2004年1月1日
 そこまで書いて、私は大きく伸びをした。時計を確認すると夜の10時。新年早々、時間を湯水のように使いひたすらパソコンと向き合っていた。
 2004年、1月1日。合宿所から地元へ帰ってきて丸3日が経とうとしていた。あの後私はひとり部屋にこもって文章を書き続けている。それが小説なのか自伝なのか、はてまた人のプライバシーを侵害する暴露本なのかは自分でも分からなかったが、気持ちを整理するためにもこれは必要な行為だと思った。
 少し休憩を挟もう。これから書くところは生半可な体力じゃ書ききれない。そう思ってゆっくり足を伸ばしながら立ち上がる。いつもチェストの上に置かれている銀縁のフォトフレームは、今ノートパソコンの横に添えられていた。ローテーブルの脚元にはアルバムが何冊も散らばっている。東京へ引っ越す際にどうしても置いてこれなかったものだ。
 そこには、今まで書いてきた彼らの一部始終が色鮮やかに写し出されている。
 1というシールが貼られたアルバムの最初のページ。左端の上の写真に写っている幸村精市は、中学1年の夏を切り取られてこれからもずっとそこで笑い続けているのだろう。彼の笑顔にはいくつかの種類があった。一番よく見られるのが口角を緩く上げ目を細めた通称神の子スマイルというものだが、私は歯を見せるように大きく口を開けて笑っている笑顔の方が好きだ。大輪の花が咲き誇るような温かい表情。その写真は正しくそれだった。天使がいるとしたら、こういう風に笑うのだろうなと思った。
 彼は幼き日の私と肩を組んでピースサインをカメラへ向けている。私も負けじと満面の笑みを浮かべていた。今より頬はふっくらとしていて、その丸顔とおでこのニキビがコンプレックスだったから長い髪で隠していた。幸村だって中3の最後の方に比べるとだいぶ顔が丸い。頬が柔らかそうで、それでいてその肩や首もまだほっそりとしていた。でも、その華奢な肩にはすでに私なんかが推し量ることすらできない重圧が圧し掛かっていた。

 開かれたアルバムや手書きのメモをそのままに、私は部屋を出る。廊下を真っ直ぐ進むとリビングへと繋がる部屋があった。
 築10年、2LDKでオートロックのこの分譲マンションは、建てられたばかりの頃に父が買ったものだ。父はそれ以来ずっとここに住んでいて、家へ帰ってきた記憶はあの幸村リンチ事件や幸村誘拐事件の時を含めても数えるほどしかない。私が小学校へ上がる頃に家を出ていった父のことを、私は最初仕事が忙しいから東京から帰ってこれないのだと思っていた。私たちから父を奪う仕事が大嫌いで、会社宛てに妹と一緒に抗議の手紙を書いたことすらある。
 そしてある日、同じバレエ団に通っていた子から「渚ちゃんと楓ちゃんのお父さんは女の人と暮らすために家を出たんでしょ?」と言われた。
 私は彼女を殴って大きなたんこぶを3つほど作った。一緒に聞いていた妹はただ無表情のまま、一方的に彼女を殴る私を見つめていた。彼女は泣きながら「だってママがそう言ってた」と言った。ジュニアの部に子供を通わせる母親たちの間では有名な話だったらしい。かつて新宿バレエ・シアターで名声を手に入れた元プリマバレリーナの都築舞は、叩き上げで大手イベント会社の出世街道を猛進している男と家柄目当てで結婚させられた挙句不倫され捨てられたと。だから彼女は子供にかつての自分の夢を託そうと必死になっていると。
 殴られた彼女は翌週退団した。殴った私にお咎めは無く、何事もなかったかのように次の発表会では私に名前のある配役が与えられた。人々はどれくらいの額が裏で動いたのかに興味津々だった。都築舞はまだ旦那というパトロンに完全に見放されたわけでは無さそうだとも、誰かが意地悪そうな顔で言っていた。
 母が私に厳しく当たるたびに、私は東京のどこかで女と暮らす父のことを想像した。記憶の彼方でおぼろげに残っている父母の姿は、仲睦まじげで理想の夫婦だった。父は母をからかうのが好きで、母は意地悪をする父に怒りながらも照れたように笑っていた。私はそんな彼らのことが大好きで、誇りだった。
 いつの間にか、父母と言われると無表情で背を向けあうふたりの姿が思い浮かぶようになった。

 リビングへ続くドアを開けると、ソファーに座り父が何かぶ厚い本を読んでいた。丁寧に白髪染めされた硬そうな黒髪は、出勤時にはオールバックにしているが今はそのまま下ろされている。真一文字に閉ざされた反論を許さないような厳しい口角と、人の心の奥に潜む弱みや卑怯さを見逃すまいというような鋭い三白眼が、よく人を怖がらせているのを知っている。しばらく見ないうちに目元や口元の皺が増えているような気がした。
 本には革のブックカバーがかけられていたため、表紙が見られなかった。おそらく経済学か何かの本だろう。オーディオからはどこか悲壮感の漂うヴァイオリンのメロディーが聞こえてくる。私が知っているクラシックはバレエ楽曲か幸村が好きだったブラ4くらいなので、それがモーツァルトなのかベートーヴェンなのかはてまた全く違う誰かの曲なのかも分からない。
 年末年始は会社の書き入れ時で、父もまだ若かった頃は休めたことが無かったが彼も今年で57歳。かつては営業担当として世界中を駆け回っていたこともありやたら現場に顔を出したがることで有名な名物社長らしいが、部下たちがいい加減に代表らしくどっしり構えていてくださいと懇願してきたらしく、今回の年末年始は半ば無理やり出勤を禁じられたそうだ。
 リビングから台所へと移動する。冷凍庫の中には、年末に買いだめした冷凍食品が山のようにあった。
 その中から冷凍パスタを選び、パッケージを破いて皿へ乗せる。電子レンジに入れて6分間の加熱を選択した。
「新年早々そんなものを食べるのか?」
 リビングから、よく通るバリトンの声が聞こえてきた。乾くんと真田の声を足して2で割り老けさせたような初老男性の声音は、腹の底の方までよく響く。
「おせち料理って、新年早々台所を騒がせたら台所の神様に申し訳ないから作る様になったらしいよ? だから、新年こそ料理しちゃダメなんだよ」
「よく本を読むようになったと思ったら、つまらん知恵ばかりが増えていくな」
 父は少し呆れたようにため息を吐いた。違う。これは昔柳が教えてくれたことだ。
「なら、三日を過ぎたらぜひ台所を騒がしくしてもらいたいところだ」
「おなかを壊してもいいって言うなら、作ってあげないこともないけど」
「……情けない。いい歳した娘が……」
 電子レンジを見つめる。薄暗い電気に照らされ、パスタがぐるぐると回転している。
「……美味しい料理が食べたいなら、どうして私をここへ呼んだの」

 私がこのマンションへ転がり込んできた時、ここに女の影は無かった。ここへ来るように助言したのは父だから、事前に追い出すことも可能だっただろう。それか、たまたま女がいない時期だったからスムーズに娘を住まわすことができたのかもしれない。それとも、最初から不倫は嘘だったのだろうか?
