4月24日
 私がその中学へ初登校したのは、たぶん2000年の4月24日くらいだったと思う。本当は日付なんて覚えてないけれど、とりあえず仮定として記録させてほしい。歩道の植え込みに植えられていた桜の木はすっかり葉桜になっていた。
 まずは、これから物語の舞台となる場所の説明をしよう。
 私立立海大学付属中学校は、神奈川一帯では名門と言われている私立校だ。名門は名門でも運動部の名門。特にテニスと野球とソフトが強く、高校の野球部や女子ソフト部なんかは特待で全国から選手を集めているらしい。まぁ、その点テニスはこの国の特色として、高校にもなると強い子はプロ目指してスクール一本か海外留学する子が多くなるから、学校的にはそこまで力を入れてないらしいんだけど。
 おかげで校内には脳筋バカが溢れてる、というわけでもない。何しろ生徒数が多いこの学校はまず特進科と普通科に分かれていて、特進科は数字、普通科はアルファベットでクラスを分けられている。
 特進は、部活委員会オール免除のがり勉集団。全国模試のトップの座を争い続けてるらしいんだけど、普通科の生徒からは地獄の住人と言われていた。なんせ高校1年の終わりまでに高3までのカリキュラムをすべて終了させられる。そして残りの2年でT大やK大を受験するための特別な勉強をするんだそうだ。寮暮らしを半強制されて、寮に帰ってからも山のような宿題が彼らの精神をじわじわと削るらしい。でもそのおかげで、立海高等部のT大合格率は年々上昇しているのだとか。
 さて、私がそんなところに入るわけがないので、特進科の説明はこれくらいにしておこう。
 立海の生徒数は2500人をゆうに超える。特進科は4クラスしかないので、残りの18クラスはすべて普通科となる。もちろん区切りが無いわけじゃない。一口に普通科と言っても、その中にコースは4つあった。
 一つは進学コース。これはいわゆる、普通の学園生活が送れるところだ。体育王国立海らしく文武両道を目指し、勉強も部活も学生らしく頑張りなさいというのがここの特徴だ。私の世代だとA組からH組までがここに当たる。煩わしい夏季講習や土曜授業、追試制度はあるけれど、特進科よりはずっとのびのびやっていける。部活の所属を義務付けられているけど、運動が苦手な子は文化部に所属するっていう逃げ道もちゃんと用意されていた。
 次に国際交流コース。私が在学していた頃はとにかくI組とJ組には近づきたくなかった。何故かって? とにかく飛び交う言語がすべて英語! 帰国子女や日本在住の外国人なんかがここにいる。ドレットヘアーの強面インディアンや目が真っ青でお人形さんみたいな女の子たちがアメリカ顔負けの自由なスクールライフを送っている。ここに所属していた友人ひとりを除いて、私たちには3年間まるで縁がなかった場所だ。
 それから、忘れちゃいけないのが体育王国立海の真骨頂、体育コースだ。K組からP組の教室に詰め込まれていたのは、男も女も筋肉隆々の名実ともに脳筋バカたちだった。全国から、というわけでもないけれど神奈川近辺から野望を胸に集まった猛者ばかり。このコースに入るには学校の指定する部活に三年間所属するのが絶対条件で、またなにかしら部活で結果を挙げることもほとんど義務付けられている。その代わり、長期休暇中の講習は免除、1日6時間の時間割の中で、2時間は体育だった。

 そして、2000年度4月2日付で、立海大付属中学に新しいコースができた。
 それはQ組R組という、おそらくほとんどの学生は聞いたこともないような名前のクラスだった。立海中高合同校舎の1号館、通称海志館の一番北にぽつんとあったその教室に、私は3年間通い続けた。クラスメイトが全員出席したことは3年間で一度もなかったと思う。私だってたくさん休んだ。それが黙認されるコースだった。
 名を、芸能コースと言う。アイドルやモデル、劇団員、ダンサーなんていう芸能関係に携わる子たちがクラスの大半を占めていた。ピアノや声楽、その他楽器に熱中してその方面で天才と言われる子たちも何人かいた。名門歌舞伎一家の跡取り息子なんてのもいた。
 とにかく、なんらかの理由で普通の学生生活を送れない者。勉強に集中できない者がそこへ集められた。免除される項目は体育コースと変わりなかったが、私たちは立海という学校に貢献するようなことは何一つできない。出席すらまともに出来なかった。では立海はなぜわざわざ、そんなコースを立ち上げやる気のない生徒を集めたか?

