12月27日
 目の前の真ん丸なネコ目がパチパチと数回瞬きをする。アーモンド色の大きな瞳だ。私はそれを無気力に見つめ返していた。やがて、その目が面白おかしそうに細くなる。
「千代田ぶっさいくー」
「黙れ馬鹿猫!!」
 大きく振りかざした拳が当たるはずもない。軽々しく避けられて、菊丸英二は笑いながら私を引き続きからかう。
「目の周り真っ赤、なのに隈出てるし。なんか頬もこけてるような気がするし、顔色も悪いし。なんかすっげー貧乏そうに見えるよお前」
「うるっさいな! 生まれてから一度もお金で困ったことはありませんけど!」
「うわ、それオレに対する嫌味? ただでさえ大家族だから金無いってのに、俺私立に通ってるし、来月ねーちゃん結婚するからやたら金使うし」
「え、でもめでたいじゃん。おめでと……へっくしゅ!!」
 目の前にいる菊丸へ飛沫が掛からないように両手で押さえる。眼を開けてもしばらくは少し気恥ずかしくて顔を覆ったままでいると、彼は容赦なく「やっぱくしゃみする前の顔って一番ぶさいくだよね」と言ってくる。恥ずかしく思っていたことや、昨日の出来事を引きずって暗くなっていた自分が馬鹿馬鹿しくなって思いっきりその脛を蹴ってやった。
「いって!? お前っ! 荷物厨房まで運んでやんねーぞ!?」
「それとこれとは話が別!! 女に対して何度も何度もブスブスって、失礼にもほどがあるでしょ!」
「事実じゃん。化粧やめてからホラー映画に出てくる日本人形みたいな顔になった」
 不二はこんなののどこがいいんだか? と拗ねたようにそっぽを向く彼。それでも変わらず荷物を運んでくれている。このところトラブル続きで疲弊している私を、彼なりに元気づけてくれてるんだろうなと勝手に解釈した。
 菊丸が優しいことは知ってる。こうしている今だってそうだ。次の試合までまだ時間があると言っても、ホントは仲間の試合とか見ていたいだろうに。
 12月27日、合宿5日目。合宿所がある山の麓の町も、年末に向けた準備で人々は忙しそうにしていた。スーパーにはおせち料理やそばが並び、玄関先には正月飾りが増えてくる。しかし合宿中である彼らに年末に向けての支度は関係ない。今日も朝から日が沈むまでテニス漬けだった。
 しかし、昨日までとは少し違う光景がコート内では見られている。
「おっ、不二勝ったっぽいよ」
「えっ! どこどこ!?」
「ほら、Bコート。相手は……あのバンダナは一氏かな?」
 ここから少し離れたBコートでは、ネットを挟んで二人の選手が握手をしている。辛うじて見えるスコアボードには6-3の文字。思わず嬉しくなって菊丸の顔を見ると、彼もニシシと笑って手を差し出してきた。二人でハイタッチをする。
「でも、やっぱ悔しいなー。こうもあからさまにやる気出されちゃうと……」
「仕方ないよ。だって不二にとって彼は特別だし」
「ほほう、ずいぶん知ったような口ききますなー千代田さん。さすが不二をストーキングして落した女」
「人聞きが悪い。……それに、彼を見た途端に不二が浮かべた表情を見たら、誰だって気づくでしょう」
 挨拶もそこそこに、不二はBコートの近くにいるとある男の元へと近づく。彼はその男からタオルを受け取ると、汗を拭きながら笑顔で談笑し始める。遠目から見ても、不二が心躍らせているのは一発で分かった。
 彼が話している男は、ノーフレームの眼鏡越しに鋭い鷹のような目を不二に向け、時々相槌を打っている。白いテニスウェア。腕を組んでフェンスに凭れ掛かる様はさながら一流選手のような貫録だ。
 そう、彼の名前は手塚国光。不二の元チームメイトにして、現在はドイツへ留学中の学生テニスプレーヤーだ。
 今朝はやけにコーチたちが起きる時間が早かった。私と同じくらいの時間からガサガサし始めていた彼らだったが、その理由は朝食の時間に明らかになる。
「本日より、特別ゲストを迎えて合宿を行う。……入ってきたまえ」
 榊監督の呼び寄せる声に従い、食堂の扉が静かに開いた。入ってきたのは長身で茶色がかった黒髪の青年。昨日の仁王の言葉にずっと落ち込んでいた私だったが、一瞬それが頭の中から吹き飛ぶくらい衝撃的だった。
