5月8日
 その年のゴールデンウィーク中に、私の部屋にはトロフィーがひとつ増えた。南仏で開かれたジュニアバレエコンクールで優勝したのだ。規模は小さいけれど古くからあるコンクールで、欧州で優勝するのは初めての経験だった。それなりに嬉しかったことを憶えている。だから嬉々として数日前にバレエスクールへその報告へ行った時、先生たちは私や母以上に手放して喜びその場にいた生徒たちへ声高にそれを報告した。
「上手いのは分かるんだけどさ、私あの子の踊りあんま好きじゃないんだよね」
「分かる! なんていうのかな……『わたくし上手いでしょ?』って全身で訴えてきてるのがウザい」
「技術力を見せびらかしてる感じ? あの子が踊ると悲劇のヒロインも愛らしいお姫様もみんなただの千代田渚になるんだよね」
 早速、更衣室ではそんな陰口が聞こえてきた。
 表現者を辞めた今だからこそ分かるのだが、何かに情熱を燃やす子どもが他人へライバル心を抱くことはわりと良い傾向だと思う。スポーツ選手や芸術家なんてものは、自分に自信が無ければやっていけない。自分への自信とは、裏返せば他人より自分は優れていると思い込むこと。
 私が当時もう少し大人だったら、彼女たちのストレス解消もそう割り切って聞かなかったことにできたんだろう。しかし、まだ私は幼く、そしてスクールで一番負けん気が強かった。
「お疲れ様でーす」
 タオルを肩に引っかけて彼女たちの間に敢えて割って入った。翼がその後を申し訳なさそうに小さくなりながらついてきた。先ほどまでよどみなく喋りつづけていた彼女たちは、渋い顔をして顔を見合わせていた。私は指定のロッカーの鍵を開け、レオタードを脱いだ。薄い胸と縦にうっすら割れた腹が露わになる。
「私が踊るとみんなただの千代田渚かぁ……すごく的確。ねぇ翼、あの子たちってバレリーナよりもバレエ批評家としての方が才能あると思わない?」
「渚っ!」
 ロッカー扉の内側につけられていた鏡に、とても意地悪そうな自分の顔が映っていたのをよく憶えている。髪を全て上げてお団子にしているせいか、少し目がつり上がっているようにも見えた。翼は顔を真っ青にして、私と陰口を言っていた彼女たちを交互に見ていた。彼女たちは顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけていた。
 たぶん、私と翼がいなければトップになれていただろう子たちだ。実力が無いわけじゃなかった。
「批判してきた相手に対して『だったらお前がやってみろ』っていう反論はしたくないんだ。弱そうに見えるから。演者と批評家は別の才能がいるとも思うし。……でもさ、ひとつだけ言わせてよ」
 タオルで素早く汗を拭き、シンプルなデザインの青いワンピースにがばりと頭を通せば着替えは終わる。制汗剤をワキに少しふりかけ、私は音を立ててロッカーの扉を閉じた。
「へたくそ」
 動きを止めていたひとりを突き飛ばしてその場を去る。口元の笑みを押さえることはできなかった。翼は慌ててパーカーを羽織り追いかけてくる。後ろからキーキーと猿みたいな甲高い罵声が聞こえてきたが、内容は憶えていない。
 思い返すだけで胃が痛くなるエピソードのひとつだ。こんなことが一度や二度じゃない。おそらく月に何度かあった。賞を取るたびに私は団長から誉めそやされ、そして周りから敵対視された。黙って耐えていれば良かったものを、誰も言い返せない実力を持っていることを背景に、私は言いたいことを言った。我慢などクソくらえと思っていた。
 当時の私は、イジメられっ子の法則を知っていた。少なくとも当時はそのつもりだった。実力が無い者、抵抗せず黙ってやられる者。そのどちらかに当てはまる者が弱者と認定され淘汰されるのだと信じて疑わなかった。
「強みが無いヤツが実力者に何言ったって負け犬の遠吠え。でも負け犬は遠吠えすることで自分のジソンシンってやつを満たしてんのよ。優しいヤツや気弱なヤツはそれを甘んじて受け入れてやってるんだろうけど、私はイヤ。なんであいつらのつまんないプライドのために私が嫌な思いしなきゃいけないわけ!?」
 案の定、私はその後2日間にわたり翼からのノンストップ説教を食らうことになる。ゴールデンウィーク明けの5月8日。立海へ登校する江ノ電の中でも彼女のお説教は続いていた。その日は生憎の雨で、横殴りの雨が電車の窓を叩いていた。
「それでも言っていいことと悪いことがあるでしょ? 渚は自分より上手い人からへたくそって言われたらどう思うっ?」
「さぞ悔しいんだろうね。でも自分より下手なやつに好き勝手言われてムカつくよりはマシ」
「もう……どうしてそんなに怒るの? 渚はもう彼女たちより何もかも勝ってるんだからそれでいいじゃない。彼女たちはああでも言ってないと自分に自信が持てないんだよ……」
「だから何度も言ってるでしょっ? なんで私がその彼女たちの自信を保つ協力をしなきゃいけないわけ!? 私がイラついたから、私もあいつらと同じようにストレス発散した。それだけ!」
 当時の私はそんな口うるさい翼のことを親友であり唯一無二のライバルであり、そしてどこか姉のような存在だと思っていた。私には妹がいるが姉妹の関係は希薄で、私にとって翼は肉親よりもずっと近く信頼できる人だった。だからこそ、彼女からの言葉だけはそこそこ真面目に受け止めて自分なりに考えるきっかけにはなっていた。
「それでも、自信を無くしてる彼女たちに追い打ちをかけなくてもいいじゃない……」
「……知らないよ、そんなこと。自分より上手いヤツの悪口言わなきゃ保てない自信ってなに? 人間へ向けてる興味を少しでもバレエに向けてあげたら、もっともっと上手くなれて自信にもつながるはずなのに……」
 しかし、考えを改めるまでには至らなかった。
「渚は、それを大真面目に言えるんだからすごいよね」
 すると翼は急にそう言って声のトーンを落とす。彼女の顔を覗き込むと、愛らしい人形のようなそこにはどこか寂しそうな色が浮かんでいた。
「翼?」
「誰かを救える人って、きっと渚みたいな強い人なんだろうなって思って」
 彼女は苦笑して窓の外の悪天候へ視線を走らせる。私はあのバレエスクールにおいて自分が最強のヒールになっている自覚があったので、彼女の発言には多少驚いていた。
「救うって……翼、どうかしたの?」
 私がそう言葉を促すと、翼はその大きな深緑の瞳を少し伏せた。
「……あのさ、初登校の日の放課後に見かけたテニス部の男の子、憶えてる?」
 憶えてるも何も、ずっと引っかかっていたことだった。私はしっかりと頷くと、翼は言葉を選びながら続ける。
「私の知ってる子だって言ったのは?」
「憶えてるよ。隣のクラスのテニス部の男子でしょ? たしか、1年でレギュラーに選ばれた……ええっと」
「神の子、幸村精市」
 大層な二つ名だと思った。神の子ども。それが神の息子という意味か、いずれ神になるという意味で使われているのかは分からない。
「……私はE組で、彼はF組なんだけど。体育とか選択授業とかで一緒になることが多くてね? 初登校の日から、気にはなってたんだ。同じテニス部のはずの男の子たちとも全然話さないし、ひとりで寂しそうな顔して本読んでるから……」
 だから私、あの次の日に話しかけてみたんだ。そう告げる翼が純粋にすごいと思った。私はクラスメイトに暗そうな読書家がいたら孤独が好きなのかと思って話しかけない。
「そしたら、少し困った顔をされて。仲良くなった女の子たちにも『幸村くんにはなるべく近づくな』って言われた。だから私、理由を訊いてみたの。どうして? って」
 少なくともその時までは、幸村精市に対してそこまで意外性のある情報はなく、むしろそれより翼がすでにクラスメイトと親しくなりつつあることの方が気になった。バレエスクールで友人を作るのは不可能だとしても、学校でくらいは仲良い子を作りたいと思っていた私は複雑だった。おそらく、人付き合いの上手い翼への嫉妬と、翼を誰かに盗られるかもしれないという焦燥感だったのだと思う。
 しかし、次に聞かされた噂に私はそんなことなど頭から吹き飛んだ。
 まず前提として、立海大付属ではテニス部が一番の花形部活であるという事実を頭に入れる必要がある。野球部と女子ソフト部も実力で言えばテニス部と並ぶかそれ以上なのだが、なにぶん彼らは泥まみれで走り回る少々古風な競技の選手だ。綺麗な人工芝のコートで駆ける芥子色の彼らの方が、多少は見栄えがいいだろう。男子生徒はその申し分のない実力に、女子生徒は彼らの優雅さとカリスマ性に憧れを抱いた。そこに現れたのが、期待の超大型新人、神の子幸村精市だ。
 宗教画から飛び出してきたようなその中性的かつどこか神聖な美貌は、たちまち全クラスの女子を虜にした。そしてその試合模様を見た男子も、あまりに人間離れしたテニスセンスと運動神経に閉口した。1か月足らずで幸村は立海中等部1年の中で知らない者はいないくらいの知名度を手に入れた。外見が良く実力が伴い、頭脳明晰の優等生かつ美術の才能もあるそうだ。立ち振る舞いも男子中学生にあるまじき洗練されたものらしく、そんな彼に一部の女子生徒が強要したのが『徹底的な神格化』だった。
 神の子だから下品な凡人とは馴れ合わない。神の子だから彼女などいない。神の子だから孤高であり続ける。
 これは後日知ることになる情報だが、彼女たちは幸村精市を誰かに奪われるのが嫌だった。彼を振り向かせるだけの勇気も実力もない女子たちは、徒党を組んで神の子を囲った。近づく女子へは片っ端から制裁を加えた。その光景が周りの男子からは異様で不気味なものに見えた。同性の実力者へ本能的に抱いてしまう嫉妬心も手伝って、幸村精市は男女ともに孤立した。その神格化を強制している女子たちが、幸村の手先だと噂する者も出てきたという。
「元々、テニス部では先輩たちと上手くいってなくて、先輩と上手くやっていきたい一年の部員とは折り合いが悪かったんだって。……でも、幸村くん何をされても無反応で。……どうにかしてあげたくても、何をどうすればいいのか分からなくて。そもそも本人がそれを嫌がってるのかそっとしておいてほしいのかも……」
 翼は他人のために痛める心をいつも持っていた。私は彼女の話を聞きながら、腕を組んでその小さな頭で考えていた。そのうち、江ノ電は立海大学前駅に着く。この駅の真ん前を陣取っている馬鹿でかいキャンパスが立海大学だったが、私たちはそこからまた5分ほど歩いて中高合同の敷地へと移動する。
「……黙らせるだけの実力があるのにそれをしないのは、本人の自己責任だよ」
 定期を改札に入れて構内から抜け、傘をさす。立海の制服で溢れている遊歩道を睨みながら、私は翼にそう言った。
「やっぱり、渚は興味なしか……」
 隣で翼が無地のエメラルドの傘を広げる。私のワインレッドの傘と並んだ。どこか落胆したような声だった。
「無くはないよ。誰かをイジめてプライドを保とうとするヤツはボコボコにしてやりたいし、目の前で嫌がらせされてたらこの前みたいに助けると思う。……でも、そういうのって本人が反撃しなきゃどうしようもないんだよ。神の子さんが何を考えて無抵抗なのかは分かんないけど、私は嫌いだな。そういう変にクールぶってるやつ」
 私の極端な持論に、翼は何も言わなかった。
 いいや、おそらく何も言えなかったんだと思う。
「幸村、くん……」
「えっ?」
 振り向くと同時に、私と翼の間を紺色の傘が駆け抜けた。
 一瞬見えた横顔。その目は相変わらず目の前の虚無だけを受け入れているようで、怒りに満ちているようにも見えた。形のいい唇は噛みしめられ、顔色は悪かった。
 彼の背中を目で追う。駆け足で通学路を行くその姿は、強い雨の中で段々消えていった。


 豪雨の所為で窓を開けることも出来ず、一部のマセガキがつけてくる香水や化粧の悪臭が立ち込める密室で私は一日を過ごした。芸能コースのR組は私語が多く、他にもゲームをしたり携帯を弄っている者が多い。私は壁に向かって授業をしているかのような死んだ目の教師を見つめ、いつのまにか眠りについていた。他クラスがその光景を見れば学級崩壊と思われるだろう。でも、叱らない教師にだって過失は十二分にあった。
 問題を起こしたくない。今思えば、彼らは生徒ではなくその向こうにいた口うるさい親たちを見据えていたのだろう。金を落としてくれるだけの存在は、適当に勉強を教えて送り出せばいい。彼らは保身のために教師としての自尊心を切り売りし、そして私たちとの間に壁を作って関わらないようにしていた。
 もちろん、当時の私にそんなことが分かるはずもない。適当に寝て適当にクラスメイトへ苛立ち、そしてしっかりバレエの練習をして帰宅した。その頃にはだいぶ雨足も弱まっていた。そして適当にご飯を食べて風呂に入って。
『続いてのニュースです。高校サッカーの名門と言われるA大学付属高等学校のサッカー部内で、複数回の暴行事件が起きていたことが分かりました』
 風呂から上がると、妹がソーダ味の棒アイスを加えてカーペットの上に座り、10時からのニュース番組を見ていた。私は長い髪を乱雑にタオルドライしながら、ソファーへと座る。
『被害にあっていたのは一部の二年生部員で、昨年春から日常的に上級生によって暴行や恐喝が行われていたとのことです。学校側は昨年秋に一度加害者生徒を謹慎処分にしていましたが、それ以降は目立った処罰を与えていませんでした』
 そのニュースを聞きながら、あの整った冷たい横顔を思い出していた。どこの世界にもやられっぱなしの馬鹿がいる。どうして誰かに言わないのか。親や学校、それがダメなら警察。最悪マスコミに売ればいい。あの男子もこれから何年も我慢していかなければならないのかと思ったら、何故だが少し悔しかった。
 いっそ、私が先生に言ってやろうかとさえ考えた。
『これを受けてA大付属校長は、教師たちが事態の深刻さを把握できていなかったことについて謝罪し、今年のインターハイ出場辞退を発表しました』
 だが、私はその時まだ現実を知らなかった。
「……は?」
 ニュースはもうすでに政治家の息子が交通事故を起こしたことへ話題が移っている。私は厚化粧したアナウンサーが告げた冷たい言葉が理解できず、何度も頭の中で反芻した。だが意味が分からなかった。
「お、おかあさん!」
 バスタオルを投げ捨てて後ろへ振り向く。ソファーの背凭れに体重を乗せながら、キッチンで洗い物をしている母を呼んだ。
「渚、お行儀が悪い! 用があるならこちらへ来て言いなさい」
「ねぇ、お母さん! お母さん!」
 無視してソファーをガタガタ揺らしながら呼んでいると、ふわっとソファーの片側の足が浮いた。そのまま背もたれのある方向へ倒れると思った時、カーペットの上に座っていたはずの妹がソファーに座った。硬い音を立てて元の体勢に戻る。妹を見ると、相変わらず何を考えているのか分からない表情でアイスを頬張っていた。
「なんなの、今の音」
 ソファーが着地した音を聞きつけて母がこちらへ寄ってくる。私が答えるよりも先に妹が「なんでもない」と答えた。私なんかよりもずっと妹を信頼している母は、それ以上言及してこなかった。
「……ねぇお母さん。今、A大付属のサッカー部のニュースやってたんだけど」
「ああ、あれね。昼間のワイドショーで見たけど、後輩生徒は全治3か月の大怪我ですって」
「ねぇ、なんで!? 悪いのは上級生たちなのに、どうして全員まとめてインターハイ出られないの!?」
 私がそう問いかけると、母は少し驚いた後に眉をひそめた。そして少し言葉を選ぶように視線を逸らす。
「それが責任をとるということだからよ」
「責任は悪いことやったヤツがとるものでしょう!? インハイ出たくて頑張ってた普通の生徒たちは、何も悪いことしてないじゃん……」
 純粋な疑問だった。連帯責任という概念がよく分からなかった当時は、とにかく社会や学校が課す罪のない者への罰が解せなかった。母はそんな私の訴えを、難しい顔して聞いていた。
「……理解ができないことでも、自分よりも立場が上の人が『ルール』だとか『マナー』だとか言って罰を押し付けてきたら、従うしかないの。貴方ももう中学生なんだから、くれぐれも周りを巻き込むようなことはやっちゃダメよ。貴方はこれから世界を相手にするんですからね」

 結局、今でも私は連帯責任という制度が上手く理解できていない。いや、納得していないと言った方が正しいだろうか。部員の誰かが問題を起こし出場辞退になるという話はそれから幾度となく聞き、私自体も先日そういった陰謀を止めるために奔走した。しかし、やはり理不尽だと思った。
 汗を流して時間を費やして、そうして積み重ねていった努力は、ほんの一瞬で誰かに壊される。


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