少しずつ壊れていく
 2000年の夏、私はトウシューズデビューの大会である全日本ジュニアバレエグランプリ15歳以下の部に出場した。
 そして、手厚い洗礼を受けて私は湘南へと帰郷した。
「あっ、千代田!」
 満面の笑みを浮かべ私との再会を喜んでくれた幸村に、少しだけ癒されたことを憶えている。
 その年の夏の終わり、もうすぐ新学期が始まるという頃だった。その頃になってやっと、私も幸村も互いの予定が一段落ついて半日のオフを手に入れることができた。
 その日私たちはお互いに夕方から予定が入っていたため、朝から集まって遊ぶことになった。その場には幸村の他に当時1年生だった彼らもいた。私たちは10時開園の地元のプールの前で開園少し前に待ち合わせていた。本当は海に行きたかったのだけど、8月も後半になるとさすがにクラゲが増えるのでやめた。みんな考えることは同じだったみたいで、私が到着した頃にはすでに入口の周りは地元の小中学生でいっぱいになってた。
 幸村の顔を見たのはテニスの全国大会決勝以来で、その時も私は彼に声を掛けずに帰ったので実質終業式以来だった。
 その地元のプールは100メートルのスライダーがふたつと波が出るプール、それから流れるプールと普通の50メートルプール、そして児童用の水深50センチの小さなプールに滑り台がついているような、こじんまりとしたレジャープールだった。そこに残り少ない夏休みを満喫しに来た小中学生や親子連れが嬉々として泳ぎ、水しぶきを上げていた。盆明けの平日ということもあってイモ洗い状態ではなかったが、それなりに人は多かった。
 丸井と桑原は仲良くスライダーを何往復もしている。仁王は自前の直径90センチの浮き輪に乗っかって流水プールでうたた寝し、柳生と柳は売店へかき氷を買いに行っていた。真田はこんな時でも体を鍛えることしか能が無いらしく、人の少ない50メートルプールでひたすらクロールしていた。
 私はみんなで陣取ったパラソルの下で、その少し前まで一緒に泳いでいた幸村と一緒に体を休めていた。私は確かセパレートのスクール水着の上にピンクのパーカーを羽織っていて、幸村は黒字に水色で英単語がいっぱい書かれていたトランクス型の水着を着ていた。
「千代田?」
「……ん?」
「なんかあった?」
 一脚のビニール製のビーチチェアの上で、互いに遠慮して少しずつ腰掛けていた。横を向くと、幸村が優しい微笑を浮かべて首を傾げている。彼の髪は水に濡れて、いつもより少し真っ直ぐだった。
 私は少しだけ言うかどうか迷い、そしてぽつぽつと言葉を選びながら話し始めた。
「……今月の初めの方に開かれた、全日本なんだけどさ……」
「うん、柳から聞いたよ。1位がいなくて2位が千代田だったんだよね。千代田やるじゃん」
 でも1位がいないなんて変なの。そう言って幸村は可笑しそうに笑う。その時私は、ああそうか幸村は白黒はっきり付く競技をずっとやってるから、こういうことはよく分からないんだと思った。
 スポーツ以外のもので順位付けをする時、案外1位がいないということは珍しくない。音楽のコンクールや小説の賞など、1位にふさわしいものがいなかったと判断されれば2位が1位に繰り上げられることはない。
 今回、私は1位にふさわしくないと判断された。しかし私がショックを受けていたのはそれだけじゃなかった。
「……ねぇ幸村。私たち若手のバレエダンサーが、どうしてコンクールに出るか分かる?」
「えっ? ……それは、えっと……名前を売るため?」
「まぁ、正解」
 そう。本当はスポーツじゃないんだし、わざわざ順位を付ける必要なんてないんだ。自分が満足できるように踊って、人々を楽しませられたらそれで良いはずだった。
「スカラシップって知ってる?」
「スカラシップ……奨学金ってこと?」
「そう。コンクールで優秀な成績を収められたものには、有名な海外のバレエ学校へのスカラシップが入学許可と一緒に出されるんだ。……有名なダンサーが育ってきたとは言っても、日本にはまだ正式なバレエ学校が無いから……本気で上を目指す者は、コンクールで功績を残してスカラシップをとらなきゃいけない」
