ある少年たちの誘拐計画書
 キッチンの戸棚からティーカップの箱や非常食のインスタント麺が入ったプラスチック製の箱を落してしまった。シンと静まり返った午前4時半のキッチンで、私の冷や汗は止まらなかった。滅多に履かないジーパンと、ニューヨークに行ったときに血迷って買ったまま一度も着ずに仕舞い込んでいたヤンキースの紺色のトレーナー姿で固まっていると、誰かが階段を下りてくる足音がした。ダイニングテーブルの上には、デニム素材のナップサックいっぱいに詰まった果物やパンといった食品と水と最低限のお泊りセット。小腹が減ったと言い逃れはできないだろうと腹をくくった。
 しかし、キッチンに顔を覗かせたのは白いパジャマを着た妹だった。私と同じ硬そうな黒髪に少し寝癖を付けて、こちらを不思議そうに見ていた。
「姉さん?」
「か、楓ちゃん……」
 私は妹の肩を強く掴んだ。妹は私よりだいぶ身長が高く、目線を合わせるために私は背伸びをした。
「お願い、お母さんには黙ってて」
「どこへ行くの?」
 無感情な瞳が私を見透かそうとしている。妹の目は父の鋭い目とよく似ていた。出会ったころの幸村みたいに周りに絶望しているわけではない、けれど希望を抱いているわけでもない。ただ目の前に広がっている光景をありのままに受け止めて、鋭く見据えるだけの目だ。
 私は歳の割にずっと落ち着いている妹が少し苦手だった。何を考えているのか分からないし、聞いても何も言わないから。
「ごめん、言えない」
 でも、その時自分のことを隠そうとしたのは私だった。私が今しくじれば幸村は取り返しのつかないことになってしまう。そんな予感がしていた。だから、いつもはなるべく関わらないようにしていた妹に私は惜しみなく頭を下げた。
「おねがい! 見逃して! 私を行かせてっ!」
「姉さん、学校は?」
「……友達が、待ってるの」
 私を待ってるわけじゃない。ただ、幸村は誰かの助けを待ってる。幸村はずっと待っていた。あの中1の全国決勝の時、相手を再起不能に追いやってからずっと待っていたんだ。自分がどんどん人間じゃなくなっていくような恐怖から救ってくれる誰かを待っていた。
「それは、幸村さん?」
 妹は私の言葉に、思わぬ名指しで答えた。
「……知ってるの?」
 私の言葉に返事をすることなく、妹は急にナップサックを探り始める。慌ててそれを止めようとすると、妹は中から私が入れ込んだキウイを探り当てた。
「これはどうやって食べるの」
「……あ」
「リンゴも。丸かじりする気?」
「じゃ、じゃあナイフ持ってく!」
「危ないからやめた方がいい」
 私の荷物を次から次へと選定していく妹に、私は身を小さくするしかなかった。冷静な正論に耳が痛かった。
「果物は蜜柑だけにしたら? あとバナナ」
「バナナ太るから嫌……」
「姉さんじゃなくて……バナナは高カロリーだから、一本食べれば疲れが回復する。疲れやすい人……たとえば病気の人とかに食べさせると良いと思う」
 私が手を付けてなかった、台所の果物かごからバナナを持ち出す妹。彼女の言うとおり、私は自分だけでなく幸村の荷物も用意しなきゃいけない立場だった。いくらお金があるからどこかで買うことができるといっても、自分の無神経さに少し泣きたくなった。
「いつも母さんと喧嘩してるでしょ?」
「えっ?」
「幸村さんの見舞いに行くとか行かないとかで……だから、今日もそれ関係だろうなと勝手に予想しただけ」
「……すっごーい、楓ちゃんってちょっとしたことでもすぐ憶えるんだね!」
 妹はやっぱり私に返事することなく、ちょっと待っててと言ってどこかへ行ってしまう。もうそろそろ出ないと始発に間に合わないんだけどと腕時計を睨んでいたら、彼女は自分の財布を持って戻ってきた。
「姉さん、今いくら持ってるの?」
「えっ!? い、いいよそんな……」
「いくら?」
 ギロリと絶対零度の双眸で睨みつけられて、私は一歩下がる。こちらがお金を頂く立場なのに、まるで恐喝されているような気分だった。
「さ、3000円ほど……」
「……それだけ?」
「ひっ!?」
 俯くと、頭上から低い声が聞こえた。ただでさえ妹は寝起きがあまりよろしくない。深くため息を吐くと、彼女は猫のシルエットが可愛い黒い財布から5千円札を3枚と1000円札を5枚取り出した。ギョッとして私はもう一歩後ずさる。
「か、楓ちゃん!? なにその大金!?」
 うちは祖父母が両方とも他界していて、父は一人っ子母はたったひとりの兄と疎遠になってるため基本お年玉が貰えない。家は裕福な方だが、欲しいものがあるとだいたい現物支給されるので現金を持たされることは少なかった。私の3000円も一見しょぼいが、バレエ教室に行くときに持たされた余分なお金をあの手この手でちょろまかして作ったなけなしの全財産だ。
「姉さんは馬鹿正直すぎ。友達と買い物行くとか言えば母さんは簡単に5000円くらいくれる」
 妹は何でもない事のようにそう言って、ナップサックの中に入っていた私のガキっぽいミニーちゃんの財布にその2万を入れた。
 これは私の持論だが、次女は明らかに長女より要領がいいと思う。
「で、でもそれは楓ちゃんが頑張って? ……うん、頑張ってもらったお金で……」
「……姉さんにあげるんじゃない……」
「えっ?」
 妹はそう低く呟くと、重そうな私のナップサックを軽々と持って私の背中を押した。そのまま玄関まで連行され、私は彼女に「今日は寒いから」と妹の物である黒いダウンコートを着せられる。サイズが合わず、袖が余っていた。そして私がスニーカーを履くのを待って、ナップサックを背負わせてくれた。
「……なんか、ゴメンね」
「バレないようにはできないと思う。でもなるべく誤魔化すから」
 玄関まで見送ってくれた妹に、この子は私のたったひとりの姉妹なんだと初めて実感が湧いた。ただ、やはりどちらかといえば私が妹なのだけど。