「昨年度の全日本ジュニアバレエグランプリ12歳以下の部で優勝。その他国内のコンクールでの優勝回数2回……すばらしい!!」
 声高に私を褒め称えたコース長の媚びるような笑顔を、当時の私は幼いながらに気持ち悪いと感じた。母は褒められて当然というような澄ました顔をしてる。それはその年の冬のことだった。当時、父以外の中年男性が苦手だった私は、身を竦めてただその『面談』が終わるのを待っていた。
「これからは海外留学も視野に入れて活動させる予定ですので、あまり中学へ行かせることはできないと思うのですが……」
「お母さん。我々は、そういった個性豊かなお子さんのためにこのコースを立ち上げたんです。勉強が向かない子もいるでしょう。学生生活よりもっと楽しいことを早くに見つけた子だっています。そういったお子さんの長所を伸ばす。それが、立海大付属中学校普通科芸能コースのモットーです」
 舌を噛みそうな長いセリフを、頭部が薄い彼は息継ぎも少なく言ってのけた。
「つきましては、授業料と……特別寄付のお願いについて詳しくご説明させていただきます」

 子供に芸能活動だ音楽だバレエだなんて習わせてる親は、だいたい金が有り余っている。立海はそこに目を付けていた。実際コースに在籍していた生徒のうち、半数以上が社長令嬢や令息。それ以外も代議士の娘や銀行頭取の孫、外交官の息子なんてのもいただろうか。あとから聞いた話だと親の年収を提出書類に書かされたそうだから、おそらくある程度選定された結果なんだろうけど。
 その年くらいから、神奈川では急激に公立中学離れが加速し始めた。公立中学は荒れているという噂に保護者達は踊らされ、金が余っている者は子供を私立に入学させた。けれど私立は勉強が厳しく、芸能活動の片手間でやって上手くいくような内容じゃない。自分の子供のような特別な才能を持った子こそ、野蛮な下級市民の不良たちから守らなければいけないのに! そんな親は少なからず存在した。だから立海はあのコースで儲かった。私もそこへ三年間通わされることになる。

 けど、あの日の千代田渚は本当に不機嫌だった。
「……帰りたい」
 私の横をブレザー姿の立海生たちが通り過ぎていった。当時私の髪はまだ長くて、結ぶのが面倒だったためボサボサに下ろしたままのことが多かった。その少し前位からおでこのあたりによくニキビができるようになって、薬を塗りつつもつい潰してしまうことが大半だった。不機嫌になるとそれを隠そうともせず、眼を細めて口をへの字に曲げた。
「もう! ぶすっとしてたってダメなんだから! ほら、一緒に行くの!」
 そんな私をいつも叱ってくれたのが、幼稚園の頃からの付き合いである宇田川翼だった。
 彼女と出会ったのは5歳くらいの時だ。一足先にバレエ教室に通っていた私は、新しく入ってきた翼を見たときに本当にビックリした。日本人なのに地毛だという栗毛は日の光を浴びてキラキラと光り、綺麗な緑色の瞳は生えたばかりの葉っぱを思わせた。お人形さんみたいだと思った。成長した彼女はもっと美しくなり、とくにその長い手足は白鳥の湖を踊るのに最適だった。
 彼女は私なんかよりもずっと誠実で、健全な女子中学生だった。その日も律儀に6時に起きて身支度を整え、私を迎えに来てから学校へと赴いた。
 その日、私と翼は初登校だった。全国の優秀なジュニアバレエダンサーたちを集めて、九州で半月ほどの合宿が行われていたからだ。
「……私、この学校きらい」
 あの日の面談ですっかり学校の汚い部分を見てしまっていた私は、その馬鹿でかい校舎でさえ周りを威嚇する目的で建てられているように思えていた。そんな私の手を、翼が優しく握ってくれたのを覚えてる。
「あのね、渚。渚がずーっと踊っていたいくらいバレエが好きなのは知ってる。でも表現力って、バレエだけしてても身に付くものじゃないと思うんだ。普通に学校へ通って、勉強して、お友達と遊んで……恋をして。経験を積まないと、どんな役にも対応出来るようなバレリーナにはなれないと思うな。私は」
 宇田川翼は聡明で、とても優しい話し方をする女の子だった。私は翼とケンカをしたことがない。私が彼女に対してへそを曲げても、その温和な声が正論を述べるとなんだか申し訳なくなってくる。