「……えっ」
 私がプールサイドのコンクリートを睨みつけていたら、肩に温もりと重さが乗っかった。幸村の右手だった。その手は弱々しく私の肩を掴んだ。
「……海外、行くの?」
 幸村の大きな黒目がじーっと私を見つめていた。まるで飼い主に見放される子犬のような表情に、私は少しだけ救われたような気がした。それでも、ズタズタにされたプライドは元通りにならなかったけれど。
「ううん、行けなかったんだ」
「えっ?」
「スカラシップ、とれなかったの」
 通常、それが発表されるのは本選終了後数日してから。しかしいつまで経っても私の家に連絡は来なかった。業を煮やしたのは私ではなく母で、全日本の運営団体に電話する寸前で、なぜか今所属しているバレエスクールから連絡が来た。
「今の千代田渚を海外へ出すわけにはいかない。できればしばらくコンクール出場も控えてほしいくらいだ、って運営側からスクールに連絡があったみたいで」
「何だよそれ……2位にしといて、なんでそんな指図されなきゃいけないの?」
「ホント……理解不能だよ」
 連絡があった翌日、母とふたりでスクールへと赴いた。そこにはスクールの母体である新宿バレエ・シアターの団長である中年女性と、全日本の審査委員長である初老のイギリス紳士がいた。私はなぜか部屋を追い出され、母も交えた大人三人が勝手に話し合ってるのを1時間も待った。そして母が部屋から出てきた時、あの鬼コーチの顔で「しばらくはスクールでの練習や発表会に力を注ぎなさい」と言われた。
「意味わかんないよね……簡単に掌返しするお母さんも、コンクールに出さないっていう団長も、私にスカラシップ出さなかった運営も……。ねぇ、翼は5位だったのにスカラシップとれたんだよ? 私が行きたかったイギリスの王立バレエ学院。10日間だけの集中講義枠だけど、それでも……私も行きたかったよ……なんでプールなんか来てるんだよ、私……。」
 俯くと、筋肉質な太ももに水滴がいくつか落ちた。それが涙だったのか、それとも濡れた髪から落ちた雫なのかは分からなかった。
「私はバレエを楽しく踊れればそれで良かったのに……地位とか実績とかご褒美とか、どんどん欲しいものが増えてくのが、こわい……」
 両手で目元を覆った、その時。左腕を強い力で引かれた。
 パラソルの下の日陰からプールサイドの照り返しが眩しい日なたへと連れ出される。そのまま幸村は強引に私を引きずり、道連れにして50メートルプールへと飛び降りた。
 一面を青に支配される。
 水の中のぼやけた世界は、日の光が射しこんでキラキラしていた。海藻みたいにゆらゆらと漂う黒くて長いものは、たぶん私の髪だった。
 そしてその鮮明には見えない視界で、幸村がこちらを見ていたのだけは分かった。
 ふたりでほぼ同時に水面上へ顔を出した時、テニスコートの審判席みたいなイスに腰掛けたお兄さんが大きなホイッスルを鳴らした。
「こらキミたち! 飛び込みは禁止だよ!」
「ごめんなさい!」
 鼻に水が入って咳き込む私を余所に、幸村は子供っぽく大きな声でそう言う。お兄さんはそれ以上追及しなかったが、私は塩素の所為で目が痛かった。
「アンタ、なにす……」
「頭冷えた?」
 そのプールは水深1.2メートル。当時身長が150に満たなかった私にとっては、つま先立ちで立たないと少し不安な場所だった。その所為か、いつもより幸村の顔が近くに感じられた。
「ひとつの物事を極めることは、楽しむだけじゃダメだってことなんだよ。地位も名誉も欲しくなって当然、他人より劣るのが嫌だって思うことは当たり前なんだよ。……それは、怖いことじゃないよ」
 幸村の目はやっぱりどこか薄暗くて、私ではない何かを見ているようだった。
 けれどそれもほんの一瞬のことで、彼はすぐに笑ってくれた。私を挑発するような、好戦的な笑みだった。前髪が頬に張り付いて、いつもと少し雰囲気が違う所為か、少しだけ男前に見えてちょっとドキドキした。
「活躍する場が違っても、千代田だって立派な立海生だ。……俺たちは王者立海。お前も女王になれよ」
 簡単に言ってくれる。そう思ったが、何故だか幸村に言われると俄然その気が湧いてくる気がした。
 彼らはその夏、有言実行とばかりにあっさりと全国制覇を成し遂げたのだ。途中危ない局面も見られ、とくに決勝はD2とS2を落した状態でS1を迎えていた。後がないその状況で大役を任されていた幸村精市は、3年生の選手に少しも臆することなくいつものようにテニスをした。
 その結果、彼はとうとう1ゲームも落とさなかった。
 途中から相手選手の動きがなぜか鈍くなったことを不思議に思いつつも、私は声が嗄れるまで立海を応援していた。その時すでに翼はイギリスへ旅立った後で、私は自分のやりきれない思いをぶつけるように立海テニス部へ怒鳴る様に声を掛けた。常勝立海大。応援する側はとくに意味など深く考えずただこの単語を叫んでいただけだけど、叫ばれている本人にとってこの声援はどれくらい重く圧し掛かっているのだろうと考えながら。


 常勝。常に勝つことを胸に刻みつけるようなスローガンだが、実際の立海テニス部は幸村たちが入部するまで成績不振が続いていた。と言っても関東大会では優勝し続けていたが、全国では九州や大阪の中学に歯が立たず、負けることも少なくなかったという。
 けれど、常勝立海を名実ともに常勝にする化け物が出現した。夏休み前の例の事件で、その化け物たちを少し煙たがっていた学校側も、彼らが自校を全国優勝へ導いたと分かるや否や態度を180度変えた。休み明けの生徒集会で校長は部長を差し置き、幸村を馬鹿みたいに褒め称えた。そしてテニス雑誌の取材にウンザリしていた三強を無理やり引きずり出し、次年度のパンフレットの表紙にまで幸村を起用した。
 それだけじゃ足りなかったのか、その年の10月に各部活で一斉に行われた引き継ぎ式にて、幸村が1年生ながら部長を任された。
 次年度の入学案内パンフレットでは、他の部活の紹介ページがえげつないほど削られ、代わりにテニス部の写真がデカデカと掲載された。そこに新部長としてコメントを書いていた幸村は、200字くらいの挨拶文の中に3度も『三連覇』の文字を入れていた。
 後から振り返る際、人は好き勝手なことを言う。あの時ああしていれば良かったと。私はそういう後出しじゃんけんみたいなことが基本嫌いだ。
 それでも当時、自分のことで精いっぱいだった自分が情けないといまだに思ってしまう。
 先輩たちがいなくなった後、一時的にだが幸村は生き生きとテニスをしていた。それなのに部長に就任してからまた機械みたいにテニスをする日が多くなっていた。あの頃、私がもう少しだけ幸村の事情に深く踏み込んでいれば、もしかしたら未来は変えられたかもしれない。
 幸村のSOSは素直じゃないけど分かりやすい。試合の後、彼は必ず連絡を入れてきた。少しでいいから会って話がしたいと言ってきた。私はそれに、予定が空いていれば応じた。バレエの予定があった時は断った。
 何が何でも行ってやれば良かったんだ。友達なら。
 けれど、会いに行ったときにだって彼は特別私に相談を持ちかけるわけじゃなかった。カラオケでひたすら叫んでみたり、一緒に植物園に行って幸村のうんちくを永遠に聞かされたり、ひどい時は駅前のマックで何時間も世間話をしていたことがある。
 何度も聞いた。どうしたって。それでも苦笑して「なんでもない」と言う彼に、私はそれ以上追及しなかった。たぶん、自分が大変な時に人の悩みまで抱えてられないと無意識のブレーキがかかったんだと思う。

 そして、2000年の冬。私はバレエスクールの発表会で主役に抜擢された。演目は『ロミオとジュリエット』、言わずと知れたあの悲恋の代名詞だ。私が幸村の荷物を抱えてやれなかったのは、これにほとんどの時間や動力を持って行かれていたからと言っていいだろう。
「バレエやめたい……」
 その頃には希代のバレエ馬鹿と立海中に知れ渡っていた私のその一言に、一緒に昼食を食べていた三強は一瞬で凍りついたのを憶えている。
「千代田、熱か!? 馬鹿は風邪ひかないんじゃなかったのか!?」
「いや、熱は無いようだな。脈拍も正常……」
「ならば明日は槍が降るか……」
 真田までもが動転して冗談を口走るくらいだ。当時の私が周りからどう思われてたかが知れる。真剣な呟きに冗談で返されたと思った私は、口を尖らせてそっぽを向いた。
「確実に上手くはなってるはずなのに……っていうか、私以上に上手いダンサーなんてうちのスクールにいないのに……」
「どうしたの、話なら聞くよ?」
 半泣きで冷えた雑穀米を頬張る私へ、幸村はわざわざ弁当を置いて向き直ってくれた。ちゃんと話を聞いてくれようとしてる体勢だった。
「演技……」
「えっ?」
「私はジュリエットじゃなくて千代田渚なんだって……舞台の上でも」
 それが自分のウィークポイントになっているのは随分前から気付いていた。けれど演技力なんてものは数をこなせば自然に身についてくるものだろうと思い、私は特に気にせず技術ばかりを磨き続けた。その結果がそれだ。当時の私ではまだ気付けなかったが、おそらくスカラシップがとれなかったのもこれが原因だった。
「ねぇ……私が初恋もまだだから、ジュリエットを演じられないのかな」
「えっ……えっ!?」
 一瞬呆けた幸村は、次の瞬間顔を赤らめて肩をビクつかせた。柳は少し呆れたように苦笑し、真田に至っては聞こえなかったふりでひたすら弁当を平らげていた。
「分かんないんだよね……出会ってすぐに恋に落ちてさ、その次の日に結婚式挙げて……それでその男と結ばれるためにわけ分かんない薬飲んで仮死状態になってさ? それで、目覚めたときに男が死んでたからって自分の腹に刃物ぶっ刺すんだよ!? 狂気の沙汰だよね!?」
 考えれば考えるほど分からなくなるぅううう!! と頭を抱える私を、幸村は黙って見ていた。恋だ愛だと色めき立つ年頃のはずなのに、寂しい女だと思われてたのかもしれない。
「分かろうとするから、難しいのかもしれないよ?」
 その時、ふと幸村がそんなことを口走った。
「こんなに毎日顔を合わせてるのに、俺は千代田のことが分からないし、千代田だって俺のことたぶん分からないと思う。親しくしてる俺たちの間にだって壁はあるのに、鈍感な千代田がそんなフィクションの登場人物の気持ちなんて察せるはずないだろう?」
 それはもしかしたら、幸村の最後のSOSだったのかもしれない。
 ただ、私はそれに気付けるほど思慮深くなかった。たぶん幸村が言ったように、私たちの間には壁が存在した。
「……だから相手のことを思って演じるんじゃなくて、自分だったらって想像してみたらどうかな。……俺は誰かの気持ちを知りたくてもよく分からない時、そうするんだけどね」
 私の表情を伺うように、眉を少しだけハの字にした幸村が微笑んでいた。私は少し肩を落とした。
「どうだろうね……。私基本的に自分の感情にも他人の感情にも鈍いし、っていうかずれてるし、その自覚もあるし……。たぶん、薄情なんだよね。人のことなんかどうでもいいっていうかさ……」
「……は?」
 隣から低い声が聞こえてきた。当時、幸村の声はまだまだ女の子みたいに甲高かったが、時々妙に雄っぽいザラザラした声を出す時があった。
 驚いて振り向くと、幸村は右手で割りばしを圧し折っていた。
「お前、拗ねてるからって自分を卑下するの止めろよ。聞いてていらいらする」
「拗ねてない。……事実だし」
 幸村の迫力に押されて視線を逸らすと、肩を掴まれて強引に彼と目を合わせられた。ずいぶん人間らしい表情をするようになったなと、他人事のように思っていた。
「人のことどうでもいいヤツに、俺は救われたっていうの? 笑えない冗談だね」
 そして、幸村の言葉で一気に現実へと引き戻された。
「救われたって……えっ?」
「俺はお前のこと鈍いしずれてると思うけど、薄情だとは思わない。性格も立場も全然違う俺とお前が、今こうやって一緒に昼飯食べてるんだから、お前の努力次第でジュリエットが何に悩んでて何に絶望したかだって分かるんじゃないの?」
