3つの悲劇
 それは、2002年7月。立海が関東大会を順調に勝ち上がっていた最中のことだった。
 その年、私の学校への出席日数は極端に減っていた。コンクールに向けて本格的なレッスンを開始し、わざわざ高い授業料を払って渡米してむこうの学校の集中講義に参加させてもらうこともあった。一気に海外へ出ていくことが増え、当然幸村の見舞いに行ける日も極端に減った。
 そしてその日、私は久々に幸村と会っていた。
「手術!?」
 自力でカフェテリアにまで来れるようになっていた幸村と、そこで落ち合った。彼はアイスカフェオレを、私はアイスティーストレートにガムシロップを入れずに飲んでいた。
 しばらく世間話をした後に、彼は爆弾発言をする。それは近々手術するかもしれないということだった。
「……大丈夫なのそれ」
「あれ? 随分と疑ってるね。てっきり治療法見つかったんだねとか言って喜ぶと思ったのに」
「私は基本アンタの主治医信用してないからね」
 幸村が急に吐血したり、副作用で苦しんでいたあの悪夢を忘れるには日が浅すぎた。しかし幸村を見ているとあの出来事がなぜだか遠く昔の出来事のようにも感じられた。入院中だというのにその数か月でなぜか身長が伸びていた幸村は、その頃になると時々二度見してしまいたくなるくらい大人の男のような色気を出す時があった。その日もそうだった。
 頬杖を付きながらカフェオレに浮かんだ氷をストローで突いてると、彼は急に視線を上げて私を見た。そして少し目を細めて私をまじまじと見る。なんだか落ち着かなかったのを憶えている。
「……な、なに?」
「いや? しばらく見ないうちにちょっと色気づいたかなーって思って。外国のオマセさんに触発された?」
「はっ!? なに急に、気持ちわる……」
「失敬な。じゃあそのリップは?」
 昼間会った真田には「朝から揚げ物でも食べたのか?」と言われてただけに、幸村からそんな指摘を受けるとは思ってなかった。
「いいと思うよ。唇カサカサにしてるよりは可愛いし」
 そう言って微笑む幸村。どうしてだか、私はその時どうしようもなく恥ずかしくてしょうがなかった。たぶんそれは父親や兄などの異性の肉親に自分の女の目覚めを見破られた、みたいな羞恥心だったのだと思う。ただ私に男兄弟はおらず、父との関係も希薄なためその恥ずかしさの正体が分からなかった。とにかく居心地が悪かった。
 そのテーブルに置いてあった紙ナプキンをとり、唇をごしごしと拭く。幸村は目を丸くした後、私を小馬鹿にするように笑った。
「千代田、お前ホント面白いね」
「……で? その手術受けるの?」
 紙ナプキンには薄く色づいたリップが付着していた。それを丸めて話題を逸らす。幸村と会うのはおよそ2カ月ぶりくらいだった。だからなのか、あまり上手く話すことができないように感じた。
「……少しでも可能性があるなら、いろいろ試したいってお願いしたのは俺だし」
 幸村は浮かべていた嘲笑をサッと切なげな笑みに変えた。笑顔でいろんな感情を表現するのが上手くなったなと思った。
「でも体にメス入れるんでしょ? ……不安を煽るようなこと言って悪いけど、今までのような薬での治療とはリスクが違うよ?」
「……うん」
 彼は少し俯いて、それからカフェオレを飲んで一呼吸おいた。
「なんとなくさ、先生が俺の身体切りたがってるのかなーとは思うんだよね」
「……は?」
 まるで自分を解体ショーに出されるマグロのような口ぶりで、幸村はそう言った。
「ほら、前例のない病気だからいろいろと調べたいんだよ。レントゲンやCTでは分からないことがたくさんあるし……」
「なにそれ……それじゃあまるで幸村が」
「モルモット、だよね」
 私は頭に血が上って、机を叩くように立ち上がった。カフェオレもアイスティーはまだ残っていたが、それどころじゃなかった。
 幸村の身体について私がとやかく言うのはお門違いだというのは重々承知していた。ただ、幸村の口から出たモルモットという単語がどうしても私を駆り立ててしまった。今まで何人もの医者が幸村を診たが、彼らは一人の例外もなく幸村のことを恐れてたらい回しにするか学会のネタにしようと野心を持って主治医になる者ばかりだった。いい加減我慢の限界だった。
「千代田! いやでも、無理です治りませんってサジ投げられるよりずっとマシだし、もしかしたら今度の手術でもっと治るのが早くなるかもって先生言ってたし!」
「でも幸村にはどこか不安に思ってることがあるんでしょう!? ……主治医だったら、患者の不安が無くなるまでとことん説明するのが筋ってもんじゃないの? 私はあの医者が幸村のこと患者じゃなくて研究対象として見てるようなところが気に食わないの!」
 幸村の制止の声も聞かず、無理やり彼の車椅子を持って私は幸村が現在いる病棟へと移動していた。そこに例の医者もいた。
「……私が話すんじゃない。幸村が、その違和感をぶつけるべきだ」
 幸村はその言葉に答えなかった。
 エレベーターを使って医師の個室がある階へと上る。その廊下の突き当たり、主治医の研究室は扉が半開きになっていた。そして人の話し声も聞こえる。声を掛けようとしたその時だった。
「あぁ、とうとうオペするのか。あのイレギュラー患者」
 中年男性の声が聞こえてきた。主治医の声じゃなかったが、おそらく医者だと思った。
「どうにかして夏までに動けるようになりたいってうるさくてな」
 その会話を聞いた時、私は瞬時に引き返そうとした。ここにいてはダメだと第六感が警鐘を鳴らしていた。
 けれど、幸村は廊下についていた手すりにしがみ付いたままその場を動こうとしなかった。
「夏? 無理だろどう考えても。……何か理由でもあるの?」
 怖かった。私は何とかしてその場を離れようと必死に車椅子を動かそうとしたが、それはビクともしなかった。幸村は入院中でも、ちゃんと体を鍛えていた。私なんかの力じゃどうしようもなかった。
「テニスだって。全国大会にどうしても出たいとかなんとか……」
「それはまた……お前なんて言ったんだ?」
「成功率はそれほど高くない。けど術後の経過次第では完治までの時間をだいぶ短縮させられるって」
「……お前、完治の定義を患者ともう一度よく話し合った方がいいぞ? 医療ミスで訴えられたらどうするんだ」
 やめよう。幸村、ダメだよ。これ聞いちゃいけない会話だよ。
 最後の願いを込めて私は幸村の前に回り込んだ。
 幸村は、まるでその視線で人を殺せそうなくらいの殺気を込めた目で、ただ扉を見つめていた。
「あれだけの大病だ。完治出来たとしても日常生活レベルだろう? 夏どころか、テニスなんてもう無理だろう……」
 幸村の耳を塞いだ。
 そのまま抱き付いて目を閉じた。目を開けたら、ここが先ほどのカフェテリアで、今の話は夢だったという展開を期待した。それでも、私の耳元へダイレクトに届く幸村の息遣いが、それを許さなかった。
 これが1つ目の悲劇。これがすべての元凶だ。テニスは俺自身。結論をすでに出してしまっていた幸村にとって、この会話は死刑宣告に等しかった。
「……うそつき……今まで、そんな説明一度も……」
 部屋につくまでの間、幸村は何度も何度もそんなうわ言を繰り返していた。
 もちろん、このことは私から幸村の両親に報告した。後日病院側からの正式な謝罪と共に、改めて説明の場が設けられたらしい。それでも幸村の傷が癒えるとは思えなかったが。
『精市が急にテニスの話をしないでくれと言いだした。何か原因に心当たりはないか?』
 何もできずに帰宅した後、柳からのメールを受信して私はひとり部屋で泣いた。私があの時、幸村を連れて研究室なんかに行かなければ。後悔の念は溢れて止まらず、幸村のことを思うととても平常心でバレエなんてできなかった。
 しかしコンクールは待ってくれない。本選まで1カ月を切り、練習は仕上げに入っていた。私はその悲しみと自分への怒りを振り切ろうと懸命に練習へ打ち込んだ。そうしている内に幸村は全てを知ったうえで手術を決意した。どうせ今のままでいたって、動けないままだからと。リハビリで不可能を可能にしてやる、みんなが戦ってるのに俺がいつまでも寝てるわけにはいかないと。
 そして手術当日。私は幸村が戦ってる手術室の前で、立海敗北の知らせを聞いた。

 この悲劇はきっかけ。
 死刑宣告を受けてもなお何とか自分を保っていたのは、もうテニスはできないかもしれないと言われても手術を受けようとしたのは、ひとえに常勝立海が自分を信じて無敗で待ってくれていると信じていたからだった。
 その立海が負けた。
 自分のいない立海が負けた。
 この事実が幸村にどれだけの衝撃を与えたかは、どれだけ鈍感な私にも想像に難くなかった。

 それからの幸村のことは、実はあまりよく知らない。8月最初の土日にコンクールを控え、私はバレエスクールに泊まり込みで練習をしなければならなかった。抜け出して病院へ行けるような空き時間はなく、ただ柳から幸村の様子をメールで教えてもらうことしかできなかった。彼は手術日の翌日に目を覚まし、立海の敗北を知った。その時は別段取り乱すこともなく、ただ冷静に受け止めていたらしい。
 ただその後、幸村は何かに取りつかれたようにリハビリに励んだという。そして彼は、医者や家族の反対も強引に振り切って8月の初旬に部活復帰をした。
 一度だけ幸村にメールを入れた。
 全日本ジュニアバレエグランプリで、1位をとった。8月11日から10日間、イギリスで集中講義を受けてくる。忙しいだろうから返事はいらない。そう書いた。
『決勝見れないじゃん、空気読めよ千代田ー』
 すぐに電話が掛かってきて、間の抜けた声が聞こえてきた。思ったよりもずっと元気そうな彼に私は思わず泣いた。自分で思っていたよりもずっと、彼のことが気がかりで仕方なかったらしい。
「私が帰ってきたら、試合ビデオ見せてよ。……神の子の解説付きで」
『……いいよ、三連覇の瞬間をふたりで見よう。何度も。だからいつまでもメソメソしてないで、俺の分までイギリスの下見よろしくね』


 結果から言うと、決勝は会場整備の関係で3日延期された。そのお陰で私はギリギリ間に合い、直接この目で決勝を、あの悲劇を見ることになった。
 3つ目の悲劇は結果だ。幸村を取り巻いていたすべての不運と、彼を縛っていた呪縛が、あの結果をもたらした。
「楽しんでる?」
 すべてを超越した強さを見せたあの少年を見て、私は奥歯を噛みしめた。コートでは幸村が必死に食らいついていた。楽しんでいるはずがなかった。幸村のテニスは意地だ。三連覇にとりつかれ、病魔に翻弄され、敗北に怯え、それでもなおしがみ付いた自分の存在理由。テニスは俺自身。彼はテニスに負の感情も愛情もすべて惜しみなく与え、そしてテニスからも与えられていた。
「立海生!! 目を背けるなっ!!」
 神の子が負ける。ざわめく立海生へ私は大声でそう告げた。けれど私はそんなことを言いながらも確信してしまった。
 幸村は絶対負ける。あの少年には勝てないと。
 どんな苦労を背負い込んだって、最終的に楽しんだものが一番強い。それは私もよく知っていることだった。
 幸村は、真剣に向き合いすぎたんだ。何もかも。
『ゲームセット! ウォンバイ越前リョーマ! 6-4!!』
 立海テニス部は、三連覇を果たせなかった。誰の所為でもない。しいて言うなら、それは価値観の違いの所為だった。私は今でも、あの時の幸村は間違ってなかったと思ってる。ひとりでなんでも抱え込んで自分の逃げ道を奪ってしまうのは、優しさと責任感の裏返しだ。それは幸村の美点だ。幸村が悪かったところなんてひとつもない。


「俺、立海の高等部へ行く」
 でも、アンタはそうやって自分を責めるんだよね。
 全国大会2日後の打ち上げ。その会場である地元のカラオケで、幸村は私を外へ呼び出した。8月なのに夜風がやけに冷たかったのが印象的だ。私は白いワンピースの裾を押さえながら、幸村と向き合っていた。彼は黒いTシャツにブルージーンズを穿いていた。
「……千代田は、たぶん冗談だと思ってただろうけど……でも一応、知らせておこうと思って」
 幸村のことを見られなくて、私は顔を両手で覆った。
 冗談だなんて思うはずが無かった。本気で一緒にイギリスに行けると思っていた。たまに会って、ロンドン市内を歩きながら「英語上達した?」とか「友達はできた?」とか。他愛のないことを話して、笑い合えたらいいなと大真面目に思ってた。
「……むこうのバレエ学校の先生に、言われたんだ。貴方さえその気なら、来年の9月からうちで学ばないかって……」
 くぐもった自分の声が響いていた。幸村にはちゃんと、一字一句間違いなく伝わっただろうか?
「環境に慣れるためにも、4月からイギリスへ行くことになると思う……」
 幸村の大きな掌が、頭の上に乗った。そのまま私のボサボサの黒髪を乱暴に撫でた。
「泣くなよぉ……まだ半年もあるし、イギリスなんて飛行機で12時間だろ? 仕方ないから年末年始は会いに行ってやるよっ」
「信用できるかこのテニス馬鹿っ! 年中無休でテニスしてるくせにっ!」
 緩慢な動きで幸村の手を退かし、顔を上げた。涙で滲む視界に、泣きそうな顔の幸村が映った。
「……日本でも、バレエはできると思うんだけど」
「……イギリスの方が、テニスは盛んなんじゃない?」
 お互い、返事をする気は無かった。お互い、返事を望んでは無かった。
 私たちの道は、その瞬間決定的に別れた。

 鏡だと思っていたのは、ただのガラスの壁だった。私たちはたまたま同じ場所で巡り合い、正反対の同じ動きをしていただけだった。だから自然と別れはやってくる。それが早いか遅いかというだけの話で、私たちは半年の執行猶予の中に放り込まれた。もちろん、互いに妥協はしなかった。お互いそういう人種だからこそ、私たちはまるで磁力が働いているかのように引かれ合っていた。
 幸村は立海のために楽しむテニスというものを模索し始め、私は夢のかけらを磨くためにひたすら踊った。共有できる時間は確実に減っていったが、それでもヒマを見つけては一緒に遊んだ。しゃべったり、映画を見たり、歌ったり、花を愛でたり。
 そして私たちに、本当の別れがやってくる。
 きっかけは、全日本に入賞できなかった宇田川翼だった。


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