7月17日
 2000年7月17日月曜日。激動の1学期も残すところあと3日だった。湘南に降り注ぐ太陽光は日増しにきつくなり、その年も海開きが待ち遠しかった。
 あの騒動の後日談を、私が知っている範囲で書き記したいと思う。
 私と幸村が退場した後、あのテニスコートは12対6という訳の分からないサドンデスマッチ会場になったらしい。1年生たちは先輩たちが打ち込んでくる球をひたすら返していただけらしいが、そこで近所の人が犬の散歩に通りかかった。1年生たちの制服を見てすぐに立海生だと分かった彼は『おたくの生徒が危険な遊びをしている』と学校へ通報。駆け付けた先生たちにより全員学校に連れ戻された。
 すぐさま各生徒の親が呼び出され生徒からの事情聴取が行われたが、それぞれの主張が全くバラバラで事態はいよいよ収拾がつかなくなってきた。時刻は夜の9時を過ぎ、もう今日のところは解散しようかという流れになったところで、立海職員室に一本の電話が掛かってきた。
 私の母親からだった。全くの別件と言うわけではないのだが、例のレオタード切り刻み事件についてだった。取り込み中だったところに寝耳に水の騒動を聞かされ、さぞ先生方も驚いたことだろう。余談だがかねてからモンスターペアレンツ気味だと思われていた母は、この事件を機に立海から完全に要注意保護者に認定される。彼女が金切り声を上げて一通り私の受けた心の傷だとか学生生活の安全面などについての主張を捲し立て終えたところで、緊急帰宅していた父親が受話器を取り上げた。私はたまたまその電話口の近くにいた。
「問題の生徒を速やかに退学処分にしてください。でなければこのことをマスコミにリークします。……もちろん、生徒のプライバシーは守りますよ。テニス部員だということは全面的に伏せ、ただ立海運営側が事件を隠蔽しようとしたことだけを批判するような記事を書かせますから」
 父は大手イベント会社の代表取締役をしている。それこそ、出版社や新聞社、テレビ関係の知人はごまんといた。
 大人に相談しよう。幸村にそう持ちかけたのは私だった。私たちではまだ力も考えも経験も足りなくて、選べる行動も限られてくる。その中でもいろいろなことを考えて耐えてきた幸村のことを否定するつもりはない。それでも、1年生たちが介入してしまった時点でこれはもう幸村だけの戦いではなくなっていた。幸村の家へ彼を送り届けた時点でまだ幸村は迷っていたが、その時彼を決断へと導いたのはまたしても一本の電話だった。
 幸村宅へ電話をかけてきたのは真田のお母さんだった。息子が上級生と問題を起こして呼び出されたのだが、もしかして幸村さんも呼び出されてはいないか? という確認の電話だった。幸村のお父さんは留守がちでお母さんが免許を持っていないことを知っていたから、良ければ車で迎えに行くという内容だった。もちろん幸村のお母さんは寝耳に水だ。
 そこでようやく、だんまりを決め込んでいた幸村がせきを切ったように話し始めた。
「違うんだよ、母さん! 真田は何も悪いことしてない、俺が悪いんだ! ずっと黙ってて、言えなかったけど……俺、先輩からイジメられてて……。でも、立海でテニスがしたかったから黙ってた! 真田とそう約束したんだ! ……全部俺のわがままで、だから処分なら俺が受けるから! だから、真田は悪くないって真田のお母さんに言って! お願いっ!!」
 幸村はその大きな瞳からボロボロと涙を零して、受話器を持ったお母さんに縋っていた。
 結局、幸村が一番恐れていたのは真田との約束を破ることだったのかもしれない。もしも出場辞退になっても来年や再来年がある。そう妥協できないあたりが何とも幸村らしかった。よっぽど、彼と一緒に天下をとる日を待ち焦がれていたんだろう。
 それからの展開は早かった。幸村の家に私の両親が迎えに来て、私と幸村はふたりで互いの親に事情を細かに説明した。それから後は全部、大人たちが計画を立て根回しをして実行した。

「でもさぁ、なんか悔しいよなぁ……」
 そんな立海テニス部を揺るがしかねない大事件の翌々日。立海は第一シード校だったため一試合しか試合をしていなかったが、五試合すべて6-0で相手校に勝利していた。もちろん、頬に青痣を作りながら幸村も1ポイントすら落さなかった。
「何が悔しいんだよ、ブン太」
「だってよ? オレたちがあんなにいっぱい悩んで考えて、頑張ったり勇気振り絞ったり、まぁ、多少怖いと思ったり苦しいって感じたりしたこと、千代田のとーちゃんがたった一本の電話で簡単に解決しちまったんだろぃ?」
 そして休み明けの月曜日。2時間目と3時間目の間の20分休みのことだ。テニス部の1年生たちは南側の5階渡り廊下に集まっていて、私も彼らにそこへ呼び出された。
 最上階のそこは、上を見ると青空が広がっている。私は手すりの付いた壁に凭れながら、丸井の不満に少し共感しつつ耳を傾けていた。
「なんか、オレたち馬鹿みてーじゃん」
「オレたちがバカかどうかは分からないが、なんか夢から覚めた気分ではあるな……。あんなに消えてほしいって思ってた先輩たちが、次の日にはもうどこにもいなくて」
 桑原は丸井のとなりで腕を組みながら遠くの方を見据える。
「それで、先輩方はあの後一体……」
「ほとんどは地元の公立中学へ転校したらしいが、一部は遠くのテニス部が強い私学へ転校したそうだ。問題を起こしたことを大事にしないことが条件だったから、おそらく転入は簡単だったんだろうな」
「試合で誰かと当たるかもしれんのう」
 仁王が物騒なことを言ったが、それを怖いと思ったのは私だけだったらしい。それぞれバラバラなものを見据える目に浮かんでいたものは、確かに戦士の眼光だった。
「お前はどう思うんだ?」
 真田が自分の隣にいた幸村へ話を振る。彼は手すりに肘を乗せて、中庭の噴水とその周りで遊んでいる中等部の生徒たちを見つめていた。
「誰が立ちふさがろうと、関係ないよ。……もう決めたんだ。俺は強くなる。この先また何か問題が起きたとしても、ちゃんと自分で解決方法を選べるように」
 そう言って、彼は右腕の黒いパワーリストを左手で握りしめた。そして体を反転させ、壁から離れて真っ直ぐと立つ。彼は順番にテニス部1年の顔を見つめた。
「今回の件で、みんなには本当に迷惑をかけた。……ごめんなさい」
 深々と頭を下げる幸村に仁王が「おいおい、そんな簡単に頭下げられたら困るぜよ」と軽い口調で投げかける。
「えっ?」
「トップに立つ人間がおいそれと謝罪すんなってことだろぃ?」
「外部の人間に迷惑かけたならともかく、オレたちは立海テニス部員だからな」
「幸村くんが私たちにこれからたくさん迷惑をかけたとしても、いちいち謝らないでいただきたいのです」
「まぁ、その代わり……俺たちがなにかしでかしたら、お前は代表して謝罪しなければならないがな」
 幸村の周りに人が集まっていく。彼は嬉しさと驚きが混ざり合ったような複雑な表情を浮かべ、しばらく黙っていた。そして真田を見た。
 真田は、7人の中心に右手をかざした。
「幸村。俺たちも強くなる。……共に三連覇するぞ」
 風船ガムを音を立てて割った丸井が、まずその上に手を重ねた。次に日光を頭に反射させた桑原、格好つけながら眼鏡を中指で押し上げた柳生が下の者の手で音を鳴らすように重ねていく。
「おい、俺こういうノリあんま好きじゃないナリ……」
「何を言ってるんですか仁王くん! 青春には付き物ですよ!」
 渋る仁王の手を柳生がとって、自分の下に入れさせた。柳がその光景を微笑みながら見守り、そっと手を重ねる。
「幸村」
 真田が幸村の名を呼ぶ。
 幸村は右手で目元を乱暴に擦った。そして、少し赤くなった目をキュッと鋭くして、柳の手の上に手を乗せる。
「常勝!!」
 立海!!
 幸村の掛け声に合わせて、男子7人の誓いが高らかに響いた。長く逞しい手が空へと伸ばされる。頂点をとりにいこう。そう言わんばかりに、高く高く伸ばされた。

 書いている私自身でさえ、これは書き手の願望や妄想が入った創作ではないのかと疑いたくなる。それくらい、直視できない眩さを纏った青春の1ページだった。信じられないけど、これが私の見た新生立海テニス部結成の一部始終だ。その時私は確信した。彼らは伝説を作れる。どこまでも高みへ行ける。
 そして、それ以上に羨ましくて寂しかった。そこにあったのは、たったひとりでも踊ることができる私には一生得られない宝物だった。

 キリのいいところで休み時間終了5分前を告げる予鈴が鳴る。すると、完全に存在を忘れられていたと思っていたのに、丸井がくるりと方向転換して私へと向き直る。こっそり退場しようと思っていた私はびっくりして少し肩を震わせた。
「つーわけで。今日から幸村くんはオレらと弁当食うから!」
「えっ!?」
 きょとんとした幸村の肩へ手を回し、歯を見せて意地悪そうに笑う丸井。私がその意味を理解するには少々時間が掛かった。そして徐々に顔から血の気が引いていくのが分かった。
「だ、ダメっ!! それはダメっ!!」
「あー? なんでお前にそんなこと言われなきゃいけねーんだよ」
「ゆ、幸村を最初に目ぇつけてたのは私なんだからねっ!?」
 視界がうっすらぼやけていくのが分かる。丸井はこれ見よがしに幸村と肩を組んで仲良しアピールをしてきた。幸村自身はきょとんとしながら「丸井? えっと、俺は……」と何かを言いかけていたが、ここで反対側から仁王が幸村の肩に手を回す。
「残念だのう千代田。俺たちはなんせ立海テニス部のチームメイトぜよ。お前さんの入る隙なんてないナリ」
「お前が男子でテニス部員だったら、入れてやったのになー? ザンネン無念また来週ってか?」
「千代田さんの来世に期待、プリッ」
 柳が「お前たち、あまりイジめてやるな」とたしなめている。そうだ、こんな残酷な嫌がらせはないと思った。せっかく距離が縮まったと思ったのに、また接点が断たれてしまうなんて。
 けれど、丸井と仁王の間で少し可笑しそうに笑っている幸村を見たら、もう何も言えなくなってしまった。
 ああ、これが見たかったんだ。そう思った。
「ばーかばーか! やっぱり立海テニス部なんて大っ嫌いだっ!」
 語彙力が無いことを半ば公言するかのような子供っぽい負け惜しみを叫び、私は踵を返して1号棟へと向かった。背後から幸村に何度か呼ばれたような気がしたが、振り返ることはできなかった。
 教室へ帰ってくる。今日はザニーズジュニア全員で何か仕事があるらしく、男子が4、5人休んでいた。相変わらずアイドルやモデルは化粧をしながら自分の仕事の自慢をし、それ以外の子たちも日常会話の延長線でさり気なく自分の凄さをアピールする。
 私が勝負していくのは、こういう世界だった。自分以外は信用できない、ライバルばかりの個人プレイの世界。それは自分が選んだことなのに、ほんの少しだけその時私はテニスがしたかった。男子になって、立海テニス部へ入りたかった。
「あぁ……せめて男に生まれたかったなぁ」
「えっ!? 千代田さん男装に興味あるの!?」
「そういうことにだけ反応すんなよなぁヅカァ……」
 タカラジェンヌを夢見る少女、通称ヅカが食いつく。私は急に力が抜けて、自分の席についてそのまま不貞寝を決め込んだ。


 そして容赦なく昼休みはやってくる。
 今更クラスの子に入れてと言えるわけもなく、翼を頼るには私のプライドが邪魔だった。ひとりで浮遊霊のように頼りない足取りで屋上を目指す。夏真っ盛りのせいか、さすがに炎天下で食事をしている者はいなかった。私は日陰を求めて給水タンクの下へと移動する。弁当箱を包んでいるバンダナを開き、蓋を開けた。キャベツのソテーやベーコンアスパラがやけに色あせて見える。
 一滴、二滴。手の甲と箸の先に水滴が落ちた。
 幸村は今頃テニス部と仲良くやっているだろうか。作り物なんかじゃない、あの本物の天使みたいな笑顔を浮かべて、心の底から楽しんでいるだろうか。もっと話がしたかったなぁ。園芸についても聞きたかったし、私は絵が下手だからどうやったら絵が上手くなるのかも教えてほしかった。テニスの話もいっぱい知りたかったし、地元ネタで小学校の話もしたかった。夏休みはずっとテニスしてるのかも訊きたかった。もしもオフがあるなら、お祭りや海にも行きたい。幸村の家にも行きたかった。幸村のお母さんは幸村に顔がそっくりでとても優しそうで、またゆっくりできる時にいらっしゃいとも言ってくれた。
「ちくしょー……さびしいなぁ……」
 なんだかんだ言って、私たちは追いかけっこをしながら小さな友情を育てていたのだと思う。
 私は、幸村と出会う前の自分がどう過ごしていたのか、もう思い出せなかった。

「お探しですか? この幸村を」
 乱暴に頭が撫でられた。ポニーテールにしていた髪型が少し崩れた感触がした。
 顔を上げると、そこにはしてやったりという笑顔を浮かべた幸村がいた。私の願望が生んだ幻ではない。
「な、なななななっ……」
「お前ホント馬鹿だね。そんな騙されやすいといつか酷い目に遭うよ?」
 呆れた様な苦笑を浮かべて私の隣に腰を下ろす幸村。その背後にはなぜか真田と柳もいて、彼らは私たちの前に腰を下ろした。
「夏でも日陰は案外涼しいな」
「まだまだこれからでしょ暑くなるのは。全国あたりがピークじゃない?」
「情けない。心頭滅却すれば火もまた涼しだ」
「一番の汗っかきが何言ってんだ」
 各々弁当箱を開けだす3人。後に三強と呼ばれることになる彼らは、まるでそれが当然だとでも言いたげになんのためらいもなくそこで昼食を食べだした。
「なんで? えっ、テニス部は? 男の語らいはっ!?」
 私が3人を順番に見ながらそう言うと、幸村は大げさなため息を吐いた。
「千代田はからかわれたんだよ。散々俺の身辺を引っ掻き回したから、その報復だって」
「報復っ!? なにそれ、私なんかすごい悪者にされてるっ!?」
「たわけが。悪人の方がどれだけ始末が良かったか……貴様は三枚目の道化師だ。悪意が無いから余計にたちが悪い」
「いや、むしろファム・ファタールとでも言った方がいいんじゃないのか?」
「ふぁむ?」
 三強の会話は当時の私からしてみると少し高度だった。けれど、分からないことがあるといつも柳が懇切丁寧に教えてくれた。
「ファム・ファタール。運命の女という意味だが、転じて男を破滅させる悪女のこともそう言ったりする」
「ちょっ、柳っ!?」
 幸村が卵焼きを口に含んだまま焦ったように彼の名を呼んだ。その頃の私はまだ運命の女だとか悪女だとかの意味合いすらよく分かっておらず、バレエで取り上げられる物語は男に翻弄されるヒロインが多いことも影響して、やはりぴんと来なかった。
「よく分かんないけど、とりあえず幸村を破滅させなきゃいいの?」
「そうだな。よろしく頼むぞ」
「……もうすでに破滅させかけたのだということも念頭に入れておいてほしいものだな」
 不機嫌そうにそう呟いてから、生姜焼きを口へ運ぶ真田。彼が手にしている弁当箱は私のそれのおよそ倍の大きさだった。
 幸村は先ほどの卵焼きをのどに詰まらせたらしく咳き込んでいた。私が自分の分の水筒にお茶を注いで差し出すと、それを素早く受け取って喉へと流し込んだ。
「幸村」
「んー?」
 まだ涙目の彼に、私は笑いかけた。
「来てくれて、ありがとう!」

 友達なんて必要ないと思っていた。私には幼馴染で親友でライバルの翼がいるし、それ以上にバレエがある。だから、無理して仲間を増やそうだなんて思わない。それは強がりではなかったし、長い間ろくに友達ができなかったわりに私はちっとも寂しくなかった。団体行動なんてしない方がずっと自由気ままで気楽で、楽しいと信じていた。
 そんな私が、チームだとか友情だとかに憧れるようになった。それは三年前、とある暑い夏のこと。


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