7月
 憂鬱な梅雨が明け、同時に期末テストも明けた。私が抱えていた懸案事項が一気に2つも解消され、その頃の私は絶好調だった。全日本の予選も無事に終え、私も翼も危なげなく予選を突破し本選へ進んだ。本選では私はさらに元気で情熱的なキトリを演じるべく、そして翼は愛らしく可憐な金平糖の精を踊るために、日々練習に明け暮れていた。
 予選前の追い込み練習で学校を休む日以外、相変わらず私は幸村へ会いに行っていた。もちろん一緒に昼ご飯を食べるまでには至ってないが、最近幸村は表情を崩すことが多くなった。少し笑ったり呆れたり怒ったり、まぁ大体は私を小馬鹿にするような嘲笑が多い。あれから幸村を盲信していたヤツらもすっかり勢いが衰え、幸村が誰かと話をしている場面に出くわすことも多くなった。相変わらず特定の仲がいい子がいるようには思えなかったが、少なくとも前より自暴自棄な感じではなくなっていた。
「じゃあね、翼! また放課後!」
 正門である東門から入って、2号館の前で別れる。私はテニスコートのとなりを歩いて1号館へと向かう。コートを見ると、幸村は先輩たちに混ざってレシーブの練習をしていた。明らかに彼の顔面目掛けて放たれた剛速球に思わず目を瞑るが、恐る恐る開くと何事もなかったかのようにいなして返している。
「もう一本! お願いします!」
 ボーイソプラノの綺麗な声が響いた。悔しそうにする先輩たちをざまあみろと笑いながら、私はその場を後にした。2号館の校舎の角を曲がると、右手に北門、左手に1号館昇降口が見えてくる。さて今日はあの友人ゼロの空間でなにをして時間を潰そうかと考えていた、その時だった。
 座敷童とすれ違った。
 スルーしようかと一瞬迷ったが、あまりにも日本昔話に出てきそうな雰囲気の持ち主で思わず振り返った。芥子色のジャージを着ているということで、テニス部だと判断した。長い睫毛で縁どられた目は、太陽光から背けるように伏せられていた。細くしなやかな黒髪は肩口で切り揃えられ、背は高いが体の線は細い。幸村が宗教画から飛び出してきた天使なら、その子は間違いなく動く日本人形だろう。思わず足があるかを確認してしまうくらいには、その子は幸村以上に浮世離れしていた。
 そもそも性別不明だ。立海は女テニも同じデザインのジャージであるため、その子が男か女かも分からなかった。だがどちらにしても、アジアンビューティーを体現している美人であることだけは確信できた。
「この学校ぱねぇ……」
 顔面偏差値の高さに驚愕しながら昇降口へと向かう。新しく買ってもらったローファーを脱いで上履きと交換しようとした時だった。上履きの上に何かが乗っていることに気付く。
「あれ?」
 一瞬ラブレターか!? と思ってしまったのは思春期なので大目に見てほしい。縦書きノートの切れ端に書かれていた短い文面はこうだった。
『今日は幸村くんを追いかけず、こっそり尾行してみろ。面白いものが見られる』
 下手すれば現代文の先生より丁寧な行書体だった。シャープペンではなく、極限まで削り尖らせた鉛筆で書かれたような字だ。几帳面で、書き手の性格がよく分かる。縦書きな点と言い、どこか昭和な匂いが漂うせいで先ほどすれ違った座敷童のことを思い出していた。
 私はいつも学校を休む日は前もって幸村にそのことを伝えていた。その度に「あっそ、俺には関係ない」みたいな態度をとられるのだが、まぁ毎日来てるヤツが急に来ないとビビるだろうと思ったからそういう配慮をしていた。だから、幸村に知らせず急に会いにに行くことを止めたことは一度もない。
 元来、千代田渚は好奇心旺盛で興味を持ったことは何でも自分でやってみたくなる性質だ。溢れるチャレンジ精神を押さえきれず、私は昼休み早速F組のお隣さんであるE組へと訪れた。翼が少しビックリしていたが、彼女は私の奇行には慣れていた。E組の物陰に隠れて待つこと10分。いつもならとっくの昔に私が到着しているころだ。するとF組から鞄を肩に掛けた幸村が出てきた。何度か廊下をキョロキョロと見渡すと、彼はE組の方へ向かってくる。隠れてやり過ごすと、彼はそのままE組を素通りして2号館の方へ向かって行った。
 その時の私は、まだあまり面白くはなかった。幸村は別に私以外の友達に会っているわけでもなく、ひとりで行動する彼の周りには寂しさや静けさが立ち込めていた。そんな彼を見ているのはとても歯がゆく、もう声を掛けてしまおうかと思ったのは1号館の階段を上がっている時。
 てっきり屋上庭園へ行くのだと思っていた私は、彼が5階のフロアへ向かったことに驚いた。
 トイレだろうか? そう思ったが階段横のトイレは素通り。その反対へと少し戸惑いながら進んでいく。正直言うと、私はその時とてもドキドキしていた。胸が高鳴っていた。その先にあるのは物置と新設された芸能コース、Q組とR組だけだったから。
 踊り場から13段駆け上がり、階段の影から顔を出す。幸村は教室の前で右往左往しながら戸惑っていた。けれど意を決してドアのそばにいる女の子へ話しかける。ピアノに情熱を燃やす大人しい女の子だった。あのビッチだらけの教室の中では妥当な人選と言えるだろう。
「あ、あの!」
「はい?」
 彼女と、その仲間が振り返る。幸村はしばらくもごもごと声にならない呟きを発していたが、意を決したように口を開いた。
「千代田、渚さん……今日お休みですか?」
 その言葉を予想していないわけじゃなかった。けれどそれを期待するには、私たちはまだ微妙な間柄だった。ここまで来てそれ以外の要件だったら、ズッコケた勢いでそのまま幸村にとび蹴りをかましてやろうだとか、もう後少しもごもごしてたらネタ晴らしして助けてやろうだとか、いろんなことを考えていた。そうすることで、予防線を張ろうとしていた。
 だからやっぱり、実際に聞いてみると嬉しかった。
「えっ? さっきまでいたよね?」
「うん。一緒に授業受けてましたよ」
「……そうですか」
 あからさまに肩を落として踵を返す幸村の目の前にサッと現れる。顔を上げた彼は、私を認識すると一瞬呆けた顔になり、そして徐々に赤面していった。右手で顔を覆いながら後ずさる彼へ、私は高らかに告げた。
「お探しですか、この千代田を!」
「さ、探してないっ! 断じて探してない!!」
 首がもげそうなぐらい全力でかぶりを振る幸村は、それはもう可愛かった。「じゃあ俺はこの辺で……」と逃亡しようよする彼の腕を無理やり掴んで屋上まで引っ張っていく。抵抗する力は弱く、彼の腕は温かかった。
 7月なのですでに外は暑い。私たちは日陰を求めて給水タンクの下へと移動する。日が当たらない場所は多少マシな温度で、私はそこに腰を下ろして弁当を広げた。幸村が渋々、私から少し離れた場所に座って壁に凭れる。
「お前、尾行してたな」
「さて何のことでしょう?」
 鞄から青いバンダナに包まれた弁当箱を取り出す。解いて開けると、相変わらず凝ったヘルシー料理がそこにあった。白身魚の照り焼きにプチトマトのマリネ、アスパラとしめじの炒め物。ご飯は雑穀米だ。私の小さな手ですっぽり覆える程度の大きさの弁当箱に、それらがきっちり埋め込まれた。
 ふと幸村の方を見ると、彼が真ん丸な目でじーっと私の弁当を見ていることに気付いた。彼が手にしている弁当も中々の力作だったが、幸村は少し意地悪な笑みを浮かべると私に箸を向けた。
「慰謝料はその白身魚で手を打とう!」
 どうだ、非道な嫌がらせだろうとでも言いたげに悪人面になる幸村だったが、私はその要求が嬉しかった。ニタニタと笑う私が不気味だったのだろうか、少し引いている幸村のご飯の上に照り焼きを置いてやった。元々食が細い方で、炒め物とご飯さえあればお腹が膨れる自信があった。
「……いいの?」
 魚と交互に私を見る幸村。しっかりと頷いた。
「なんかこういうの、友達みたいでいいよね」
 幸村の目が綺麗だった。夜明け前の空のような深い暗さの中に、確かな淡い光がある。屋上の風には花の匂いに混じって微かな潮の気配が感じられる。その風に揺られてサラサラと靡くふわふわの髪は、とてもさわり心地が良いのだろうと思った。


 その後、互いの戦線状況や好きな食べ物、この前のテストの結果などの他愛のないことを話しながら私たちはチャイムが鳴るまで時間を忘れた。私は一階下がればすぐ教室だが、幸村が授業を受けている3号館はここから遠い。大丈夫だろうかと心配しつつも午後の授業を受け、私はその後いつものように学内スタジオへと向かった。
 少し遅れてやってきた翼に今日のことを報告する。最初はビックリしていたけれど「私、渚ならできると思ってたの」という根拠のない確証を告げられる。その日の練習はいつもの数倍テンションが高かった。翼は金平糖の精を踊るときに一番難しい『静けさ』の表現のために筋力強化、私はキトリの激しい踊りの最中に体力が切れて動きがガサツにならないための体力作りが急務だった。
 テニス部はその次の日曜日から3週連続で関東大会だった。幸村は相変わらずレギュラーで、今日は最終調節とばかりに他のレギュラーたちと練習試合を行っていた。休憩の最中に見ていた時、彼はプレイの合間に少しだけ人間らしい表情を見せるようになっていた。同じくレギュラーらしい、黒帽子をかぶった男の子とラケットを抱えながら何かを話している。幸村の世界が少しずつ広がっているようで、なんだか少し嬉しかった。
 最終下校時刻が近づき、私たちは汗を拭いてから着替えようとした。その時はさすがの私もカーテンを閉めて扉を施錠する。幼児体型の私は別に見られてもどうということはなかったが、翼はすでに体つきが女らしくなっていたため彼女を守るためにもそうしていた。
 しかし、扉を施錠しようとした時にノックの音が響いてきた。扉を開けると、そこにいたのは見覚えがあるようなないような、そのくらいの認識の男子生徒だった。芥子色のジャージを着ているので辛うじてテニス部だということは分かった。
「あの、千代田さんですか?」
「……そうですけど」
 少年は幸村よりも小さく、私よりは少し大きいくらいの一般的な少年だった。筋肉も言うほど付いてないので、おそらくは初心者だろう。汗をびっしょりとかいているところから、余程ハードな練習を積んできたのだろうなとその時は想像した。
「あの、幸村くんが呼んでるんでちょっと付いてきてもらえませんか?」
 目線を泳がせながら震えた声でそう言う彼。なにかヤバそうな雰囲気を感じ取った。もしかして、またあの先輩たちに嫌がらせをされて困っているのだろうかなどと想像した。
「分かった、すぐ行く。……翼! 先に着替えて帰ってて良いよ!」
 私は制服と鞄を抱えてスタジオを飛び出した。急いでいる様子の彼の背を追って移動する。昼間、私を訪ねに来てくれた幸村を思い出していた。あんな良いヤツが虐げられる理由なんてどこにもない。怒りに震えながら、それを誤魔化すためにも制服をぎゅっと抱きしめた。
 そして、彼が指差したのは小さな倉庫だった。社会準備室というプレートがぶら下げられている。
「この中に幸村くんがいるので……」
「ありがとう」
 私がそう言うと、彼は目を逸らして逃げるように去っていく。さすがの私も、その態度で何かが変だと感じ取った。
 だが時すでに遅し。扉が開き、私は強い力で準備室の中に引きずり込まれた。抵抗は全くできなかった。
「んーっ!? んん!!」
 咄嗟に口を抑え込まれ、後ろで手首を固定されてガムテープでぐるぐる巻きにされる。足首も同じようにされて、手で口を覆われる代わりに私自身が首にかけていたタオルを口の中へ押し込まれた。そして何かで目元も覆われる。
「レオタードってエロくね?」
 ざらついた変声直後の男子の声に、私は恐怖で体が凍りついた。
「AV女優が着ればな。見ろよ、まだガキだ」
「まじで絶壁。胸どこにあるんだよ。つか腹筋硬っ」
「性別間違えたんじゃね? 幸村にも『友達になろー』って付きまとってたじゃん」
「ばーか。女はそう言ってイケメンに近づくんだよ」
「マジ女ってクソだな。こんなガキでももう計算高いビッチとか」
「あ、今のセリフなんかAVっぽい」
「AVついでに、じゃーん!」
 おおーっ! という歓声が周りから上がる。そこに誰がどのくらいいるのかすらも分からず、私はただ小刻みに震えるしかなかった。四肢を全て拘束され、身を僅かに捩らせることぐらいしか敵わない。旋毛のあたりでお団子して纏めた髪がほどけていくのが分かった。泣いたら負けだ。そう分かっていたのに、恐怖で涙が止まらなかった。
「おーい渚ちゃーん。今からちょっと面白いことするから、動いちゃダメだよー。動くと怪我しちゃうからねー」
「!!」
 そう言われ頬に何かを押し当てられる。金属独特の硬さと冷たさに、とうとう私は嗚咽を漏らし泣き喚くしかなかった。あたりの男子たちはその光景をまるでゲームか何かのように面白がり、そして腹部のあたりの布が摘ままれ、ジョキッという布を切る音が響いた。
「これ幸村見たらどう思うだろうな」
「ガットとジャージ切り刻まれた時にレギュラー辞退しとけば良かったって後悔すんだろ」
「その所為で大切なオトモダチが凌辱されちゃったー」
「つか、逆に興奮して勃ったらどうするよ?」
「ぶっ! ヤベェ、幸村クンそういうのがお好みぃ?」
「つか、幸村だけでいいわけ? 真田は?」
「アイツはダメだ。大地主の息子で警官の孫だって。立海の理事長とも繋がりあるらしいから手ぇ出すのやべぇよ」
「柳もなぁ……データ渡してくれるから辛うじて見逃してやってるけど、アイツも目障りだよな」
「幸村引きずり下ろしたら次はアイツな」
 ただひたすら、その地獄のような仕打ちが過ぎ去るのを耐えた。おそらくハサミか何かでレオタードもタイツもすべて切り刻まれていく。時々わざと素肌に歯を当ててきて、私はその度に息を止めた。
 心の中で、幸村の助けを呼んでしまった。
「こんなもんか。もうそろそろあの一年が幸村呼びに行ってるか?」
「そうだな。もう行こうぜ」
 最後にワザと私の耳元へハサミを投げ捨てていく。体を震わせた私を彼らは嘲笑い「幸村くんとごゆっくりー」などと吐き捨てて出て行った。
 ああ、幸村がもうすぐ来るんだという事実だけが私に重く圧し掛かっていた。胸と下半身が辛うじて露出していないだけで、その時の私は裸同然だ。目は何かで覆われ、口にはタオルを突っ込まれ、大泣きしながら体を震わせて。手足をぐるぐる巻きに縛られて、髪もボサボサ。こんな私が他人からどう見えるかなんて、考えたくもなかった。

「……千代田?」
 埃臭い4畳ほどの空間に横たわる私を見て、幸村が発した最初の一言はそれだった。平凡だがそれだけ私の姿が普段とかけ離れていたんだろう。数秒後、勢いよく扉が閉まる音と同時に駆け寄ってくる気配がした。
 また涙がじんわりと滲む。すると視界が明るくなり、まだかすかにオレンジの光が射す教室と少し汗ばみ苦しそうな幸村の顔が見えた。幸村が私のネクタイを持っていたことから、目を覆っていたのはそれだと分かった。次に口も解放される。
「ゆきむら……」
「千代田、すぐに解くからっ! じっとしてて!」
 彼は私の上体を起こすと、後ろに回って手に巻かれたガムテープを解こうとする。すぐ横に転がっていたハサミに気が付きそれで切ろうとしたが、鉄の感覚が素肌に触れた時に私が震えたことを彼は見逃さなかった。幸村は舌打ちをし、ハサミを壁へ思いっきり投げつけた。
 数分かけてガムテープをはがし終えると、私の手首には赤い痕がしっかり刻まれていた。消えるのに何日掛かるだろうかと少し心配しつつ手首を撫でると、少しヒリヒリした。私はお礼を言おうと振り返る。だが、
「誰にやられたっ!?」
 彼らしくない怒声が響いた。目がギラつき、必要とあらば他人に酷いこともできる。そう宣言するかのような凶暴な顔つきだった。私はその時以上に怒り狂っている幸村を、後にも先にも見たことがない。
「……愚問だな。誰がやったかなんて分かりきってる」
 奥歯を噛みしめ、拳を握りしめて暴走しそうな怒りをなんとかコントロールしようとする幸村。その自身さえも傷つけてしまいそうな拳へ、私はそっと手を重ねた。
「幸村、とりあえず落ち着いて。私は平気だから」
「平気? お前、自分の姿鏡で見ても同じこと言えるの?」
 怒気を含んだ低い声が夕暮れの準備室に響く。私はとりあえず自分の身体を隠すように両手を前に回して力を込めた。幸村はそっと、今度は足の方を解いてくれる。その間は無言で、私は気まずさを隠すためにも何とか喋ろうと、オーバーヒート寸前の頭をフル稼働させていた。
「あ、あのね幸村、違うんだよこれは。別にテニス部の先輩にやられたわけじゃなくて……ほら! 私って喧嘩っ早いところあるじゃん? だから結構いろんな方面から恨み買ってて……だから別に、幸村は関係なくて……」
 言えなかった。幸村を助けたくて彼に近づいたのに、私のせいで幸村がレギュラーを止めるのかと思ったら、彼らにやられたなんて口が裂けても言えるはずがなかった。彼らは幸村が優しいことを利用したんだ。幸村自身を傷つけても全く効果がないから、とうとうその周りを傷つけることを覚えた。
 幸村はこれを恐れていたんだと、その時私はやっと理解した。誰も巻き込まないために、彼は敢えていろんな状況を逆手にとって、自分を孤独に追いやっていた。
「ねぇ、幸村聞いて。これはテニス部とはなにも関係ないんだよ。だから幸村がレギュラーをやめる必要なんて……」
「キミの言っていることが、よく分からないんだけど」

 ガムテープを剥がし終え、幸村はそれを丸めて部屋の隅に放り投げた。その目は暗かった。目の前の虚無を受け入れている、作り物めいた冷たい黒目だった。
「あのね、千代田渚さん。俺、この学校へはテニスをしにきたんだ。幼馴染と一緒に、この王者立海で天下を取ると約束した。三連覇できたらいいねって、俺は彼にそう言ったんだ。……立海テニス部は強いけど、全国三連覇はまだ長い歴史の中でやってのけたことがない。入部の自己紹介で俺が三連覇を宣言したら、先輩たちは苦笑してたよ。……でも俺は本気だ。殴られ、蹴られ、試合前にガットをズタズタにされて、ジャージをシュレッダーにかけられたってその決意は揺らがなかった。逆に強まった。絶対に負けるもんか。俺がシングルス1になって、このクソみたいなチームを全国優勝へ導くんだって思った」
 聞かされたのは、狂おしい全国制覇への執念。立海テニス部への歪んだ執着。
 幸村はもうとっくに、テニスへの純粋な愛情なんか忘れていた。私を覗き込んだその顔の、桜色の唇が奇妙な弧を描く。
「だからね、俺をどうしても友達にしたい千代田さんには悪いんだけど……キミなんかのために俺はレギュラーを降りたりしないよ?」
 微笑みながらそう言われた。
 それを望んでいたのは私だったのに、衝撃は凄まじかった。彼の不気味な表情といやに落ち着いた宥めるような声は、私の文章力ではとても表現しきれない。どす黒い感情で私を飲みこみ、押し流そうとしている。そう言い表すのが限界だ。
「降りるわけないじゃないか! だって、それなら俺は今まで何のために耐えてきたんだ? 練習中にボールぶつけられて、走り込みの最中に足を踏まれて、教科書やノートに落書きとかされて、入学祝いに父さんが買ってくれたシューズも燃やされちゃったんだ! でも耐えたよ。試合に出たかったから。俺は、三連覇が、したいんだ!」
 幸村は泣いていた。
 私の両肩を掴んで、微笑んだまま、薄暗い目から大粒の涙を零していた。その時彼は自分が泣いていることに気付いていたのか、私はいまだに分からない。ただ、つられて私も泣いていたことだけは分かった。
「……ああ、これから千代田さんは大変だなぁ。俺と同じ目に遭うのかもしれない。女の子だから、別の意味でもっとひどい目に遭うかも。……でもまぁ、俺には関係ないか」
 彼は私の肩から手を下ろし、ゆっくりと立ち上がる。そして私の横を通過した。
 何か言わなきゃ。そうだ、いつもの調子でまた明日と言えばいい。今日は金曜日だから、また月曜日に弁当を一緒に食べようと。その一言さえ伝えればいいんだ。幸村がレギュラーを降りないで安心したと、なぜそれが言えない? 幸村が私のことをどうでもいいと思ってたなんて、今更ショックを受ける内容でもないだろう。散々拒絶されてきたんだ。鼻で笑い飛ばして、それでも友達になりたいと叫べばいい。
 頭ではそんなことを考えていた。ただ、口は開かなかった。
 幸村は無言でその部屋を後にした。


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