12月29日
 朝起きたときには、体のだるさもすっかり取れていた。体温計で計ったら熱は37度。タンが絡んだ咳も出てたけど、動く分には支障はないので私は朝の5時に飛び起きた。
 どうやら私はあのレイプされるかされないかの瀬戸際で目を回してぶっ倒れたらしい。その時点で熱は39度近く。どう考えても例の浴場閉じ込め事件の所為だ。それと同時に様子を伺ってた真田と仁王と柳に保護され、私はオーナー夫妻の車で麓の町の医者に搬送された。とりあえずインフルエンザでないことだけは確かめられ、処置として解熱の点滴を打たれてそのまま合宿所へと返された。そしてたまたま真田と仁王の試合が無い時間帯に目を覚ましたらしい。
 その後私は思う存分惰眠を貪り、その中で立海にいた頃の夢を見た。夢の内容までは覚えてないけれど、幸村が楽しそうにしていたことだけは頭に残ってるから十分だ。
「おはようございます! ごほっ、げほっ……」
「うわ、咳やべー。うつすなよ千代田」
「その一般的なマスクでは密着性に問題がある。この鼻の付け根や顎のラインにフィットする超立体型マスクを使うといい」
「……大丈夫?」
 一日顔を合わせてなかったけれど、青学メンツは相変わらずだ。菊丸は私の扱いが雑だし、乾くんはよく分からないけどたぶん青学を守ることで頭がいっぱい。小首を傾げて心配してくれる不二だけが心の癒しだ。乾くんが差し出した医者用みたいなマスクに付け替えながら、私は立海のテーブルの方を向いた。
 言葉少なに黙々と朝食を食べる彼ら。柳は相変わらず食べるのが遅くて、真田は白米の量が多い。丸井が桑原のおかずを横取りして、柳生が小声で仁王に何か話しかけていた。
『私が何か行動を起こして変えるべきだと思う?』
『焚き付けるのは俺たちの仕事だ』
 義務じゃない。仕事じゃないんだ。私が何もしなくたって立海テニス部は幸村を中心に回っていく。手塚くんたちが焚き付けなくたって、きっと不二はテニス部でテニスを続けられたから。
 だからこれは、私が勝手にやることだ。私がそれに携わりたいだけなんだ。
「ちょっと立海テーブルにポットおいてくるね!」
 他校の配膳に目途をつけ、私は熱いお茶が入ったポットを二つ持ち出した。一つは二年生たちが座る立海テーブルの前方に。そして、もう一つを大事に持って後ろへと向かった。
 最初に私の接近に気付いたのは桑原だった。彼らしく気まずそうな顔をして視線を背ける。その様子に気付いた丸井が、無言で私を睨みつけていた。
 やがて、彼ら全員が私に気付く。7人の双眸が私を見る。懐かしい顔ぶれを、だいぶ久々に真正面から見つめた。この合宿中、なるべく彼らを視界に入れないように逃げていたから。
「……おはよう! ポット、ここに置いとくね」
 そう言って重たいポットをテーブルの上にそっと置いた。丸井と桑原は唖然としている。仁王は目を逸らしながら頬杖を付き、柳生は少し微笑んで「ありがとうございます」と言った。
 柳は少し目を見開き、真田は少し眉をひそめて「遅い」と言った。
「普通配膳前に設置しておくものだろう。何をやっている」
「ごめんごめん。……ラスト1日、頑張ってね」
 右足を引きずってそこから退場する。今日はいつもより調子が良くて、小走りくらいならできそうな気がした。背後から丸井の「なんだアイツ……お前らなんかしたの?」という不機嫌そうな声が聞こえる。
 待っててほしい。近いうちに必ずあの門をくぐる。潮風を背にして、オムニコートを駆ける芥子色のキミたちに会いに行く。具体的にいつとは言えない。それでも必ず、年が明けたら会いに行く。事態は良くならないかもしれない、むしろ悪化するかもしれない。それでも私は確信していた。幸村はなにがあったって立海の神の子幸村精市だ。
 仁王。だからどうか、私なんかに劣等感を抱かないでほしい。胸を張ってほしい。幸村のチームメイトは自分たちなんだ、だからお前なんかいなくても一緒に三連覇してやるんだって。真田みたいに自信を持ってほしい。私がつけた傷には私しか触れられないだけで、それを誰にも見せないのは幸村なりの優しさなんだよ。それだけ、立海テニス部が大切なんだよ。
 謝りに行くんじゃない。元友達として必ず、幸村にぶつけた理不尽な苛立ちを返してもらいに行こう。そう決意して、私は厨房で大きく伸びをした。目の前にはオーナー夫人が特別に作ってくれた雑炊がある。


 12月29日。気付けば2003年もあと3日だ。この日、私たちは夕方5時には合宿所から完全に撤収する予定だった。
 最後の練習試合を消化して、午後3時に四校合同合宿の全プログラムは終了した。今はそれぞれ帰りの準備も終え、榊監督の案で自分たちが使った場所を自主的に清掃している時間帯だ。
 私は丁寧に食堂のテーブルを拭き終え、続いて床の掃き掃除に取り掛かろうとしていた。その時、食堂の引き戸ががらりと音を立てる。
 そこにはゴミ袋を持った手塚国光が立っていた。
「ごみの回収に来た」
「ごめん。まだ掃き掃除終わってないんだ。あとで持ってくよ。どこに運べばいい?」
 手塚くんはあたりを見渡して掃除の進行状況を確かめるような仕草をすると「いや、また後で来よう」と告げた。
「ありがとう」
 私は引き続き箒でゴミを集める。高校生にもなって食べこぼしが多いのはどういうことだと内心で憤慨していた。しかし、いつまで経っても扉が閉まる音がしないことにやがて疑問を覚える。
 顔を上げると、まだそこに手塚くんは立っていた。
「……あの?」
「今回は、関係のないきみを巻き込んでしまったようで本当にすまなかった」
 細長い身体が45度の角度で曲げられる。顔を上げた時、確かに彼の纏っているジャージが青と白と赤のラインが特徴的なあのデザインに見えた。瞬きをすれば、何の変哲もないスポーツブランドの白いジャージがあるだけなのに。
 それが、今の私にはとても不気味なものに見える。
「だが、不二が何事もなく部活に復帰できたのは千代田さんのおかげだ。とても感謝し……」
「もうやめなよ、そういうの」
 手塚くんがはっとした表情でこちらを見る。小さな私を見下ろす。私ははっきりと、もういちど「やめなよ」と言った。
 その青学部長の亡霊は、もう鷹のような目をしていなかった。純粋に驚いている、16歳の男子の目だ。
「プロを目指してた手塚くんが、わざわざ中堅中学の部活動にこだわった理由は知らない。でも実際に全国制覇へ導いたんだから、きっとすごく強い思い入れがあったんだと思う。……こうして、所属してない今でも気に掛けてるくらいなんだから」
 私は手塚くんの表情を伺いながら話を続ける。徐々に寄せられていく眉間の皺。不快感を隠そうともしない険しい顔。けれど、どんなに不機嫌そうにしてたって辞めるつもりはなかった。
「けど、手塚くんはもう青学の手塚国光じゃないんでしょ?」
 彼の硬い表情がさらに強張る。構わず続けた。
「菊丸が今、手塚国光の残した影響力と一生懸命戦ってる。菊丸らしくもなく、手塚がいなきゃ何もできないのかなんてことを悩んでる。乾くんも、なんとか自分たちで解決しようと思って私を利用した。頭の良い彼は、たぶんそれが正しくないってことも分かってたと思う。それでもそれをしなきゃいけなかった。……手塚くんがいなくても大丈夫だって、自分たちに言い聞かせるために」
 タンが絡んだ咳が漏れる。マスクの内側が自分の深呼吸で湿った。
「……不二は、手塚くんが焚き付けなきゃエンジンが掛からないと思ってる?」
 手塚くんは少しだけ間をおいて、ゆっくりと、しっかりと首を横に振った。
「すまない千代田さん。……今の話を聞いて、俺は多少きみのことが苦手になった」
「だろうね!」
 口元は見えてないだろうけど、歯を見せて笑ってやる。それはたぶん、文化祭の時菊丸が屋上で私に敵意を向けたのと同じ理由だ。
「部外者にそんなことを語られたくないし、そこにはきみの知らない事情がいくつも絡まり合っている。できれば本人たちから聞きたかった。少なくとも、ほとんど初対面の女子生徒から聞きたい内容ではなかった」
「うん」
「ただ」
 気のせいか、ほんの少しだけ彼の表情が柔らかくなった気がした。すぐに踵を返してしまったので、よくは見えなかったが。
「もう『柱』でいてはいけないんだと、肝に銘じておこう」
 彼はそう言ってこちらに背を向けながら器用に扉を閉じた。
 柱というのは一体なんなのか。彼は詳しく語らなかったし、おそらく不二たちに聞くのは無粋だ。なんとなく、精神的なみんなの支えみたいなものかなと思った。
 たとえば、今の青学の柱は誰なんだろう。手塚くんが抜けた後、誰がその支えになるのか。そんなことをしばらく考えながら箒を動かす。やっぱり不二なのだろうか。彼がみんなの支えになる光景がどうも上手く思い描けないでいた、その時だった。
「……おう」
 扉が開いた。その音に反応して振り返ると、そこにはあの男がいた。
 青学2年の先輩。不二のことを目の仇にして、私を浴場に閉じ込めた男のひとりだ。私が慌てて箒を構えて後退すると、彼は顔をしかめて「そんな警戒すんなよ」ぶっきらぼうに言う。
 あの時は高熱で視界がぼやけてよく見えなかったけど、今はその顔がはっきりと見える。日焼けした肌に短い黒髪。何故かその顔にはあちこち絆創膏が貼られていた。
「不二から1ゲームとって、手塚から1ポイントとった」
「!!」
 劣等感の塊だったその男は、まるで長年の憑き物がとれたかのように清々しい表情をしていた。私は逆に、驚きのあまり声がでない。つまり、その傷は名誉の負傷ということか?
「……オレ、テニス部やめるわ」
「えっ!?」
 驚きのあまり、思わず一歩彼へ近づいた。
「なんかもう、満足しちまった。左手にラケット構えた手塚から1ポイント奪えた時、なんかもう、オレはこの瞬間のためにテニスしてたんだろうなって思っちまって」
 あいつスゲーよなぁ。そう言ってなんだか力が抜けたように笑う先輩。
「神の子への復讐に燃えてるわけじゃねぇ、自分を馬鹿にした連中を黙らせようっていう気概があるようにも見えねぇ。そんな甘チャンの不二を認めることはできねぇけど、まぁ……アイツやっぱ上手いわ。オレみたいな惰性で続けてた選手がどうこうできるタマじゃねぇ」
 先輩は腕を組み、扉に凭れ掛かる。学校指定ジャージに、所々穴が開いているのが分かる。この人がとうとう一度もあのレギュラージャージに袖を通すことはなかったのかと思うと、なんだか虚しかった。
 テニスや部活に対する思いの種類が違っただけで、その強さに大差があったわけではないのに。
「……お前、あの時オレの手が不二と同じとか言いやがったな」
 私が物思いに耽っていると、先輩はぶっきらぼうにそう問いかけてくる。彼の方を見ると、私から視線を逸らしどこか照れているようにも見えた。
「テニスを頑張ってる人って、みんな同じ手をしてますよね」
「!!」
 あの時、先輩はテニスを上手くなろうと頑張ってボロボロにした手で、自分のテニスも壊そうとしていた。それを思ったら、なんだか他人ごとに思えなかっただけだ。
「……ずっと、テニスしかしてきてねーからよ……女子にあんな手握られたの、初めてなんだよ……」
 強面のスポーツ刈りが何を言い出すかと思ったら。ほんのり頬を赤く染めてそう言う彼に、私は少し嬉しくなって駆け寄った。
「そうだったんですかぁ?」
「あーもう! オレはテニス辞めて彼女作るぞ! 女がほしい!」
「頑張ってください! 私は無理ですけど」
「テメェみたいなブスこっちからお断りだ! 不二は見る目ねーよなぁ。その点だけは同情するぜ」
 結局、先輩から最後まで謝罪の言葉は聞けなかった。でももういいやと思った。この人に、早く素敵な女性が見つかればいいなと願った。


 日本一のテニス馬鹿たちと過ごす6泊7日も、終わりを告げようとしている。
 各校の選手たちは皆二列に並び、寒空の下で声を張る榊太郎監督の言葉に耳を傾けていた。
「諸君。私がこの合宿の初日に言ったことを覚えているだろうか」
 何人がそれを真剣に聞いていたかは分からない。ただ、私の隣にいる不二は真っ直ぐ榊監督を見ている。
「チームメイトとして、クラスメイトとして、一年の大半を諸君は隣にいる選手と共に過ごす。良い意味でも悪い意味でも、諸君のコンディションには精神的かつ私的な影響がでてくるだろう。テニスとは全く関係のない部分で妨害を受け、潰れた部員も何人か見てきた。だから私も一時は、部員同士が私生活で密接な関係を築くのを良しとしない頃があった」
 手塚くんはコーチ陣と一緒に前へ並んでいた。
「だが、時に限りなく不可能に近かったことを実現したのも、チームメイト以上の関係を築いた選手たちだった。私自身、根拠のない根性論は論ずるに値しない無価値なものだと思っている。テニスは団体競技ではなく、チームワークなどという言葉もかつては鼻で笑い飛ばしていた。しかし何年も部活動の監督を担っていると、ある一つの可能性が見えてきた。これは無根拠だがほぼ確実とも言える、部活動の唯一の長所なのではないだろうかと」
 山の北風に晒されながら、私は咳が漏れないように一生懸命耐える。
「それは諸刃の剣だが、U-17合宿に参加した者には分かる様に、ひとりで戦っている選手にはけして手に入らない武器だ。……諸君が、それを生かせることを祈っている」
 こうして、四校合同合宿はお開きとなった。
 帰りは頑張った選手たちへのご褒美ということで、新幹線こだまの指定席乗車券が榊監督から配られた。名古屋駅で四天宝寺たちと別れの挨拶をする。大阪行きの新幹線がまもなく到着するという頃、白石くんが不二に「選抜大会、楽しみにしとるで」と告げて肩を叩いた。不二は微笑みで返事をする。彼らがプラットホームを出た8分後、私たちが乗る新幹線も到着した。
 一両貸し切り。三校の選手たちが思い思いに座っていく中、私は一人で車両最後列の窓際へ座った。窓枠からは下りのプラットホームで電車の到着を待っているサラリーマンや家族連れがいる。日が暮れた空には雪雲が立ち込め、今にも降り出しそうだった。
「隣いい?」
 その声に弾かれたように振り向くと、すでに不二が頭上の荷物入れに荷物を積み込んでいた。
「千代田のも入れようか?」
「ああ……うん。ありがとう」
 背伸びをして彼が私の赤いボストンバッグを入れてくれる。そして自身が着ていたベージュのダッフルコートも脱いで仕舞いこむ。その下にはまだ黒いジャージを着ていた。彼が再び青学のレギュラージャージに袖を通すのはいつだろう。
 彼が席に座った頃、名古屋発東京行きの新幹線は出発した。ゆっくりと動き出し、やがて加速していく。移りゆく名古屋の雑居ビルやネオンの風景を見ながら、私は暫く無言だった。話したいことがたくさんあったけれど、上手く頭の中で纏まっていなかった。
「……先輩と、戦った」
 だから、口火を切ったのは不二の方だった。
 車両内は男子高校生たちの明るい騒ぎ声で満ちていた。みんな年末年始の休暇に向けてテンションが上がっていて、だからさほど大きくない不二の声は私にしか聞こえなかった。
「僕と手塚が、彼に試合を持ちかけて落とし前をつけるつけさせるつもりだった。キミの言葉を借りるなら、そう……これはテニスの合宿だから、気に食わなきゃテニスで決着つければいいと思って。ふたりでそう相談してたんだ。……でも、彼自身が向かってきた。彼は監督たちに頭を下げて、練習試合に自分と僕たちの組み合わせを入れてほしいと頼んだみたいだ……」
 不二は脱力したようにシートに凭れ掛かる。新幹線の背凭れはほとんど直角で、彼は少し窮屈そうに身じろぎした。
「……僕はね、千代田」
 誰の目も届かない最後列で、彼はそっと私の左手を握った。私たちの間に肘掛は無かった。
「悔しいから勝ちたい、他人より優位に立ちたいっていう気持ちが、よく分からないんだ。一番になることに価値があるとも思えないし、自分よりも強い人がいた方が楽しいとも思ってる。……勝利にこだわることができないんだよ」
 縋る様に力を込められる手。
「テニスは好きだけど、どうしても譲れないものではない。勝てるか勝てないかっていうギリギリの攻防が好きで、その快感を得たくてずっと続けていた。むしろ、自分よりも強い人に食らいつく試合の方が好きなくらいだ。……だからそれがチームの勝利の妨げになるなら、レギュラーから外されても仕方ない思ってた」
「不二……」
「中学の時もさ、みんながレギュラーの座を死に物狂いで奪い合ってる光景を見て、すごいなーって他人行儀に感心してたんだ。かっこいい、とか思ったりしてね。自分には真似できないとも思った。そんな僕に団体戦という戦い方を教えてくれたのは、手塚だった」
 不二はどこか懐かしそうに宙を見つめる。
「不二周助のためにじゃなくて、チームのために戦った。そしたら、勝利に執着することができたっ。僕ははじめて悔しいという感情を理解できたんだよ。僕自身がじゃなくて、青学が負けるのが悔しかった。……やっとみんなと同じ感情を共有できたと思って、嬉しかった……」
 不二は少し興奮気味にそう言って、嬉しそうに笑っている。
 まるで、仲間に入れてもらえて安心している子供のようだと思った。この人はたぶん孤独だったんだ。自分の考えていることが他人とずれていて、どこか足並みが揃わないことを心のどこかでずっと気にしていた。
「そしたらね、先輩に言われたんだ。そういう態度が綺麗ごとじみてて気に食わねぇって。……久々に人から、お前は普通じゃないって言われた」
 その直後に1ゲーム取られた。と不二は自嘲する。私は絆創膏だらけだった先輩の顔を思い出した。
「チームのために戦うのは当たり前。それ以前にたくさんの選手を蹴散らしてレギュラージャージを手に入れてるんだから、その無念と行き場がなくなった闘争心を背負うのがレギュラーの責任なんだって。……反論できなかった。たくさんの『勝ちたい』を背負って、僕たちは戦わなきゃいけなかったんだ」
 自分の無神経さに辟易する。
 そう呟いた彼の手を握り返した。視線を窓の外へと向けるが、真っ暗で窓に映った自分の顔しか見えなかった。たまに明かりらしきもの見えるけれど、それもものすごいスピードで窓枠から消え失せた。どこまで行っても暗がりしか見えない。それがますます私たちを心細くさせた。
「千代田は前に、僕のことを『自分と重ねてる』って言ってたよね?」
「……うん」
 ゆっくりと振り返れば、そこにはいつもの微笑みがある。この人の笑顔は鎧だ。楽しくなくても、嬉しくなくても笑うんだ。いつも笑っていることで、他人に自分の感情を読みづらくさせている。本心を見せることを良しとしない。他人と少し違う、自分の本質を見せたくないんだ。
「千代田は、誰かに勝ちたいっていう願望で頭をいっぱいにしたこと、ある?」
「えっ……?」
「僕に似ているキミは、そういう感情を抱いたことがあるのか気になったんだ」
 つないだ手の指が絡まる。不思議と緊張や照れはなかった。こうしていなければ、私たちは寂しくて死んでしまいそうだった。
「……ないよ。認められたいとか、誰よりも上手くなりたいとか悩んだことはあったけど……バレエは競技じゃなくて芸術だから、誰かとの勝敗を気にしたことはなかったな」
「そっか……」
 不二は微笑みを崩さない。
 彼はまだ、完全に私に心を許したわけじゃない。そんな当たり前の事実を受け止めきれなくて視線を逸らす。すると、急に彼が声を出して笑った。驚いて不二を見ると、もう鎧を付けてはいなかった。
「眉間に皺なんか寄せちゃってさ。怖い顔しないでよ、お嬢さん」
 悪戯を思いついた悪がきのような顔をして、彼はからかうように左手で私の眉間を小突いた。自分の顔が熱くなっていくのが分かる。
「こ、子ども扱いしないでよ!! 同い年でしょう!?」
「スッピンだと小学生に見える」
「みんなそんなにスッピン弄ることないじゃん!! 心配しなくても学校には化粧していきますよもうっ!!」
「僕ね、千代田のそういう、ころころ変わる表情がすごく好きだよ」
 耳元で囁くようにそう言われ、私は左耳を押さえて飛び上がった。幸い前の方に座っている選手たちには勘付かれていない。不二は声を上げて笑っている。心底楽しそうなのがまた悔しい。
「こっ、殺す気かああああ!? 人間の鼓動の回数は最初から決まってるんだぞ!?」
「ごめんごめん。でもさ、なんだかキミには暗い話ばっかりしてたから」
 席に座り直して、二つの席の間に肘掛を下ろした。出来るだけ窓側に詰めて座ると、不二はまだ少しだけ笑いながら座席を倒すスイッチを押して上体を傾けた。東京まであと3時間くらいかかる。私も仮眠を取ろうと思って座席を後ろに倒した。案の定少ししか倒れなかったけれど、僅かに首元にゆとりができる。
「……キミとの関係について、思っていたことがある」
 横から彼の声が聞こえてきたのは、新幹線が三河安城駅のプラットホームに入った時だった。アナウンスがそれを単調に知らせていた。
「テニスをする意味とか、戦う理由とか、青学テニス部に戻る心構えとか、いろいろ考えたけど……まだまだ分からないことだらけだ。だからそれは追々考えることにして、今はただ青学のために戦うことにした。……全国制覇を、目指す」
 彼の声は震えていたけれど、弱々しさや自信の無さは感じられなかった。緊張しているような声の強張り方だった。私は黙って天井を見据える。薄汚れたグレーだ。
「千代田には、見ていてほしいんだ。これから僕が、青学の不二周助へ戻っていく姿を見ていてもらいたい。あの文芸部室から。……キミが、かつての自分と今の僕を重ねているのなら、僕は絶対に復活してみせる。その姿をキミへ見せる。……それが、キミに出来る最大の恩返しだと思った」
 手はもう触れていない。幅10センチほどの肘掛が、私たちの間を分断している。私はゆっくりと目を閉じた。数回咳が漏れた。
「頑張れ。ずっと応援してるよ、あの部屋から」

 いろんなことがあった年が暮れようとしていた。
 特に後半は、まるで立海で起きた出来事すべてをなぞるみたいに青学で問題に直面した。絡まった糸を少しずつ解いていくように、私はあの頃嫌になっていた自分を縛る感情や因縁について改めて考えた。不二を通して、青学を通して、私はあの頃の私と立海を見ていた。
 年明けには幸村に会いに行く。新横浜で降りていった立海の選手たちを横目に、立海を去った理由について考えていた。誰にも言わず青学の受験を決め、どんどん卑屈になり、幸村を殺そうとするところまで追いつめられた自分について。ちゃんと考えなければいけない時が来たのだと思った。彼ともう一度向き合うためにも。
 東京駅に降り立ち、地下鉄と私鉄を乗りついで最寄駅に着く。時刻はもう10時近かった。送っていくという不二に甘えて、マンションまでの道のりを他愛のない話をして帰った。年末年始にかけて、彼は青学の元レギュラー陣と一緒にスキー旅行へ行くらしい。私の方に予定はない。電話やメールをするという約束をして、私たちはマンションのエントランス前で別れた。
 8階の自宅に入ると、やはり真っ暗で人気はなかった。玄関横の扉を開くと、殺風景な自室が待ち構えている。マスクを外して、入り口横の黒いゴミ箱に捨てる。数時間振りの解放感に、何回か深く息をする。冷たい空気が肺を満たす。明かりをつけて黒いベッドへ横向きに寝転がると、丁度真正面に銀縁のフォトフレームが見えた。
 長い黒髪に馬鹿っぽい童顔、潰したニキビ痕。そんな中学時代の私の隣で笑うのは、立海の神の子幸村精市。立海テニス部である彼らが、今も色褪せずそこにいた。その四角の中に、まだあの夏は存在していた。


第一章 不二周助 完


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