 私は彼を知っていた。昨年の全国大会で、自校の皇帝と死闘を繰り広げた敵校の将。手塚国光。
「手塚国光です。本日より三日間、よろしくお願いします」
 私は咄嗟に不二を見た。手塚くんの話は他の誰よりも不二からよく聞いていた。軽く会釈して、その鋭い目で周りを見渡す彼を、不二はじっと見つめていた。
 口元に笑みが浮かんでいた。眼がキラキラして、心底嬉しそうだ。けれどそれは旧友と再会できた喜びではなく、どちらかといえば闘争本能を押さえられない雄のような表情だった。背中がぞくりとする。寒気にも似た感覚だけど、どちらかといえば興奮に近かった。戦いを切望している不二の表情が、とても魅力的に思えたんだ。
「そして一つ連絡事項だ。……本日より、雑用係として参加してもらっていた不二周助くんも練習試合に参加してもらうことになる」
 私が不二に見惚れ、不二が手塚くんを食いつきそうな目で見ていた時だった。榊監督が爆弾発言を落とす。あたりは一瞬だけ静まり返り、やがて徐々に雑音が広がっていく。
 戸惑い7割、不満3割と言ったところか。菊丸は驚きつつも喜び、乾くんはまるで知っていたかのように落ち着いていた。不二自身は先ほどとは打って変わり、無防備にも口を半開きにして榊監督を見ている。
「これは四校監督陣の総意だ。したがって反対意見を受け付けないわけではないが、決定を覆すのは難しいと思ってもらいたい」
「す、すみません!」
 それに対して、真っ先に声を上げたのは他でもない不二自身だった。榊監督は少し眉をひそめながらも「なにかな?」と答える。
「あの、練習に参加させていただけるのはとても嬉しいです。しかし自分は試合に対して何カ月かのブランクがあり、勘を取り戻すために本合宿へ特別に参加を認めてもらえた身なのですが……」
「その『勘』がすでに戻ったと我々が判断した。だから本日から参加してもらう。何か不満でも?」
「いえ、ですが……」
 不二は少し戸惑っているようだった。手塚くんを目の前にして、すぐにでもテニスコートに戻りたさそうにしていた姿はどこへやら。そんな彼を見かねたように、榊監督は少しため息を吐いてよく通る声でこう告げる。
「では午後一番に氷帝の忍足と試合をするように。それから自分の勘が戻っていないと思ったなら、その時意見を受け付けよう」
 結果として、不二周助VS忍足侑士の試合は6-4で不二が勝ったらしい。その間私は買い物に行っていたので見てはいないのだが、菊丸曰く「なんか前みたいな余裕さとか優雅さは無かったけど、その分真剣に向き合ってるように見えた!」とのこと。

「はーっ! 重ってー!!」
 厨房のシンクの上にどんっ! と勢いよく食材が置かれる。今日の夕飯は麻婆豆腐、私は豆腐ばかりが詰め込まれている袋をそっと置いた。そして上着のポケットから小さな袋を取り出す。
「ありがとう。お礼にチョコレートあげちゃう」
「えっ、マジでっ!? つーかなんで持ってんの!?」
 差し出した200円くらいのお菓子に菊丸は飛びつく。眼がキラキラしてるのがなんだかおかしかった。この前の晩はあんなに大人ぶってたのに。
「夫人が買ってくれたの、いつも手伝ってくれてるお礼って。でも私甘いもの苦手で……」
「ええっ!? 女子なのに!? めっずらしー」
 千代田サンキューな! と彼は高速で袋を私から掻っ攫い、シンクに凭れ掛かって袋を開けだす。
「んーっ!! やっぱ疲れてる時は甘いもんだよなっ!」
 それだけ美味しそうに食べてくれるならチョコも本望だろう。
「でもさ、ホント手塚くん来てくれて良かったよね」
 幸せそうにチョコを咀嚼する菊丸くんを眺めつつ、一日のうちで唯一羽を休められる時間を堪能する。
 5時に起きてから10時間ほどフル稼働の過密スケジュールはここで少し小休止となる。夕飯の仕込みを始めるのは5時から。およそ2時間自分の時間を与えられているのだが、その間選手たちはみんな試合中なので私は大体テレビを見てるか仮眠をとるか携帯を弄っている。
 でも今日は話し相手がいる。なんだかそれが嬉しくて、ついそんなことを口走った。
「んー」
 けれど、菊丸くんは急に声のトーンを落としてしまう。表情もなんだか微妙そうだった。
「……菊丸?」
「……千代田、オレのこと菊丸って呼ぶようになったね」
 そう言って、彼はなんだか無理やり浮かべた様な笑顔を私に向けた。
「ご、ごめん。気に食わなかった?」
「ううん。学校の女子はみんな呼び捨てだし、いいよ」
 くすぐったいじゃん! くん付けとか! そう言ってまた一粒チョコを口へ運ぶ。
「男子は英二、女子は菊丸。それが一番しっくりくる」
 菊丸は俯いて、少し物思いに耽る様な表情を浮かべる。目の前にある者が見えていないような、ぼんやりとした瞳だった。
「菊丸……?」
「ん? あ、いや。なんでもないんだ。ただちょっと懐かしくて」
 テニス部に入った頃、みんなオレのこと菊丸くんって呼んでたなって思って。そう言って彼は私の方を向きニカッと歯を見せて笑う。
 彼らの青学テニス部が始まった頃。その話にとても興味が湧いて、私は彼に話を促すように真っ直ぐ見つめ返した。
「オレ最初、あいつらとはぜってー気が合わないって思ってたんだ。大量にいた新入部員の中でも特にあの5人は浮いてた。不二と乾は基本何考えてるか分かんなかったし、大石は一見地味なのに先輩に混じってダブルスの相手させられてるのが悪目立ちしてたなー。唯一の良心だったタカさんもラケット持っちゃうとアレだし……手塚は、みんなから怖がられてた」
 菊丸は口元に人差し指を押し当てると「実はオレ、今でも手塚ちょっとニガテ。内緒だぞー?」とイタズラが成功したような笑みを浮かべる。私も釣られて笑った。
「ところがどっこい! 蓋を開けてみたら生き残ったのはみんなそいつら! 菊丸ちゃん大ピーンチ!」
「生き残った?」
「俺のこと最初から英二英二って呼んでた……まぁ普通に良いヤツらはみんな、半年以内に辞めちゃったんだ」
 寂しそう、というよりは呆れた様なニュアンスだった。
「変わり者だから、部内の最悪な雰囲気を気にしなかっただけなのか。それとも気付いてすらなかったのか……」
「最悪な雰囲気?」
「……まぁ、手塚が、ね」
 菊丸の話はこうだ。
 中学一年の時。手塚くんが入部したことにより、学年が上の者の方が実力者であるという部内のヒエラルキーは悉く崩壊したらしい。手塚くんは彼なりに気を使ってはいたらしいのだが、それが『手を抜いている』ととられて一部の上級生たちが激怒。彼もそれを黙って耐えていればさほど酷くもならなかったのだろうが、ある日暴力を振るわれたことにより彼の中の何かが切れたらしく、彼は反撃に出た。
 菊丸曰く、それからは手塚くんと上級生たちの争いが絶えなかったという。元々頑固な性質だった手塚くんは、暴力を振るわれた頃を境に間違っていることは間違っていると物怖じせず言うようになった。すべては青学が全国優勝をするため。練習内容を一新するよう持ちかけたのも彼で、馴れ合いの出来レースだった校内ランキング戦の見直しを言い出したのも彼だった。
 その年の3年生が引退してからは、特に1学年上の先輩たちへ食って掛かったという。先代部長が彼へ『副部長』という役職を置き土産にしたこともあって、先輩たちとの溝はますます深まった。彼は年功序列という悪しき制度を全て取っ払い、そしてとうとう中二の夏体ではレギュラーの数で2年生が3年生を上回った。徹底的なまでの実力主義ゆえの結果だったらしいが、悔し涙を飲んだ3年生は多かったという。
「ただ楽しく部活したかっただけのヤツらはみんな辞めちゃったよ。手塚も少しは引き留めればいいのに、あの仏頂面で『そうか』ってただ一言。それだけかよっ!? って、呆れたり怒ってたりしたヤツを何人も見てきた。自分が部内を引っ掻き回してる自覚が全くないんだもんなー……」
「でも、菊丸はまだテニスしてるんだね?」
 そう言うと、彼はハッとしたように私を見た。私はもう一度、はっきりと告げた。
「菊丸は、青学テニス部にいる。どうして?」
「……だって、手塚が正しいと思ったから……」