 私は彼女の手を握り返して、彼女と一緒にまず職員室を探すところから始めた。


「でさ!? どー思う!? 授業中でも構わずメイクしてんのその女。お前何歳だよ、12とかその辺だろ!? カリスマキッズモデルだかなんだか知らないけどさ、そういう非常識女たちのたまり場だったわけ。ザニーズジュニアの連中はそれを全面的に鼻にかけてるしさ? 中坊が髪なんか立たせてんじゃねぇ! スワップぐらい有名になってからナルシストになれってんだ」
 結果から言うと、その日の中学デビューは最悪の一言につきた。予想をしてなかったわけではないが、案の定芸能コースは見栄とプライドのぶつかり合い。キッズアイドルやモデルの女は暇さえあれば鏡を見てるし、イケメンを気取ってる男たちはハッキリ言って気持ち悪い。歌舞伎一家の息子は終始すまし顔で、音楽関連の連中は一見まともそうだけど会話内容は音楽ばかりでまるで話に入れなかった。それならダンサーたちと仲良くなろうと思っても、バレエとヒップホップじゃだいぶ畑が違う。唯一話が合ったのは宝塚を目指しているという長身でカッコいい女の子だったけれど、彼女も基本は声楽を習っている子たちとつるんでいた。宝塚の必須科目にバレエがあるから、私に興味があっただけらしい。
「ってか! なんで翼はD組なの!?」
「あれ、言ってなかったっけ? 私進学コース。普通に筆記テスト受けて入ったんだよね」
 父親が「バレエを理由に勉学を疎かにするのは許さない」って言うからさ。そう言って翼は苦笑いした。よその家の事情に首を突っ込むべきではないのだが、当時の私はそんなので出席日数は大丈夫なのかと密かに心配していた。新宿バレエ・シアターが運営する私たちのスクールは、まず義務教育中のものであってもその予定を考慮しようとしなかった。平日でも平気で泊まり込みの練習を計画するし、土日に模試があったとしても発表会はやる。
 私の不安そうな視線に気づいたのか、翼はニコリと笑いかけてくれた。長い栗毛が窓から入った風でさらりと揺れた。
「大丈夫! 私渚より頭いいから」
「あっ! そういうこと言うのか! そういうこと言っちゃうのか!?」
「さぁ、せっかく渚ママの恩恵に与れるんだから早く練習しよう! ってか、このオーディオどうしたの?」
 問い詰めようとした私をさらりとかわして、翼は部屋の隅に置かれた大きなスピーカー付きの高級オーディオを手で撫でる。私は胸を張って「お父さんからの入学祝い!」と答えた。
「さすが社長令嬢……規模が違う」
「私が持ってるのはバレエの才能と親の財力だけだからね!」
 私は手をいっぱいに広げて、その部屋で二回回って見せた。
 その部屋は2号館1階北側最奥にひっそりと存在していた。私たちが入学するまで物置だったそこは、約20年前まで小さいながらもちゃんとしたバレエスタジオだった。灰色のリノリウム床に前面と後面の壁に設置された全身鏡。部屋をぐるりと囲うように木製のバーが設置されている。その他多数の教室と同じデザインの天井を見れば分かるのだけど、そこはかつて普通の教室だった場所だ。なぜバレエスタジオに改造されているかというと、それは母がこの学校の出身だからだった。
 旧華族で同族会社をいくつも経営してた母の祖父と父は、可愛い幼き日のお母さんのために立海の一室をバレエスタジオに改造した。なぜか? その当時立海には芸能コースが存在せず、入学したからには何かしらの部活動に所属しなければならなかったからだ。だから校内へ強引にバレエ環境を作り、クラシックバレエ部なんてものまで力技で作ってしまったのだという。そうまでしてなぜ立海にこだわったかというと、それはただ母の生家が立海から徒歩三分の位置にあった。ただそれだけの理由だ。邸宅にはもっと立派なスタジオがあったという。だから母はここをほとんど使用してなかったらしいのだが、そんな体裁のためにひいじいちゃんやじいちゃんがいくら積んだのかは想像したくない。
 ただ、そのおかげで私たちは今ここで暇な日は練習することができている。
 バレエの通常レッスンは先生の都合上原則休日。コンクール前や土日が忙しい代わりに、何もない平日は案外ヒマだった。けどその間にサボるなんて言語道断。新宿まで行けば無料で空き教室を使わせてもらえるが、時間もかかるし金もかかる。立海に進学を決めたのはそんな理由もあった。ちなみに、千代田家は母の実家ほど規格外の金持ちではないので、お父さんは入学祝いにオーディオを買うのが精いっぱいだった。
「よーっし! じゃあ始めよっか」
 レオタードにはすでに着替えていた。今日は黒の7分丈に太ももが隠れるくらいのシフォンスカートを付けている。私はオーディオにCDをセットして再生ボタンを押そうとした。ピアノ音楽に合わせて基礎レッスンをするのが私たちの練習前の儀式だった。
 しかし、予想外の雑音の所為で私の指は止まった。
「おいテメェ……なんで一年のくせしてラリー練習に混ざってんだよ。一年は夏体終わるまで体力作りだろうが!」
 声変わりしたばかりの男子の怒声に、私は顔を上げた。翼が心配そうな顔をして窓から外を覗いている。彼女に習って、私もそっとカーテンの影から声のした方を見た。
 そこにいたのは、こちらに背を向けた芥子色のジャージ4人組だった。背の高い3人が、残りのひとりを取り囲むようにして立っている。そのひとりは彼らに隠れてよく見えなかった。
「……あれ、テニス部だ」
「知ってるの?」
「派手なジャージだから覚えたの。うちのクラスにも何人かいる……」
 翼は少しだけ開いた窓から恐る恐る顔を出した。4人はこちらに気付いていなかった。
「だいたいテメェ生意気なんだよ。3年の先輩たちにちょっと試合で勝ったくらいで」
「名前、なんて言った? お前確か進学コースだろ。お前みたいお勉強との両立とか目指してるお坊ちゃんは初心者コースで遊んでろ」
 2号館の横には、地面を掘り下げる形でテニスコートが6面存在した。男子部と女子部で3面ずつ使用しているらしい。そこでは芥子色のジャージを着た選手たちが素振りをしたりラリー練習をしたりしている。誰も、彼らが不審な行動をとっていることは気付いていなかった。
「おい、なんとか言えよ!」
「ぐっ……!」
 その時、初めて3人の壁が崩れて残りの一人が見えた。
 ウェーブがかった長い黒髪は、日の光の加減で藍色に輝いていた。その綺麗な髪を男子が鷲掴みにしている。筋肉の付き方から男子だと確信したけど、その人形みたいに整った顔が痛みで歪んでいるのを見て、それは間違いなく弱い者いじめだと思った。
 当時の私が、一番許せないと思っていた行為だった。
 私は壁際に置いていたペットボトルを掴んで、窓から勢いよく投げた。半分以上減っていたそれは軽く、辛うじてひとりの男子の尻に当たった。
 音にビックリして3人が振り返る。私は窓から身を乗り出した。
「おいコラッ! 焼き入れるにしても3対1なんて卑怯だろっ!? 男ならタイマン張れバカッ!!」
 ちなみに、当時私は海賊王を目指す漫画に登場する口の悪いコックさんに心酔していた。口が悪いのはその影響だということを分かってほしい。
 レオタード姿でバレエシューズのまま外へ飛び出すと、男たちはこちらをジロリと人睨みした後「行こうぜ」とバツが悪そうに去っていった。そのまま芝生の植えられた坂を下っていく彼らを横目に、私は髪の毛を掴まれていた彼に駆け寄った。
「大丈夫? ……ったくなんだあいつら。アンタテニス部の1年でしょ? ああいうのは放っとくとつけあがるからガツンと言った、方が……」
「ありがとう」
 彼を覗き込んだ時、その目があまりにも冷たくて私はしばらく言葉を失ってしまった。
 そこには何も映ってなかった。元々綺麗な顔をしているせいで、無表情だとどこまでも冷徹に見える。髪と同じく光の加減で藍色に見えるその大きな黒目は、ただ無感情に目の前の虚無を受け入れているだけだった。お礼を言われたのに、彼はどう見ても喜んでいるようには見えなかった。
 呆然とする私の横を、彼はそのまま通り過ぎた。
 振り返ると、肩を落とした少年の後姿が見える。その綺麗な髪は風で無造作に靡く。芥子色のジャージに横一線に走る黒い線が、彼の半身を真っ二つにしているようだった。私はあの日から数年たった今でさえ、あれほど悲しそうにコートへ向かうテニスプレーヤーを見たことが無い。
 それが、私と幸村精市の出会いだった。


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -