ある少年の未来予想図
 目的地に着いたのは昼過ぎだった。白く塗りつぶされた看板には薄らと『定食屋 千代田』と浮かび上がっている。父の家からくすねてきた鍵を、店の正面玄関に差し込む。曇りガラスの引き戸を開けると、かつてはたくさんの机と椅子が並びそれなりに活気があったがらんどうな空間があった。その奥には長らく使われていない厨房がある。少し埃っぽいが、汚れてはいなかった。
「千代田……ここは」
「おじいちゃんとおばあちゃんがやってた定食屋。……10年くらい前におじいちゃんが死んだ時に畳んだんだけどね」
 父方の祖父が亡くなったのは私が5歳の冬で、祖母はその後を追うように2年後に息を引き取った。最後にここへ来たのは祖母の三回忌があった4年前のことだ。つい先日その祖母の七回忌があったらしいが、私はバレエの練習が重なっていたため不参加だった。人を雇って定期的に掃除させているせいか、無人の家は案外綺麗だった。一階部分は廃業となった小さな定食屋となっていて、居住スペースは二階にある。とりあえず上り込んで、厨房の奥にあった暗く急な階段を上がっていく。幸村を上へあげるのに苦労したが、とりあえず無事にたどり着きそこに荷物を置いた。
 二階の窓を開けると、一面に広がっていたのは鹿島灘だった。小さい頃、ここで海水浴をしたことを憶えている。夏になると大きな花火大会も行われて、普段はパッとしない田舎だが毎年その時期はたくさん人で溢れている。
 幸村にはいったん部屋の隅に避難しておいてもらい、私たちはさっそく部屋の掃除に取り掛かった。二階の居住スペースは6畳間がふたつに3畳の納戸がひとつ。簡易キッチンとバストイレもあって、水道は流れているがガスと電気は止められていた。案の定押し入れに布団はなく、自動的に今夜は全員畳の上で寝ることが決まった。さすが気遣いの男というべきか、桑原が持ってきた寝袋は幸村が使うことになった。彼は私に譲ろうとしたが、私はもちろん断った。
「今日くらい王様になった気分でワガママ放題しなさいよ。誕生日なんだから」
 そう言うと、幸村は困ったように笑った。
「でも……俺基本いつでも王様だしワガママ言ってるよ?」
「……それもそうか」
「おい、否定しろよ」
 掃除を終えた後は、みんなで海岸まで移動した。3月の海風はまだ寒々しく、平日なのでサーファーの姿も見当たらなかった。幸村は今度は柳の背に負ぶさって、水平線の縁から紺色に染まっていく海をじっと見据えていた。私たちの背後へと日は沈んでいく。東の海はやがて暗くなり、空には三日月と星が浮かんだ。
「最高の誕生日プレゼントだ」
 それほど大きな声というわけでもないのに、幸村の言葉は大きな波の音に妨害されず真っ直ぐ私たちの耳へ届く。彼の声は、人の注目を集める不思議な力があった。
「ずっと考えてたことがあるんだ。……俺にとって、テニスってなんなんだろうって」
 その日初めて、幸村は『テニス』という単語を口にした。
「それで考えたんだ。もし、俺がテニスと出会ってなかったら」
 空が暗くなっていく。私たちは誰も何も言わずに幸村の声を聞いていた。幸村と話ができるという事実に希望を見出していた。
「俺、小さい頃はすごく病弱で……って、今もか。まぁ、とにかく学校も休みがちで引っ込み思案な子になってたと思うな。絵を描くのが好きで、花だけが友達っていうすごくメルヘンな男になってたかもしれない。……どちらにしろ、周りからは少し浮いてたかな」
 ちらりと彼の方を見たとき、口角が少し上がって目が細められていたのを憶えている。藍色の髪が潮風に靡く様は、本当にきれいだった。
「みんなともきっと出会ってなかったよ。真田は厳つくてクソまじめな体育会系だし、柳は明治時代とかが似合いそうな文学少年だし、仁王は不良っぽくて近づきがたい、柳生は鼻につくインテリで、丸井は髪の毛真っ赤な大食漢だろ? ジャッカルはハゲだし」
「いや、なんでオレだけ雑?」
 シンとしていた場には一気に笑い声が溢れた。幸村が一番大きな声で笑っていた。やがてその笑い声が収まるころ、彼もまた息を整えて続きを言い始める。
「きっと立海にも入ってなかったし、部活に時間を割かれることもないから、たぶん時間を持て余してた。忙しさとは無縁の生活で、なんとなく勉強して、なんとなく友達とつるんで、なんとなく女の子と付き合って……きっとそれは、普通すぎる生活だ」
 その声は震えていた。そのことに、おそらくその場にいた全員が気付いていた。だから誰も幸村の方を見なかった。
「……考えれば考えるほど、テニスがない俺は俺じゃなかった……」
 私は一心に、もう空との境目が分からなくなった暗い水平線を見ていた。
「理由が欲しかったんだ。テニスを諦めない理由が欲しかった。今更『テニスが好きだから』なんて言えるほど俺はテニスに誠実ではなかったし、三連覇のためだけにあの学校とテニスに縛られてる自分を想像したら……なんだかもう、消えてしまいたくなった。でもやっぱり、ひとりでうじうじ考え込むのは良くないね! みんなの顔見てたら気付いた」
 すぐ横で、幸村が少し身じろぎをする音が聞こえる。
「俺を構成するものの9割以上が、テニスかテニス関連のものや人なんだ。ねぇ、これってもう……テニスは俺自身なんだって証拠だよね」
 幸村がどんな表情で自分の運命を受け入れているのか、やっぱり私はその時見ておくべきだったのだと思う。声だけでは判断できないことがたくさんあった。それが強がりなのか、本当にそう思って受け入れているのか、それとも諦めが混じっていたのか。たぶん当時の私なら、顔を見れば判断できたような気がする。
「寂しいかなぁ……寂しいよねやっぱり。9割がテニスって、俺の人生色気なさすぎだよね。あー……でもなぁ、こればっかりはしょうがないんだよな……」
「同じだよ、幸村くん」
 そう告げたのは丸井だった。
「俺たち6人とも同じじゃ。だから、寂しいなんて言いなさんな」
「……うん」
 一瞬戸惑ってから幸村の方を見ると、彼は柳の肩に顔を埋めていた。その頭を仁王が軽くポンポンと叩いていた。
「……俺、自分を取り戻すよ。それが俺の、テニスを諦めない理由だ」


 その場で、誰も幸村に「テニスが無くてもお前はお前だ」と言えなかったのは、おそらくその場にいた全員がそれを言い切れるほど幸村の本質を知らなかったからだと思う。幸村といえばテニス。そのふたつが無理やり引き剥がされもう二度とくっつくことが無かったら、たぶんそこに残った幸村はもう今までの幸村精市とは決定的に何かが違ってしまうと思ってしまったからだ。
 当時の私は幸村のその決意を、悲しく思う一方ひどく共感していた。自分ももしバレエができなくなったら、きっと同じ決意を固めたのだろうと思った。だがこれを書いている今の私としては、その時の幸村の決意は逃げた自分の卑怯さを突きつけられているようで居心地が悪い。幸村はああ言っていたが、たぶん幸村はテニスという『競技』に対して誰よりも真摯に向き合っていた。私はそんな当時の彼を尊敬する一方、純粋すぎて少し妬ましい。

 その海岸での私たちの態度が、かえって彼を傷つけたのかそれとも勇気づけたのか。私はいまだに分からない。ただ何も言えなかった自分が悔しくて、その日私は幸村がこっそり私に頼んできた「俺が眠るまで起きてて」というワガママを快諾した。寝落ちしていくメンバーが増えていく中、私と幸村はベランダに出ていた。目の前には海が広がっていた。
「そういえば、幸村って将来の夢とかあるの?」
 夜風は体に障るからと、柳が寝る前に貸してくれたグレーのピーコートを幸村は肩に羽織っていた。彼はベランダに出した丸椅子に座り、私は手すりに肘をついて海を眺めていた。
「将来の夢?」
「アンタ学校の作文でも三連覇三連覇って、自分で自分に暗示かけてどーすんのよ。そんなんだから三連覇お化けに呪われちゃうんでしょ? 男ならもっと先を見据えたでっかい夢持ったら?」
「三連覇お化けって……」
 ああ、コイツやっぱ馬鹿だとでも言いたげな苦笑を浮かべる幸村を睨みつけた。彼は気付かないふりで少し考える素振りを見せる。
「……ないことはない」
「なに?」
「笑うなよ?」
「分かったお花屋さんだ!」
「人に言わさせようとして先に言うなよ! しかも微妙にかすってるし……」
「えっ、違うの?」
「ふたつあるんだけど……」
 首を傾げたら、幸村は少し照れくさそうに頭をかいた。
「ひとつは……ガーデナー? みたいな」
「ああ! お庭作る人! うち頼んだことあるよ、すっごく綺麗になった!」
「それだけで食べてくのは難しいんだ。……でも、できれば大きな庭のデザインとかやってみたいし。だから園芸関係の会社とかに就職して、グリーンアドバイザーの資格とって、地域のカルチャーセンターの講師とかになれたらなーって……」
 まるで夢物語を語る幼い女の子のように、キラキラした目で語るものだから。
 すっかり緩んだ顔のまま聞いていたら、急に言葉を切って幸村は私の方をじっと見た。
「な、なに?」
「……おかしいでしょ?」
「は?」
「あんなにテニステニスって言っといて……俺、将来はテニス一本に絞れないんだ……」
 本当はグランドスラム達成とか言い切れたらカッコいいのにねと言う幸村に、私はつい大声で反論してしまった。
「そんなことない!」
「!?」
 幸村は少し肩を跳ねさせる。
「私、幸村がテニスの合間を縫って一生懸命花壇の世話してるの知ってるし、植物と向き合ってる幸村は泥だらけで汗まみれだけどカッコいいよ! それに、自分が今一番打ち込んでいるもの以外を挙げられる幸村は、すごいと思う」
 私が一気にそう捲し立てると、幸村は一瞬驚いた後にふっと力を抜くようにして笑った。そして「千代田の夢は、やっぱり?」と私に問いかけてきた。愚問だった。