 手塚くんと菊丸の関係は、きっと同志と表すのが正しいんだろうなと思った。拗ねたように、認めたくないようにそう呟いた彼は、きっと手塚くんのことが本当に苦手なんだろう。菊丸は本能で生きている分、自分と合う人間と合わない人間を嗅ぎ分ける嗅覚がとても発達している気がする。それでも、その本能に逆らってでも、手塚くんが正しいと彼は思ったんだ。
「アイツはオレたちのヒーローだったよ。アイツだったからあの酷い状況も耐えられたし、その中でみんなのことも引っ張れた。でも……不二は違う。アイツはきっと耐えられない」
 菊丸の口から飛び出した愛しい名に、思わず背筋が伸びる。
 あの日、文芸部室で寂しそうに笑った彼を、テニスから遠ざかって消えかけていた彼を、カラオケ屋の廊下で苦しんでいた彼を思い出した。
 不二は違う。菊丸の言葉が脳内で反復される。その通りだと思った。不二と知り合ってまだ1年も経ってないし、よく話すようになってからは4か月くらいしか経ってないけれど。そんな私でも確信できた。
「……ゴメンな」
 唐突に、菊丸はそう呟いた。私は最初、それが私に向けられた謝罪だということに気が付けなかった。
「えっ?」
「だからなんだって話だよな! いくら不二のこと好きでも、これはテニス部の問題だし。それこそ、中学の頃なんて千代田青学にいなかったし……」
 そんなことない! と言おうとしたけど無理だった。菊丸はすっかり意気消沈した面持ちで、ほとんど半泣きになりながらチョコレートを頬張っていた。私は何も言えずに口を閉ざしてしまう。
「……結局オレたちは、手塚がいないとなんもできない……っ」
 なんとなくだが分かってしまった。菊丸は手塚国光にコンプレックスを抱いている。いや、もしかしたら乾くんもなのかもしれない。彼らが拘っているのは全国優勝なんかじゃない。手塚くん抜きでの全国優勝だ。
 前に不二から聞いた話だと、手塚くんは青学の選手として呼ばれたU-17合宿にてプロの道へ進む決心をしたらしい。それからの展開は早く、彼は途中で合宿を切り上げドイツへと向かい現地の有名チームと仮契約。一先ずはそのチームが懇意にしているテニススクールに留学するという形で、翌年春からのドイツ長期滞在が決まった。
 手塚くんは戻ってこないの? という私の無粋な質問に、不二はそう淡々と答えてくれた。だからもう、彼が戻ってくることはないだろうと。
『手塚は正解だったな。こんなチーム、早々に見捨てて』
 跡部にそうを言われて彼らがキレたのは、もちろん大切な昔の仲間を侮辱されたからというのもあると思う。でも心の底で、自分たち自身がそう思ってたからじゃないだろうか。

 私はどうすればいいのか分からず、ほとんど何も考えずに菊丸の背中を強く叩いた。
「いって!? おまっ、何すんだよ!!」
「なにしょぼくれてんの。私のことなら気にしなくていいし、不二のこと守りたいなら今は落ち込んでる暇なんかないでしょ」
 ごめん菊丸。私が今言えるのは、これが精いっぱいだ。せっかく話してくれて悪いけど、当事者じゃない私にキミたちの気持ちは分からない。だから、軽い同情や共感でこれ以上のことは言えない。
 一生懸命怖い顔をして、なるべくテンションを上げて菊丸に発破をかけた。イメージで言うなら肝っ玉かーちゃんみたいな。すると菊丸は一瞬目を点にした後、なんだか微妙そうな顔をした。
「なんか千代田ババくさい」
「っうるさい!! つか、私はむしろ今の話聞いて若返る気分だっての!」
「はぁ?」
 目の前には怪訝そうな顔。でも実際そうとしか言いようがない。
 3年前のことを思い出していた。立海テニス部と駆け抜けた、全力の夏のことを思い出していた。怖いものなんてたくさんあった。いろんなものが強くて、未知で、気持ち悪かった。でも不思議と逃げ出したいとは思わなかった。
 その先に、幸村精市の笑顔があると信じていたから。
「菊丸。私を風呂場に閉じ込めた三人は、手塚くんに怪我をさせた人?」
 私は頭を切り替え、今目の前にある問題と向き直った。菊丸は私の態度が意味不明だとでも言いたげだったけれど、質問には真剣に答えてくれる。
「ううん。正確にはけしかけた連中だよ。その頃中2だったあいつらは、頭に血が上りやすい3年の先輩に『手塚は左利きなのにわざわざ右手で先輩とプレーしてる』って吹き込んだんだ」
 まさか高校でもテニスやってるとは思わなかったけど。そう言って、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしている。私は気合いを入れるためにも左の掌を右手の拳で打った。パンッ! と小気味よい音に菊丸くんがギョッとする。
「上等! つまり根競べでしょう? どっからでも掛かってきな卑怯者ども!!」
「……おい千代田? 張り切ってくれるのは嬉しいけど、マジでヤバそうなら絶対言えよ?」
 これは問題を起こさないための戦いなんだからな? そう言って怪しむような目で見る菊丸へ「大丈夫だいじょうぶ!」と元気よく返した。
 心なしか体もぽかぽかしてくる。興奮状態にあるためか、なんだか暑くて着ているトレーナーの襟元を掴んでパタパタとしていた。その時だ。

「菊丸、いるか?」
「ほぇ?」
 厨房の扉を開けたのは、噂していた手塚国光その人だった。その首元にはベージュのタオルをかけている。多少汗ばんでいることから、試合を終えた後だということが分かった。
「Cコートの跡部対白石がもう終わる。次はお前と四天宝寺の忍足だろう。何をしている」
「げっ!? マジでっ!? ってかもうこんな時間!! 跡部と白石の試合見るつもりだったのにーっ!!」
 残りのチョコレート三粒を慌てて口の中に放ると「ひょこはひひゃほー」と何を言ってるんだかギリギリ分からないラインで告げて足早に去っていった。厨房から見える食堂の壁にかかった時計を見ると3時28分。彼と30分近く話し込んでしまっていたらしい。
 その場には私と手塚くんが取り残された。彼は何も言うことなく私の方をじっと見据えている。厨房の窓からは全力疾走で駆けていく彼の残像が見えた。私はそんな菊丸の後姿を見据え、もう一度ちらりと手塚くんを見る。やはりこちらを見据えたまま何も言わない。
 これは私が何か言った方がいいのだろうか。そんなことを考えながらも、頭が上手く働かない。会話の糸口を見つけあぐねていたその時だった。
「こんなことを、きみに頼むのは筋違いなんだろうが」
 不思議な声だった。低音で、大きな声ではなかった。それなのに透き通るような真っ直ぐさを持っている、綺麗な声だと思った。鼓膜ではなく、直接脳に入ってくるような。
「……不二がまた自暴自棄になった時は、どうか変に同情せず冷静な意見をぶつけてやってほしい」
 アイツは器用すぎるが故に、挫折やトラブルに対する免疫が著しく低い。
 そう告げて、さっさと踵を返そうとする手塚くん。
「えっ……えぇっ!?」
 言われた意味がよく分からず、いや言葉の意味や望まれている行動は分かるのだけど、何故私にそれを言うのかが分からずに私は慌てて彼を追いかけた。右足が縺れ、ほとんど倒れ込むような形で食堂の扉に手を掛ける。
「ちょっ、手塚くん!?」
 廊下を悠然と歩いていた彼が立ち止まる。ゆっくりと振り返ると、鋭い鷹のような目がこちらを見つめ返していた。
「……なんで、それを私に?」
「アイツはプライドが高いから、俺たちの正論は受け付けない。特に変なスイッチが入ってしまっている時はな」
「スイッチって……」
 言わんとしていることは分かる。つまりテニスから逃げていた頃のような状態だ。けれどそれは自分にも覚えがあるので、あまり黒歴史みたいな扱いにはしてあげないでほしい。
「でもっ、テニスのことに関しては私は無力だよ!!」
「分かっている。むしろ、何かを積極的にしてもらっては困る」
 青学の元部長様は注文が多い。真一文字に結ばれた口元、しわが刻まれた眉間。年相応ではない顔のつくりは、同い年とは思えないほど精悍で、いくつもの修羅場をくぐってきたようにも見えた。
「焚き付けるのは俺たちの仕事だ」


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -