身的に見舞いに行ってたのも、試合中に大声出して立海生を叱り飛ばしたのも……」
「いやあの、それは友情……」
「私知ってるんだからね! 私が外国行ってる時に、渚が入院中の幸村くんと駆け落ちしたって!」
「はああっ!?」
 どうやらあの誘拐事件は、後日校長室に呼び出されてたっぷりお灸を据えられている一部始終を誰かに聞かれていたらしい。テニス部に被害が及ばないようにと、私が彼らの弱みを握って強制的に言うことをきかせたということにしたのが仇となったようだ。ウワサに尾ひれが付き、まさか駆け落ちなんてことになってたとは。
「分かってたよっ……でも、止められなかった……私、幸村くんのこと好きっ」
 また泣き出した翼の背を撫でる。黒鳥は無理でも、その時の翼なら素晴らしい白鳥が踊れるのではないかと思った。
「幸村とは、ただの友達だよ」
「……気ぃ使わなくていいよ……」
「気なんて使ってない」
「……」
「翼、私の目を見て」
 翼がそっと顔を上げる。赤くなった眼球の中心で、美しい翠が鎮座していた。この目に見つめられて、落ちない男がこの世に居るものかと思った。昔も今もこれからも、翼は私の理想だ。その理想に、泣き顔や弱音は似合わない。
「幸村は手ごわいよ。私なんかより、もっとやっかいな存在がいる」
「……なに?」
「立海テニス部」
 翼は目を見開く。私は言葉を続ける。
「たぶん、それに勝てる女なんていない。それでも幸村が好きだって言うなら、私は翼を全力で応援する」
 翼は一瞬だけ目を伏せて考えてみせた後、真っ直ぐ私を見つめ返してきた。その目に迷いは無かった。
「好きだよ。……私は、バレエと同じくらい幸村くんが好き」

 思い詰めたようにそう呟いた翼へ「だったらアイツに見合う女王になりな」と私は言った。神妙な顔つきで頷く翼を、私はそっと抱きしめた。いろんなことを考えていた。
 私がイギリスへ旅立った後も、翼が幸村のことを支えてくれれば良いなとか。恋を原動力に翼がスランプを打開してくれればいいなとか。私も恋をしてみたいとか。恋のキューピットって具体的に何をすればいいんだろうとか。
 翼と幸村がすごくラブラブになったら、私は仲間外れにされるのかなとか。
 私は幸村と一緒に居られなくなることよりも、幸村に翼をとられちゃうことの方が悲しかった気がする。
 だって例えば当時、翼と幸村が同時に危機に陥ってたとして、どちらかしか救えない状況になっていたとしたら。私はおそらく、迷わず翼を助けていたと思うから。幸村には悪いけど、それは一緒に過ごした年数の差で、そしてやっぱり同性で同じ志を持つ者っていう要因が大きかった。
 私は翼のことが、本当に大好きだったよ。そう伝えたくても、もう私にはそれを伝える術がない。


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