 私は父のことが分からない。父は何も話そうとしてくれなかった。不倫の噂についても、私たちのことをどう思っているのかについても、母についても。ただその鋭い眼差しで、遠くから私たちを見据えるだけだった。
「いたんじゃないの? 衣食の面倒を見てくれる人が」
 私は父の方を見れなかった。電子レンジのタイマーはまだ3分以上残っている。するとリビングの方から、分厚い本を閉じるパタンという音が聞こえてきた。続いてスリッパを履いて歩く音。
 父が私の後ろに立つ気配を感じた。私は途端に、あの頃全てから見放されていた自分へ蜘蛛の糸を垂らしてくれた相手へ、喧嘩を売っていることを自覚した。そして怖くなった。
 もう誰かに嫌われたり、見放されるのはまっぴらだ。
「ごめん! 深い意味は無いんだ。ちょっと今いろいろ訳があって、昔のことをいろいろ考えてて……。バレエ団で変なウワサが流れてたなって思い出しただけ!」
「私が不倫相手と同棲しているという噂か?」
 父の声は静かだった。何も取り乱さず、あくまで事実を確認するためだけに発せられた声だった。
「……知ってたの?」
「だいたいの予想はつく」
「……随分、冷静なんだね」
 私は急に馬鹿らしくなった。あの時、父の名誉を守るために振るった拳は何だったのだろうか。それでも面と向かって喧嘩を売る度胸もなく、遠回しに嫌味を言った。
「相変わらず他人の機微に疎いくせに、随分と分かったような口をきくようになったな」
 すると突然、父は私へ説教を始めた。その冷たい言葉はとてもじゃないが娘に向けるようなものではないと思った。
 私が何も言えずにいると、彼は話を続ける。
「憶測で物事を決め込むな。自分の物差しだけで他人を図るな」
「……図ってないよ」
「昔の方がまだ可愛げがあったぞ」
「どういう意味?」
 恐る恐る振り返ると、父はそのすべてを見透かすような瞳で私を真っ直ぐ見つめ返していた。
「自分の信念を持ち真正面からぶつかりに行ったからこそ、お前は立海大付属で友人に恵まれたのではないのか?」
 先ほどまで書いていた文章のことを思い出した。あの頃の私は最強で、人間は誰しも努力次第でどんな壁だって乗り越えられると思っていた。怖いものなんてなにもなかった。だから全力でぶつかりに行けた。
 一度手に入れたものは、二度と失うことはないと信じていたから。
「……仕方ないじゃん……距離を置いて生きる方が、傷つかずに済むんだから……」
 私は知ってしまったんだ。
 私が真正面から人にぶつかり続けると、その人がどうなってしまうのか。
「戦わずに進む人生に、お前が満足できるならそうしなさい。渚」
 ピーッ! と加熱が完了した音が鳴り響いた。金縛りから解けたように、私はすぐさまミトンを付けてレンジから皿を取りだす。ミトン越しに触れる皿は温かかった。
 父から逃げるようにしてその場を去る。私は何も言えなかったし、彼ももう何も言わなかった。


 野菜がいっぱい入ったトマトクリームのパスタはしょっぱかった。部屋に充満するトマトの匂い。かつては父の書斎だったこの部屋は今、私の緊急避難場所になっている。いつからか家庭を顧みない人間になった父に求めているのは、ただそれだけだったはずだ。割り切ってここへ来た。別に、優しく慰められたかったからじゃない。私の逃げを肯定されたかったからじゃない。
 嫌われ、失望されるくらいなら誰とも一緒にいたくなかった。でも独りは怖かった。だけどもう立海には居たくなかった。辛かった。
 挫折を乗り越えた人のそばに居たくなかった。どうしても自分と比べて、劣等感に苛まれるから。
 皿の上にはパスタが半分残っている。すでに熱が無くなったその食事に興味を失くし、私はパソコンの前で膝を抱える。足元には楽しかった頃の思い出が一瞬一瞬切り取られて、色鮮やかに残っていた。馬鹿なことをした。血迷った。そう言い切れたならまだ望みはあると思う。でも私はまだ、心のどこかで幸村のことを。
 頭の中に焼き付いた笑顔が黒く塗りつぶされようとした時、それを打ち払うかのように間抜けな着信音が響いた。
 充電器に繋がれたまま床に放置してあった、ピンクの折りたたみケータイを手に取った。サブディスプレイに映し出されていたのは『不二周助』の文字だった。
「も、もしもし……」
『あけましておめでとう、千代田』
 耳元で聞こえる無邪気な声に、笑顔と涙が同時に零れた。
「おめでとう。……どうしたの? 今確か、友達とスキーに行ってるんだよね?」
『うん。明日の昼に帰る予定だけどね』
 今どうしてるかなって思って。そう告げる大好きな人に、くすぐったい愛情を感じる。照れた笑い声をあげるくらいしかできない、気の利かない女でごめんね。
「いっぱい滑った?」
『うん。大晦日も元旦も丸一日滑ってたよ。すごく楽しかった』
「そっか……。不二って、スキー派? スノボー派?」
『どっちも行けるよ。今回は一日目にスキーで二日目にスノボーをやったんだ』
 どこまでもハイスペックな不二周助に思わずときめく。きっと白銀の世界を駆け抜ける彼はカッコいいのだろうなと思った。
 涙を拭いながら彼の話を聞いた。ついさっきまでずっと滑ってたこと、今は同室の河村くんがお風呂に入っているということ、この後みんなで集まってトランプ大会するんだってこと。昨日のトランプはポーカーと七並べをやって、不二は負けなしだったらしい。
「すごいなー不二。つまりあのポーカーフェイスの手塚くんにも勝っちゃったってこと?」
 真顔の手塚くんと笑顔の不二が一騎打ちしているところを少し見てみたいと思った。しかし、彼は少し苦笑した後に『手塚は来てないよ』と言った。
「えっ?」
『もう帰ったよ。……元々、相当無理してスケジュール調節して帰国したみたいなんだ』
 やっぱり、プロを目指すって決定的なんだね。そう言って、不二は少し押し黙った。私も何も言えなかった。
 青学チームは解散し、ただの友達になった。その中心にいたはずの柱は、その友達の時間を共有できずに消えていく。それを悲しんでいるのは、きっと手塚くんではないのだろうなと思った。彼は自ら選択して、古巣から羽ばたいたのだから。
 消えた私と、置いていかれた不二。抱える寂しさの種類は正反対なのに、なぜか傷を舐め合えるのは彼だけだと思った。
『千代田?』
「えっ?」
『……泣いてるの?』
 嗚咽を漏らすことなく涙を流していたら、不二はそんな微妙な変化すら遠く離れた場所から気付いてくれた。今すぐ会って、抱きしめてほしいと思った。
「……昔の友達のこと、思い出してたんだ……っ」
 俯いて、右手で携帯を握りしめて左手で髪の毛をぐちゃぐちゃにした。この髪を切り落とした日のことも、いまだ鮮明に憶えている。
「打ち込んでいたものは違っても、鏡のような運命共同体じゃなくても、アイツは私の唯一無二の理解者だと思った……でも、そうじゃなかった。アイツは選ばれた人で、私はそうじゃなかった。……だから、八つ当たりして、逃げて……最低だ。だから、寂しいなんて思う資格は、ないんだ……」
 幸村に出会う前の強かった自分を思い出せない。いいや違う。翼に嫌われる前の奔放だった自分を思い出したくないんだ。私を構成している柱の本数はとても少なく、それが一気にいくつも壊れたから。
 だから、もう立ち上がる力がない。ここから這い出るのが怖い。
 それがダメだと分かっているのに、体が言うことをきいてくれない。
「どうしよう……向き合わなきゃいけないのに、私まだ……こわいっ」
『僕がずっとキミのそばにいる、キミの理解者になる』
 私の叫びのあと、間髪入れずに聞こえてきた言葉に私は泣いた。膝に顔を埋めて大声で泣いた。不二はしばらく何も言わずに、電話を切らないでいてくれた。
「お父さんに……言われたんだっ。戦わずに生きる人生に、満足できるならそうしなさいって……。できないよ。満足なんかできない! できるはずがない! 私はこんな人生を歩むために生まれたんじゃない! ……でも、それを変える方法が分かってたって、今の私には力が無い……」
 そんな様なことを、言葉や言い回しを変えて何度も何度も言った。不二は私が落ち着くまでそれを黙って聞いてくれて、そして収まった頃にその静けさを孕んだ声で彼の意見をくれた。
『僕も、満ち足りない思いを抱えてるよ。それでもその原因と向き合う勇気は一生湧かないと思う。……千代田はひとりじゃないよ。最低なんかじゃないよ』
 穴だらけになった私の身体を、不二が丁寧にひとつずつ塞いでいってくれているようだった。それでもひとつだけ埋まらない穴があったけど、それも不二とお揃いだと思ったら寂しくなかった。
 大丈夫。まだ書ける。私はローテーブルに置かれたノートパソコンと向き合った。開かれているのはWord2003、幸村精市と名付けられた文書データだ。


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