5月9日
 その次の日、神奈川を直撃していた低気圧は太平洋へと逸れ、湘南には美しい青空が広がっていた。遊歩道に植えられた街路樹は水滴をまといキラキラと輝いていて、微かに香る潮風に癒される。湘南育ちだから海にはそれなりの愛着がある。
 昨日のこもった空気を入れ替えるためにも、教室に着いたらまず窓を全開にした。1号館5階からは花壇と渡り廊下と2号館が見える。2号館の廊下には私たちとはネクタイの色が違う高校生たちがうろちょろしていた。私たちが青緑と水色のストライプなのにたいして、彼らは濃紺にRHS(リッカイハイスクール)という銀糸のロゴが入っている。立海生であるという自覚をその身に無理やり着せられて、彼らはその日も勉強や部活に励んでいた。
 わりと機嫌よく登校してきた朝だったが、それは二限目と三限目の間の20分休みで一変する。
「ねっ? だから渚も私と一緒にE組で食べようよ!」
 珍しくR組に翼が来たと思ったら、彼女は私と二人きりで弁当を食べるのを止めたいと言い出したのだ。今思えば、それは当然の流れだったと思う。せっかくクラスに馴染んできたというのに、いつまでも他クラスの幼なじみとふたりきりでいたら、彼女たちと親密になれるタイミングを逃してしまう。優しい翼はちゃんと、E組の友達に私も誘っていい了承を得てくれた。手を合わせて頭を下げる彼女を見ながら、どうしてこの子はこんなに周りに気を使って生きているのだろうと思った。
「……丁度良かった。私もクラスの子たちとお弁当一緒に食べる約束してたんだ。……翼とは放課後毎日顔合わせるし、昼くらいは別々に食べよ」
 たぶん、私は拗ねていた。友達がまったくできない自分に呆れていたし、友達が多い翼に嫉妬していたし、顔も知らない翼の友達のことが嫌いになりかけていた。だから見栄を張った。それが翼についた最初の嘘だ。
 もちろん一緒に食べる約束をしている子などいない。そこそこよく話す宝塚志望の子に仲を取り持ってもらおうかと考えたが、生憎彼女はその日休みだった。アイドルやモデルなんて私を鼻で笑うから無理。ヒップホップのダンサーたちのよく分からない会話を聞いてご飯を食べるくらいなら、ひとりで食べた方がマシだろう。そう吹っ切れたのは昼休みになってからのことだった。
 屋上庭園へ行こう。そう思ったのは以前学校探検していた時に見つけたその花々があまりに素晴らしかったからだ。翼とは1号館と2号館の間にある花壇の前でいつもご飯を食べていたが、そこへは何となく行きたくなかった。
 屋上へと続くドアを開けると、見事な五月晴れが私を迎え入れてくれた。そこには私の他にも大人しそうな女子生徒が本を片手に独りで昼休みを過ごしていたりする。少し安堵して、端の方にある空いたベンチに腰掛けた。振り向けばわずかだが海も見える。色とりどりの初夏の花の名前は知らないが、風に吹かれて揺れる様は私のつまらない虚栄心を少し楽にしてくれたような気がした。
 明日、翼に謝って一緒にご飯を食べてくれるように頼もう。そう思っていた矢先、視界の端で何かが動いた。
「……あっ」
 扉から入ってきたのは幸村精市だった。遠目だったがウェーブがかった黒髪に女のような顔は間違いなかった。彼は私がいる方とは反対方向へ向かうと、何かの花壇の前でしゃがんで作業を始めた。その手には軍手とスコップとゴミ袋がある。
 私の隣のベンチに座っていた高校生のお姉さん方が少し色めき立っていた。
「ほら、ウワサをすれば」
「ホント可愛いよねぇ、妖精くん」
「男の子なのにあの可愛さでしかも園芸が好きとか、確実に私たち殺しにかかってきてるわ」
「ねぇ、あの子何やってるのかな」
 妖精くん。そう言われていた幸村精市は、無我夢中で何かを掘り起こしてはゴミ袋に入れている。
 私は、弁当を閉じてその場から立ち上がった。日差しが暑かったためジャケットを脱げば、薄いブラウスの中に入り込んでくる風が心地よかった。
 大股で彼へ近づく。お行儀よく並んだ正方形の花壇には、よく見ると花やハーブの名前が書かれたプラカードが端に立てられていた。そしてそのプラカードの下の方には、年組と名前が書いてある。大体どの花壇も3人くらいで面倒を見ているらしい。美化委員たちだろうか。所々に虫食いの跡はあるものの、どれもとても大切に育てられているのだろうなということが分かった。
 その中で、たった一つだけ異様な花壇があった。原型をとどめていない草花は、みんなどす黒い色になって枯れていた。
「……除草剤?」
 問いかけると、枯れた花を処分していた幸村が弾かれたように顔を上げた。驚いていた目は一瞬だけ光っていたのに、やがてあの虚無を受け入れてたような暗い瞳へと変わっていった。
「犯人、分かってるんでしょ」
 先輩たちから髪を掴まれ、痛そうに顔を歪めた彼を思い出した。
「なんで反抗しようとしないの。自分がなんとかしようと思わなきゃ、何も変わらないんだよっ!?」
 クールぶってる大人びたガキは嫌いだった。子供でいられるうちは思いっきりワガママを言えばいいと思っていた。言いたいことも言えないで、人がちゃんと育つはずもない。
『子供のうちは、大きな声で自分の意見をちゃんと言いなさい。それが間違っていたなら、大人が訂正する』
 バレエ教室に馴染めず、上級生からイジメられていた私に父はそう言った。私はそれを信じて自分の思ったことを周りに伝えた。それが正しいんだと信じてきた。
 なのに何故、そんな簡単なことをこの男はしない?
「……アンタ見てるとすっごくイラつく!! こんなことされて、平気なはずないよね? 悔しくないはずないよねっ? なのに何でそんな『ボクはなんとも思ってません』みたいな顔してるの? 自分は大人だから、こんな下等な嫌がらせには反応しませんってか? クールぶってんじゃねーよ。ひとりで無理なら、誰かに助けを求めるくらいできるだろ!? ほらっ、ひとりで後片付けなんて、そんな寂しいこと……」
「触るなっ!!」
 枯れた花に手を伸ばすと鋭い怒声が飛んできて、私は中腰のまま動きを止めた。今にも私を噛み殺しそうな鋭い眼光が私を射抜く。
 幸村精市を見ていると、無情に悔しかった。何もできない自分が歯がゆかった。何かを諦めているのだと、当時の彼を少し観察している人間なら誰もが分かっただろう。無感情な人形同然の子どもになることで、彼にとっての大事件を彼自身が無かったことにしようとしている。
 当時、彼はテニス部部員であること以外のすべてを諦めていた。
「……除草剤は人間にとっても毒だから、素手で触るのは危険なんだ。……放っといてほしい」
 好き勝手言った私に対しての怒りも、彼は一瞬で消し去り当たり障りのない言葉へと変えた。子供らしからぬ処世術。不気味だとさえ思った。冷たい、体温を感じられない少年。私はどうすることもできず、尻尾を巻いてそこから逃げ出した。
 おそらく、慢心していたのだと思う。誰にも弱みを見せない少年の閉ざされた心を、自分ならこじ開けられるという根拠のない自信があった。
 けれど、扉はビクともしなかった。


 午後の授業はひたすら寝て、その後は無我夢中で踊り狂った。バレエシューズからつま先が硬いトウシューズへと移行し始めて約1年。この夏からはトウシューズを履いてコンクールに挑むことになる。まだ先生がいないところでトウシューズでの練習はしてはいけないと言われていたが、どうしても今コンクールでやる演目を踊りたかった。
 ドン・キホーテ第一幕、キトリ。陽気で器量良しのキトリという娘は、ドンキホーテ一行が訪れたバルセロナの人気者だった。彼女には床屋のバジルという恋人がいたが、父親は器量良しの娘を金持ちに嫁がせたくて二人の仲を反対している。そんな彼女が父親の留守中に目を盗んで街中で踊りだすというシーンだ。本来ならそこそこ身長のあるダンサーが踊った方が見栄えがいいのだが、キトリの陽気さと情熱的な部分が私と相性が良かった。
 この演目で、この夏私は全日本でトウシューズデビューをする。
 スペインの娘の踊りというだけあって、白鳥の湖やくるみ割り人形といったザ・バレエ! という内容ではなく、どこかフラメンコの雰囲気も漂う活発な演目だ。カスタネットが刻む軽快な音と笛の音が合わさり、演者はこれがバレエであることを念頭に入れつつ、情熱的なフラメンコの踊り手になったかのような気持ちでフロアを駆ける。腰に手を当て、その足で床を蹴りあげ力強く、楽しげに。そして怒涛の16回連続ピルエット! トウシューズのつま先がどうして硬いのかといえば、それはそのつま先だけで立つためだ。そしてピルエットとはその片足のつま先だけで立って回ること。軸足を真っ直ぐ垂直に地面へ付けて、もう一方の足で床を軽く蹴り反動で周る。テンポが速い時は一蹴りにつき一回転、最後の2回は一蹴りで二回転するから実質18回転だ。
「軸ぶれすぎ、指の動きがガサツ、最後ちょっとふらついた」
「えへへ……」
「もう! 鬼気迫ってたけど、技術で魅せる渚っぽくないよ?」
 感情的に好き勝手踊っていたが、飛んできた翼からの酷評で我に返った。基礎練習もほどほどに踊ったキトリはボロボロで、何も気にせずただ踊りたいように踊った所為でミスも目立った。ただ、楽しかった。
「あーっ! バレエって楽しい!」
「……どうしたの急に」
「いや、周りなんて気にせずに自分が踊りたいように踊るバレエは最高だなぁって思って」
 翼からタオルを受け取って首筋を拭う。彼女は少し困ったように笑った。
「そりゃあ、好き勝手に踊れたら楽しいだろうけど……でも、バレエは誰かに評価されてこその芸術でしょう?」
「うん、そうなんだろうね。……でも私はやっぱり、バレエってひとりでやってても楽しいから。だから好き勝手やってるんだと思う。誰にどう思われようと関係なく、自分の言いたいこと言って、先輩だろうが何だろうがやられたらやり返して……」
 その時、私は前夜のニュース番組を思い起こしていた。新宿バレエ・スクールで誰かが不祥事を起こしたら、私たちはみんな罰として1年間コンクールや発表会に参加することを禁じられるのだろうか。おそらく可能性は低いだろうと思った。スクール主催の定期公演が中止になることはあっても、事件に関わっていないダンサーのコンクール参加まで辞退させられるなんてことはありえない。そして仮にそんなことがあったら、当時の私はためらわずに親子二代で世話になったあのバレエ団とスクールを捨てただろう。
 まだその時は幸村の真意が分からなかったが、十中八九部内で問題を起こしたくないからなのだろうと予想していた。だからこそ、その葛藤は私には分からなかった。どうしてそこまで、こんな最低な部活にこだわるのかが分からなかった。
「やられてる方が、表沙汰になるのを怖がってるなんて……そんなの辛すぎる」
 窓際に立って、フェンスに囲まれたテニスコートを見下ろす。そのコートの手前左端で、その時まさに幸村精市が誰か先輩らしき人と試合していた。右手でしっかりとラケットを握り、素人目にも分かるくらい正確に左右のオーナーへ打ち分けている。先輩は走らされていた。そして何度目かのラリーでとうとう先輩の横をボールが抜ける。特別な技術なんて使っていない。ただ恐ろしいほどに正確なショット。そこにテニスへの情熱だとか試合への喜びは全く感じられず、私は彼は壁に向かってラリーを続けているのかとさえ思った。
 コートチェンジがやってくる。次は幸村のサーブだった。綺麗なトスが上がったと思えば、次の瞬間にはボールが相手コートへ叩き込まれている。サービスエースが4回。これもあっという間だった。まるで剛速球を繰り出す球出しマシンのように、幸村はただサーブを打っていた。対峙する選手の顔色が悪い。こちらに背を向けていた幸村の顔は分からなかった。だが、やはりその芥子色のジャージに刻まれた黒線は、無慈悲に幸村の半身を真っ二つに裂いているようだった。
 不祥事を起こして出場辞退になるのがイヤだ。それが無抵抗の理由だとしても、彼は不自然なくらいテニスに対して愛着がなさそうだった。だったら何故、どうして。
 まるで義務のようにボールを返していく彼を見て、私はとある決意を固める。


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