「英国王立バレエ団のプリンシパル!」
「やっぱり。お前は分かりやすくていいね」
「でもいまだイギリスには行けず……私の夢は前途多難だぁ……」
 そう言うと、幸村はなぜか黙りこくってしまった。普段どれだけ空気が読めずとも、彼の沈黙の理由は何となくわかってしまった。だからこそ、私はその場で言わなければならないことがあった。
 立海に入って、一番最初に出来た友人へ。
「……私、立海の高等部へは行かないと思う」
 三日月が綺麗だったのを憶えている。春の月は輪郭がぼんやりとしていて、触れたら綿のような柔らかい感触を味わえるかもしれないと思った。
「コンクール禁止令解かれたんだ。……今年1年はコンクール出て、それでスカラシップが取れなかったら直接その学校を受験する」
 幸村は何も言わない。
「でも、まだ1年あるし。……もちろん、イギリスに行っても手紙書くよ」
 その前の日、看護師さんに無理を言って幸村の病室の前で待ち続けていたのは、これが言いたかったからという理由もあった。2月末日にバレエスクールからそのようにお達しがあり、母と話し合った結果これはほぼ間違いない私の進路になっていた。
 幸村は病室から動けないのに。テニスもできないのに。その事実だけが、私の心残りだった。
「俺も留学しようかなー」
 しかし、心配の種だった彼の口から飛び出したのは思わぬ言葉だった。
「は?」
「いいねイギリス。ウィンブルドンのセンターコートでプレーするのも悪くない」
「え、いやだって……アンタ体は?」
「言ったろ、自分を取り戻すって」
 幸村の顔を覗き込んだら、そこには精悍な瞳がこちらをじっと見つめていた。何故だか心臓が高鳴った。その時どうしようもなく、幸村が不可能を可能にする奇跡の存在に思えた。王道少年漫画の、出来過ぎた救世主みたいな。
「なんとかして体を治して、三連覇達成して、それから俺もイギリスへ行く。そしたらむこうのテニススクールで名を馳せて、プロになって、グランドスラムを達成したら引退して帰国して……ガーデナーになるんだ。ほら、カンペキ」

 名案だとばかりに自信たっぷりで言うものだから、私は本当にこの男なら全部やれるかもしれないと思った。その日の海岸で見せた繊細で傷つきやすい少年の姿はその影を潜め、ひとりの強い志を持った戦士が私に向かって微笑んでいた。その時、私は思った。たぶん、幸村精市と千代田渚が出会うのは運命だったんだと思った。
 私たちはお互いどこか孤独だった。
 ライバルや仲間はいても何かが自分と違う。周りと歩調が合わない。周りができないことを出来る自分がちょっと不気味で、それを誤魔化すために最強を気取った。それなのに周りができることを自分ができなくて、イライラして焦った。
 出る杭は打たれるということわざを何度も体感して、それでも自分に妥協はできなくて。自分は強い、自分は上手い。それが分かってるのに、何かがいつも欠けていた。
 鏡だと思った。同じなのに左右が違う。私たちは同じ場所に立って同じ動作をしていたけど、いつも正反対だった。
 一緒に歩いていくんだ。この男と、どこまでも高みへ行ってそれぞれの分野で頂点を取るんだ。14歳の千代田渚は、勝手にそう決意していた。


 それが不可能だと分かるのは二度目の崩壊。
 2002年の夏。幸村の身に降りかかった3つの悲劇が元凶であり、きっかけであり、結果だ。


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