 たくさんの荷物といっぱいの勇気、少しの不安を抱えて私は故郷を飛び出した。3月に入り日はだいぶ長くなったと言っても、5時になったばかりの空はまだ暗かった。夜明けまでの30分間、私は乗り慣れない始発電車の片隅で、太陽が出るのを待ち続けていた。
 結局、太陽が出たのは目的地の最寄駅に着いた頃だった。駅から徒歩15分の場所に父の別宅、今現在私が住んでいるこのマンションがある。つまりその時私が降りたのは青春台駅だ。その1年後に自分が住むことになるとも知らず、私は父の住むマンションを見つけ出しエレベーターで8階へと上がる。その時まで敢えて幸村のことしか考えていなかった私は、その鍵穴に母が持っていたスペアキーを差し込もうとした時急に怖くなった。
『渚ちゃんと楓ちゃんのお父さんは女の人と暮らすために家を出たんでしょ?』
 誰が言ったのかも憶えていない、癇に障る幼女の甲高い声がよりによってその時私の脳内で反芻された。ベッドの上で、父が女の人と裸で寝ていたらどうしようと考えた。それでも、幸村を消してあげるには私はどうしてもその部屋に入らなければならなかった。
 結果から言うなら、その家に女はいなかった。それどころか人の気配さえなく、生活感のない空間がそこに広がっているだけだった。私は父の書斎に忍び込み、幼い頃の僅かな記憶を辿りながらなんとか目当ての物を探り当てた。それは茨城県にある父の実家の鍵。私たちの最終目的地の鍵だった。


「巻き込んでごめん」
 午前8時。立海テニス部のレギュラーたちは制服も着ずに各々変装をして、金井総合病院の人通りの少ない階段の踊り場に集合していた。そんな彼らへ私は頭を下げた。彼らは私に対して怒るわけでもなく、否定の言葉をかけるわけでもなく、ただそれぞれその整った顔に真剣な表情を浮かべて物思いに耽っていた。
「……勘違いするんじゃねーぜよ。俺たちは幸村のために集まったに過ぎんナリ」
 目立つ銀髪を隠すために黒いニット帽で頭をすっぽりと隠し、それでいて大きなサングラスをかけている仁王はどっからどう見てもかえって悪目立ちしていた。仁王の突き放すような言葉を咎める柳生も、度付きのサングラスをかけているあたり仁王と思考回路は似ているらしかった。
「ま、ヤバかったら何とかするし。ジャッカルが」
「オレかよ!?」
 十八番のやり取りをする絶好調の立海名物ペアは及第点。丸井はダウンジャケットのフードでその目立つ赤髪を隠し、桑原に至ってはカツラ+マスクだ。もうだれか分からない。
「……ねぇ、切原は?」
「あいつには、言っていない」
 長いマフラーをぐるぐる巻きにして口元を隠した柳が、少し戸惑ったようにそう言った。朝のコートで寂しそうに立ち尽くす、天然パーマの後輩の後姿がすぐに思い浮かんだ。
「絶対すねるよ?」
「精市は、赤也の前ではいつも無敵のダークヒーローでいたがるからな」
 うちは見栄っ張りが多いから困る。少し含みがあるその言葉に、その場にいたほぼ全員があさっての方向を見た。私と柳は顔を見合わせて少し苦笑した。切原には悪いが、この選択は後に正解だったと痛感することになる。
「ともあれ、ここまで来てしまったからにはもう後には引けん。お前ら、覚悟はいいな?」
 厳つい声が階段に響き渡る。真田の言葉に、私は目を閉じてその前の日の幸村のことを思い返していた。支離滅裂のSOSは、きっと今まで言いたくてもずっと言えなかった幸村の叫びだ。解放してやるんだ。そう思い、私は目をゆっくり開いた。
 目の前には、横浜ベイスターズのやたら暖かそうなジャンパーを着てベージュのカーゴパンツを穿いて横浜ベイスターズの野球帽をかぶった皇帝、真田弦一郎がいた。
「いや、締まらねーよ!?」
 私と丸井が同時にツッコんだ。真田は何事だとばかりに目を丸くした。こっちの方が何事だよ。
「なんだその格好は!? 休日に横浜スタジアムの周りを徘徊してるおっさんか!?」
「つーか私と種目被りしてるのが腹立つ! 今すぐ脱げっ! 締まるものも締まらん!!」
「変装をして来いと言ったのはお前ではないか!! ジャイアンツファンの俺がどんな思いをしてこれを着ているか貴様らには分からんと言うのか!?」
「誰が贔屓球団を偽って来いって言った!? 面白すぎんだよ、しかも微妙に似合ってるのが何とも言えないんだよとにかく脱げっ!!」
 柳と柳生は笑うばかりで加勢も仲裁もしない。桑原が苦笑しながら私と丸井を押さえつけていると、それまでずっと真顔だった仁王がようやく少しだけ笑った。
「まぁ、わざわざ締める必要もねーんじゃないかのう? 俺たちはただ、ダチの家出に付き合うだけぜよ」
 真田のジャケットに掴みかかっていた私の腕の力が抜ける。皇帝はどこかご満悦気味に鼻で笑った。私もつられて少し笑った。やっと、少しだけ緊張がほぐれたような気がした。

「幸村、ハッピーバースデー!! 最高のプレゼントを用意させてもらったよ!」

 幸村と体型が似ている仁王が服を用意した。ドラゴンの絵が描かれた不良っぽい服は、きっと幸村が自分では一生買わない服なのだろうなと思った。そしてその目立つ髪をフードで隠して、真田が幸村を背負う。そこからは強行突破だ。
 もちろんナースステーションでは何事かと呼び止められた。顔色を変えて追ってくる看護師さんたちを背に、私たちは全力で院内を駆け抜けた。柳が追手を巻きつつスムーズに電車に乗れる様な逃亡経路を企て、真田が死に物狂いで体重60キロの幸村を抱えて走る。こんなことに自分の持てる力すべてを注ぎ込んでいる皇帝と参謀が、なんだか少し可笑しかった。
 幸村もやっと少しだけ事態が飲み込めたみたいで、子どものように笑いながら真田を冷やかすみたいに応援していた。私はもう、それはそれは嬉しくなって逸る気持ちを抑えきれずに彼らの背中を追いかけた。
 なにか、とてつもなく楽しいことが始まる予感がした。
「あーあ、知らないよこんなことして」
 やっと一息つけたのは、日暮里で水戸行きの電車に無事乗れた後だった。それまで幸村を担いでいた真田は今私の斜め前でベイスターズのジャケットを脱いで瀕死状態になっている。柳が持っていたバインダーで仰いでやっていた。幸村はまるで他人事のように私の隣で私が持ってきたバナナを食べていた。全部食べないで真田にも分けてやってくれと言ったが、笑顔を返されるだけだった。
「反省文何枚かな……つーか、まさか停学?」
「無断欠席なら反省文5枚ですよ。ちゃんと校則を読みたまえ丸井くん」
「全部お前さんがやれよ、千代田」
「私っ!? なんで!?」
「全員お前さんがけしかけたんやろーが」
「つか……オレは帰った時のかーちゃんのげんこつの方がこえーよ……」
「ヤなこと思い出させんなよジャッカルゥウウウ!!」
「俺が一番怖れてるのは、誘拐容疑で逮捕されることだがな……」
 参謀のシャレにならない一言に、その場にいたほぼ全員の血の気が引いた。普段テニスのこと以外はどうでもいいと思ってるバカ集団だが、さすがにこの歳で前科もちはヤバいと全員分かっていたらしい。そのまま全員の視線は、ただひとり嬉しそうにニコニコ笑っている神の子へと向いた。
「みんな前科もちかー……大丈夫、俺そういうので差別はしないよ!」
「あっ、これ私たち捕まりますね……」
「俺たち千代田に脅されてやったって言ったら減刑にならんかの?」
「おい仁王、アンタさっきから私になんの恨みがあるわけ?」
「ぺったんこのその胸に手ぇ当ててよう考えんしゃい」
「よっしゃそのケンカ買った!!」
「ええい! 騒がしいぞ貴様ら!! ここは公共の場だということを忘れるでないわ!!」
「弦一郎、分かったからお前も騒ぐな」
 私の隣で、幸村はずっと笑っている。私たちのやり取りを聞きながら、長らく見ていなかった気取らない笑顔を惜しみなく浮かべていた。
「楽しいなぁ……」
 その独り言に私たちは誰も反応しなかった。それでも、ちゃんとみんな聞いていた。そして内心でガッツポーズをしていたと思う。


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