 幸村が折った割りばしの切れ端を使って、器用に弁当の残りを食べ始める。ふと柳と真田を見れば、柳はやっぱり困ったように笑っていて、真田はあまり興味がなさそうに水筒のお茶を飲んでいた。
「別に悩み事なら聞くけど、泣き言なんて聞きたくない。うじうじと落ち込んでるお前より、根拠のない自信でいっぱいの千代田の方が……」
 幸村はその先を言わなかった。私は何度か問いかけてその先を吐かせようとしたが、いつものように適当に煙に巻かれた。

 そして、私はその年の発表会を迎えた。
 12月24日、日曜日の夕方に行われたその公演に、幸村たちは練習試合を終わらせたその足で駆け付けてくれていた。あの派手な芥子色のジャージを着て、大きなラケットバックを足元に置いて最前列を陣取ってる集団はかなり目立った。丸井と桑原は来てなかったけど、それより仁王が来ていたことが意外だった。と言っても途中からあさっての方向を見ていたが。
 公演が無事に終わった後、幸村たちは私に会いに来てくれた。
「セリフなんか無くっても、ちゃんと劇の流れが分かるってすごいね。……ちゃんとジュリエットだったよ、千代田」
 良かったよ。そう言って笑いかけてくれた幸村の言葉は嬉しかったけど、興奮状態だった私にその喜びをしっかり噛みしめることはできなかった。

 いろいろ考えて、悩んで、嫌になって逃げだしたくなって、それでも踏ん張り続けた舞台の上で得られたのは、何物にも代えがたい高揚感だった。
 私は、踊るために生まれてきたのだと思った。
 眩しいスポットライトを当てられ、何百人という人の視線が私に注がれているのが分かった。気持ちよかった。
 うまく踊ろうだとか、自分の持ってる技術を余すことなく見せてやろうだとか、そんな見栄っ張りな踊り方は私には似合わないと思えた。人から褒められるのは嬉しいけど、そのために踊るのはちょっと違う。
 自分が一番満足できるやり方で踊ろう。地位や名誉が欲しい強欲な自分も、負けるのが怖い臆病な自分も、役に感情移入ができない鈍感な自分も全部受け入れて、その上で自分を信じて踊ろう。悩むのは止めた。私はとにかく、踊るのが好きなんだ。
 ただそう踊ろうと決めても、実行するにはハンパない精神力が必要とされた。私は弱いから、どんなに大口を叩いていたって人から評価されないと不安で仕方が無かった。コンクール禁止令はまだ解かれなかった。その間にも翼はどんどん国内のコンクールに出場し、手堅い順位をとっては集中講義枠のスカラシップをとってきた。スクールでは私を小馬鹿にする奴が増え、その度に拳を振り上げそうになった。けれど、必死になって踏みとどまった。
 自分を周りと比べず、それでいて自信を持つということはとても難しいことだ。それこそ幸村の言う、根拠のない自信というやつだ。
 けれどどんなに悩んでも苦しんでも、それは所詮バレエができなくなる喪失感に比べたら子供じみたくだらない劣等感だ。私は私。自分が満足できるバレエをできればいい。
 めげそうになった時は幸村の言葉を思い出した。根拠のない自信でいっぱいの千代田の方が。その言葉の先を想像して、まだ頑張れると自分に言い聞かせた。


「……今度の生徒会総選挙に、立候補しようと思ってるのだが」
 もちろん、どんどん競技を楽しむという心を忘れていく立海テニス部を批判しているわけじゃなかった。
「いいね。妙案だ」
「お前、密かに俺からのその言葉を待っていただろう?」
「まっさか。ただ、誰か口が達者で有能な人材を生徒会に潜り込ませることができたらいいなー、とは思ってたけど」
 新しい学年なった直後、昼食の時間に彼らがそんなことを話していた。私は興味がないフリをしながらも、ちゃんと耳を傾けていた。
「これで予算編成も多少やりやすくなるか?」
「まあな。しかし今回の立候補はあくまで土台固めだ。本番は今年度の後期予算編成」
「野球部は新人戦を情けない結果で終わらせてきたらしいよ。前期予算もそれをネタにすればある程度ワガママできるんじゃない?」
「……今度こそ息の根を止めてやりたいな。あの坊主頭どもめ」
 厳格だが根は優しい真田らしくない暴言だった。当時の私に、部活動を運営していくという苦労や重圧は分からなかった。だから大人の真似事をしてどんどん笑わなくなっていった三強を、別に軽蔑したりなんかしない。私がやっているのは芸術で、彼らがやっているのはスポーツだ。勝ち負けがすべて。その考え方は賛否両論なんだろうが、少なくとも彼らは王者立海。勝つことがすべてで、私も理解しているつもりだ。
「ねぇねぇ、予算編成ってそんなに重要なの? っていうか、それって柳が生徒会に入ったくらいで変わったりするわけ?」
 だからこそ、いちいち話の腰を折っては私は馬鹿な質問をして流れをぶった切った。その度に真田はまるでうっとうしい虫に纏わりつかれたようなに顔をしかめたが、幸村は私を馬鹿にしながらも笑ってくれたし、柳は穏やかな微笑を浮かべて丁寧な説明をしてくれた。彼らを否定する気はないが、私はもっと彼らに子供っぽく振る舞ってもらいたかった。
 そして、妙な胸騒ぎを抱えたまま夏を迎える。
 私はコンクール禁止令はまだ解かれず、地元で練習に明け暮れる日々が続いていた。翼は全日本で今度は3位になった。そしてまた有名校の集中講義枠のスカラシップをとって短期留学へと旅立っていった。それでも、私は昨年よりは落ち込まなかった。馬鹿みたいに練習し、たくさんの先人たちの公演ビデオを見て、舞台の原作となっている本や戯曲を読んだ。
 その間にも立海テニス部は再び王者への道を駆けあがっていく。
 その年は三強に加え、仁王と柳生がレギュラー入りを果たした。トリッキーなプレイを見せる仁王はその大会で詐欺師の異名を与えられ、柳生の必殺技レーザービームは強豪と言われた選手を悉く打ち負かした。窮地に追い込まれたことが皆無だったとは言えなかったが、昨年よりはずっと確実な勝利を得ることができた。後日、柳からそう聞かされた。私はまた決勝しか見なかったが、確かにそうだと思った。相手は兵庫の牧ノ藤学院という学校だったが、結果は3タテ。S2の真田とS1の幸村に試合は回ってこなかった。
 妙な話を聞いたのは、その全国大会直後の会場でだった。
「でもまぁ、牧ノ藤の部長は正直命拾いしたよな」
 友達も不在の中、単身応援に乗り込んだ会場で当然私はひとりで帰ろうとしていた。幸村たちに一声かけて帰ろうかどうか迷っていた時、廊下でふとそんな会話を耳にした。
「見たかよ? 最初から最後までずっと腕組んでベンチ座ってさ、眉ひとつ動かさねーの。アイツほんとに中二か?」
「化け物なんだよ。前の部長も言ってたじゃん。アイツ人間じゃねえって」
 彼らのユニフォームには見覚えがあった。そう、その前の年に立海と決勝で当たった学校だった。
「かわいそうだよな、部長も。あれ以来ラケットが握れないんだろ?」
「まぁ、ちょっと部長が軟弱すぎるとこもあると思うけどさ。あの話が本当なら仕方ねーかなとは思うよ」
「……さすがにな。目が見えなくなって耳が聞こえなくなって、感覚もなくなるのはな……」
 彼らの会話の意味が、最初はよく分からなかった。それから思い出した。去年幸村と戦った3年生の選手は、試合の途中でやたら転ぶようになり、そして最後のゲームではその場から微動だにしなくなってしまった。まるで何かを探すようにきょろきょろと周りを見渡していた。そして試合が終わった途端、糸が切れたマリオネットのようにその場に倒れ込んでしまったのだ。
 幸村はそんな彼を見て、とても戸惑っていた。

 夏前から抱いていた違和感は、その頃を境に日ごと大きくなっていった。だがその時にはもう遅かったのだと今の私なら分かる。気付くのが遅かった。その前の年の夏、自分の話ばかりせずに幸村の話を聞いてやれば良かったと、これを書きながらまだ後悔している自分がいる。期待という重圧と人からの畏怖を一身に受けた幸村は、もう身も心もボロボロだった。
 一度目の崩壊は、2001年10月に始まる。


prev next

bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -