5月22日
 特進科と普通科は制服が違うが、普通科の進学コースと芸能コースの制服に違いはない。ただ私たちの方が校則がかなり甘く、靴下は指定の白ハイソでなくて良かったしヘアアクセサリーなんかも余程華美な物でなければ注意されなかった。もちろん化粧している者もいる。私はしていないが、それでも黒ハイソに白いコサージュが付いたヘアゴムでポニーテールしている私はやたら悪目立ちしていた。
 そう、ここは進学コースであるA組からH組が集まる3号館の4階。そこへ通うようになって2週間ほどがたち、やっと私も異物として紛れ込むことに慣れ始めていた。
「すみません! 幸村くんいますか?」
 毎度お馴染みとなった芸能コースからの招かれざる客に、F組の生徒もだいぶ順応していた。廊下側にいた男子が少し苦笑いしながら「ごめん、昼休みに入った途端にどっか行っちゃって……」と言う。
「ふーん?」
 その日はR組の授業が早く終わったおかげで、チャイムが鳴った1分後にはここへ到着した。加えてF組の生徒たちは少し授業が長引いたらしく、まだ教材の片付けすら終えていない者がほとんどだ。
 ふと幸村の机を見たとき、まだ数学の教科書は机の上に広げられたままだった。私は教室内へと踏み込み、ロッカーを開ける。しかしそこには数本の箒と埃臭さがあるだけ。そして私は勢いよく振り向いた。
 そこには、中腰で教卓の下から抜け出し自分の鞄から弁当を回収しようとしていた幸村精市がいた。
「……あ」
 半開きになった形のいい唇から、やっちゃったとでも言いたげな感嘆詞が漏れた。私は獲物を追い詰めたような快感が込み上げ顔がにやけた。その表情を見て幸村が顔を引きつらせた。
「みーつけた」
 私が走り出したのと幸村が自分の机から鞄をひったくったのはほぼ同時だった。現役運動部の大型ルーキーだけあって、その素早さも伊達じゃない。けれどこちらも鍛え方には自信があった。脱兎のごとく走り去る幸村を私は全力で追いかけた。背後からは「あのふたり、また追いかけっこやってる」「毎日飽きずによくやるよねー」と呆れるような声が聞こえてきたのを覚えている。
「コラアアアッ!! 待て幸村っ!! アンタ、なんでいつも逃げんのよっ!!」
「キミが追ってくるからだろっ!? もうっ、いい加減にしてくれよ!!」
「だから一緒に昼ごはん食べよって言ってるだけじゃん!!」
「俺はひとりで食べたいんだ!!」
「それじゃあ私もひとりで食べなきゃいけなくなるじゃん!!」
「誰か他のヤツと食べればいいだろっ!? その辺の女子に言えっ!!」
 事の発端は2週間前。彼の世話していた花壇が枯らされ、私が感情任せでキトリを踊った次の日までさかのぼる。私は幸村のテニスを見た時にある決意をしていた。
 幸村のことが知りたい。できれば力になりたい。
 そのためにはとにかく幸村に近づくのが最重要事項だと思った。テニスをやりつづけたいからイジメを黙ってるのかと思えば、テニスが楽しくてしょうがないという風にも見えない。だったら彼は何を守りたいのか。当時の私は競技を続ける理由イコール純粋な楽しさや愛情だと思っていたため、私よりも少し先を行っていた幸村の心情がよく分からなかった。だから、彼が何をそんなに思い詰めているのかが気になったのだ。友達になって、彼の真意を聞きたいと思った。そして出来るだけ彼の意向に沿って、彼の置かれている状況を改善したいと思った。
 なのに、幸村は私の誘いを冷たい目で突っぱねた。ひとりで食べたいからの一点張り。それでも無理やり隣で弁当を広げ始めたら、彼は目を丸くしてビックリした後に自分の弁当箱を食べかけなのに仕舞った。そしてその日はそのまま逃亡。その翌日から、昼休みの鬼ごっこは始まった。
 幸村は一気に高校生のいる2号棟を駆け抜け、1号棟の階段を1階から勢いよく駆け上がる。おそらく目的地は屋上庭園だろう。その時私は多少苛立った。舐められたものだ。女ならこの階段を一気に上れないだろうと思っているのか。
 私も1段飛ばしでその後を追う。立海のスカートは構造上あまり足を広げられないのだが、そこは捲し上げたので平気だった。もちろんホットパンツを穿いているので心配しないでほしい。
 しかし、屋上への扉を開けるとそこに見知った影は居なかった。
「……あいつ」
 私は1階下がって5階で立ち止まる。4階にいた時点でまだ上から足音が聞こえていたから、いるとすればそのフロアだった。私は階段横に設置された男子トイレの看板を睨みつけた。
 このトイレを使うのは芸能クラスの男子だけだ。覗くと立ちションスペースに人はおらず、そして個室の最奥の扉が閉まっていた。私はそこへ近寄り、思いっきりジャンプして扉の縁へ手をかける。木製の扉は私がよじ登ろうと蹴るたびにガタガタガタッと物凄い音を立てた。そしてドアノブに足が掛かったので一気にそこへ全体重をかけて乗り上げる。案の定、幸村は鞄を抱えて怯えた様な表情で私を見上げていた。後から「怯えてなどいなかった!」と猛反論を食らうことになるが、確実に傍目から見たら怯えていた。
「なっ、なんてことするんだキミはっ!?」
「ゆきむらぁ、便所メシはヤバいって」
「食べてなんかない! っていうか、誰かが用を足してたらどうするつもりなんだっ!?」
「ごめんあそばせって出てく」
「……野蛮人め」
「何か言った?」
 ドアノブに乗っていない左足でドアを蹴る。心なしか涙目の幸村が可愛かったのは秘密だ。
「ほら、大人しく一緒にランチしましょうよお兄さん」
「断る」
「なんで」
「……キミはめちゃくちゃだ。散々人のことをクールぶってて嫌いだとか見てると苛つくだとか酷評しておいて、ある日突然手のひらを返したように追いかけまわして。そんなヤツとはいそうですかって弁当広げて優雅なランチタイムを過ごせる馬鹿がいるならここへ連れてきてほしいものだね」
 そう言ってこちらを睨みつけた幸村。はじめてあった頃に比べればだいぶ感情が分かりやすくなってきたが、それは全部私に対しての怯えや苛立ちというったものだった。もちろんそれではダメな事は私が一番よく分かっていた。
「……ごめん」
 そう言うと、彼は少し意外そうな顔をして私を見上げる。
「知りもしないで好き勝手な事言ってごめん。でも私、幸村のことを黙って見てるのがどうしても歯がゆくて……」
 テニスをしている時の無感情な目、先輩のイジメ、不祥事は連帯責任、神の子、立海テニス部、孤独でいたがること。それらの点はもうすぐ私の中で繋がりそうだったのに、まだ肝心な何かが欠けていた。
「……同情か。安っぽい感情だ」
「同情じゃねーよシバクぞばーかっ!!」
 もう一度扉を蹴るとあからさまに顔をしかめられた。私は構わず続ける。
「まさかアンタ、そうやって今まで声かけてきた人のことも『安っぽい』って相手にしてなかったんじゃないよね?」
「……えっ?」
 あっ、目が綺麗。その時ふとそんなことを思った。図星を付かれて驚いている時の幸村の目は、とても澄んでいて年相応の少年みたいだった。それは彼と最後に会った時も変わらない。
「……友達、そんなに作りたくないの?」
 声を掛けてきた人が皆無なわけない。それでも彼は入学して1か月以上が経過した時点でまだ独りぼっちだった。休み時間はひとりで小難しいフランス文学やルノワールの画集を眺め、ひとりでお母さんが作ってくれた美味しそうな弁当を食べる。話しかけられても当たり障りのない応答をして、誰かと必要以上には関わらない。そして放課後はテニスをするんだ。黙々と、ただ義務のようにボールを打ち返して勝つんだ。
 その目は常にガラス玉のように生気がなく、それは無機質のような美しさをたたえていた。作り物のような冷たさ。それが彼の本質なわけない。私は確信していた。
「ねぇ、友達になろうよ。幸村」
 そう言うと、彼は私から目を逸らして俯いた。鞄を握りしめる手に力がこめられるのが分かった。私はそこから飛び降り、自分の腕に付いた埃を払った後に個室のドアをノックする。
「明日も迎えに行くよ。あさってもしあさっても、その次の日だってF組に行く。アンタにどんな事情があるのかは知らないけど、そんなの私には関係ないから。……じゃあ、また明日」
 肩を落として男子トイレから出た。結局その日も昼食はひとりでとる羽目になった。屋上庭園から地上の花壇を見下ろすと、そこでは翼が楽しそうにクラスの友達とごはんを食べている。自分で選んだこととはいえ、この独りぼっちは多少気が滅入った。
 そして私は、別の懸案事項を抱えてもいた。


「……古典的すぎるだろ」
 いつも通りバレエの練習を終えて帰宅する時のことだった。千代田渚というネームプレートが挟まれているロッカーから私のローファーが消えていた。数日前から上履きに画びょうが仕込まれたり差出人不明の脅迫状が挟まっていたりしたのだが、まぁ無視できる範囲内だったので無かったことにしていたのだ。犯人も分かりきっていた。
 しかし、元々私は気が長い方ではない。そろそろ黙っているのも限界で、私は勢いよくその空の小さなロッカーを閉じた。私とは昇降口が違う翼へ『ちょっと用事が出来たから先に帰ってて』とメールをする。丁度その時、背後からクスクスクスという女の笑い声も聞こえてきた。
 振り向けば、案の定そこにいたのは7名の女子生徒だった。運動をやっている体型ではないのでおそらく普通科進学コース。校則違反ギリギリのスカート丈に、うっすらと化粧をして背伸びしたいお年頃らしかった。全員同じ、意地悪そうな含み笑いを浮かべていた。クスクスクスが廊下に反響してイヤな空間を生み出す。私が彼女たちに歩み寄ると、群れは一気に密集して「ちょっとー、こっちきたよ?」と耳打ちしあう。
「ねぇ、ローファー返して」
 低く呟いても、彼女たちはますます笑みを深くして「なんか話しかけてきたんですけどー」と仲間内で話すだけだ。その女子の群れ特有の反応に私はリーダー格と思われる中心の女の肩を勢いよく掴んだ。
「アンタに言ってんだよ! 私のローファー返せっ!!」
「痛っ、なにすんのよ!」
 私よりも身長の高い彼女は簡単に私を払う。その反動で尻餅を付いた私を見下し嘲笑うと、彼女は周りに「行こ」と声を掛ける。
「馬鹿軍団の体育コース風情が、私たち進学コースに話しかけないでよ」
「リナちゃん、この子体育じゃなくて芸能コースだよ。あのわけ分からん新設の」
「そうそう、アイドルとかモデルとかのビッチ集団」
「その割にこの子ブスじゃん。付きまとわれてる幸村くんかわいそー」
「いい迷惑だよね。幸村くんはあんなに『ひとりでいたい』って言ってるのに」
 意地の悪い高笑いが響く。私は尻餅を付いたまま、拳を握りしめた。
「仕方ないよ、芸能コースは男に媚びることしか頭にない残念集団だから」
「そっかー。だから勉強と部活の両立で大変な幸村くんのことが分からないんだー」
「でも迂闊だったよねぇ。進学コースの女子にはやっと幸村くんのこと分かってもらえたのに、まさか他コースの牽制までしなきゃいけないとか」
「このくらいは計算の範囲内よ。……これからも私たち、幸村くんが快適な学校生活を送れるように頑張ろうね」
「もちろんだよ! だって私たち以上に幸村くんのこと考えてる子いないもんね!」
「ひとりが好きで、俗物的なものが嫌いな幸村くんのために」
「守らなきゃ。学校生活って悪影響を及ぼすものが多いから」
「幸村くんがずっと、あの綺麗な幸村くんでいられるように」
 狂ってる。何度思い出しても、あの時の彼女たちの言い分は可笑しいと断言できる。
 幸村が頑なに私を拒絶する理由がなんとなく分かった気がした。誰から話しかけられても必要以上に関わろうとせず、ずっとひとりでいる理由も察した。彼は入学した当初から、こんな歪んだ理想を押し付けられていたんだ。見た目が綺麗だから。テニスの天才で才色兼備だから。花を愛で芸術を好む浮世離れした彼の表面だけを見て、それで周りが勝手に彼の虚像を作り上げた。
「……待ってよ」
 もうだいぶ遠のいていた彼女たちに声を掛ける。もちろん届かない。その一行が廊下を曲がる寸前で、私は立ち上がって全力で追いかけた。
「待てよっ!!」
 そこは1号館1階と2号館1階を繋ぐ外廊下。普段は中等部や高等部の生徒たちで溢れているそこも、最終下校時刻が近いその時はもう人の気配などなかった。彼女たちは一斉に振り返って私を睨みつける。5月の夕暮れ、まだ少し冷たい風が私のポニーテールを揺らした。
「大切なら、守りたいんなら! どうして幸村のイジメをどうにかしてやらないんだよ!!」
 そう怒鳴ると、彼女たちは一気に顔色を変えてバツが悪そうに視線を逸らす。私はリーダー格の女子に詰め寄って胸倉を掴んだ。
「目ぇ覚ましなよ、幸村だって普通の中学1年生なんだ。たとえ群れるのが嫌いだったとしても、友達がひとりも欲しくないわけないでしょっ!? テニス部で辛い目に遭ってて、それなのに何で普通の学校生活でも孤立するように仕向けるのっ!?」
「それは……」
「私のことがそんなに気に入らないんだったら、いいよ。私もう幸村には近づかない。元々好かれてなかったし……。でも、そのかわりこれ以上変な工作やめてよ。こんなんじゃ、幸村が辛すぎる……」
 訳の分からない理想を押し付けられ、徐々に孤立していった幸村のことを思うと胸が痛かった。彼女の胸倉を掴む手に力がこもった。
 この子たちは幸村が嫌いなんじゃない。むしろ盲信するほど好きなんだ。だったら分かってくれるはず。その時の私はそう信じて、ひたすら分かってくれるように声を張り上げた。まだ遅くない。今からでも、幸村がせめて部活以外では一息つけるように。そのためには彼女たちが馬鹿げた牽制をやめることが絶対条件だったから。
「でも、だって……幸村くん、ひとりでいた方が素敵だし……」
「はぁ?」
 しかし、私が望む幸村と彼女たちの望む幸村は、何もかもが違っていた。
「……神の子のとなりに凡人がいたら、綺麗じゃなくなる」


 ヒートアップした頭が急激に冷やされた。頭から冷水を被ったように、全身が冷たくなっていく。
 あいつはたったひとりでこんなヤツらを相手に戦っていた。それがどんな地獄の日々だったか、私はいまだに上手く想像できない。しかもこんなくだらない理由だ。ひとりの人間なのに、まるで作り物のように扱われて。
 けれど彼はこれ以降も『神の子』という偶像として、フィクションのような生き様を強要されることになる。少女たちが押し付けた狂った理想は、作り話のような実話のまだほんのプロローグだった。
 私は彼女を突き飛ばした。今度は彼女が尻餅を付いた。
「神の子に人権は無いのか……? アンタらのくだらない理想のために、幸村はこの先友達も好きな子も作れないって言うのかっ!?」
 悲しかった。初めて会った時に『人形みたいに綺麗だ』と思った自分さえも許せなかった。髪を掴まれてた時、確かに痛がっていた。トイレで見た澄んだ瞳には、年相応のあどけなさを感じた。
 幸村は生きている。周りが書きたてた勝手な夢物語に沿って動くだけの架空人物じゃない。自分の意志があって、その手足で自分の思った通りの行動をするひとりの実在する人間だ。
「幸村は神の子なんかじゃない。どこにでもいる中学生なんだよ。だから勝手に神様みたいに言うなっ!」
 座り込んだ彼女の上に圧し掛かって押し倒す。周りにいた子たちが私を引き離そうとしたが、私はとにかく彼女へ必死に訴えた。
 訴えを止めたら、幸村はずっとこいつらの所為で作り物でいなければならなくなると思った。
「幸村のこと、イジメてんじゃねーよっ!!」


「千代田」
 ここ数日、毎日聞いていた声が初めて私の名を呼んだ。私を掴む無数の女子の手が離れる。私はゆっくりと上体を起こして振り返った。
 そこには、芥子色の派手なジャージを着た幸村がいた。自分の半身くらいあるラケットバックを背負い、どこか思い詰めたような表情でその場に立っている。
「もういいから」
「ゆきむら……」
「彼女たちはただの切っ掛けだから。……周りを拒絶したのは俺だし」
「でもっ!」
 食い下がる私を無視して、幸村は女子の群れへと近づく。そして私が今まで掴みかかっていた女の子へ対して、綺麗に笑った。初めて見る笑顔だったが、とても中学生には思えないくらい大人びた微笑みだった。
「怒ってないよ」
 幸村が現れた頃から泣きじゃくっていた女の子たちは、その一言でさらに大声で泣き出した。それぞれが泣き喚きながら口々に言い訳を述べていた。それらを何とか聞き取ってまとめると、内容はこうだった。
「幸村くんと仲良くなりたかったけど、抜け駆けしたと言われるのが怖くてできなかった。だから幸村くんが誰のものにもならないようにした。幸村くんがテニス部で辛い目に遭っていることは知っていたけれど、何をどうすればいいのか分からなくて助けたくても行動に移せなかった。悲劇の主人公みたいな幸村くんが好きだった。けして、わざと不幸にしたいわけではなかった」
 幸村はそれを極めて紳士的に聞いて慰めると、最後にもう一度「キミたちのことは少しも怒ってない」と言って彼女たちを丁重に見送った。その慣れた様な対処の仕方が当時の私は気に食わなかった。それが幸村の特殊な人生の中で身に着けた処世術だということも分からず、私は彼女たちが去った後の外廊下で不機嫌になっていた。その時だった。
 幸村が軽く握りしめた拳で私の頭を叩いた。小突いたと言うには力強く、殴ったと言うには軽い拳だった。しかし相手は現役のテニスプレーヤー、痛くないはずがない。
「ってぇええ!? な、何すんのよ馬鹿っ!!」
「それはこっちのセリフだこの大馬鹿っ!!」
 幸村が私のネクタイを掴んで引き寄せる。さっきまでの大人びた表情とは打って変わって、彼は泣きそうな顔をしていた。その大きな目に薄く膜を張り、唇を震わせて怒鳴る。ハの字に曲げられた眉は苦しそうに眉間に皺を寄せていた。
「頼んでもないこと勝手にしないでくれるかなっ……。こっちはなるべく穏便に済ませようとしてるんだ。キミだって、怪我でもしてバレエに支障が出たら困るだろうっ!?」
 意外だったのは、彼が私のことをバレエダンサーだと知っていたことだ。後から聞いた話によると彼の数少ない友人が私のデータをとっていたらしいのだが、彼はその時その友人ともある程度距離を置いていた。
 なぜそんなに人と関わりたがらないのか。どうして、大人びた対応を心がけようとするのか。答えは目前だった。
「……私のこと、心配してくれてるの?」
「!!」
 彼のネクタイを掴む手が緩む。咄嗟に視線を逸らして「違う」と呟いたが、説得力は無かった。
「ねぇ幸村。私のことなら全然心配いらないよ。見た目よりずっと丈夫だし、力にも自信ある。こう見えて小学校の時には男子との喧嘩にもそこそこ勝ってたんだよ! ねぇ知ってる? バレエって全身が鍛えられるから私けっこう筋肉付いてるんだよ! ほら、二の腕触ってみ? カッチカチやぞ! カッチカチ……」
 今思えばなんというアホの極みか。場を和ませようと無理に明るく振る舞い、その結果幸村の軽蔑するような冷たい視線が私に突き刺さることになる。右手の二の腕に入れた力が抜けていく。
「あっ」
 その時、幸村の右頬に擦り傷があることに気付いた。髪に隠れてよく見えなかったが、確かに地面に擦ったような跡がある。
「幸村、怪我してるよ!」
「だから、触るなって!」
 よく見るために髪をどかそうとすれば、力強い右手が私の右手を振り払った。そのことはいい。急に触ろうとした私が悪かった。
 ただ、振り払った本人が一番傷ついた顔をしていたのだけは耐えられなかった。
「……お願いだから、もう俺のことは放っておいて……っ」
 逃げるように後ずさる彼の手を掴んだ。咄嗟の判断だったが、その時そのまま見送っていたら彼とは二度と話せないような気がした。ギョッとした幸村は慌てて私を振り払おうとしたが、私だって鍛えていた。そう簡単には振り払われなかった。
「千代田、放し……」
「明日も追いかけっこしようね! あさっても、しあさっても、その次の日も! それでいつか、一緒に昼ごはん食べよう。幸村と話したいことがいっぱいあるんだ。幸村は自分からは何も言おうとしないから、だから私がいっぱい質問する。私だってそんな話し上手ってわけじゃないから、ゆっくりいろんな話をしよう。……たぶん、分かったような気になってることがいっぱいあると思うんだ」
 彼の手にしがみ付きながら必死に訴えた。やがて彼は動きを止め、力なくその手を下す。
 私も彼の腕を放して、2歩下がる。今自分ができる一番元気そうな笑顔を浮かべた。
「じゃあ、また明日ね! 幸村!」
 彼の横を抜け、1号館へと戻る。そういえばローファーはどうしようかと一瞬考えたが、丁度いい機会なので上履きのまま帰って家で洗おうと思った。明日はスニーカーで登校すればいい。
 翼のいない帰路はその時の私にはきつかった。2週間の追いかけっこはけして無駄な時間では無かったと思いたかった。けれどそれはお前の思い違いだと、彼から改めて叩きつけられたような気がしていた。幸村は悪い奴じゃない、この事実だけが私の心の支えだった。
 昇降口に転がっていたカバンを回収して、掌で両頬を叩く。泣き出しそうな自分を叱咤して前を見据えた。その週末、私は全日本の予選に挑み、テニス部は地区大会の予選に挑む予定だった。幸村はレギュラーとして選ばれていた。
 私たちに立ち止まる時間は与えられていない。


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